goo blog サービス終了のお知らせ 

観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

母の手帳

2008-12-11 22:06:25 | コラム
 そろそろお正月のおせち料理の話題などが聞こえてくるようになりました。現代、2割程度の家庭では、お正月におせち料理を食べないんだとか。若い世代では、子供の教育のためにおせち料理を揃えるが、少しずつ体験的に食べてみてそれで終わりだそうで、そういうパック商品も売られているということでした。
 私の家でも現在は、すべてセットになったものを買っていますが、私が子供の頃は、すべて母が手作りしていました。料理は、年始の挨拶に来る父の部下や親戚をもてなすためであり、母達が、暮れから三が日まで、料理から解放されるために、大きな鍋に作り置きされるのが常でした。雑煮や汁粉、切り干し、郷土料理などのほか、母が函館出身のため、ヒジなますや鯨汁などが用意されました。
 御用納めの頃から、母は一冊の手帳を開きながら、台所に立つようになります。その手帳は、古い古い家計簿で、空いたページにおせち料理のレシピがびっしりと書き込まれていました。毎年毎年、それが母の年末恒例の仕事でした。私も、ギンナンをはじめとする野菜の皮むきやらを手伝わされました。外は雪で、水も凍るような冷たさでした。
 母が家事をすることはすっかりなくなりました。父は、切り干しだけは造っていましたが、それも、この数年は出来なくなりました。二日がかりでやっていた大掃除もいつしかしなくなり、年末年始も、普段の生活とあまり変化はなくなりました。
 私は、生まれてから現在まで、故郷の実家以外で年を越したことはありません。今年も単身で帰省する予定です。あと何度帰省できるかと考えると、今さら帰らないわけにはいきません。両親がいなくなれば、もう帰省することはないでしょう。
 今日、おせち料理の話題を耳にして、母の手帳のことを思い出しました。もう使うこともなく、継ぐ人間もない手帳ですが、母はどこかに大切に保管していることでしょう。毎年毎年1年ずつの母の思いのこもった手帳です。捨てることはありえません。でも、どこにしまったのか、それは訊いても思い出せないと思います。 

母の口癖

2008-12-10 23:57:03 | コラム
 ピカソ展に行く道すがらのことです。田舎者の私は、地下鉄に乗り間違えて青山一丁目から歩くハメになりました。途中、偶然通ったのが、乃木家旧宅と隣接する乃木神社でした。
 乃木希典氏については、司馬遼太郎先生の『坂の上の雲』や夏目漱石の『こころ』の印象が強いです。『こころ』では、主人公の「先生」が自殺する一つのきっかけになったのが、乃木夫妻の自決でした。保存されている旧宅では、窓越しではありますが、その自刃した部屋を見ることができました。
 乃木神社に参詣しますと、資料館があり、「無料」の文字に弱い私は、そこを一巡しました。乃木大将の自決当日の写真には、意外なほどの穏やかさが感じられ、覚悟の深さが思い知られました。さらに、辞世の歌が三首ほど展示されていました。その一首に、私は思ってもみなかった発見をしました。
   うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり
 母は、子供や猫の子などが、親の後について離れない時など、よく「みやとしたいて我はゆくなりだね」などと言っていたものです。私は、そう聞いていたのですが、この展示をみて「みあとしたいて」だとわかったのです。それ以上に私が感心したのは、日常の何気ない会話の中に乃木将軍の辞世の一節が含まれていたことです。さすがに大正生まれだと言えばそれまでですが、一介の主婦が、こんなにすごい歌を日常生活の中でさりげなく使っていたという事実に、時代や文化の背景を感じとられずにはいられません。
 思いがけなく入った乃木神社で、思いもよらない発見をしました。写真は、乃木家旧宅です。
    

