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観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

2008-08-21 17:31:51 | コラム
 今日は仕事で、勤めて最初に赴任した街へ行きました。行ってみてびっくり。駅前からかつての職場まで、街並みがすっかり変わっていて、懐かしく感傷に浸ることもできませんでした。
 アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」、BOROの「大阪で生まれた女」、伊丹幸雄とサイドバイサイドが歌った「街が泣いてた」などなど、街に別れを告げる歌には名曲が多いですね。私も住居を転々としましたので、感情移入する部分が多いのかも知れません。
 敬愛する建築家の安藤忠雄氏は、阪神淡路大震災のとき、街が崩壊するということは、単に街並みがなくなることではなく、そこで暮らした人々の記憶や思い出が消滅することだといった話をなさいました。さすがに偉大な建築家だと舌を巻いたものですが、街とは、あるいは建築物とは、そういうものだと思います。西欧では、戦災などで壊滅的な被害を受けた街並みを何十年もかけて元通りに復元しています。街や地域社会を大切にする思想が窺えます。
 今日、わずかに記憶に残っていた建築物は、古びたスナックと雀荘が長屋になったモルタル二階建ての廃墟だけでした。それが無くなれば、あの街と私との接点も完全に消え失せてしまいます。

生き方を決めた夏

2008-08-19 14:12:11 | コラム
 高校3年生の夏休み、私は禅寺で一ヶ月半を過ごしました。今にして思えば、受験勉強からの逃避だったと思います。雲水(修行僧)さん達に交じってほぼ同じ生活をしました。
 庫裏の二階の一間を与えられましたが、隣には3~4歳年上の男性が参禅していました。彼は大学受験を断念した後、全国をくまなく歩き、すべての都道府県を巡り終わったとのことでした。囲炉裏端や僧坊の一室で、私は彼からいろいろな話を聞きました。彼は与論島の星の砂をとりわけ大切にしていて、ときどき小さな瓶から掌に受けながら、じっと眺めていることがありました。故郷から弟さんが訪ねてきた日には、夜、一人で涙をぬぐっていました。私は、彼の姿に漂泊の俳人、種田山頭火を重ねて、思慕の思いを深めていきました。
 8月の末、村で祭りがありました。私達は小学校の校庭で行われた盆踊りを見に行きました。淡いぼんぼりの灯の下で踊る人々の姿が、この世のものではないように、頼りなく見えました。夏の終わりが迫っていました。
 別れの日、私は彼にすがって号泣しました。人前であんな姿を見せたことは後にも先にもあのときだけです。生まれて初めて知った別れの悲しみでした。彼は、私の肩にそっと手を置いて「たくましくね」と言ってくれました。彼も、某観音堂の堂守になり、寺を去ることが決まっていました。
 毎年、晩夏になると思い出す情景です。その後の私は、知らず知らずのうちに、彼の生き方をなぞってきたように思います。私は彼を純粋に敬愛していました。だから、あまり幸せになれませんでしたが、後悔をする気持ちにもなりません。
 

人間到る処青山有り

2008-08-18 15:10:59 | コラム
 今回、帰省中にしたかったことの一つに海水浴があります。午前中に歩いて浜まで行き、十数年ぶりに海に入りました。さすがに海水浴客も少なく、海も夏の色ではなくなっていました。沖に浮かぶ雲も入道雲ではなく、鰯雲。それでも、潮の香を嗅ぎ、潮騒を聞きながら、波に身を任せているのは気分のよいものでした。
 帰宅する途中、メキシコ料理の店を見つけて入りました。カウンターだけの小さな店です。マスターはメキシコに旅行に行き、そのまま11年間住んでしまったという異色の人。トルティーヤに鶏肉、ジャガイモなどを包み、トマトソースで煮たメインディッシュは、メキシコの主食だそうです。トウモロコシの味わいが何とも言えない逸品でした。驚いたのはアロス・デ・クレマという米のプディング風デザート。甘みがほどよく、実に美味でした。
 メキシコの話を面白く聞いた後は、マスターが「よいバカンスを」と言って送り出してくれました。故郷で思わぬリゾート気分を味わった一日でした。
 「人間、到る処、青山有り」という諺を思い出しました。これは「人間はどこに行っても緑の山があって住めば都」というような意味で使われますが、正しくは「世の中どこでも骨を埋める処はあるから、大きな志をもって故郷を出よ」ということのようです。志を持たずに故郷を出て、帰省してよい店を見つけたなどと喜んでいる私は、まったくこの諺を誤用しているわけです。

