浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

関東大震災はビジネスチャンス!?

2008-11-11 23:52:14 | Weblog
 井戸敏三・兵庫県知事は11日、和歌山市で開かれた近畿ブロック知事会議で、東京一極集中に触れ、「関東大震災が起きれば相当ダメージを受けるから、これは(関西経済にとっては)チャンスですね」などと述べた。

 この発言を聞いて先ず、「これが知事職にある人間の発言?」と首をかしげた。さらに、発言の主が約14年前にあの未曾有の大地震に見舞われた兵庫県の首長だというのだから開いた口がふさがらなかった。

 中には、不振の続く関西経済を心配して出た発言だ。言葉尻を捉えても、という意見もあるという。

 だが、発言要旨(朝日新聞の電子版)を何度読み返してもそんな言い訳は許されない内容だ。 

 「まず、東京一極集中をどうやって打破するかという旗を揚げないといけない。物理的には、関東大震災なんかが起これば相当ダメージを受ける。これはチャンスですね。チャンスを生かす、そのための準備をしておかないといけない。機能的には、金融なんです。金融とマスコミが東京一極集中になっている。東京に行った企業をもう一度、関西に戻せというカムバック作戦を展開していく必要がある。(中略)そういう意味では、防災首都機能を関西が引き受けられるように、あるいは第2首都機能を関西が引き受けられるような準備をしておかないといけない」

 TV報道を見ていると、井戸知事が「被災地兵庫」の出身であり、その兵庫県の首長を長期に渡って務めてきた人だから彼の発言の裏には重い意味があったのではなどという意見があったが、あの時辛酸をなめた人であれば、こんな軽はずみな発言をするはずはない。

 そう思って調べてみると、彼の出身地は震災の被害はほとんどなかったたつの市だ。それも、小学生の時に他県に転校している。また、発災時には自治省の審議官を務めており、震災後に政府自民党に落下傘人事で副知事のポストに就けられた人物だ。大震災の苦しみを分かっている人とは言い難い。

 いったん大地が揺らげば、数万人もの命が奪われるかもしれないと言われている自然災害だ。それを、たとえどんなに苦しい経済事情があろうともビジネスチャンスだなどと考えることだけはやめてもらいたい。

 釈明の記者会見を見ていると、同知事に全く反省の色は見られず、逆に開き直っている感さえ伺える。また井戸知事に取材する立場の記者席からは詰め寄るどころか、逆にお愛想笑いがもれたのも気になった。

 命の尊さをどう考えるか。人それぞれ考え方は違うだろうが、危機管理を専門にしてきた私には井戸知事の態度も報道陣の緊張感のない姿勢も許せない。

歴史に無知な日本の若者

2008-11-11 12:23:56 | Weblog
 オーストラリア人青年と昨日談笑していた時のこと。

 私の戦場での体験談や太平洋戦争についての考えを興味深げに聞いてくれた後、「それで謎が解けました」と言って次のような話をしてくれた。

 彼は母国で英語の教師をしていたのだが、彼が教鞭をとっていた学校には多くの韓国人と少数の日本人が英語を学びに来ている。

 ディスカッションの時間になると、当然のことだが、政治の問題や歴史の話になる。

 その時、韓国人は、殊更日本の侵略については豊富な知識を素に普段以上に雄弁になるという。それに比べて日本人たちは押しなべて寡黙になってしまう。可哀想なことに、彼らは学校の授業できちんと歴史を教えてもらっていない。だから形勢不利になり、一方的に責められる立場になってしまう。

 その差の余りの違いに彼は驚かされたそうだ。

 それはそうだ。歴史の授業では、日本の子どもたちは、「昭和」をほとんど教えられていない。それに比べ、アジア諸国では20世紀に何が起きたかを細かく教え込まれている。だから、歴史観と言われても何のことか分からない日本の若者に比べて、一方のアジアの若者は自分の国が侵略されて多くの人が殺されたのだ。身近な問題として勉強しているから自分の考え方をしっかり持てるようになる。

 そんな若者たちが歴史について、また政治について語れと言われて、どのような違いを見せるか、深く考えなくても結果は誰にでも分かる。知識の乏しい、またそういった問題を考えたこともない日本の若者はただ黙るのみだ。

 そういう立場に置かれた日本人青年たちは、悔しさをバネにそれでは自分で歴史を勉強するようになるかというと、残念ながらそういう努力をするよりも、危険な方向に導き寄せられる。最近多く見られる傾向でもあるが、「保守主義」「愛国心」に心を寄せてしまう。侵略の歴史を反省することを「自虐的」と言い、問題発言をする日本の政治家を批判するアジア諸国に「何度謝れと言うんだ」と叫ぶ大声に心を惹かれてしまうのだ。

 彼と話していて学校教育における歴史の授業がいかに大切かを思い知らされたような気がした。

 彼にそのような状況になったクラスをどう扱っていたのかと聞いたら、「自国の歴史についてあまり知らない人を嫌いになるのはどんなものか」と、攻撃する側の韓国人に直接的な指摘をするのではなく、両国の若者たちが対立しないように導くようにしていたと言った。

 議論をしていた日韓の若者たちがその後仲良くしている姿を見たとき、彼は密かに「やった」と思っていたと目の前で軽くこぶしを握った。私の彼への好感度がぐ~んと上った。
 

TVの弱いものいじめ

2008-11-10 18:57:35 | Weblog
 今秋始まったTBSテレビの「情報7days ニュースキャスター」を観た。

 人気アナウンサーの安住紳一郎を司会者にしてビートたけしが「独自の切り口から情報を斬る」のがウリの新番組だ。

 20数年前、今は亡き筑紫さんをキャスターにしようと話していた時、久木報道局長(当時)に「久米さんに対抗するにはコメンテイターにたけしくらい持ってこないと」と提言した私だが、昨日のビートたけしにはかつての切れが見られず、がっかりした。

