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観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

忘れ得ぬ夜

2010-01-15 20:58:16 | コラム
仕事で久しぶりに都心に出ました。終わったのが午後8時過ぎ。夕飯は吉野家ですませていましたが、せっかくなのでどこかで飲んで帰ろうと思いました。そこで、思い出したのが、数年前に行った店。記憶を頼りに探すとすぐに見つかったので入ってみました。
 その店には15年以上前に一度、数年前に一度行ったことがありました。二回とも、連れて行ってくれた人がいました。先に書いたことのある人で、昨年の暮れに亡くなりました。今回は1人で、故人をしのんで飲むつもりでした。
 カウンターに座り、ビール、泡盛、芋焼酎と、私としては遅いペースで杯を重ねました。それは、その店の名物が創作料理で、メニューを見ているだけで楽しく、どれを注文するにしても、酒は控えておかないと食べられないと思ったからです。
 そのうちに、隣にいた女性3人のグループと言葉を交わすようになりました。私には平素ないことです。皆、30代半ばくらいで、かなり酔っていて陽気なお酒でした。しばらくして、どうして1人で飲んでいるのかという話題になったので、私は故人と飲むつもりで来たことを手短に話しました。彼女たちは、しんみりとして涙を拭きながら聞いてくれました。
 結局、閉店まで飲みましたが、酔いも手伝って、隣に座った女性は、私の方や腿に手を置いて話をしたり、打ち解けた感じになっていました。そんな気持ちは、ここ数年来味わったことのないもので、甘酸っぱい思い出になりました。彼女たちは、私のことなど、すぐに忘れてしまうでしょうが、私には生涯の思い出に残る夜でした。うぶなオヤジで、自分でも気持ち悪いですけど、久しぶりに楽しいお酒で、楽しい夜でした。
 別れ際、どうして連絡先を知らせなかったのだろうと、今は後悔しています。

成人の日に

2010-01-11 23:48:28 | コラム
 学生の頃、今くらいの時間帯は、もっぱらラジオを聞いていました。NHKでは、落ち着いた女性アナウンサーのナレーションが少しだけ入る「夢のハーモニー」や、もう少しポップな「クロスオーバーイレブン」なんかがありましたね。民放では、城達也氏の名調子に乗せて流れる「ジェットストリーム」なども聞いていました。
 あの頃の番組は、聞いていて邪魔にならない落ち着きがありました。気品といってもよいでしょうか。ちょっとオシャレで、寝る前の時間が少しだけ彩られる気がして満たされました。更けていく夜の中で、明日への気力が少しだけ湧くようなさじ加減が見事でした。さじ加減などと妙ないい方をしたのは、あまり鼓舞されると寝付けないわけで、「また明日、学校か、嫌だなあ」という気持ちに、少しだけ勇気を与えてくれる、その度合いがちょうどよいという意味合いです。1日が終わるというアンニュイな気分に、ほんの少しだけ、明日に繋がるスパイスを与えてくれる、そういうラジオ番組に大変癒されていたわけです。現在も、きっとそういう番組はあるのでしょうが、ラジオは身近な存在でなくなってしまいました。リサーチもしないまま、適当なことを書いていますので、懐古趣味に陥っているだけかもしれません。
 それにしても、寝るのが嫌だという気持ちで深夜を迎えることが、何と普通になってしまったことでしょう。本当はもっと早く床につけばよいのに、明日が来るのを少しでも遅らせようと、ついつい夜更かしをしてしまう。子供の頃は、「早く明日にならないかなあ」などと思いながら床についた日もあったように思います。でも、それはもう遠い昔の思い出にしか過ぎません。職場は牢獄のような場所になり、日常はあまりにも平凡で変化がありません。どうしたら、新しい目で日常を見ることができるようになるのか。不治の病を得て、末期の目で見る以外に、それはできないことなのでしょうか。

