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観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

追悼 阪神淡路大震災

2009-01-17 14:33:32 | コラム
 阪神淡路大震災が起こったあの日、朝のニュースで聞いた第一報は、垂れ下がった電線に自転車の女性が触れて感電したというものだったと記憶しています。
 何が起こったのかもわからないまま出勤し、事態の大きさを知ったのは、昼過ぎにテレビで煙の上がる神戸の街が映し出されているのを見たときでした。国内で起こった事件なのに、全容はなかなかつかめず、情報も錯綜しました。あとになって、危機管理の甘さが指摘されましたが、想定外の災害だったと言えるでしょう。
 多くの尊い人命が失われました。子供や老人の区別なく死に追いやられた点は、天災か人災かの違いだけで、戦争に似ています。ガザの空爆では千人以上が犠牲になっているそうです。どちらの情景を思い浮かべても、瓦礫の下で息絶えていった人々が思われて胸が締め付けられます。
 数日前の新聞や今日のTVニュースで、ある家族が取り上げられていました。ご夫婦は震災で二人の子供を亡くされました。震災後生まれたお子さんが、亡くなったお兄さんのランドセルを担いで通学しているということです。受け継がれていくものはランドセルだけでなく、家族の心や愛情だと感じました。
 毎年、TVで映し出される式典には、涙を拭う遺族の姿があります。神戸の街は復興しましたが、愛する家族を失った悲しみは、消えることがないのだと思い知らされます。

身近な自然を見直そう

2009-01-14 15:14:09 | コラム
 私の住む町は、都下でありながら遊水池や二つの川が流れるのどかな風景が残っています。川はそれほど大きくはありませんが、かなり澄んだ清流で、流れも速く、見ていて楽しいものです。
 先日、自転車で久しぶりに川べりの道を走りました。ジョギングしたり散策する方と多く出会いました。洲になった場所では、カモが飛来しており、パンくずなのか、餌をもらって、人の足下まで集まっているのを見ました。サークルを作って観察している人もいるようで、「今日はカルガモが少ない」とか、種類についても複数確認されているようでした。しばらく行くと、大きな鯉が悠然と泳いでいる姿も見られました。
 さらに行くと、中年の女性に声をかけられました。指さす方向には、意外なほど大きく、富士が雪を被った姿を見せていました。
 こうした川を埋め立てる動きがあり、一部では工事が行われています。どうして、このような自然を破壊するのか、せっかくの町の特徴を簡単になくしてしまうのか、行政はなぜ市民の声を聞こうとしないのか、私にはまったく理解できません。こうした小さな自然を守ることすらできない政治に、環境問題の解決など期待できるはずがありません。自然に優しい町が、人にも優しい町なのだということを、もう一度考えて欲しいと思いました。

地域の古老の話を聞く

2009-01-14 00:53:56 | コラム
 私は現在の住所に引っ越してきて4年足らずで、地域のことをほとんど知りません。「多生の縁」を得た者として、機会があればいろいろ知りたいと思っていました。今回、手紙でお誘いをいただいて、地域に長くお暮らしの方が、お話しをなさるという催しがあると知り、参加しました。
 地区の公民館に集まったのは、ご老人が20名ほど。私は一番若かったかもしれません。講演者の方は87歳ということでしたが、かくしゃくとなさっており、2時間ほどのお話も有意義なものでした。私が期待したような地域の歴史といったお話はありませんでしたが、戦前戦後の話題を語れる方は多くないのだと言うことを実感しました。それは、私から見れば、かなり高齢の方が「私どもにはわからない戦前戦中の世相を聞いておきたい」と発言されたことからも強く感じました。
 講演者の方は「田母神氏のような思想で自衛隊のトップが固まっていることが怖い」とおっしゃいましたが、「失政に対して反抗する人が多いことが救いだ」とおっしゃっていました。また、いろいろと批判される現代の若者に対しても「厳しい社会状況の中で生きた勉強をしている」と語って、温かい視線を感じました。
 核家族化の中で、おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞く機会がない人がほとんどだと思います。今回、高齢の方から、ご自分の体験談を親しくお話いただいたことは大変有意義でした。多くの地区で、このような催しが開かれ、若い方々も参加されるとよいと感じました。