 それよりも番組の中で小室哲也の借金問題に関連して、かつての恋人であった華原朋美を追いかけて撮った映像を紹介していたが、何の必要性があるというのだろう。

 かつて、小室氏と恋仲であったとはいえ、今回の問題とは彼女は全くの無関係のはず。もう随分前に終わった恋愛、しかも哀しい結末を迎えたと言われるものをいつまで話題にするのか。彼女に今回の詐欺事件の責任の一端があるのなら話は別だが、どうやらそういう話でもないようだ。

 コメンテイターとして出演していた渡辺えりが華原を見て「かわいそう」とひと言言ったが、画面は渡辺を映すことなくCMに入った。CM明けに何らかのフォローがあるかと期待したが、何事もなかったかのように次のコーナーに移っていった。

 たけしともあろうものが何も感じないはずはない。だが、彼も所詮はギョーカイ人間ということか。何も口を挟むことはなかった。彼のような人間にはひと言ガツーンと言って欲しかったと思うのは私だけではなかろう。

 それにしてもマスコミ関係諸君よ、もうこれ以上、華原朋美を追いかけるのは止めようよ。彼女の反応を見たい(聞きたい)と思っている視聴者はあなたたちが思うほど多くはないのだから。

TBSへの抗議についてのお詫びと訂正

2008-11-09 21:36:04 | Weblog
 筑紫哲也さんの訃報のTBSの扱いに不満を書きましたが、TBS報道部関係者の話では、亡くなられた当日の「NEWS23」では敬意の念を込めた追悼をしたとのことでした。

 また、火曜日には追悼特番を予定しているとの事。報道部を挙げての総力特番にしようとの意気込みでやっているようです。

 HPには依然として何の書き込みもありませんが、それは別として私の抗議はお門違いであったことが分かりました。

 8日に書いた「TBSよ、それはないぜよ」と題する抗議文を削除すると共に、読者の皆さんに誤解を与えたことを深謝いたします。


さようなら 筑紫さん

2008-11-08 09:03:44 | Weblog
 ジャーナリストの先輩である筑紫哲也さんが亡くなった。昨年7月、肺がんの発病を番組中に発表。その後は治療に専念したいと闘病生活に入っていたが、11月7日午後、都内の病院で息を引き取った。73歳だった。

 大の愛煙家で、自らもこの日を覚悟していたかもしれない。だが、本人とすれば、まだまだやり残したことが、特に自分の歩んできた道の総括を活字に残しておきたかったのではないか。そんな気がしてならない。

 筑紫さんは68年に当時まだ米軍統治下にあった沖縄に特派員として駐在、斬新な視点から「オキナワ」を書き(描き)続けた。当時の沖縄は、「忘れられた存在」であったが、本土復帰に向けて世論を盛り上げた一人だ。その後71年からはワシントン特派員となり、アメリカ側からの視点を加えて沖縄返還(72年)交渉を読者に伝えた。その功績はとても大きい。

 84年には、低迷を続けていた「朝日ジャーナル」の編集長になり、「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」という斬新な企画を連発、若者たちが、特に女子大生が手にする雑誌に変身させた。

 彼の発案は、ジョーシキにとらわれず、常に新鮮であった。堅物が多い編集者には、意見を言いたいだけ言わせたが、持論を曲げる事はなかった。執筆者の一人であった私は、筑紫さんを「目指す先輩」の一人として常に意識していた。

 異色の存在に放送メディアが黙っているはずはなかった。

 先ずは1978年、朝日新聞系列のテレビ朝日が彼を新番組のキャスターに抜擢した。ある番組で、歌手の井上陽水が大麻吸引で逮捕されたことに「自分もアメリカで吸ったことがあるが、タバコよりは害が少ないことは医学的に明らかであるし、これを日本で使用すると違法だが、そのことと絡めて井上陽水の歌まで否定する一部の意見は間違っている」という内容のテレビ発言をしたことに同社の幹部が、「筑紫は面白いじゃないか」と目を付けてキャスターに抜擢されたと言われている。

 朝日ジャーナルの編集長時代は、TBSラジオが筑紫さんをパーソナリティに採用。多くのリスナーを得ていた。

 そういった実績から以前にも書いたが、TBSが筑紫さんにアプローチ、紆余曲折色々あったが、89年、「筑紫哲也NEWS23」が誕生した。

 キャスターになっても筑紫さんは自分のスタイルを崩すことなく、毎夜局入りする前には好きな音楽や演劇を楽しみ、人脈を広げていった。私がアイヌの友人を紹介すると、多忙な中、わざわざ自分から北海道まで足を運んで彼の音楽とその世界を取材放送してくれた。

 新聞、雑誌、TV、ラジオ、出版と多くのメディアをジョーシキにとらわれることなく活躍した筑紫さん。生前は彼に対して批判的な部分もあり、指摘してきたが、彼のやってきたことの功罪を考えれば、当然のことだが残した足跡、功績の方がはるかに大きい。私の彼への尊敬の念に変わる事はない。

 心からご冥福をお祈りします。

 さようなら、筑紫さん。

暴言だよ、麻生さん

2008-11-07 10:32:34 | Weblog
 「どなたが大統領になられようと、50年以上の長きにわたり培ってきた関係を維持していく」

 麻生総理は6日、記者団に米国の次期大統領にオバーマ氏が選ばれた感想を聞かれ、そう答えたと言う。

 随分失礼な話だ。これで外交を得意とするなどとよく言えたものだ。「どなたが大統領になられようと」などという表現は、「気に入らないやつが選ばれたな」と言っているのと同じだ。

 麻生氏は一国の首相だ。それも、就任時に「米国との同盟関係が基軸」と高らかにアメリカ政府との密接な関係を謳っていた人物だ。なのにこんな発言をして良いものか。

 たとえこれが良好な関係でない国の指導者に対してであっても、日本を代表する立場の人間はこのような発言は慎むべきだ。

 めでたい時にこういって水を差す無粋な人間がいるが、これで麻生氏が、状況が読めない人であることがよく分かった。


私の視点 二人の黒人大統領候補

2008-11-06 15:15:27 | Weblog
 大統領選を勝ち抜いたバラク・オバーマ氏の勝利演説を聞いていて、20年前に同じ民主党の、それも初の黒人大統領候補として名乗りを上げたジェスィー・ジャクソン氏の党大会における演説を思い出した。