祭りのあと

2008-08-17 09:50:52 | コラム
 当地は時々小雨が降る天候でしたが、今年も祭りに参加しました。正式に要請を受けた形です。実際、御輿の担ぎ手が少なく、例年のお札配りの傍ら、御輿も担ぐという展開になりました。おかげで、今日は肩や腰が痛いです。
 毎年、祭り行列に参加していると、沿道を見て、いろいろ気づく点があります。やはり老人が目立つことは確かです。老婦人が真新しい夫の遺影を抱えていたり、昨年は入院していた老人が、今年は元気で木遣を披露してくれたりと様々です。
 一方、祭りで見る若者はいいですね。浴衣や法被姿の女性は言うまでもありませんが、普段はどうということはなくても、祭りで輝く若者がいるようです。例えば、太鼓と笛のカリスマがいて、彼の演奏は皆の憧れの的。競演するのも大感激のようでした。祭りだからではないと思いますが、当地では茶髪の若者が少なくて、意外な気もしました。
 祭りが終わって、今日は急に涼しくなりました。吉田拓郎氏の初期の作品に『祭りのあと』というのがあって、詩人の詩に拓郎氏が曲をつけたものですが、あの淋しさを、今しみじみと感じています。この肩の痛みが消える頃、休暇も終わります。

老犬

2008-08-14 10:31:52 | コラム
 実家には16歳になるマルチーズがいます。眼は既に白く濁り、よく見えないようですし、玄関の扉の音や自分の名前さえ、もうよく聞こえないようです。彼は、いつも母の側で、うとうとと過ごしています。
 その母も85歳です。もうまともに歩けない母は、テレビの前に布団を敷いて、そこで日がな一日、テレビを見ています。たまに話をすると、妙なことばかり口走るので、慣れないこちらはイライラしてくることもあります。短絡的でステレオタイプな言動ならまだできますが、論理的な思考や新鮮な感動というものからは無縁になってしまいました。高齢なのだから当然でしょう。
 昨日、居間のテーブルの上に、伏せた写真立てがありました。眠っている母を起こさないように注意して見ると、祖母の写真でした。祖母は十数年前に88歳で亡くなりました。お盆が来て、母は祖母のことを思い出していたのでしょう。
 母の傍らには、忠犬が添い寝していました。『方丈記』には花の上に置いた露について、花と露が無常をあらそう様を描いていましたが、老母と老犬も、どちらが先に逝ってもおかしくないような心細さを感じさせました。
 近年の酷暑は、老犬には辛いようです。母のために長生きしてくれよと、心の中で声をかけながら、祖母の写真を元に戻しました。
 写真は私の油彩で、十年くらい前のものかと思います。
 

本当に立派な人

2008-08-12 11:47:23 | コラム
 地方の新聞を見るのは楽しいですが、最近、気づいたのは、共通の記事が多いことです。つまり、地方紙A新聞と、別な地方の地方紙B新聞に同じ記事が出ているといったことはよくあります。地方新聞社が、すべての紙面を埋めるだけの取材網や資金を持っているわけはないですから、記事を購入するシステムができているのは当然でしょう。
 今日の朝刊で読んだ「きょうの人」欄なども、いくつもの地方紙に出ていると思います。終戦記念日が近づいたせいか、沖縄戦犠牲者の遺骨収集を続けるボランティアさんの記事でした。具志堅隆松さんは那覇市で医療機器の修理業の傍ら、週末には、ガマで亡くなった人々の遺骨を掘り出しています。最初は頼まれてやっていたそうですが、もろくなって壊れた遺骨に出会ったとき、時間との戦いであることに気づき、頼まれなくてもやるべきだと感じたそうです。活動が家計を圧迫するほどであっても、「金があればいいってもんじゃない」と強がっているといいます。
 何でも金銭面から考えてしまう現代、具志堅氏のように、非業の死を遂げた人々への思いだけで活動することは素晴らしいと思います。大事件や大事故の記憶がすぐに風化し、そこで失われた人命の尊ささえ、簡単に忘れられてしまう時代です。地道な活動であっても、こういう活動に光が当てられることによって、戦争の悲惨さも語り継がれていかなければならないと思いました。
 新聞各紙がオリンピックで活躍する人に注目するのは結構ですが、私たちの身近で、自分のためでなく他人のために、人知れずコツコツと活動している人、私は、それが本当に立派な人だと思います。