リニューアル

2009-01-12 22:14:34 | コラム
 正月に帰省した際、実家のパソコンを借りてブログを更新していました。ちょうど1年前の正月に私が選んだ機械で、とにかく安くというスポンサーの依頼で、ディスクトップです。当時は、今話題の小型で安価なノート型パソコンはまだありませんでした。ミドルタワーといったサイズで、CPUにはインテルのCORE2DUOを積んでいました。私の愛機はノートでpentiumMを積んだマシンですが、やはりはるかに速い印象を受けました。CRTにはNECの17インチをチョイスしました。安価でしたので、それほどの解像度でもなかろうと馬鹿にしていましたが、今回、ブログのプロフィールに貼った写真を見て驚きました。私のマシンでは、解像度も落としてありますし、実際によく見えなかったのに、実家のNECのディスプレイでは、写真が非常に鮮明に映っていたのです。不純な動機で作ったブログですので、多少は雰囲気をつかんでもらった方がよいだろうと考えて写真を載せていましたが、こんなにはっきり映るとは思っていませんでした。期待するような反響がないこともわかってきましので、今回、プロフィール写真を変更することにしました。
 この仮面は、7~8年ほど前、上野の国立博物館だったと思いますが、南米の発掘品を展示した展覧会の会場で買ったものです。安価だったこともあり、珍しく、一目で気に入って購入しました。水色に白の水玉と、オレンジ色と黒のアクセントが強烈な仮面です。所々に描かれた深紅の円には、中心に点が描かれており、魂を象徴的に表現したもののような気がします。興味のない方には気味の悪い仮面でしょう。でも、仮面に関心のある方には、なかなか興味深い面だと思います。私自身、仮面が好きで、自ら変人だという自覚がありますので、何となく共通点があるかもしれないと思い、この仮面をプロフィールとしました。ついでなので、仮面と同時に買った素焼きの笛の写真も今回アップしました。こちらは、シンプルで明るい印象です。
 サイトオーナーの写真は小さくて見えないだろうと思うので、残しておくことにします。また、どこかで見てみてマズイと思ったら替えることにします。
 

トイレの貼り紙

2009-01-10 22:56:45 | コラム
 最近は出先でトイレに入ると「いつもきれいにご使用いただいてありがとうございます」といった貼り紙が目立ちます。本当は「きれいにご使用願います」「トイレの美化にご協力ください」と言いたいところなのでしょうが、角が立つ表現を避けて、間接的な言い方にしているわけでしょう。私などに言わせれば、ストレートに利用者に訴えてもまったく不都合はなく、媚びた婉曲な言い方をするよりもかえって気持ちがよいように思います。
 半年ほど前、路線バスに乗っていると、二車線の直線道路で接触事故があったようでした。バスの運転手さんと先方の若者との間で言い争いが始まり、バスは5~10分程止まりました。ドアミラーを擦った程度の接触だったらしく、結局、最後は、バスの運転手さんが謝罪し、若者が罵詈雑言を吐いて終わりました。バスが動き始めると、初老の男性が二人ほど、バスが遅れたのだから事情を説明しろと言って、運転手さんに強い語調で迫りました。私達乗客は、窓から双方のやりとりを見ていましたし、声も聞き取ることができました。何があったのか、一目瞭然です。それなのに、何を今さら説明しろと言うのか、私には真意がわかりませんでした。あとで思えば、あのような人達をクレイマーと言うのでしょう。
 アメリカは、煙草で健康を損ねた人が訴訟を起こせば勝つ国です。自己責任が言われる本家のような国で、奇妙な気がします。グローバル化という言葉で、アメリカ化が進む現在、日本もますますアメリカナイズされているように思いました。それを考えれば、トイレの貼り紙くらいは、日本らしいことなかれ主義だと笑ってすませられる気がします。 