 それは、アメリカが今と同じように巨額の財政赤字を抱え、深い経済の落ち込みに苦しんでいた時代で、多くのアメリカ人が「もう、アメリカは終わりだ」と嘆いていた時期だ。

 私はその頃、パレスチナやレバノンの紛争や内戦、イラン・イラク戦争をまさに死に物狂いになって取材していた。ジャクソン氏の演説は、イラクからのミサイルが飛んでくるイランの前線にいる時、ラジオで聴いた。

 熱い演説であった。彼の一つひとつの訴えは聴く者の心の深奥に響いてきた。後になって多くの有色人種が彼の演説に涙したと聞かされた。

 それと同じように、オバーマ氏の勝利宣言も、演説としては秀逸で、後に名演説に数えられる可能性もあるだろう。

 泡沫候補と目されていた存在が、有力な「初の黒人大統領」になった、ジャクソン氏とオバーマ氏にはいくつもの共通点がある。特に、「時代が変化を求めている」という点では、時代背景、社会状況は酷似している。だから、オバーマ氏の演説を聞いていてジャクソン氏を思い出したのだが、マスコミや評論家の2人の比較に私は違和感を感じてしまう。二人の間には、酷似しているようで大きな違いがあるからだ。私はただ単に2人が比較対照される関係とは見ていない。80年代のジャクソン氏があって、今日のオバーマ氏がある、つまりは、ジャクソン氏の果敢な挑戦が今回のオバーマ氏の当選に陰に陽に大きく貢献したと見ているのだ。

 日本の人たち、特に若い人たちにジャクソン氏のことを話しても、多くがその存在する知らないから彼の活躍も少し紹介しながら書き進めていこう。

 人権活動家として有名であったキング牧師が、ジャクソン氏を後継者として世に伝えた頃、彼がやがて有力な大統領候補になるとは誰も想像だにしなかった。1984年に民主党の指名候補争いに名乗りを上げても、人権活動家の“箔付け”位にしか取られなかった。

 それが、1988年の指名争いでは、あれよあれよと言う間に勢いに乗り、一時期は民主党の候補の本命と言われるまでになった。NYタイムズ紙のジョニーで知られたR.W. アポル(Apple)記者が、選挙年の1988年を「ジャクソンの年」と名付けたほど、選挙戦におけるジャクソン氏の躍進は目覚しかったのだ。

 しかし、そうなると、当時はまだ色濃かった「白人至上主義」があちこちに見え隠れするようになり、黒人と言うだけでなく、それに加えて人権活動家として知られていたジャクソン氏は、最終的にはマイコル・デュカキス氏に民主党代表の座を奪われる結果となった。

 そういった記憶がまだアメリカのメディアには色濃く残されていたのだろう。多くのメディアが、オバーマ氏が有利でも、まずは党の候補者指名争いで白人のヒラリー・クリントン氏に最終的に敗れるのではないか、大統領選でマケイン氏に土壇場でひっくり返されるのではないかとどこかから否定的な要素を探し出して来て騒ぎ立てた。

 だが、選挙民の目は確実に変わっていたのだ。

 20年前、ジャクソン氏を選ばなかったために、その後アメリカがどうなったのか。自分たちのその時選んだ大統領であるブッシュ氏(現大統領の父)は経済をますます悪化させただけでなく、湾岸戦争において国を分裂状態にさせてしまった。90年代、「小さな政府」をスローガンに掲げて財政を立て直したクリントン政権に飽きて、よせば良いのにジョージ・ブッシュ(現大統領)に「古き良きアメリカ」を見て大統領にしたものの散々な目に遭ってしまった。その事に人々は気付いたのではないだろうか。いや、たとえ気付かずとも無意識にそういった力が働いた可能性は高いのではないか。それは、アイオワ州のような住民の9割以上が白人という土地でオバーマ氏が勝利を収めたことである程度証明されると私は考える。

 1988年にジャクソン氏が置かれた状況に比べれば、今回は変革を求める声が圧倒的に強く、それがオバーマ氏の追い風となった。

 政治外交面では、88年の選挙の時にはイラン・イラク戦争が終結していたし、大きな戦争や紛争を抱えていなかった。「最大の敵」であった共産圏は経済状況が逼迫しており、東西冷戦構造の終焉の足音が聞こえていた。つまりは、自由主義圏には安定期であったのだ。ところが、20年後の今は、イラクやアフガニスタンに派兵したものの苦戦を強いられており、国民の間に好戦的な共和党離れの空気が強まっていた。

 経済状況にしても、80年代後半が不況にさいなまれていた時代であったといっても、今回のような「100年に一回」の金融恐慌に直面していたわけではない。

 また、よく言われた人種問題も、オバーマ氏が「黒人」というくくりをされているが、米国民の、特に白人の中には、彼の血には半分自分たちと同じものが混じっているということ、また、同じ黒人といっても「奴隷の子孫」でないことが、たとえ無意識にでも今回の投票行動に影響していたのではないかと私は見ている。

 もちろん、オバーマ氏にとって20年前よりも不利な点がなかったわけではないが、全体的に見れば、オバーマ氏に有利に働く要素は格段に多かったといえる。

 ジャクソン氏の80年代の果敢な挑戦がなければ、今日のオバーマ氏の勝利はなかっただろう。朝日新聞の加藤洋一アメリカ総局長が、「米国民が示した選択の本質は、『オバマ氏の勝利』というより『現状の拒否』であることが明らかだ」としているが、その辺りを間違えてオバーマ氏に過大な期待を抱くのは危険なことだ。

 最後に、演説を聴いていて気になった点を挙げておきたい。

 演説の最後の方で語っていた「我々の港が爆撃され」という部分だ。

 これは、アメリカがこれまで幾つもの直面してきた困難を乗り越えてきたという章で話されていたものだ。私は演説を聞いていて耳を疑った。ここで真珠湾攻撃の話を持ち出すのはあまりに不自然だ。その理由を聞かれれば、彼がホノルル生まれであったからと言うかもしれないが、演説の中では「911」に全く触れずに、この真珠湾攻撃だけが象徴的に語られたのだ。