廃業間近の書店を訪ねて

2010-01-07 20:12:19 | コラム
 私の実家は地方の中核都市にあります。かつて商業の中心だった繁華街は、郊外の大規模店に押され、衰退しているとは聞いていました。今回、帰省してみて、街の活気のなさには実際驚きました。そして、中心となってきたデパートが撤退すること、街の文化の中心となっていた書店が廃業することを耳にしました。
 私は、幼なじみと酒を飲む約束をした日、出かけたついでに書店に寄ってみました。その書店は繁華街の中心に位置しながら、内部はほとんど変わっていないようでした。私が思っていたよりも、ずいぶんと狭い気はしましたが、それは私の過去の印象が膨張していたからでしょう。店内を歩きながら、高校時代までの自分のことを思い出していました。現在と違い、文化的な情報を広く入手できるのは印刷物を通してでした。何か興味がわけば書店へ出かけて雑誌や本を調べ、用がなくても書店によっては、最新の情報をキャッチしようとしていました。そこでは、私の未来は希望と夢に溢れていたように思います。自分もいつかは本棚に並んだ本を読破してやるぞ、あるいは本に載るようなでっかいことを成し遂げたいと不遜なことを考えていました。
 もう閉店するという店内を歩きながら、青春時代を振り返ることは辛いことでした。もうはっきり夢破れてしまった今、痛恨でしかありません。
 幼なじみと会って、その話をしました。私は急に「人生をやり直せるなら、いつ頃に戻りたいか?」と尋ねました。「単に戻っても同じ道を歩くのだろうから、今の意識をもったまま戻ったとして考えて」と、私は妙な条件を付けました。幼なじみは、しばらくして「中学の頃かな」と口に出し、「もっと勉強するよ」と言いました。中学時代は、彼と同じクラスになり、親しく交際していた時期でした。私は、先刻、書店で感じたことを思い出し、幼なじみもまた、同じようなことを考えたのだなと思いました。

故郷とは

2010-01-06 12:56:11 | コラム
 帰省しても淋しい気持ちが強くなってきました。それはいつ頃からだったでしょうか。
 両親が老いたことが大きな理由でしょう。確かに帰省当初は喜んでくれますが、その後はずっと一緒にテレビを見ているだけの毎日。それが、彼らの日常でしょうから、私はそれを乱すこともあるまいと思い、付き合っています。今回の帰省では、もうそれに徹しようと考え、最初からゴロ寝とテレビ視聴の正月にしようと決意して乗り込んできました。
 両親の衰弱から考えると、来年以降、もうこうした帰省が可能かどうか、心配になります。ここでしっかり話をしておかないと、後悔することになるのではないかといった脅迫観念も頭をよぎります。でも、それにしては、両親は歳をとりすぎました。もう込み入った話ができる状況ではないようです。一方、私も仕事やもろもろのことを犠牲にして帰省している事情があります。今年、今までのように帰省できる保証はありません。
 故郷というものは、だんだん遠くなるものです。縁のある人間がいなくなり、生活の拠点が移って疎遠になっていく。淋しい気がしますが、それが当然なのでしょう。私が今まで故郷を引きずりすぎていた。だから、親離れ、子離れがしにくい状況になってしまったのではないか、そういった後悔をしています。室生犀星先生が詠ったように「ふるさとは遠くにありて思ふもの」です。それが、故郷を離れた人間が、故郷に対して対峙する姿勢なのではないかと思うのです。

正月のテレビ番組から

2010-01-04 09:14:18 | コラム
 外出もせず、テレビしか見ていないので、またテレビネタですいません。
 3日の朝に見た番組です。起きたのが遅かったので、途中からでした。韓国と日本の文化を比較するような内容の番組。私は韓国が好きで、いつか行ってみたいと思っています。
 番組の中で、井戸茶碗の話がありました。国宝の井戸茶碗を見て、ユンソナさんはさっぱり良さがわからない様子。そこで、裏千家だったかでお点前を体験します。彼女は、韓国の取材で、自国では滅びた井戸茶碗を復活させようと試行錯誤している陶芸家を取材もしていました。お点前の後、彼女は一連の茶道を通して、作法の中から井戸茶碗の美がわかったと言っていました。誰かがおっしゃっていたように、青磁や白磁は完璧に完成されていて、もうそれ以上付け加えるものがない。それに対して、井戸茶碗は、お茶の緑色との相性がよく、お茶を入れたときに美が引き立つということのようです。韓国の陶芸家は、完璧を超えたところにある美が井戸茶碗の美だとおっしゃっていました。
 私は、ユンソナさんが茶道を体験されて、井戸茶碗の美を発見された過程が素晴らしいと思いました。実際に異国の文化を体験してみて、その良さを理解するということは、一番大切な相互理解であると思います。その国の美意識を理解するということは、感性や考え方を理解することであり、民族の根本に触れることかもしれません。