ネザサの教え

2008-12-04 21:38:47 | コラム
 ネザサという植物はコメとそっくりな実をつけ、食用になるそうです。ササやタケは花を咲かすと枯れるといいますが、このネザサも花が咲き種子をつければ枯れてしまいます。そのためか、この種子が首尾良く根付くために、いろいろな戦略があるのです。
 まず、この種子を取ろうとすると、ばらばらとこぼれてしまう。つまり、食べ尽くされることがないようにできています。さらに、穂についている段階から発芽を始めるので、地面に落ちればすぐに固くてまずい葉が出てきて、食べられないという仕組みです。
 私が感心したのは、このネザサ、結実後1ヶ月ほどしか発芽能力を持たないという点です。古代蓮など、遺跡から発掘された種子から芽を出すくらい生命力が旺盛なのとは何とも対照的です。地面に落ちれば、野ネズミに食べられる運命なので、長く命を保つ必要がないというわけでしょう。潔く、実にクールな割りきり方です。まるで意志があるようで、植物ながら大したものだと思います。少しでもこの世に長らえようと、未練ばかりの我々とは雲泥の差がありますね。
 自然に学べと言いますが、こういうところを言うのでしょう。

風呂焚きの日々

2008-11-28 22:18:43 | コラム
 小学生の半ばまで、我が家は薪で沸かす風呂に入っていました。
 風呂を焚くのは、子供の仕事で、夕方、新聞紙、薪、マッチ、団扇を持って、焚き口にへばりつくのが日課でした。薄暮から暗闇に向かう時間に、点火直後から燃え盛るまで、火はいろいろな表情を見せてくれました。舐めるように燃える火や一気呵成に燃え上がる炎など、共感していただける方は、どれほどいらっしゃるでしょうか。苦労して燃え上がった火を眺めていると、不思議な陶酔感や高揚感に襲われました。人類が太古から火を崇拝してきたことも納得されました。火が燃え出すと、今度は湯加減を見なければなりませんでした。木の浴槽もさることながら、火で焚いた風呂は、湯も優しくとろみがあったような気がします。
 小学生の仕事ではありましたが、大げさに言えば、風呂焚きは遊びではなく、神聖な仕事でした。その証拠に、風呂を焚きながら、火遊びをしてはならないのでした。火遊びをすれば、火の神様の怒りをかい、おねしょをするのだと教えられました。これは、子供が危険な火遊びをしないよう防止する方便だったのでしょうが、幼い私は、それを固く信じていました。
 この風呂は、ある夏で、突然、入浴できなくなりました。海水浴から帰った父と私が、一緒に浴槽に入ったとき、底板が見事に二つに割れてしまったのです。あのお湯が抜けていく間の様子を、今でもはっきりと覚えています。事故後、しばらくタライで行水のようなことをしていたのは覚えていますが、その後のことははっきり覚えていません。家の新築がすぐ後だったように思います。

寒くなってきましたね

2008-11-26 22:10:12 | コラム
 私の知人で、ものに対するこだわりの強い人がいます。ブランドにこだわるといった方が正確でしょうか。定評を得ているものを、多少高くても購入した方が、飽きもこないし長く使えるということのようです。流行に振り回されるというのとは違う気がします。
 その人が長く使っているのが、アラジンの石油ストーブです。冬にお邪魔すると、あの円筒形のストーブが部屋の隅に置かれ、独特の青い火が揺れています。「ブルーフレーム」というこのストーブは、約70年前、頑固で完璧を望む英国人が作り上げ、発売以来、大きなモデルチェンジがされていないといいます。完成されたフォルムと性能に自信があるのでしょう。事実、幅広い支持を受け、時代を超えて愛用されているストーブです。芯がダメになっても、それだけを買い換えることができ、古い部品でもストックがあってサポート体制もしっかりしているそうです。
 新しいものが好きな日本人とは、ずいぶん違う気がします。簡単に是非を云々するつもりはありませんが、英国人は環境問題が大きくなる以前から、省エネを心がけていたのだなあと感心させられます。それが英知というものかもしれません。振り返れば、「消費は美徳」「使い捨て」などという言葉が流布し始めた頃から、経済は発展したかもしれませんが、人心の荒廃が密かに進行していたのでしょう。
 月並みな言い方になりますが、少年時代は確かに貧しかったですが、今よりずっと豊かだったと思います。私の実家の家にも石油ストーブがありました。灯油の匂いが漂い、やかんのお湯が沸く音が部屋に溢れていました。そこに家族が集まっていた日々を懐かしく思い出します。