 私にはこの言葉を分析するだけの能力はない。これが、近い将来、我が国に向けられる敵対行為を示唆するものではないと思うが、それにしても不自然で不可解だ。

高校生から取材を受ける

2008-11-05 12:43:47 | Weblog
 東京の私立高校に通う男子学生から取材を受けた。

 職業選択を含む自分の将来の参考になるような人物に取材し、それについてレポートを書くという授業を受けていているからと、私に取材を申し出てきた。

 こういう中高校生が一年に二、三人はいるが、私は積極的に求めに応じて会うようにしている。

 約3時間半、報道機関の簡単な歴史から仕組み、そして自分の体験や裏話を披露して、それを元に質問を受けた。

 こちらの話しに眼を輝かせて聞き入ってくれる姿勢が嬉しい。メモを取ろうとしているが、話しに聞き入ってしまい、時折りハッと気が付いたように鉛筆を持つ手を動かすのが新鮮に感じられた。彼の目に私がどのように映ったかは分からないが、私との出会いが彼の人生に多少なりとも良い影響を与えてくれればと思う。

 とても快活な若者で礼儀もわきまえており、昨夜、きちんと礼状ならぬお礼メイルが送られてきた。そこには、自分の知らない世界の話を聞いて感動したとあった。将来彼がどのような道に進むか、私の楽しみがまた一つ増えた。

米大統領選 開票始まる

2008-11-05 12:00:03 | Weblog
 米大統領選挙の投票が締め切られ、開票作業が始まった。

 大方の予想通り、バラク・オバーマ氏が順調に票を伸ばし、現時点でCNNの開票速報では、勝ち取った選挙人の数は「199対78」で大きくリードをしている。

 「腐っても鯛」ではないが、これだけの金融危機を引き起こして影響力に影がさしているアメリカだが、この選挙結果への世界の関心は大きい。

 オバーマ氏の地元のシカーゴ市には国内外から7,500人の報道関係者が集まっていると言われている。アメリカのTV局が全力を選挙に注ぐのは当然だが、日本のTVも朝から特番を組む局がある。もっとも、時間が持たないからだろう。TBSなどは、ワイドショー色を色濃くして「お楽しみ番組」にしている。

 また、オバーマ氏の勝利宣言が予定されている会場には、100万人の支持者が押し寄せると予測されている。群集にテロリストが紛れ込む恐れも少なくなく、また、近くの建物などから狙撃される恐れもあり、演説台の左右には、高さ3メートルの防弾ガラスがしつらえられている。

 日本でも盛んに言われた「黒人には白人が投票しないのではないか」という候補者の人種が投票行動に影響を与えたかという点に関する出口調査を見ると、とても興味深い。

 「気にする」と答えた人の45%がオバーマ氏に、37%がマケイン氏に票を投じ、「気にしない」とした人は、43%がオバーマ氏に、38%がマケイン氏を支持した。

 この調査が示すとおり、候補者の人種は投票要因としては大きな意味を持たなかったのだ。それよりも、「経済問題を考えた」と不況との取り組みを重視した人が、8割近くを占めた。

 オバーマ大統領の誕生はまず間違いない状況だが、今後の最大の関心は、金融危機を乗り切る旗手となり得る財務長官に、対イスラーム圏との舵取りになる国務長官に誰を持ってくるかだろう。

 アメリカのマスコミ報道などでは、財務長官には、カーター、レーガン政権下においてFRB(日銀に当たる)議長を長年務めたヴォルカー氏の名が上がったりしているが、確かに財務や金融の世界を知り尽くしているとはいえ、80歳を超える高齢だ。彼の力に頼るようでは、オバーマ政権の経済政策に明るい未来はないだろう。

 

侵略戦争ではなかった

2008-11-01 12:14:18 | Weblog
 浜田靖一防衛大臣は31日、航空自衛隊の田母神(たもがみ)俊雄・航空幕僚長の更迭を発表した。

 浜田防衛相によると、田母神氏は民間企業の懸賞論文に応募して最優秀賞に選ばれたが、その内容が不適切であったことからクビにしたとのことだ。

 航空幕僚長と言えば、航空自衛隊のトップだ。そんな大幹部がどのような内容の論文を書いていたのかと思えば、「我が国が侵略国家であったのはぬれぎぬ」との主張だという。

 またかよ、と言うのが率直な感想だ。もういい加減にしろよ、と言うのがそんな自衛隊幹部にぶつけたい言葉だ。「現地の人々は圧制から解放れ、生活水準も格段に向上した」などと妄言を発しているようだが、中国で1千万人以上(2千万人以上とも言われる)の人を殺した事実を直視しろと言いたい。

 これまでに自衛隊幹部(OBを含めて)は、何度もこのようなこと(三矢研究、来栖発言、佐藤発言など)で問題になってきたが、何回やったら気が済むのか。

 こういった場合、「一個人が発言したこと」で済まされることが多いが、その後の彼らが受けた厚遇を考えると、何かその奥で我々には見えぬ糸が引かれているのかもしれない。

 太平洋戦争に関しては、誰が見ても侵略戦争そのものだ。敗戦直後、戦っていた兵士達も、米軍の猛爆にさらされた非戦闘員達もそういった共通認識があった。あの頃に、「あれは侵略ではなかった」等と言おうものなら、周囲の人たちから相手にされなかったし、下手をしたら袋叩きに遭ったものだ。

 それが、その後時が経つにつれ、何度も形を変え、色々な人の口を介して「あれは侵略戦争ではなかった」発言が繰り返される。

 もういい加減に罪を認めたらどうなのか。日本には「潔さを善しとする」伝統があるとそれらの人たちは好んで言うが、そこには潔さのかけらもないし、醜悪な惨めさだけが見える。対人関係でもいえることだが、罪を認めてこそ相手との正常な関係が再構築できるのだ。

