弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

End Syndrome

2016-11-23 03:18:09 | 思考
独我論的に、
世界は私の世界である。
と述べるならば、私の死後、いや、認識が終わった途端に(客観的実在として措定される)世界など存在しない。いや、それを考えることに意味を持たない。
だから、現世でいくら成功を収めようと、達成したものがあろうと関係が無い。
自分が残した子孫がいようとも関係ない。

だが、頭の片隅に、素朴な考えとして、私の死後に客観的・物理的・第三者俯瞰的存在として世界はあり続けるだろう、という推測は残ってしまっている。それだからこそ、死を、消滅を不条理なものとして捉えているのだろう。
他人が死ぬことも、(推測される)他我の終わりも、観察されたものでしかなく、何故「この」「私」が終わらなければならないのか・・
(言うまでも無く、生物学的説明はナンセンスだ。)

そして、そういう考えが残っているからこそ、私の消滅の前に(私に知覚される)世界の消滅を願う。
人類が滅亡すればいいとか地球が無くなればいいとか浅いものではない。
ビッグクランチという仮説的現象のように、ある一点を以て、いきなり世界が宇宙そのものが終わって-ビッグバンの前のような状態に戻ってー欲しい。
その際に、その時が予め明示されていればベストだ。そうなれば、残りの余韻を楽しむだけで、もろ手を挙げて、祝福-ありったけの呪詛を込めて-をしよう。

・・・と書いてるうちに気付いたのが、いきなり一瞬で全ての時空間が閉じ終わっても、その終焉の確実性をどうやって予測し、どうやって確認すればいいのか。
私=世界=(客観的実在としての)世界、この三項が同時に終焉するとして、同時終了したと何を以て確信したらいいのだろう。確「認」する術は持たない。それが終焉という定義自体に反するから。
無論、(特に人格的な)神など、死後の世界など、魂(輪廻)など信じていない。
だが、こう考えていくと、やはり、始まりが何だったのか、それを知る必要性がある。
哲学でよく言われているように、
何故、一切がないのではなく一切があるのか。
それに答えなくてはいけない。
或いは、世界そのものが無限回循環しているとしても・・・こう考えていることすら世界と同じく繰り返されているとしても。


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