至芸ですね

2010-01-02 18:29:17 | コラム
今日は衛星放送で故桂枝雀師匠の落語を見てしまいました。死後長い年月を経ても、人々に愛される落語家は少なくありませんが、私には枝雀師匠が一番です。最後の演目「時うどん」は、面白すぎて泣いてしまいました。こんなにすべてを忘れて笑い泣けたのは、何年ぶりでしょうか。お正月は演芸を見て、日頃の憂さを晴らすというのが、習わしだったように思います。最近のお笑い番組の隆盛も、そういった習わしにルーツがあるのかもしれません。
 さて、枝雀師匠は正統派の落語からは少しはずれているのかもしれません。私は落語にあまり詳しくないので、そのへんのことはよくわからないのですが、これだけの面白さは至芸というしかないだろうと感じました。その証拠に、弟子や周囲の方々に多くのものを残されています。例えば、弟子の一人の方は「自分は死ぬことが何も怖くない。あの世があって、師匠に会えるなら、死への恐怖など感じない」というようなことを話していらっしゃいました。一人の人間が、別な人間の死の恐怖を消し去るということは、すごいことだと思います。また、別の若手落語家は、師匠の形見として譲られた財布だったかを、常に座右に置き、たまにしか見ないほど大切にしているとのことでした。楽屋で「貴方は面白いなあ」と声をかけてもらえたことが忘れられないそうです。
 師匠がなぜ自殺してしまったのか、その理由については今日も避けられていたようです。今更知りたいとも思わない。でも、あの芸を実際に見てみたい、どう進化していったのか見届けたかったという気持ちは抑えられません。しかし、こうやってありし日の芸を今も見ることができ、それが長時間にわたって放送されるということが、今日はうれしかった。それだけで満足できた気もします。

一年の計

2010-01-01 22:13:07 | コラム
 一年の計は元旦にありということで、幼い頃から元日にはいろいろプランを立てた覚えがありますが、たいていは計画倒れで終わってしまいます。それはたぶん私だけではないだろうと思うのですが、どうでしょうか。
 日記風に書かないことにしてきましたが、どうも最近は日記風になっている気がします。年末年始は酒を飲んで頭が働いていない感じもあり、テレビしか見ていないので刺激もありません。おせち料理で腹具合も優れず、こんな生活をしていては太るし非健康的だと思われます。でも、荒天で出かけようという気にもならず、やはりコタツに入って酒を飲みテレビを見るという悪循環です。まあ、典型的な正月の過ごし方といってしまえばそれまででしょう。
 でも、こうした何もしない時間というモノをしばらく忘れていたことに気がつきました。何もしないというと、罪悪のように考えがちですが、本当にそうでしょうか。リラックスとか癒し、ストレス解消というと、どこか無駄なような感じがあって、後ろめたい気になっていました。今年はここまで、かなりハードに仕事をしてきたので、何もしなくてもバチは当たらないと思います。しかし、そうでなくても、毎日そうあくせくしなくてもよいのではないか、と真面目に感じ始めています。どうせ短い人生だと開き直るつもりはないのです。そうではなくても、少し肩の力を抜いてだらだら過ごす時間があってもよい。めりはりをつけて生きる方が能率もよいのではないでしょうか。
 年頭に、今年は怠けるぞ、みたいな言い方はおかしいでしょうが、何事に対しても少し気楽な気分で取り組んだ方が、私の今年は良い結果が出るような予感がします。

兆し

2009-12-31 12:15:41 | コラム
 以前、シャンプーするときには、シャンプーをつけて泡立てて、そしてすすぐという感じで、マッサージなどはしていませんでした。した方がよいことはわかっていますが、毎日の洗髪の中ではどうしてもできていませんでした。それが、既に紹介したブラシを使うようになって、髪を洗う時間が長くなりました。ちょっと力のいれ過ぎかと思うくらい強く使ってしまうこともあり、そういうときにはかなりの量の抜け毛もあり、かえって逆効果になっているのではないかと疑うこともありました。
 半年以上続けてきて、普段の生活の中での抜け毛は減りました。朝起きて、枕についている毛は、ほとんどなくなりました。これは、洗髪時に抜けているからかもしれません。また、髪に張りが出てきたことを実感しています。腰が出てきたと言う方が正確でしょうか。とにかく、なよっとした感じが少なくなりました。
 使っているシャンプーはどこにでも売っている市販のもので、この効果はあまりないと思います。育毛剤はリアップのX5です。その効果もよくわかりません。私としてはブラシを使った洗髪方法がよかったのではないかと思っています。
 来年も頑張ってマッサージして、兆しを確かな実感にしたいと思っています。継続は力なり、育毛はブラッシングなり。