家族の中で

2008-11-22 18:50:32 | コラム
 首都圏の夫婦調査というデータを見ました。家族の中核たるべき夫婦の関係が、ずいぶん変わってきているようです。
 配偶者に関する感情として「恋愛」を感じる男性は23%、女性は11%。「無関心」は男性27%、女性32%、さらに「憎悪・不愉快」では男性8%、女性15%という数字が出ています。男女間の意識のすれ違いは大きいようです。
 女性も社会に進出して、多くの異性と接するうちに、異性を見る目が磨かれるのでしょう。それに対して、男性はロマンチストですから、勝手な幻想を奥さんに対して求めてしまうのだと思います。その差違が、以上の数字の相違として現れているのではないでしょうか。もちろん、これはできるだけよい言い方をしたのであって、女性のしたたかさと男性の甘っちょろさと断定してもよいかもしれません。
 不倫を文化だと言った芸能人がいましたが、私は「文化」ではないと思います。そんな言葉で美化はできないとは思いますが、人は変わります。こういう人だと思って結婚しても、その後、まったく別人のようになってしまうケースだってあるでしょう。そこまで予測して結婚できる人はいないはずです。家庭を築いた責任はあります。だから、家庭を破壊することはできない。でも、それに縛られて一生を送る義務もないというのが、私の見解です。
 あなたはどう思いますか? たった一度の(二度でも三度でも結構ですが)結婚で、すべてが制約されることが、そんなに素晴らしいことですか?

1.7

2008-11-20 20:28:09 | コラム
  この数字の意味は?と問われても、困ってしまうことでしょう。これは、1ヶ月間に職場の人と酒を飲む回数だそうです。対象の人数や男女比、実施日なども不明です。1.7、これを見て、意外に少ないと感じたのは、私だけでしょうか。
 かつては、上司に誘われたら、酒を飲めない人でも3回に1回は付き合うようにしなさいとアドバイスされたものです。社会人の常識・マナーといった類の本には、ほとんどそう書かれていました。酒好きな私は、若い頃から皆勤賞で酒席の末席に連なっていました。上司の本音が聞ける機会は貴重でしたし、その場にいないとどんな批判を浴びているか・・・・・・という不安もあったかもしれません。仕事やゴルフの話ばかりで、つまらないと感じるときもありましたが、必要なものだという気持ちはありました。
 「和をもって貴しとなす」というのが、聖徳太子の十七条憲法以来、我が国の伝統のはずです。根回しやすり合わせも、公の場で衝突を避けるための方便でした。それが近年、変化しているということなのでしょうか。終身雇用や年功序列が廃れ、会社に対する帰属意識が薄れていることも、影響があるかもしれません。自己主張をしっかりしようということも奨励されています。共働きの家庭では、家事や育児で、仕事と家庭の両立が迫られます。同僚との付き合いは制限されるでしょう。また、スキルやキャリアを上げることを優先して考えるなら、周囲と融和することは二の次、三の次になるでしょう。このようにして、特にジェネレーションギャップが大きくなってきたのではないでしょうか。
 以前は、職場でも、打ち上げ、納め会などと称して、酒を飲み交わす場面が多々ありました。それが、近年、職場や公の場での飲酒を慎む傾向が強くなってきました。飲酒運転防止などを考えれば妥当なことでしょう。嫌煙権同様、嫌酒権だって行使してよいはずです。そうした社会全体の認識も、職場の人と酒を飲む機会を減少させているのかと思います。
 付き合い方が変わってきたというのは簡単ですが、職場の人たちと酒を飲むことにメリットはないのでしょうか。それが担ってきたよい面にも目を向けて考える必要があると思いました。