ソウルメイト

2008-08-11 12:12:25 | コラム
 かつてボランティアをしていた頃、素敵な女性と会いました。彼女は、病院ボランティアの他に、命の電話などで活動していたこともあるベテラン?でした。私が食事介助してもうまくいかない老婆でも、いとも簡単に口を開かせ、優しく応対している姿は、マリア様のようだと思うほどでした。
 メールのやりとりをするうちに、彼女のことをいろいろ知りました。そして、彼女にソウルメイトと呼ぶ異性がいたことを教えられました。どの程度の関係だったのか、そこまでは知りませんが、相当に苦悩したことは確かなようでした。
 当時の私には、配偶者のいる主婦が、そのような異性と付き合うことが理解できませんでした。彼女を美化していたこともあるでしょうが、露骨に言えば、彼女が不倫をするような人だとは、どうしても思えなかったのです。そんな私を、彼女の方でも理解できないようでした。
 メールが途絶えて数年になり、その間、私の環境も大きく変わりました。そして、今なら、彼女のことが、よく理解できます。私もソウルメイトと出会いたいと真剣に思います。今の環境は壊せないけれど、長くもない人生、このままでは淋しすぎます。せめて、ソウルメイトと過ごす時間があっても許されるという気がしています。自分の環境からだけ言えば、身勝手な考えではないと思うのです。

帰省

2008-08-10 12:46:04 | コラム
 これを読んでくださっている方の中にも帰省する方、帰省中の方がいらっしゃることでしょう。私も一昨日の夜、休暇をもらって帰省しました。
 思えば数十年の間、ゴールデンウィーク、お盆、年越しなどで、毎年数回は帰省してきました。あるときは満員の列車に揺られ、あるときは渋滞にイライラしながら、それでも帰省を続けてきたのには理由があります。
 私は末っ子で、両親に可愛がられました。私が大学入学を機に上京する折、母は卒業したら帰ってきてほしいと懇願し、私もそのつもりでした。しかし、就職して関西に配属され、その後、転職して東京で暮らすことになり、母との約束を守ることができませんでした。私は、その罪滅ぼしのつもりで、帰省を続けてきたのです。そのために失ったものもたくさんあります。「マザコンだ」と去って行った人もいました。
 帰省して何をするわけでもありません。老いた両親の手伝いをしたり、一緒にテレビを見たりしている毎日です。正直なところ、もっとやるべきことがあるのになあと時間を惜しむ気持ちになることもあります。でも、自分にとっても気分転換になり、生活の場を離れて客観的に自分を振り返ることができるという面があります。そして何より、今回もまた両親と過ごせることを喜ばなければならないと思うようにしています。あと何回、こんな時間が過ごせるのかと考えると、この先、そう何度もあるとは思えません。
 私にとって、故郷は両親あってのもの、両親がいなくなれば、もう帰省することはないでしょう。帰省の起源は中国にあり、「省親」、つまり、地方出身の官僚が故郷に帰って親を気遣うということだそうです。
 