「かなしい」と「かわいい」

2009-01-08 22:30:08 | コラム
 1904年(明治37年)夏、東京美術学校を卒業したばかりの青木繁は、恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良(めら)に滞在した。代表作で重要文化財の『海の幸』はこの時に描かれたものである。1905年(明治38年)8月、たねとの間に幸彦(後の尺八奏者福田蘭堂)が誕生した。この前後が繁の短い絶頂期であった。1907年(明治40年)8月、郷里の父の危篤の知らせを聞いた繁は単身帰郷、そのまま九州を放浪する生活に入り、1911年(明治44年)3月、28歳の若さで病没した。
 「海の幸」もそうだが、青木繁の作品は未完成といった趣のものが多い。レオナルド・ダビンチと比較される由縁である。そうした中で、私がかつて感銘を受けた「幸彦像」という小品は、利発そうな息子を愛情を込めて描いた秀作だった。息子の健やかな成長を見守る若き父の目線を感じて印象深い。
 1908年、野口雨情は妻のひろとの間に、長女みどりをもうけた。愛らしい赤ん坊であったが、産まれてわずか7日目に死んだ。雨情もその後何人かの子供を授かっているが、長女の死を後々まで悔やんでいたという。「シャボン玉」の歌詞は、少女たちがシャボン玉で遊んでいるのを見た雨情が、娘が生きていれば同年代かと思いながら書いた詩だとも言われている。有名な逸話である。
   シャボン玉消えた/飛ばずに消えた/産まれてすぐに/こはれて消えた
   風、風、吹くな/シャボン玉飛ばそ
 雨情の心情を思いながら歌えば、「風、風、吹くな」というフレーズは切ない。
 1934年(昭和9年)、中原中也には、前年結婚した上野孝子との間に長男文也が生まれ、年末には、処女詩集『山羊の歌』が刊行された。 しかし、1936年(昭和11年) 11月、文也が死去。子供の死にショックを受けた中也は、精神が不安定となり、入院生活を送ることになる。12月、次男愛雅が生まれたものの、翌年、 結核性脳膜炎を発症して30歳で死去した。さらに翌年には次男愛雅も死去している。
 湯田温泉にある中也の記念館には、文也を失った深い悲しみを綴った手記と解説があったように思う。
 形容詞「かなし」は「情愛が痛切で胸が詰まる感じ」を意味する。そこから、かわいがる意の動詞「かなしうす」「かなしくす」、かわいいと思う、悲しく思う意の「かなしがる」「かなしむ」などが派生した。幼い子どもを見ていると、なぜか悲しくなる。それは私だけの感情ではないようだ。 

秘められたメカニズム

2009-01-07 16:07:27 | コラム
 かなり以前にラジオでこんなことを聴きました。
 人間の側頭葉にシルビウス裂という深い皺があり、そこに脳死がプログラムされているというのです。シルビウス裂を電気で刺激すると、体外離脱、神を見る、死んだ家族を見る、音楽を聞く、天国を見るなどの反応があるのだそうです。どうやら、臨終が近い状態、例えば呼吸が浅くなったり脈が減ったり体温が低下したりすると、このシルビウス裂が刺激され、死を迎えようとする人にさまざまな幻影を見せるということになりそうです。そうした幻影を見て、人は苦しい中にも多少安堵しながら、あの世へ旅立っていくのではないでしょうか。
 私は、この話を聞いて、人間がなぜシルビウス裂を持つようになったのかを考えずにはいられませんでした。死の恐怖や苦痛を和らげるためのメカニズムまで脳にはプログラムされているのかという驚き。脳というものは、まったく宇宙としか言いようのない程、広大にして深淵であり、未知なものだと感じました。そうした脳のメカニズムを人間に与えた存在を考えるとすれば、神というものを想定することしかできないのかもしれません。
 しかし、そうした人智の及ばない世界のことを考えるよりは、私達はこのように素晴らしいメカニズムまで取り込まれた脳を持つ存在として、自分の生を粗末にしてはならないということを述べたいと思います。誰もが明るい未来を思い描けないような社会になってしまいましたが、それに立ち向かう誇りや勇気を持ちたいものです。
 写真はあまり関係ありませんが、京都の不退寺門前で撮ったものです。

 
 

霊の存在をどう思いますか?