回転すし考

2008-11-14 03:22:29 | コラム
 手軽に寿司を味わうのに回転寿司を利用されている方は多いと思います。回転寿司は、海外にも進出しているようで、今や国際的な食文化と言えるかもしれません。それにしても、寿司を回転させるというアイデアは、考えてみれば非常にユニークかつ合理的で、素晴らしいものだと改めて感心させられます。
 海辺の町に生まれ育った私は、長らく回転寿司を敬遠していました。「産地直送」「新鮮ネタ」などといくら言われても、慣れ親しんだ地元の寿司には及ばないはずだと信じていたのです。最近は、外食してもお米がまずいとか、極端に新鮮でないなどというものに行き当たることは、ほとんどなくなりました。それでも、寿司だけは違うだろうと考えていたのです。
 私には、帰省するとよく行く寿司屋があります。路地の中の小さな店で、カウンターしかありません。店主は、儲けようなどという下心の感じられない人で、独り身の気楽さが漂っています。60代かとお見受けしますが、いつ辞めても不思議ではない感じです。実際、数年前にネタを入れておくガラスの冷蔵庫が壊れたときには、辞めそうな勢いでしたが、折よく中古で完動品が手に入ったので閉店を免れました。店主が野球放送を見始めた頃、常連さんで賑わう以前の時間にお邪魔し、好きなネタと日本酒を飲んで、客が2組くらい来たところで退散するのが、私のパターンです。
 しかし、この数年は回転寿司に行く機会が増えました。値段と味をはかりにかけて、納得できると思ったからです。最近行った「すしお○ど」というチェーン店には感心しました。すべての皿が百円で、かなり旨いのです。その理由は、上等なネタを扱っていないことにあるのではないかと睨みました。あまり出ない高級ネタを入れない分だけ、全体のコストが抑えられたのではないでしょうか。
 築地あたりに行けば、何を食べても確かに旨いですが、いつも行けるわけではありません。回転寿司に行くことの方が多くなるでしょうが、いろいろなチェーン店を食べ歩くのも面白いかもしれません。意外な発見があります。
 

グリーンフラッシュ

2008-11-11 22:30:37 | コラム
 夕日や朝日が赤い理由をご存じですか。
 太陽光線が地球の大気中を通過する際、朝夕は昼と比べて通過する大気の層が厚くなるため、青色光のような波長の短い光線は途中で散乱・吸収されて届かず、波長の長い赤色光の方が多く地上に到達するというのが一般的な理由です。
 ところが、この理論によれば、朝日も夕日も同じように赤いはずですが、実際はそうではありません。夕日がより赤いのはどうしてでしょうか。
 朝焼けの地点では、地球の自転方向は太陽に向いており、夕日の地点では、地球の自転方向は太陽から遠ざかっているというのが、その理由のようです。つまり、ドップラー効果によれば、近づくときに波長は短くなり、遠ざかるときに長くなりますが、それを光で言えば、夕日の地点では太陽が遠ざかっていくので、波長が長くなり、赤くなるというわけです。
 今日、そんなことを調べていて、偶然「グリーンフラッシュ」という現象に行き当たりました。それは、日没時に、地平線や水平線に一瞬だけ現れる緑色の光のことを言うようです。気象条件に恵まれたときにしか見ることができず、これを見た者は幸福になれるという伝説さえあるようです。
 日が傾いて、青色光は空に散乱し、屈折の大きな赤色光が地平線や水平線に遮られて届かなくなったとき、スペクトルの真ん中あたりにある緑色の光が一瞬だけ見えるというのがグリーンフラッシュの正体のようです。
 そんなものがあるのかと感心しました。中高生の頃、自転車で夕日見物に出かけるのが私の日課でしたが、水平線に走る緑色の光など、一度も見たことがありません。やはり、私は・・・・・・と思わずにはいられませんでした。
 それにしても、学生時代の夕日は見事なほど真っ赤でした。すべてのものを染め上げると言ってもよいほどでした。しかし、近年は、そんな夕日を見ることが全くなくなりました。これも温暖化のせいなのでしょうか。
 