 醜悪な歴史の部分を覆い隠して「美しい国」などという妄想に駆られているようでは、いつまで経ってもこの国の明るい未来はない。

芝居報告

2008-11-01 00:34:45 | Weblog
 今年7月に行なった芝居『縄文のヴィーナス』の報告をまとめてなかったのでここに紹介いたします。
 題して、『戦争特派員が経験した芝居裏話報告』です。

■劇団立ち上げ
「劇団『縄文座』を立ち上げます。役者をやりませんか」
 今年1月のことである。西垣内縄文学協会理事長から電話があった。
 いきなりの出演依頼だ。そう言われても、私の演劇経験は皆無。学芸会とて出演の機会をほとんど与えられたことはなかった。そう告げたが、西垣内氏はそういう私の対応を予測していたかのように意に介せず、集まりの日程を告げた。
 どうせ端役であろうと高をくくって2月の第一回目の集まりに参加した。
 ところが演出家から言われた企画は、「一人&二人限定芝居」。つまりは、主役をやれということだ。
 あまりに危険な賭けである。芝居に関しては100%シロートの私をいきなり主役に抜擢するとは無謀にもほどがある。新しいことへの挑戦は楽しいが、今回ばかりは二つ返事というわけにはいかなかった。
 「一人芝居は毎日やっていますから」とジョークで切り返すが、そのジョークにはいつもの切れはない。参加者の笑いを誘うことなく、話はどんどん先に進められそうな空気になっていた。
 どうしたものかと思案投げ首状態のところに一人の若者が部屋に入ってきた。
 その若者の姿に私は“縄文”を感じた。こいつとなら何か生み出せそうだ!そんな気にさせる若者の登場だった。
 「ユーヤです」
 と自己紹介する彼に私はいきなり、
 「ユーヤ君、二人で芝居をやろう!」
 と声をかけていた。
 理事長の紹介によれば、彼はかつて子役として将来を嘱望された逸材。最初は勘で彼に粉をふってみたが、そんな逸材なら尚更共演したい。「もちろん、彼と一緒にやれば楽が出来る」とのずる賢さも自分の中にあった。
 日程も決まり、本格始動することになった。台本もいつの間にかその多くの部分を私が書くことになり、「丸投げされたか」と思う半面、筋書きを考えて台本作りをしていくうちに創作意欲を刺激されて、結構自分の立場を楽しむようになっていた。
 粗筋と絵コンテを書く(描く)と、脚本家は「おもしろい、おもしろい。亀社長(劇場社長)と大笑いしちゃいましたよ」と褒めちぎる。
 脚本がおおかた出来上がり、本読みが行なわれた。
 演出家はいくつかの改善点を指摘するものの「いいですね、いいですね。スター誕生ですよ」と褒めまくる。
 それが演出家特有の盛り上げ方、おだて方だと知らぬ私は、いい気になって有頂天。気持ちがドンドン高揚していった。

■稽古場難民?
 自分で台本のほとんどを書いたものの、その長さは1時間を超えるものだ。脚本を手がけたことはかつて一度もなく、ストーリーの展開に相当苦労をした。特に、笑いにこだわる私は、随所に笑わせ所を入れようとするが、それが容易ではない。

 芝居のストーリーをここで簡単に紹介しておこう。
 主人公は、戦争特派員の浅井と不思議な青年ユーヤの二人。
浅井は長年戦争取材をしてきたが、イラク戦争で足に傷を負った。帰国してみると家に妻子の姿はなく、かねてからTVの世界に嫌気が差していたこともあり、やる気をなくして酒とギャンブルに溺れていく。
そんなやさぐれジャーナリストである浅井の元に、友長井健司がミャンマーで非業の死を遂げたとのニュースが入ると、生活はますます荒れてケンカに明け暮れる日々となる。
そして、挙句の果てに、入り浸っていた競馬場でヤクザに叩きのめされてしまう。そんな浅井に救いの手を差し伸べた不思議な雰囲気をかもし出す若者がユーヤ。
ユーヤにタイムスリップで誘(いざな)われて浅井が行き着いた先が、縄文の世界。ユーヤは実は縄文ヴィーナスの化身。ユーヤになって縄文から現代に送り込まれた「平和の使者」なのだ。戦に明け暮れ、地球を破壊し続ける現代社会に目を覚まさせようと、戦争特派員の浅井に目を付けて「拉致実行犯」として送り込まれたというのが設定だ。
最初は、“拉致”に怒り、縄文の世界を正面から見ようとせず、誠心誠意縄文の良さをアピールするユーヤに抗う浅井だが、やがてユーヤの話を聞く内に戦場で命を落としていった者達に誓った約束を思い出す。ボスニア内戦で「恋の逃避行」に失敗して落命したアドミラとボスコやパレスチナでイスラエル兵に腹を撃たれて死んだ少年アハマッドに浅井は、「戦争の残酷さを世界に伝え続ける」と誓っていたのだ。
覚醒した浅井に、ヴィーナスは「平和の種」を現代社会に蒔いて欲しいと託す。
そして、再び浅井はタイムスリップで現代社会へ飛び立って行く……。