2009-01-07 06:06:45 | コラム
 私は霊の存在について半信半疑です。幼少の頃に体験した「こっくりさん」を思い出すと、霊は存在すると言えますし、普通に考えれば存在しないと思っています。仏教的には、釈尊は霊の存在を否定したと言えると思います。これについては、またの機会に書かせてください。
 私は、幽霊を見るなど、霊的な体験をしたことはほとんどありません。唯一思い出せるのは、数年前、引越をしていた最中のことです。家財の整理や運搬で、丸三日にわたって徹夜の作業をしました。その三日目くらいになったときです。夜、作業をしていると、マンションの壁を隔てて話し声が聞こえるようになりました。いくら静かな深夜とはいえ、厚いコンクリートを通して、人の話し声がするということは、普通に考えればまずありえません。しかし、そのときには、ぼそぼそと老いた男女の声が聞こえるのです。同様に、車の運転中に、後ろから走ってきたバイクがあり、ラジカセでも積んでいたのか、音楽がだんだん大きくなり、追い越されてからは徐々に小さくなっていく過程が、旋律とともに明瞭に聞こえました。耳だけでなく目でも見えるものがあって、駐車場に人があふれるほど集まって、集会のようなことをしている様をはっきりと見たことがありました。深夜の駐車場のことです。
 疲労による幻聴・幻覚と言えばそれまでですし、そうでないと言い張るつもりもありません。ただ、私にとっての真実と言うまでです。疲労によって精神が研ぎ澄まされると、第六感のようなものが、そのときだけ得られるのかもしれないと思います。宗教的な三昧の境地とは、これに似ているのかもしれないという推測はできました。まあ、得難い体験だったかなと思います。
 死別した人を思い出すようなとき、霊の存在を信じていれば、楽になれると思います。でも、それは幻想だという気持ちが強い私です。皆さんは、似たような体験がおありですか?

独楽

2009-01-05 14:21:14 | コラム
 「独楽」というのは、どうして「独楽」と書くのでしょうか? 一人で回しても楽しい物ではないと思います。独楽自体は、一つで回っていますが、ベーゴマなら相手がいるわけだし、演芸で使われる場合でも観客が見ています。どうして「独楽」なのか、疑問に感じた人も少なくないでしょう。
 正月の風物詩としては、独楽、凧、羽子板などがありますが、実際に、正月だからと言って、それで遊ぶ人も多くはないでしょう。私は、親戚の家で百人一首をやったくらいでしょうか。「独楽」はベーゴマでしたので、正月に遊んだわけではありません。小学校の頃に流行った時期があって、駄菓子屋でも売り出したので、皆競って買ったものです。かなり集めた記憶がありますが、今は一つも残っていません。
 昔、ある女性から、こんなことを教えてもらいました。万葉仮名では「恋」のことを「孤悲」と書くのだそうです。「恋」に「ひとり悲しむ」という字をあてたのですね。古人の感覚に脱帽です。体験から字をあてたのでしょうね。現代の若い世代の諸君に、こんな話をしても通じるでしょうか。ケータイ世代に「ひとり悲しむ」のが「恋」だと言っても、理解してもらえないような気がします。
 「ひとり楽しむ」よりは「ひとり悲しむ」ほうがいいなあ。ひとりでは楽しめません。でも、ひとりで悲しむには相手が必要です。結局、それが課題ですね。

冬の遊び

2009-01-04 17:28:07 | コラム
 穏やかな三が日が過ぎました。年が明けてから、まだ外へ出ていませんが、家にいても寒さを感じることがありません。
 子供の頃、雪のない正月というのは珍しかったと思います。数センチ程度の積雪は毎年ありました。
 私が一番印象に残っている雪の遊びは「レンガ」とか「デンカ」とか言っていたものです。どちらだったのか、よく覚えていませんし、ひょっとしたら正式な名前はなかったかもしれません。
 まず、ツララを折って芯を作り、足で雪の上を転がしながら、ソフトボール大の球を作ります。コンクリートか圧雪の上で、ときおり土なども混入させながら、靴の裏に全体重をかけて、とにかく堅く作ります。それを数人が持ち寄って、ぶつけ合い、最後まで壊れずに残ったものが勝者となります。ぶつけ合うと言っても、下に置いた相手の球に、自分の球をぶつけるだけの、大変単純なゲームです。雪合戦や雪だるま作り、雪兎作り、小さなかまくら作り、スキーやそりの真似事など、いろいろな遊びはありましたが、私は、これが一番好きでした。牡丹雪が降り続く中で、長い時間をかけて黙々と球を作っている様子を懐かしく思い出します。
 この遊びは、雪の降る他の地方にもあるでしょうか? あるとしたら、何という名称ですか? ずっと気になっていたことなので、同じような遊びをしたことのある方は、ぜひご投稿ください。