デベソ

2008-11-08 21:56:46 | コラム
 デベソというものがどういうものなのか、正直よくわかりません。凹んでいるべきヘソの穴が、あまり凹んでいないということならば、デベソの人はかなり多いでしょう。
 私は、正真正銘のデベソでした。ヘソの穴の部分にパチンコ玉大のデベソがついていたのです。それは、人に知られてはならない重大な秘密でした。それによって、私は他人と風呂に入ることもなく、身体検査や水泳のときにも、パンツをたくし上げて、ヘソを覆っていました。いつかばれるのではないかと思いながら、幼い私は常に不安で、心の安まることがありませんでした。
 ある時、友人が遊びに来ていたとき、母が近所のおばさんに私のヘソの話をしてしまいました。それを聞いていた友人は、私の顔を覗き込みました。私はわざと陽気に振る舞おうと考え、とっさに服をまくって自分のヘソを友人に見せました。
 翌日、学校で話題になったことは言うまでもありません。そのときのことはよく覚えていませんが、しばらくたって、私は手術を受けてヘソをとりました。小学校4年生くらいのことだったと思います。手術といっても大それたものではなく、数分で終わる程度のものでした。医師がメスで球状のヘソを切開してみると、中には白い脂肪が詰まっていました。出産時にヘソの緒を切るときに、少し残ってしまい、そこに脂肪が溜まったのだろうということでした。
 私は、そこで初めてせいせいとした気持ちになれました。いつも暗雲のようなものに覆われていたのが、ようやく晴れた気分でした。それでも、デベソは私の性格形成に大きく影響したと思います。内向的で、多少歪んだ性格は、デベソのせいだったのではないかと今でも疑っています。
 世のお母様方、子供は傷つきやすく、その傷は長く癒えないものです。すぐに直せるような欠陥があれば、早急に直してあげてください。経験者からのお願いです。

別れの作法

2008-11-06 22:11:00 | コラム
 駅前で往来を眺めていると、車で乗り付けて、駅へ向かう人を見ます。おそらく近郊に住んでいる人で、家人が車で送って来るのでしょう。そういう人達を何例か見ていると、面白いことに気づきます。車から降りた人はまっすぐに駅の入口を目指して歩いて行き、ロータリーを走り去る車を見送る人はおろか、一顧だにしない人がほとんどだということです。降りる直前には、「ありがとう」とか「じゃあね」などと言葉を交わしていることとは思いますが、何とも淋しい光景のような気がしてなりません。
 別れの挨拶「さようなら」は、「時間が来たのでお名残は惜しいですが、それではおいとまいたします」というニュアンスでしょう。後ろ髪を引かれる思いを残しながら、しかたなく帰るという感じです。英語の「GOD-BY」のように、突き放したような表現ではありません。
 忙しい朝の時間帯であることはわかりますが、もう少し気持ちを伝え合ってもよいのではないかと思います。人の背中には、意外に表情があって、別れてほっとしたという解放感を表していたり、別れる前までにこやかだったのと裏腹にムッとしていたりと、心中を表しているようです。背中を見送るのも、貴重なコミュニケーションと言えるかもしれません。
ちなみに、私は、別れてからも相手の姿が見えなくなるまでしつこく見送っているタイプで、これもちょっと相手に負担をかけるのではないかと考え、やりすぎかと気になっているところです。もっとも、そうやって背中を見送るような相手も数少なくなってしまいましたが。