天才

2008-08-09 11:36:19 | コラム
 先ほど、赤塚不二夫氏の葬儀でタモリ氏が読んだ弔辞の全文というものをネットで拝読しました。実は白紙だったという情報もあるそうですね。それにしても、心打たれる内容でした。
 私も赤塚漫画で育った世代です。漫画雑誌やテレビアニメで、抱腹絶倒した覚えがあります。笑いすぎると涙が出てくるという経験も、赤塚漫画で初体験しました。弔辞の中には、赤塚氏が、俳優のたこ八郎氏の葬儀で、高笑いをしつつ涙を流していたという一節がありました。タモリ氏の才能を見抜いて居候させた話も有名ですが、スケールの大きな人だったことを改めて感じます。
 弔辞の最後で、タモリ氏は、赤塚氏に感謝の言葉を述べたことがないと告白しています。それを口に出すことで、他人行儀な空気が流れるのが嫌だったと言います。同様に、赤塚氏も誰かにそんな話をしていたそうです。つまり、二人は互いのことをよく理解し、常に気遣っていたのですね。私は、二人とも天才だと思っています。天才と言えば、何か傍若無人というか、傲慢で鼻持ちならない人物を想像してしまいますが、この二人には、対極のものを感じます。素晴らしい人間関係だと思います。
 タモリ氏は「私も赤塚作品のひとつです」と弔辞を結びました。これは、赤塚氏への、この上ない感謝の言葉ということになるでしょう。二人の天才の出会い、奇跡のようなその一瞬に思いを馳せました。 

ノスタルジア

2008-07-26 22:01:36 | コラム
 仕事で武蔵小金井に出ました。帰りにちょうど阿波踊りを見たので、写真を撮りました。東京各地で、阿波踊りが夏の風物詩になってきましたね。
 私の育った地方都市には、地域に密着した、町の祭りというものがありませんでした。だから、鼓笛隊でパレードに参加したことはありますが、御輿を担いだり、特別な祭り料理を食べたりしたことがありません。そのせいか、祭りに憧れていました。
 いつ頃からか、知人に頼まれて、故郷のある町の祭りに参加するようになりました。もう20年近くになるでしょうか。御輿を担ぎたかったのですが、もう歳をとっていた?ので、お札配りの役になりました。御輿の前を歩いて町内を練り歩き、お金や酒、お米などをいただいて、お札を下賜するという仕事です。陽気な木遣りの方々と前後して歩くことになり、祭り情緒を満喫できる面はあります。
 炎天下、お囃子を聴きながら歩いていると、たまらない郷愁を感じます。自分の生まれ育った町でもなく、神社の氏子でも何でもありませんが、故郷や古きよき時代に対するノスタルジアがかき立てられるような気がします。DNAが騒ぐのかもしれません。
 今年も、祭りが迫ってきました。最近は毎年引退を考えるようになり、どうしたものかと思います。でも、祭りが近づくと、お囃子が聞きたくなるのです。8月の半ば、きっと、今年も、汗にまみれてお札配りをしていることでしょう。
 

カラカラで飲みませんか

2008-07-25 20:15:40 | コラム
沖縄で創作された、写真のような酒器をカラカラと呼ぶようです。これは、十数年前に、銀座のわしたで購入したものです。緑紋カラカラというラベルが残っているのはポピュラーな柄だからでしょうか。工房名も作者名も同じラベルに印刷されていますが、小さすぎて文字が読めず、ご紹介できません。
 陶器などは好きでも滅多に買わないのですが、これは一目見て気に入って即購入しました。形といい、文様といい、文句なしです。民芸品の範疇に入るのでしょうが、沖縄の織物にも通じる、素朴で温かいものを感じさせながら、それでいて凛とした品性を備えているところが素晴らしいです。
 購入以来、飾るだけで一度も使ったことはありません。泡盛を飲むことはあっても、コップ酒になってしまうからです。酒器から、ちびちびやるのはどうも性に合わないようです。
 しかし、誰かと、こんな酒器を使ってゆっくりとお酒を飲んでみたいとも憧れています。最近、そんな機会はほとんどなくなってしまいました。