年の瀬の行事

2008-12-31 12:53:00 | コラム
 以前は、大晦日と言えば、大掃除で朝から大変でした。家の外壁や窓、網戸まで、水をかけてきれいに洗い、部屋の畳まであげて、徹底的な掃除をしたものです。私も父の手伝いをさせられて、一日中動き回っていました。すべてが終わるとホッとして、風呂に入りながら、今年も一年が終わるのだなあという感慨に浸ったものです。
 現在は、両親も老いて、そんなことはまったくなくなりました。昨年は、私が大掃除の真似事をしましたが、天井のすす払いをして、掃除機をかけたり、目立つところのふき掃除をした程度でした。今年は、それもせずに新年を迎えることになりそうです。これから、神棚の準備と風呂掃除くらいはするつもりですが。
 こういった年中行事が廃れていくことは淋しいことだと思います。正月情緒が薄れていく原因のひとつでしょう。大事なものをなくしていくような気がしますが、面倒だからいいやという気持ちにも抗しがたいものがあります。
 父の仕事だった、若水を神棚に上げる儀式も、数年前から私がやっています。腰の曲がった父は、神棚に手が届かなくなってしまいました。

わかりやすいエコ

2008-12-30 08:33:59 | コラム
 年賀状を投函し、やっと肩の荷を下ろした気分です。以前は木版画などをやっていましたが、さすがに時間もなくなり、近年は専らパソコンのお世話になっています。昨年、MP-600というキャノンの複合機を買いました。コピーやスキャンなど多機能ですし、写真が実に美しくなり満足しています。ただ一つ困るのが、インク代です。既に3代目のプリンターですが、買い換えるごとにインク代があがっていきます。高性能になる分だけコストもかかるのでしょう。
 そこで利用しているのが、純正ではない互換インクです。すべてのインクタンクが入ったセットが約3400円。キャノンの純正インクより千円以上安いのではないでしょうか。品質は落ちるのかもしれませんが、素人目にはよくわからないので、問題はないと思っています。
 量販店などの店頭には、使い終わったインクタンクをリサイクルするための箱が置かれています。そこに入れたタンクがリサイクルされて安価な互換インクも実現したのではないかと思うので、私は、必ず回収箱に持っていくようにしています。スーパーでは牛乳パックの回収などをやっていますが、それは再利用されているのだろうというイメージだけで、消費者は実際の恩恵を肌で感じることが難しい気がします。そこへいくと、インクタンクの回収はリサイクル品を安価に購入できるというメリットを直接感じることができる、言ってみれば「わかりやすいエコ」になっていると思います。こうしたわかりやすいエコ活動が推進されることが急務なのではないでしょうか。

野球に夢中だった頃

2008-12-28 00:00:56 | コラム
 今日、NHKの教育テレビで「メジャー」というアニメを見ました。第何部だかの最終回ということで、何となく見てしまったのですが、自分が子供の頃に流行っていたスポコンもの(スポーツを題材として根性を鍛えるといった内容のドラマ?)とは、随分趣が違うなあと、改めて感じながら見ました。昔のものを今見たとしたら、お笑い以外の何物でもないでしょう。現代のスポコンものは、シリアスでいながらユーモアや余裕が感じられ、カッコイイものでした。
 番組を見た後、私が一番考えたのは、野球に入れ込んでいた昔のことです。アニメはもちろんフィクションですが、昔のプロ野球に、私は同様のドラマや感動を感じて夢中でした。地方ではテレビの野球中継も少なく、今のような延長放送もありません。感度の悪いラジオ放送に食い入るように聞き入っていました。文字通り、手に汗を握り、投打の一々に固唾をのみ、アナウンサーとともに声を張り上げていました。
 年齢がバレますが、王選手が頭部にデッドボールを受けて退場した後に長島選手がホームランを打った場面。実況が「静かに燃えていた長島が見事にホームラン!」と言ったときの鳥肌が立つ思い。あんな興奮がなくなって、どのくらいの年月がたつでしょう。
 あの頃の野球の魅力はどこへ行ってしまったのでしょうか。娯楽やスポーツの多様化、スター選手の不在等々、理由は様々に挙げられましょう。子供の視線から見れば、努力の尊さやチームワークの素晴らしさなどが、実感できない社会になっているのかも知れません。また、皆が主役に憧れ、バイプレーヤーがいなくなれば、ドラマは成り立ちません。私自身、草野球をやっていたので、体験的な共感もできたでしょうが、現在はサッカーなどの方が人気があって、少年野球人口が低下しているのかも知れません。以上、適当な理屈はいろいろつけられますが、当方が老いて情熱を失ったことが大きいと言えばそれまでです。
 ワクワク・ドキドキしながら、日本のプロ野球を見たい。私の切なる思いです。それをかなえるのは、意外に、こんなアニメが人気を博し、野球に対する関心が高まることかも知れません。
 