沈黙の美学

2008-11-05 22:33:57 | コラム
 国際化というと、英語力や世界情勢に通じていることなどを連想しがちですが、私はそうは思いません。世界の人々に向かって、日本や日本文化を語れることが、国際化の第一歩だと思います。相互理解のためには、相手を知るだけでなく、自分を知ってもらうことも必要だからです。
 12月14日には早いですが、忠臣蔵は、歌舞伎や錦絵、映画などで繰り返し描かれ、日本人には実に馴染み深い事件が題材です。それでは、どういう点が、日本人を惹きつけてやまないのでしょうか?
 忠臣蔵には、好きな場面が三つあります。一つ目は南部坂雪の別れのシーンです。討ち入り報告のため、浅野内匠頭の未亡人瑤泉院を訪ねた大石内蔵助でしたが、間者に気づき、仇討ちを切り出せないままに、心の中でのみ暇乞いをします。期待が裏切られた瑤泉院は激怒して内蔵助をなじりますが、後に、仏壇に上げられた連判状に気づき、涙ながらに、ひとり、内蔵助に詫び、また、感謝するのです。
 次は、赤垣徳利の別れの場面。赤穂浪士の一人、赤垣源三が、世話になった兄を訪ねますが、あいにく兄は留守で、折り合いの悪い義姉に冷遇されます。それでも源三は上がり込んで、兄の着物を壁に掛け、別れの酒を酌み交わすのです。兄の着物を前に「それではご返杯」などと一人酒を飲む源三の姿に、歌舞伎ファンはしびれるのでしょう。
 最後は、討ち入り前日、大高源吾が両国橋の上で、蕉門十哲とうたわれた宝井其角に出会い、師匠其角の「年の瀬や 水の流れと人の身は」という発句に、源吾が「明日待たるる その宝船」とつけて別れたというエピソードです。翌日、討ち入りの報に接して、其角は遅ればせに、その本当の意味に気づくのです。
 いずれにも共通するのは、沈黙の美学です。当事者が、最初から周囲に真実を告げていれば、これらの話は面白くも何ともないでしょう。事実を伏せ、それが後日自ずから明らかとなり、残された人が、その真意に気づいて涙するという構図が、劇的な余韻を醸し出しているのです。『風姿花伝』の説く「秘すれば花」という王道を行く構図でしょう。水戸黄門の印籠後出しの痛快さとは似て非なるものだと思います。
 ここにあるのは信頼です。たとえ、その場は沈黙によって誤解を受けるようなことになっても、信念に殉ずるが故にやむを得ないという覚悟もありましょうが、それよりも、やがて、真実に気づいてもらえるという信頼、これが、忠臣蔵の構図を支えている屋台骨でありましょう。
 不言実行が死語となった現代、そうした信頼も薄れてきたのだろうと思います。しかし、私は、やはり赤穂の義士たちはカッコいいと思いますし、その潔さや謙虚さが、日本人のベースになったことは、忘れてはならないと思います。日本人の心、これを発信できることが、私達が国際化のために出来る最初の一歩でしょう。

ネコに教えられた「私」

2008-11-03 22:19:30 | コラム
 私が物心着いた頃から、家にはネコがいました。愛玩用というよりネズミを捕る役割を期待された実用的なペットでした。
 飼うのがオスばかりだったせいか、ほとんどのネコは姉になついて、子供の私を敬遠しているようでした。それでもときどき布団に入ってきたりすると、うれしくてたまらず、ネコが起きないようにと子供心にも気を遣って、こちらは緊張して身じろぎもしないなどということがままありました。しかし、そういうときでも、ネコはすぐに布団から出て行ってしまい、幼い私を落胆させました。
 ネコは私が気を遣いすぎるので居心地が悪くなるのだろうと幼心に結論を出し、自分は他人とうまくやっていけない性格なのではないか、愛情を受け容れてもらえない人間なのではないかと悩んだような記憶があります。そして、そのような不安が的中したような半生を送ってしまいました。
 今思えば、私はネコに自身の性格を教えられたのかもしれません。
 
 