歯の治療から気づいたこと

2009-12-28 22:11:01 | コラム
 ようやく右下の歯が入りました。ブリッジというらしくて、ぐらついていた、もう限界という歯を抜いて、その前後の歯に金属の金具をつけて義歯を固定するというやり方です。歯を抜いてから1ヶ月以上、周囲の歯の手入れや、抜いたあとが完治するまで時間をかけました。入れた当初は違和感があって、これから大丈夫なのかと不安でしたが、人間の感覚というものがいい加減なのか、それとも適応力が偉大なのか、1日たった今日は何の違和感もありません。冷たいものがしみたりはしますが、先生から気にしないように言われているので、不安はありません。
 こんなに時間をかけた、今回の治療ですが、よく観察してみると、応急処置だと思わざるをえません。今回の治療が10年もつかと言われたら、答えはノーでしょう。前後の歯の寿命を考えても、数年かもしれません。これは美人女医さんの肩を持つわけではありませんが、しかたがないことでしょう。むしろ、現状をできるだけ維持する形で治療してくれたのは良心的かもしれません。
 改めて考えるのは歳のことです。もう先が見えてきたのです。歯だけでなく、数年というスパンで自分の将来を考えていかなければならないのです。将来という言葉から受ける印象は、今までの習慣で、つい有り余るほどの長い時間を想像してしまいます。しかし、もうそうではないということです。数年で物事を考え、それをもとにしてその後の数年を考えていくような、臨機応変な生き方が必要となってきたわけです。つまり、長い距離を走り抜くような体力もなくなったので、短い距離を積み重ねていく中から、どうやって目標に近づくかという生き方に転換が迫られていると思うのです。
 歳をとるということは因果なことだなあと、歯に治療を通して改めて思いました。

年賀状

2009-12-27 21:44:10 | コラム
 考えてみると、年末の仕事が一段落した26日頃に、私は毎年、年賀状を作っているようです。毎年、もう少し早めにやろうと思いつつ、仕事に追われたり怠けたりしているうちに、切羽詰まってしまうのです。年賀状なんてどうしてあるんだ? 誰かにあたりたくなってしまいます。
 それでも、最近はパソコンを使って自宅で簡単に作れるようになったので、すいぶんと楽です。私の父などは、何百枚と謄写版を使って刷っていました。家族も総動員されて、印刷や宛名書きをしたものです。プリントゴッコを使っていたこともありました。今にして思えば、幼稚な仕組みの機械で真剣に作っていたものです。その後、ずっと木版で作っていた時期があります。これも官製葉書を使うと、あまりうまくいかず、小学生の図工の作品のようになっていました。
 こうした変遷の末、今ではもっぱらパソコンです。近年の定番は、尾瀬の写真に多少の近況報告を加えるというパターンです。住所が管理されているので、宛名印刷も楽々です。今年は、手書きのコメントを加えることもせず、簡単に作ってしまいました。
 年賀状を出す数は年々減少しています。長く生きていると、どうしてもだんだんそうなっていくのでしょう。淋しいことですが、「花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ」ということなのでしょう。
 昨日で今年の仕事が終わり、今日で年賀状が終わりました。何か重荷を下ろした気分です。これから家の片付けなどをやって、帰省すればもう正月です。今年も1年、あっと言う間に終わりそうです。