台本を書き終えても今度はそれを憶えなくてはいけない。これが結構難儀であった。記憶力にはある程度自信があったが、それは若かりし頃の話。還暦の私には、相当難題であることを後になって思い知らされた。そして、ようやく台本を頭に入れても、まだその上に何段階ものステイジが待っていたのだ。
まずは、記憶した台詞を身体にしみこませ醸成させなければならない。そうしないと、台詞に説得力は生まれてこない。その作業がこんなにも大変なものなのかと、独り何度つぶやいたことか。その先に、相手役とのやり取りから生まれてくる微妙なすれ違い、舞台を動くことから出てくる間の取り方、などなど様々な難題が待ち構えていた。
 稽古の場所にも苦労をした。何せ予算のない劇団だ。稽古をやろうにもその場所がない。
 私の仕事場や縄文学協会資料室を使ったりして稽古をした。西垣内法律事務所も稽古場になった。
また、日比谷公園で稽古をしたこともある。気が付くと、周りで遠足の小学生たちが弁当を広げていた。「おじさんたち、何をしているの?」と澄んだ瞳で見つめられると、これには笑いでごまかすしかなかった。
日比谷公園を出てどうしたものかと話していると、ユーヤから「カラオケボックスはどうですかねえ?」という案が出てきた。そこで二人は銀座のカラオケボックスに“しけこんだ”。昼日中から父子の年齢差の男二人が長時間、カラオケボックスで歌も歌わずに“激しく話し合って”いる姿は、従業員の目にどう映ったか。支払いの時、従業員が目を伏せてこちらを見なかったのは、そこに恐らく何らかの意味があったのだろう。
ひとり稽古はほぼ毎日だ。ただし、安普請の家からは大声が漏れる。ご近所さんに予め劇の話をして断りを入れておいた。怒鳴り声を聞いて警察に通報されるのを防ぐためでもあった。

■ 絶望のふちに
公演は、7月の12,13(土日)の両日に予定されていた。
舞台を使っての稽古は二日しか予定されておらず、それではあまりに少ないと演出家と劇場社長が好意で、7日(月)に舞台を使わせてくれた。
舞台稽古はそれまでにやっていた稽古とは趣が全く違った。
約1時間半の劇(脚本に書き込みを入れている内に長くなった)だ。長い台詞回し、舞台上の動き、舞台の出入り(上手と下手。さらに、客席側、真ん中、奥)と、やることが私には多すぎる。
「場面Ⅲ。出は上手だっけ下手だっけ?靴は履く、履かない?」
普段から多くの聴衆を相手に講演をしているから100人も入れない小さな芝居小屋だ。緊張する事はないはずだが、台詞回しの他に舞台上の動きに気を取られていると、台詞が出てこなくなる。
私につられたかユーヤもダメだしの連続。台詞の覚えも悪く演出家や舞台監督の失笑を何度も買った。
一回目の舞台稽古を終えて、私は暗澹たる気持ちになった。芝居がこんなにも難しいものなのかと、頭を抱えてしまった。
しかし、生来の楽天家である私は気分転換、すぐに「やるしかない。大丈夫、我々は出来る。ユーヤ、頑張ろう。よろしくな!」と、何の根拠もない言葉を発していた。
稽古二日目になっても出来は一向に良くはならなかった。我々を指導する演出家の言葉にも苛立ちが感じられた。
そして、稽古三日目。ゲネプロという最終稽古が行なわれた。結果は最悪。我々は絶望のふちに立たされた。わたしがダメなのは言うまでもなく、ユーヤも台詞を憶えていないというだけでなく、声が小さく、客席の後ろでは聞き取れないと言われてしまった。
ゲネプロを終えた後、二人で話し合った。互いの思いをぶつけ合って答えを探した。
「互いに精一杯のことはしてきたんだ。ここまで来たら、やるだけのことをやる。結果を恐れても仕方がない」と握手をして家路を急いだ。

■奇跡が起きた
翌朝。いよいよ本番の一日目だ。
早く小屋入りして一度通し稽古をした。
「ん?」
私は稽古をする内、ユーヤの台詞回しの進化や豊かな声量に驚いた。昨日までのユーヤではない。自信に満ち溢れた舞台俳優ユーヤが私の目の前にいるではないか。
一方の私はと言えば、まっとうではない。ユーヤのように驚異的な進化をひと晩で成し遂げることよりもずる賢い逃げに走った。
長井さんの写真立てに台詞を貼ったり、妻に舞台袖で台詞を読んでもらったり、カンペを出してもらったり、また舞台の出入りを手伝ってもらうことも思いついた。
朝稽古で自信をつけたのだろう。ユーヤの表情に余裕が出てきた。支度部屋で稽古をするが、ドンドン良くなっていく。

そして、12日午後2時。第一回目公演の幕が開いた。
芝居の最初から半分以上は私の一人芝居だ。だから、失敗は小屋にいる全ての人々の目にさらされる。
だが、台詞に時折り詰まるものの、第一幕を無難に演じ終えた。客席から笑いも取った。その勢いで、ただ一度は「すみません。台詞を忘れました」と舞台袖に姿を消したが、第二幕第三幕と大きなミスもなく、演じていった。
後半部分に入ると、ユーヤが登場してきた。
そこで気が緩んだか。私は台詞を大きく飛ばしてしまった。
すると、ユーヤは実に堂々とした態度で私をかばい、流れに戻そうと導いてくれる。その姿に私は目頭が熱くなってきた。あれほど自信を失っていたユーヤがこんなに立派に演じている。それだけではない。だらしない私をかばってくれている。
後半部分は、ユーヤの独壇場だ。彼の腹の底から出てくる自信に満ちた台詞の一つ一つが客席の心をつかんでいく。
そして、フィナーレ。第一回目公演の幕は閉じた。
客が出入り口で待っていると言うので、汗をぬぐう間もなく小屋の外に出た。知人友人、又全く知らない人が温かい声をかけてくれた。芝居の内容に感激して泣いてくれている人もいた。
これが芝居の醍醐味か!全くのシロート芝居だ。プロの方たちと比べるなどとんでもないが、多くの人達が舞台の役者にはまっていく気持ちが少なからず分かった気がした。
その日の二回目の公演も翌日の三回目、四回目もまずまずの出来で演じ終えることができたと思う。出来栄え出来映えのバロメーターと思っていた5歳と小学校2年生の兄弟(私が経営する英会話学校の生徒)を見ると、最後まで一度も席を立つことはなく、また飽きずに観てくれていた(後日、二人は何度も芝居の内容に触れて幾つもの質問をしてきてくれた)。