幼なじみの思い出は

2008-10-30 21:50:07 | コラム
 私の家のすぐ前の借家に、同級生の姉と、その弟が住んでいました。今から数十年も前の話です。
 末っ子の私は、弟が可愛くて、路地裏でよくキャッチボールや三角ベースをして遊びました。それが原因か、彼は高校球児を目指しましたが、ご多分に漏れず甲子園の夢は果たせず、家業を継ぐため、丁稚奉公に出ていました。
 同級生の姉に、私は淡い思いを抱いていました。彼女は高校を出ると、地元の一流企業へ就職、横文字の職業の男性と結婚して一児をもうけた後に離婚、その後、かなり年上の工員さんと再婚していました。
 二人に最後に会ったのは、母親の後追い自殺をした父親の初盆だったと思います。とても暑い日でした。彼女は身重で、私を歓待してくれました。彼女に、昔通りに「ちゃん」付けで呼ばれるのは、照れくさくもありうれしくもありました。壁にかかった浴衣を目にすると、幼い日に、土手の上で一緒に花火をしていた姿が、懐かしく浮かんできました。娘さんの聡明そうな顔立ちにも、彼女の幼い日の面影が見て取れました。不意に胸が詰まって、息苦しいほどでした。弟は、上京する決意を話してくれました。困ったことがあったら訪ねて欲しいと言った私に、彼も昔と同じ、無邪気な笑い顔を見せてくれました。
 その数ヶ月後、二回も首吊りのあった借家は取り壊され、姉弟は故郷を離れたと聞きました。その後は消息も知れませんが、きっと二人とも幸福になっていると思います。
 不幸ぶっては、同情を誘おうとブログまで始めた私ですが、幼なじみの姉弟は、私より数倍も不幸だったでしょう。それを乗り越えて、たくましく生きていたのです。
 今朝の通勤途上で、なぜかしら二人のことを思い出しました。あの最後に会った夏の日と同じように、胸が押しつぶされるようでした。

リンゴに見る時代

2008-10-27 22:41:19 | コラム
 スーパーの果物売り場で「鴇」という品種のリンゴを発見しました。王林よりも薄いモスグリーンの表面は、肌理が細かく、つややかな印象。そこに、スポットライトを当てたように、ほんの一部分ほのかに浮かび出した薄桃色は、銘柄が示すように、確かに鴇色でした。その色の慎ましさというか、上品な色合いは、何か幻想的ですらあるようでした。
 購入して帰宅したことは言うまでもありません。長い時間、その優美な鴇色を楽しんだ後、いよいよ味わってみました。正直なところ、王朝の雅を感じさせる色合いだけで満足してしまい、味の方はまったく期待していませんでした。
 ところが、です。歯触りや食感は間違いなくリンゴのものですが、その味は、従来のリンゴではありません。パッションフルーツのような風味と形容したらよいでしょうか、爽やかさの中に、南国の香りをわずかに漂わせるような、今までに味わったことのない、不思議な味でした。上質なワインに、リキュールを一滴垂らせば、こんな味がでるのではないか、私はうっとりと異国情緒に浸っていたように思います。一言で言えば、近来、経験したことのない旨さでした。
 遙か昔、長野に旅したときに、道路脇で地元の農家がリンゴを売っていました。そのとき、リンゴを買ったサービスにと、「世界一」という品種のリンゴを1個頂きました。私は小学生。初めて見る「世界一」は、とても大きく立派なリンゴでした。家に帰って、すぐに食べてみました。ぱさついていて、大味な印象でした。少し見かけ倒しのように思いました。高度経済成長の時代、大きいことはいいことでした。「世界一」は、あの時代の産物だったのだと思います。
 今年は、佐渡のトキが自然に帰されました。ニッポニア・ニッポンという学名を戴くトキですが、日本産は絶滅し、中国から送られたトキを苦労して繁殖させて、遂に放鳥まで漕ぎ着けたのです。佐渡の空を舞っているトキにも、ほのかな鴇色が射しているのでしょうか。
 「鴇」という品種のリンゴは、その色合いの繊細さといい、エキゾチックな味わいといい、申し分ありません。味覚という分野で、もう刺激的な感動はないものかと半ば失望していた私にとって、この「鴇」は時代の寵児となりうるニューフェースだと確信されます。