都心の文化財

2009-12-26 20:15:06 | コラム
 重要文化財である、自由学園明日館を見てきました。これは、東京は池袋の西口、メトロポリタンから徒歩数分の住宅街にある建物です。設計者のフランク・ロイド・ライトについては、以前に明治村にある帝国ホテルで触れました。
 以前に行ったときは、ちょうど何かの催しがあり、外観のみの見学となりましたので、今回は事前にホームページで、見学の日程を確認して出かけました。
 受付で見学料400円を払いました。ロビーで喫茶ができるチケットは600円です。後で知ったことですが、200円の差額を払えば、喫茶も可能のようでした。
 外観はこじんまりと見えます。印象的なのは、三角屋根に長い縦のスリットが数本入った中央の建物でしょう。それを囲む回廊のような形で、各部屋が配置されています。使用中の部屋は見学できませんが、それ以外は、ドアを開けて内部に入って見学ができます。やはりメインは中央の建物の内部でしょう。1階正面はロビーになっています。ちょうどクリスマスシーズンで、一角にツリーが飾られていました。壁面には大きな絵画が飾られていました。イエスの誕生を知った人々がベツレヘムへ向かう絵なのでしょうか。キリスト教徒でない私にはわかりませんが、大勢の人々が川のように同じ方向へ向かって歩いている図です。日本画のような穏やかな筆致で描かれていました。中二階に上がると、このロビーを見下ろすことができます。外から印象強く見えたスリットを、ちょうど反対側から見ることになります。長く伸びた光の帯が、調度などで屈折しながら床に映る様は美しい。よく計算されて作られています。この建物の裏側は、食堂のような造りになっています。木の床に置かれたテーブルや椅子は、帝国ホテルのものを彷彿とさせます。あるいはこれもロイド自身がデザインしたものでしょうか。M字型の窓から入る日の光も何とも言えません。天井には大きな球形の照明が、幾何学的なデザインの木枠で吊るされ、雰囲気があります。コーナーの明かりも、同様なデザインが施されていました。帝国ホテルのロビーに比べたら明らかにシンプルなデザインですが、そこにはまた違った美がありました。
 大都会にある近代の遺産にぜひ触れてみてください。こんな近くにも素晴らしい文化がたたずんでいるのです。

クリスマスに思う

2009-12-25 22:17:11 | コラム
 街も話題もクリスマス一色、惣菜を買いに入ったスーパーでも、鳥のもも肉やオードブルの売り場に人があふれています。駅近くのケンタッキーフライドチキンのお店には長い行列ができていました。そこに並んでいるのは若いカップルが目立ちます。ちょっと過剰な気はしますが、平和な光景だと思います。不況の時代、少しでもイベントに便乗して売り上げを伸ばそうというのは当然のことでしょう。私がとやかく言う筋合いではありません。
 不況不況と言いながら、私たちはまだ幸せじゃないかと思う一方、見えない部分では、極度に貧しい人々もいるようです。昨年は、年末に派遣会社をクビになった人々をもてなす施設が話題になりましたが、そういう方々は決して特別な存在ではないらしい。思っている以上に生活に困っている人々が存在しているということです。少し前なら、アフリカなどの国々を例に出さなければならなかったのに、今では、同じ国の中に、そういった生活層の方々が生まれてしまったわけです。とても他人事ではないと思います。
 私なども、家電製品を買うのにまだ悩んでいたり、異性のお友達が欲しいといろいろ苦労していたりと、目先のことにとらわれて、どうでもいいようなことに四苦八苦しています。情けないと思う一方で、そうした些細なことの積み重ねが生きることなのだとうそぶいてもいます。
 平和な光景だと書きました。治安の悪い国、テロ騒ぎの絶えない国、実際に戦争の渦中の国など、世界には平和でない国がたくさんあります。そういう国に比べれば、多少平和ボケしていてもいい、この国の現在の姿を素直に喜ぶべきでしょう。しかし、そう思う中にも、世界には苦しむ人々がたくさんいること、国内にも貧困に苦しむ人々がいるということは忘れてはならないと思います。クリスマスに浮かれてもよい、けれど、誰もがずっとささったままの棘の痛みがあることだけ、いつも気にとめるべきだと思うのです。