 
 

買わないという選択

2008-12-25 22:54:52 | コラム
 数年前、本郷の古本屋街を回っていたとき、ある古書店の店頭で足が止まりました。ウインドウの中には、立派とは言えない額が飾られ、中には普通の紙にペンで書かれた文章。そこには次のような言葉が書かれていました。
  「君は桜花となれ 我は梅花とならん」
 作者は尾崎行雄。東京市長や諸大臣を歴任し、90歳を過ぎても衆議院議員として活躍した人物です。「憲政の神様」「議会政治の父」とも呼ばれるそうです。
 春の主役は満開の桜でしょう。その主役を若い人に譲り、自分は春のさきがけである梅花となって、桜花を待とうという趣旨でしょう。これから社会人として旅立つ若者に、はなむけの意味で送った文章のように思われます。
 私は数日悩みましたが、それを買うことはしませんでした。2万円程度の値札がついていたように思います。買うことは出来ましたが、買ってそれで安心してしまうような気がしました。そのうち飾ろうと思いながら、どこかにしまって忘れてしまう、そういうパターンが予感されたのです。
 私の考えは奏功したように思います。かすかな未練とともに、この文章は私の中に深く刻まれ、ときどき、こうして思い起こしているからです。手に入れていたら、おそらくこんなことはなかったと思います。
 欲しくても買わないこと、その方が、その物を深く自分の物に出来るということがあるような気がします。深く関われないまま別れた異性、手に入れたら途端に熱が冷めてしまった品等、まあ、例は少ないかも知れませんが。

年賀状の憂鬱

2008-12-24 22:18:19 | コラム
 毎年、この時期になると年賀状のことを考えて憂鬱になります。誰がこんな制度を考えたのかと恨めしいばかりです。
 12月初旬の頃、亡くなったという通知を、年賀欠礼という形で知ることが多くなりました。就職当初、お世話になった方々は、すでに相当な高齢でいらっしゃるので、当然かも知れません。定年退職なさっていたり、こちらが転勤を繰り返していたりして、その後は音信不通になるケースが多く、年賀状だけで消息に触れていた方々ですので、ご逝去は年賀欠礼によるしか知り得ないのです。
 今年、遺族の方からご通知をいただいた方にEさんがいらっしゃいました。Eさんは、見かけは紳士でしたが、反骨精神が旺盛で、管理職などに正面から意見するような方でした。私は、Eさんとは職場も異なり、直接お話しするような間柄ではありませんでしたが、酒の席で、その謦咳に触れ、尊敬の念をもって年賀状をお出ししてきました。Eさんからも、毎年、律儀に賀状をいただき、いつも「今年もよろしくお願いします」と手書きされていました。私が誰だかよくわからず、無難な言葉しか書けなかったのだろうと思います。それが、今年は、すべてが手書きで、近況や感慨が綴られているのに驚きました。相変わらず、私が誰かわからない様子でしたが、親しみと感謝がこもった内容であるように感じました。誰かと勘違いされているような気もしましたが、Eさんが、そのつもりで書いていらっしゃるなら、それに合わせてお付き合いするのが、Eさんのためになるような気もしました。
 そして、先日の年賀欠礼です。その死亡通知を見たとき、昨年の賀状の意味が理解できました。癌のような病の中で余命幾ばくもないという状況だったのか、ムシの知らせでお書きになったものかはわかりませんが、ある種の覚悟が読み取れました。相手がよくわからないながら、長年年賀状を交わしてきた人間に対して、最後に残していただいた葉書。そのけじめの潔さや思いやりに、感謝せずにはいられません。たとえ人違いにせよ、です。
 最初にけなした年賀状ですが、長く続けることには、やはり意味が生まれてくるものです。今年も嫌々ながら、あと一踏ん張りすることにしましょう。ちなみに、日本郵便のHPにある「年賀郵便jp」の素材は結構使えました。