秘すれば花

2008-07-19 15:24:32 | コラム
 今日は朝から暑くなりましたね。梅雨明けもあとわずかかと思われます。
 出勤途上、民家の軒先から風鈴の音が聞こえてきました。考えてみれば、風鈴とは高度な感覚装置であると思います。あの音だけを聞いて、風の強弱を感じ取り、涼しい気分になるわけですから。直接的な動きを見たり、実際に風に当たることなく、風を感じるだけの装置とは、私達の祖先は粋なものを発明し、愛用していたものです。
 「ししおどし」というのもありますね。最近は頻尿予防の薬だかのCMで有名になってしまいましたが、日本庭園などで、水の流れや時の流れを感じさせる装置です。
 私にとっては、蚊取り線香も、不思議な装置です。あの匂いを嗅ぎ、たゆたう煙を見ていると、昔の夏の夜の息苦しさを思い出して、切なくなってしまいます。
 「秘すれば花」というフレーズは、能の大成者世阿弥の『風姿花伝』にあったと記憶しています。直接的に表現するのでなく、間接的に相手に伝え、最後のところは相手に委ねてしまうというのが、私達民族のコミュニケーションであり、美意識だったのではないでしょうか。
 街へ出れば、海中を映した環境ビデオが流れて、涼を演出していますが、もっと間接的な涼を、感覚的に味わう楽しみを大切にしたいと思うのです。

大自然からの視点

2008-07-13 23:49:41 | コラム
 土門拳、入江泰吉、林忠彦など意中の写真家は多少いますが、星野道夫は文章家としても優れ、多くのことを教えられました。
 例えば、アラスカで暮らしていた彼が、あるときテレビクルーを案内したことがあったそうです。生憎と天候が悪くて撮影が進まず、皆いらいらが募っていたようです。それを見た星野は、ディレクターを呼び、次のようなことを述べたといいます。あなた方が一生懸命なのはわかるが、番組の出来の善し悪しなど、十年、二十年たってから振り返れば、大したことではない。それよりも、今、まれにしか触れることの出来ない大自然を目の当たりにして、それをよく見て、心に深く感じておかなければ損をするのではないかと。
 この「十年、二十年」という視点が、さすがに悠久の自然を相手にしてきた人物のすごさです。私を含めて、凡人は今日、明日のことしか考えません。そして、その中で、ああでもない、こうでもないと小さなことで悩んでいるのです。星野のスケールの大きさは、私にとってまったく想定外のものでした。
 撮影中の不幸な事故で亡くなった星野ですが、環境危機が叫ばれる今こそ、世界に向かって発言して欲しい芸術家でした。早すぎた死が惜しまれてなりません。

マイ・ヒーロー

2008-06-30 20:20:34 | コラム
 幼い頃から野球が好きでした。地方では、テレビ中継などめったにない時代でした。大好きだった王や長島の活躍を専らラジオで聴いていました。
 小学生時代は、毎日狭い路地で野球をやっていました。グラブは父が東京に出張したときに買ってきてくれました。当時としては高価すぎるプレゼントだったと思います。うれしくて毎日枕元に置いて眠り、油をつけて手入れを欠かしませんでした。皮革の匂いが何とも言えませんでした。
 そんな私も、いつからか自分でプレーをしなくなり、観戦するだけのファンになりました。阪神タイガースを応援し、アンチジャイアンツを気取っていました。それも徐々に熱を失い、やがて野球に対してときめくものがなくなっていきました。
 もう十年くらいたつのでしょうか。それまでの生活をすべて捨てて、一人で一から生活を作り直さなければならない事態を迎えました。希望も自信も失い、辛くてたまらない毎日を過ごしていました。家にいるときには、ひたすら絵を描いていました。サムホールの小品からF100号の大作まで、油彩が中心でした。若いときに諦めたはずの才能でしたが、ひょっとしたら・・・・・・という想いでした。絵を描いている間だけは、すべてを忘れることができました。
 そんなときでした。イチローがアメリカに渡って大リーグに挑戦を始めたのは。
 私は毎日、絵を描きながらイチローの試合を見ました。自らの力を信じ、求道者のようにプレーに打ち込む彼の姿は、私に勇気と力を与えてくれました。記録を作り、評価を上げていく彼を、私は心から応援しました。
 約3年間、私はイチローとともに、そんな生活を続けました。イチローは現在も活躍を続け、大リーグを代表するプレーヤーに成長しました。一方の私は、自らの才能の程度をしっかりと確認できました。この数年は絵筆を執っていません。やめたわけではありませんが、気ままに楽しく描ければそれでよいと考えるようになりました。
 ここにきて、またあの頃のような辛い日々が戻ってきました。再びイチローが気になり始めた私ですが、彼も今年は勢いがないようです。しかし、今日は今季初の5打数5安打の固め打ちでした。これからもっと活躍して、私に力を与えてください。どうぞ、あの頃のすごさを見せつけてください。
 