演劇の楽しみ

2009-12-24 20:11:48 | コラム
 某劇団のクリスマス公演に行きました。私はメジャーな劇団よりも、中小の地味な劇団の方が好きです。また、あまり前衛的とかお笑い的なものより、やっぱり地味で真面目な方が合っているようです。
 今回の会場は、劇団所有の劇場でしたが、椅子もなくただの桟敷です。電気カーペットがいくつも敷かれ、その上に座布団があるといったあんばい。貧乏劇団の王道を行っている感じでした。
 でも、こういう劇団の皆さんは、目も輝いて明るいお顔をなさっています。演技も脚本、演出だって真面目だし、作品にはしっかり筋が通っていて素晴らしいと思います。熱意やメッセージがしっかりと伝わってきます。
 考えてみれば、夢を売る商売ってすごいですね。生活に必要なものを生産したり販売したりしているのも、もちろん大切です。便利なものがあれば生活は豊かになるでしょう。しかし、そういう商売なら大勢の企業や人々がやっています。そこへいくと、心の糧になるようなものを売る商売はそんなにたくさんはありません。希少であり貴重です。そういう自負があるから、劇団の方々も、十分でない報酬でも頑張れるのではないでしょうか。また、好きなことをやっているのだからなおさらです。
 見る側の私は、演劇のストーリーに感動するのはもちろんのこと、演技している劇団の方々の一生懸命さというか、熱意のようなものに最も感動しているようです。一生懸命を見ることが気持ちのよいことなのですね。
 今月は、音楽や演劇で楽しむことができて幸せでした。来年もまたいろいろ見たり聴いたりしていきたいと思います。

宇宙戦争

2009-12-23 20:06:43 | コラム
 先日、若田さんがソユーズで国際宇宙ステーションへ向かいました。何だかロシアとアメリカが手を組んでいる姿は、古い人間には不思議に思えるほどですが、時代は変わったのだと改めて思います。それに比べると、COP15ですか、世界の国々が環境について考えたわけですが、それぞれの国のエゴが前面に出てしまい、エコに対する合意には至らなかったとシャレを飛ばすテレビアナウンサーもいました。日本は途方もない数字を示して、主導権を得た気はします。でも、日本の二酸化炭素排出量は世界の4%にすぎないといいます。その4%をさらに削減したところで、中国やアメリカの排出量が減らなければ地球規模的には意味がないとすぐにわかります。もちろん、日本だってエコを心掛け、温暖化ガスの排出量を減らすことは大切ですが、それより先に解決すべきは超大国の排出量です。
 今こそ、世界が力を合わせて、地球を守るために協調しなければなりません。それができないと、問題は地球だけのことではなくなると思います。SF映画のように、近い将来、地球が滅びるとして、人類が他の惑星に移住しようと考えだしたとしたら、どうでしょう。こんどは宇宙にまで争いが広がっていくのではないでしょうか。地球環境に近いA星をめぐってアメリカ、ロシア、中国が争奪戦を行ったりして。つまらない妄想と言えばそれまでですが、何だかありえるような気がしてきます。
 私たちは閉鎖的な国民であるという自覚からか、国際化、グローバリゼーションということを教育されています。他の国ではどうなのでしょうか。私などは、EUに例をとるまでもなく、世界の他国のほうが国際化は進んでいるのだと盲信していますが、果たして本当にそうなのでしょうか。何か資料があれば見てみたい気がします。

忘年会で思うこと

2009-12-21 20:18:21 | コラム
 忘年会シーズンですね。金曜日は忘年会の梯子でした。久しぶりにたくさん飲むことができたのは幸せでした。
 でも、不完全燃焼のような気がしてなりません。私が参加していなくても、忘年会はまったく問題ありません。あたりまえですが、私などいてもいなくても同じなのです。目立ちたいとか、いつも話題の中心にいないと気が済まないわけではないのです。私など、特別な人間ではないですから、話題も個性も乏しいことは自覚しています。だから、その場にいて、呼んでもらえるだけでも喜ばなければなりません。それに、もし話がしたいなら、自分からどんどん話していけば言い訳です。それもせずに、不平を言っているのは我が儘でしかありません。
 最近は仕事の話をするのが億劫です。同僚には、職場でも酒場でも、熱心に仕事の話をしている人がいますが、私はうんざりです。それしかないの?と言いたくなってしまします。きっと熱く語っている人達に嫉妬しているのだと思います。
 私は、誰かに自分を理解して欲しいと考え始めているのでしょう。それだけ孤独ということもあるでしょう。自分が大したことのない人間であるという印象は確信に変わりつつあります。少し前までは、もう少しましな人間だと思っていました。いまは、そんなことはないと謙遜でなく思います。それなのに、自分を理解して欲しいと思うなんて、明らかに矛盾しています。
 昔は、大人は大人でした。しっかりしていて頼りがいがあった。でも、今、自分が大人になって情けなく思います。私の世代が、そんな世代なら、やはり世の中はよくならないなあなんて、他人事のように言ってはいけませんね。