■公演を終えて
公演終了後、舞台関係者との打ち上げの席で、またその後も演出家を含めて多くの方が演劇の世界に本格的に入ることを勧めてくれるが、私にはその気がおきない。共演者とだけでなく、演出家や舞台監督などのスタッフと一つのものを作り上げる楽しさは得も言われぬものがあるが、私には分かるのだ。
「一流にはなれない」ということが。
私は、人生一度きりだ。やりたいことをやろう。絶えず挑戦の姿勢で生きていこうという信条で生きている。だが、中途半端なものではやる気にならないのだ。
撮影されたヴィデオを観て、自分が、冗談半分で言っていた天才役者でもなければ、一流の役者になる素材でもないことがはっきりした。だから、今後再び舞台に立つことはないだろう。
だが、縄文時代の良さを多くの人に知らしめる方法として演劇は素晴らしい手法だと確信した。若い方も、また若くない人もどうか私たちの経験を超えて演劇を通して「縄文」を世に広めていただきたい。それをお手伝いすることは、喜んでさせていただこうと思っている。

最後になるが、この機会を与えていただいた、西垣内理事長、国際縄文学協会の事務局スタッフの皆さん、そして、演出を担当してくださった石飛仁さん、MAKOTOシアター銀座劇場の亀社長、その他多くの私たちを支えてくださった皆さんには本当に感謝している。この場を借りてお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。


学園祭にエコ容器

2008-10-31 00:32:49 | Weblog
 先日、招待されて覗きに行った私立女子中高一環校の学園祭で、生徒たちがやる店や校内の食堂で出される食べ物がプラスチック容器を使って売られていたことに大きな疑問を持ったことを書いた。

 そんなことに疑問を持つ生徒や学生も当然いるはず、と思っていると、獨協大学の学生が近く開かれる学園祭で、暖房用の固形燃料に換えることが可能な素材の「エコ容器」を使うと30日の朝日新聞は紹介している。

 学生たちはさらに、使用済みの容器は、原油高騰で燃料高に悩む農家へ寄贈しようと考えているという。模擬店で出る廃油も回収し、石鹸にするそうだ。

 何も考えずに、ただ儲かるからと、大手ドーナッツ販売会社やチェーン・コーヒーなどから大量に仕入れて売っている生徒が多いと聞く。それを見て教師たちは何も感じないのだろうかと疑問に思う。

 この動きに多くの学校関係者が注目をして欲しいものだ。教育の場ではこのように自分たちの行動から生徒や学生たちに社会との接点や社会への貢献を考えるように導いていくことができる。先生たちよ、五感を磨いておかないと、生徒たちに置いてきぼりにされますよ。
 

私の視点 小沢さん、違うんじゃないの?

2008-10-29 09:59:03 | Weblog
 小沢民主党が迷走中だ。

 政権交代を狙う民主党は、解散総選挙を焦るあまり、今国会では本来であれば反対に回る法案に相次いで賛成。麻生総理に早期解散を迫った。

 だが、これは小沢さん、戦略を誤った。なぜなら、「負けると最初から分かっている選挙を自民党がやるはずはない」からだ。

 解散権を持つのは、皆さん御存知の通り、総理大臣の麻生氏である。その麻生氏は、総理になりたくて何度も総裁選に挑戦してようやく最高権力者の地位を得たばかり。各種世論調査で、自民党不利と伝えられれば、選挙に打って出たくはない。

 投票日が何回か噂されると、現職、新人を問わず、候補予定者たちは選挙区に飛び出した。各地に選挙事務所が開かれた。

 これは、野党だけでなく与党も同様だ。麻生氏は解散するつもりだと自民党の幹部たちは言い続けてきた。

 だが、私は疑いの眼差しを向けてきた。これまでの解散時期を巡る情報については、小沢一郎陣営の動きを探る陽動作戦の可能性が高かったと見ている。この辺りの事については、自民党をよく知る国民新党の亀井静香氏が「負け戦と最初から分かっているのに解散をやるはずがないじゃないか」と盛んに永田町で吼えていた。

 小沢民主党は、麻生自民党が逃げていると分かると、一転して国会審議の引き延ばしを図っている。だが、そのやり方は政権政党を目指す党がやる方法としてはいかがなものか。

 世界は今、金融恐慌という世紀の一大事に直面している。これは民主党だけではなく全ての政党に言えることだが、こんな時こそ、政局にうつつを抜かしているのではなく、国民に分かり易い政策・目標を明確に打ち出して、街に出て大衆に訴え、国会では堂々と政策論争を繰り広げるべき時である。

 そうすれば、我々有権者にも各政党の考え方や政党間の違いが分かり易くなり、政治への興味もわき、一緒に考えるようになる。

 政策論争には当然、これまで日本を「良い意味でも(これはほとんどない)悪い意味でも(数多ある)」変えてきたアメリカからの年次改革要望書(注)を取り上げることも作戦として必要だ。

 これまでアメリカからの「年次改革要望書」は、「郵政民営化」や「労働派遣事業の自由化」のいわば言いだしっぺだ。実質的には郵政事業や終身雇用制度を崩壊させ、アメリカの企業が日本で活動をしやすいように変えてきた。その最大功労賞があるとすれば、小泉元総理に与えられることは言うまでもないが、歴代の総理は全てそれに従ってきた、いや従わされてきた。

 だから、先日米通商部から送られてきた2008年度の改革要望書を基にして、小沢氏が総理になった暁には「普通の国(つまりは、アメリカからも独立した状態)」にすると言うのであれば、その辺りから国民を導いていって欲しいものだ。

 ちなみに、今年の改革要望書で目立ったのは、「最大残留農薬レヴェルの緩和」と「確定拠出型年金制度の拡大」だ。

 これは、「アメリカからの農産物の規制を緩めろ」「公的年金制度は廃止せよ」という脅しだ。農産物に関しては、農薬業界は言うに及ばず、遺伝子組み換え作物(GMO)の多国籍企業に利益をもたらすための圧力だ。また、公的年金については、廃止させて米国の金融業界にビジネスチャンスをもたらそうとする狙いだと考えて間違いはなかろう。

 これぞ小沢民主党を国民に知ってもらう千載一遇の機会と捉えるべきだ。民主党は今こそ堂々と持論を展開し、国民と共に国の方針を見定めていくべきだ。そうすれば、自ずと政権奪取への道は開かれる。