さらば友よ

2008-06-28 19:56:47 | コラム
 6月24日早朝、千葉県柏市で悲惨な事件が起こった。77歳の男が妻と長男夫婦、さらに4歳の孫娘をハンマーで殺害したというニュースだった。朝のテレビでそれを知ったときには、まさかと思った。同姓同名だろうというくらいにしか思わなかった。それでも、何故か気になって出勤後に新聞を見てみると、被害者の長男は、年齢、職業、そして顔写真から、紛れもない私の大学の同級生だとわかった。そんなはずはないだろうと思ってみても、事実を否定することはできなかった。
 彼とは、大学時代、同じサークルに属し、友人の少なかった私には数少ない貴重な話相手だった。一緒に講義を受けたこともあるし、旅行に行ったこともある。何より、私は一度、彼の実家に泊めてもらったことだってあるのだ。そのときの記憶は既に定かでないが、今回の加害者である父上とも、被害者である母上とも挨拶したはずだ。そして、そこは今回の犯行現場だっただろう。
 泊めてもらった夜、彼は、中島みゆきの「時代」を聴かせてくれ、それをカセットテープに録音して渡してくれた。私は、帰宅してからしばらく、そのテープをすり切れるほど聴いて、孤独を癒したものである。お返しとして、夏には帰省中の実家に彼を招待した。彼は友人と二人、車でやってきた。一緒に海へ行ったと記憶している。彼は、いつものようにはにかんだ笑顔を見せながら、楽しそうだった。日本海で泳ぐのは初めてだと言って、眩しそうに水平線を眺めていた。
 サークルでディスコに行ったときのことは、当時の語りぐさになった。踊りなど似合わないと自負する二人で、飲み放題をいいことに朝まで杯を重ね、大音量の中で文学を論じ合った。青臭い話だが、当時の私はそんな体験に餓えていた。既に、そんな期待に応えてくれる人間は多くなかった。周りは呆れたらしいが、私にとっては忘れられない楽しいひとときだった。
 卒業後は一度も会っていなかったし、年賀状を交わすこともなかった。それでも、私は時々彼のことを思い出していたように思う。風の噂で就職したことも知っていた。
 その彼が、悲惨な最期を迎えた。その朝のことが妙に想像されてならない。凶器を振り上げた父を見る、彼の信じられないという目が、脳裏にはっきりと浮かぶのである。
 結婚が遅かったのか、ようやく娘さんも生まれて、幸福な生活を始めたところだったのに・・・・・・。加害者は父親だ。何か事情があったのかも知れない。精神を病んでいらっしゃたようでもある。彼自身も、休職していたという記事もあった。無念ではあったろう。だが、そんなことを感じる間もなく、彼は逝ってしまったのかもしれない。
 その晩、私は彼とのことを思い出しながら、彼の冥福を祈る気持ちで、酒を飲んだ。毎晩一人で飲んでいるのだが、その夜は、一人という気がしなかった。ひとりぼっちだとは感じなかった。
 彼と飲んでいたあの頃は、二人とも若かった。幸せになるなど、たやすいことのように思っていた。だが、私も彼も、そして、おそらく意外に多くの人々も、やがて、そうでないことに気がつく。そして、今回、何が起こるかわからない、本当に一瞬先のことさえ、我々にはわからないのだと改めて気づかされた。
 さらば友よ。人間は皆弱い。だから、お父上を恨まないでくれ。無責任な言い方で申し訳ないが、どうかその苦悩を受け容れてあげてほしい。突然、しかもあまりにも理不尽に、母親と愛妻、愛娘、そして、自らの命まで奪われた無念は、私には想像すらできない。しかし、君はきっと父上を許すと思う。神経質ではあったが、君は学生時代から寛容な人物だった。
 どうかやすらかに眠ってくれ。この梅雨の間にあった一日のこと、そして、君のことは、私が一生忘れないから。