 旧態依然とした引き延ばし作戦をしているようでは、たとえ政権を握っても日本を明るい将来に導くことはできまい。小沢さん、今からでも遅くはない。方針を今一度洗い直して、これまでとは違う民主党の姿を見せてもらえないだろうか。

 ねじれ国会を利用して国会を混乱させて解散に持ち込もうとする作戦なんて小沢さん、くどいようですが間違ってますよ。

 

汚れた名誉博士号

2008-10-28 21:59:39 | Weblog
 茶番だ。

 日本体育大学は23日、「名誉博士称号」をクウェート国シェイク・アハマド・アル・ファハド・アル・サバーハAOC(アジア・オリンピック評議会)会長に授与した。

 同大学のHPによると、授与した理由を、

 「これは、シェイク・アハマド・アル・ファハド・アル・サバーハ殿下の、アジアのみならず、国際的な立場から学術・文化・教育・スポーツの発展に寄与され、かつ我が国と、クウェート国、アジア・オリンピック評議会との間の交流を促進した顕著な功績を評価し、授与したものである。
 また、本学が『建学の精神』に基づき、一貫して追求し続けてきた、体育・スポーツを通じた心身の健康を育み、かつ世界レベルの優秀な競技者を育成するということ、そして、ミッションに謳っている“オリンピックムーブメントを主導的に推進し、スポーツの「力」を基軸に、国際平和の実現に寄与する”ことと一致するものである」としている。

 アハマド殿下と言えば、アジア・オリンピック評議会会長で、その豊富な資金を背景にして国際オリンピック委員会においても影響力は絶大だ。北京五輪のハンドボールの予選やり直し紛争の時には、その影響力を使ってルールを捻じ曲げ、自国を優位に立たせたこともある。

 そんなアハマド会長になぜ今さら名誉博士号を授けて表彰する必要があるのか。

 疑問は簡単に解けた。関係者によると、2016年オリンピックの東京招致キャンペインの一つとして行われたと言うのだ。
 
 原油高で唸るほど収入があるアハマド会長は、移動するのも専用機である。日本に向かう専用機の中で、日本ハンドボール協会の市原副会長が詫びを入れる形で「ハンドボール紛争」に幕を引くと、同会長は上機嫌で授与式に向かった。

 聞いたところでは、授与式の後に行なわれた記者会見の際に、麻生首相からお祝いの電話が入ったという。

 ご機嫌のアハマド会長、東京が立候補している夏季五輪招致について「アジアの国として全面的にサポートしなければならない。長野や北京と同様に、アジアにスポーツを広めることが信条だ。100パーセントの協力を惜しまない」と述べ、立候補の4都市のうち唯一東京への支援を表明した。

 こんなことまでしてやるオリンピックに何の意味があるのか。そんなことよりも石原さん、都民が安心して生活できるように医者の確保に金を使ったらいかがですかな?

母校合唱部が世界一に

2008-10-27 19:38:38 | Weblog
 母校の岡崎高校の合唱部がここのところ大活躍だ。

 週末に行なわれた「第61回全日本合唱コンクール」の高校B部門(33人以上)で、同部は金賞(文部科学大臣賞)を勝ち取った。数年前には、世界一のグランプリにも輝いている強豪としてその世界では名高い。

 「そんな母校自慢をされてもどうせ浅井と合唱とは無関係だろう?」と思われるかも知れぬが、実は短期間だが柔道をやる片手間に合唱部に所属したことがあるのだ。つまりは後輩自慢ということになる。

 私がいた頃は、同部は今のような「全国、いや全世界レヴェル」ではなく、県大会の上位入賞程度であった。

 私なんぞは音符もロクに読めず、しかも声が大きすぎてハーモニーを壊してしまう、およそコーラスには似つかわしくない生徒だった。結局は「浅井君、この前一人でナポリ民謡を歌っていたわよね。素晴らしかったわ。そこで、あなたにお勧めの役があるんだけど」と顧問から「ソロ歌手デビュー」を勧められた。これは、体のいい“追放”処分だったのではないかと今になって思う。

 「他人の迷惑顧みず」
 私は当時、他人の気持ちを慮(おもんばか)る姿勢に欠けていた気来があった。だから、恐らく多くの迷惑をかけていたに違いない。

 体のいい追放処分を受けても深刻に受け止めず、それよりも「何でも挑戦してやろう」という気概が私を突き動かした。

 お人好しの私はブラスバンド部にのこのこ出かけ、500人位の卒業生を前にナポリ民謡を唄ったが、ブラスバンドとのキーが合わず(無知だったのだ。キーを調整することすら知らなかった)、最後は高音が出ずに頭をかいて舞台から降りた。

 それですっかりやる気を失った私は、合唱部に再び戻ることはなかった。卒業時のアルバム撮影にも参加しなかったように記憶している。顧問は私の姿を見なくなって恐らく肩をなでおろしていたことだろう。

 それからしばらくしてのことだ。「最近のコーラス部の活躍は凄いぞ」と合唱部で一緒だった親友が教えてくれたが、コーラスへの興味を失っていた私は、友人の報告を聞き流していた。

 すると、数年前のこと。杉浦正健氏(当時、法務大臣)が「小泉メルマガ」に「母校の合唱部が世界グランプリ受賞」と書いていたのを読んで、その凄さが本物であることを知った。

 今年はどこで世界大会をやるか知らないが、後輩たちが心置きなく力量を発揮できることを願っている。そして、こんな暗い時だ。出来れば好成績、いや本音を言おう、グランプリに輝いて欲しいと思っている。

 ところがここでどんでん返し。実はここまで書いたところで、今年の世界大会はどこでやるのかと「合唱連盟」に問い合わせたところ、「各国一位が集まって競う世界大会はない」とのこと。

 しかし、ネットで「World Choir Okazaki Highschool」で検索してみると、ナント今年もオーストリアで7月に開かれた「合唱オリンピック」とも言われる世界大会の青年混声部門で最高得点を挙げてグランプリに輝いていた。

 後輩たちよ、よくやった!