山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

やつと郵便が来てそれから熟柿のおちるだけ

2005-11-26 19:17:50 | 文化・芸術
ichibun98-1127-018-1
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<行き交う人々-ひと曼荼羅>

大阪市会議員奥野正美とのこと

 前市長関淳一の突然の辞任で出直し選挙となった大阪市長選も盛り上がりを欠いたまま明日(27日)の投票日を迎えるのみとなったが、この選挙戦を奥野正美がどういう思いで見つめてきたのか、些か複雑なものがあろうとは想像できるものの、ずいぶんと遠ざかってしまった今となっては私のよく知るところではない。彼は現在、港区選出の大阪市会議員である。会派は民主党市民連合に属し、既に5期目のベテラン議員であり、本年は会派の幹事長を務めているから、このところの関市長辞任劇による市長再選挙騒動でTVの報道番組にもちらちらと顔を出していた。私の4歳下だから昭和23年生れの57歳。いわゆる団塊の世代の真っ只中、もっとも人口過密の生れ年である。

 彼が私の眼の前に登場したのは、ほぼ40年前、彼がまだ高校三年だったと記憶する。私が劇団9人劇場を立ち上げたのはいまからちょうど40年前(65:S40)の9月だった。創立メンバーが偶々9人だったせいもあるが、9という数字は無限に通じるという意味合いもあって、師の神沢が薦めてくれたものだった。そのメンバーのなかにたったひとり、中尾哲雄というまだ現役の高校生が居た。彼は私の出身高校と同じで演劇部の4年後輩でもあった。その彼の幼馴染みであり中学時代の親しい仲間のひとりが奥野正美で、たしか劇団が二年目に入った頃のある日、中尾に連れられて稽古場にやってきたのが初対面だった。奥野もやはり高校で演劇をしているということだったが、とにかく気散じな愛嬌たっぷりの少年というのが印象に残った。

 翌年(67:S42)、彼は高校を卆えるとすぐさま9人劇場に参加した。折もおり、大阪市大の劇団「つのぶえ」から宮本研の「明治の柩」に取り組むから、助けてくれないかと演出の平塚匡君から出演依頼がきた。平塚君とは嘗ての仲間でもあったし、私が神沢主宰のActual-Art同僚時代に京都で「サロメ」(64:S39)を演った時に助っ人をして貰ったこともある。私を含め4人で出演することにしたのだが、そのうちの二人は中尾と奥野のコンビだった。二人ともフレッシュな演技ぶりで溌剌と爽やかな舞台姿であったと印象に残る。この上演は5月だったが、それで勢いづいたのだろう、それから夏にかけて、このコンビの幼馴染みというか同窓仲間というか、同年の者たちをそれこそ芋づるのように誘い合って、劇団はいちどきに賑やかになった。さて若い者たちで活気づくのはまことに結構だけれど、経験もない素人ばかりが増えたのだから、どんどん勉強させ経験を積ませなければならない。秋には早速、勉強会と称しアトリエ公演に取り組んでみたが、まあ結果は推して知るべし、散々だったとは言わぬまでも、小額とはいえ金を払ってわざわざ観に来てくれた人たちに、あまり顔を上げられる出来栄えではなかったろう。そんなことから翌年(68:S43)、私は些か思いきった手を打つことにした。9人劇場の芝居小屋と称して、毎月ペースの稽古場での試演会である。といっても上演形式をとるには金もかけられないし、素舞台での素面のままの会とし、観客にも無料とした。これを2月から始めて暮の12月まで、客席は時に数人というようなお寒いかぎりの日もあったが、とにかくやりきって計13回をこなした。この芝居小屋シリーズをとおして、集まり来たった若い仲間たちも自然に篩いにかけられたことに、結果としてなる。仲良しグループくらいの感覚ではとても続かないのは当然で、上昇意欲をもって本格的に続けていこうとする者と、青春のほんのひとときを飾った思い出の一頁として自ら幕を降ろしてゆく者とに別れゆく。もちろん中尾と奥野は主力として残り、’75(S50)年頃まではつねに主軸として活躍してくれた。彼らとの舞台で強く記憶に残るのは、私の仕事としても20代のエポックともなった’72(S47)年の「身ぶり学入門-コトバのあとさき」に尽きる。それまでの実験的な試行錯誤にとにかくもひとつの終止符を打てたものだったと今振り返ってもそう思えるものだが、その成果も彼ら二人なくしてはあり得ぬ舞台だった。

 以後は間遠になったとはいえ、それでも’83(S58)年「鎮魂と飛翔-大津皇子」の舞台では久しぶりにご登場願ったこともあった。ところがそれから三年後(‘86:S61)の秋だったが、突然我が家に訪ねてきて、市会候補として港区から立つことになったとの報告に驚かされる。この藪から棒のような展開には遡っての解説が必要だ。奥野は高校卒業の翌年、68(S43)年春に日本電信電話公社(現NTT)に入社している。この就職については私も些か関与したのである。当時、喰えもしない演劇を続けていくに身すぎ世すぎをどう立てていくかは問題だった。どんな仕事に就くか、その勤務条件のなかで活動の幅もずいぶんと左右されるものだ。そこで私は当時、高校同期のT君が電電公社(現NTT)に勤務し、全電通労組末端の分会長をしていたので、彼が宿直で局に泊りの夜に訪ねて行って、勤務内容や採用基準などいろいろと聞き合わせた上で、その年の秋の採用試験を受けてみるように奥野に勧めてみたのだ。後に民営化されNTTとなってからは、大卒エリートの難関就職先としてつねにトップクラスに君臨するのだが、昭和42.3年当時は高卒で普通よりやや上位の学力程度であれば採用されるチャンスは充分あったのである。公社に入ってからもこの気散じな愛嬌たっぷりの若者は軽快なフットワークを発揮して組合活動でもかなりの活躍をしたようだ。組合関係の青年部は20代で構成されるが、そのなかではいつのまにか頭角をあらわしやがてリーダー的存在となり、仕上げは大阪総評青年部議長にまでなっていたそうである。ところが30代になって青年部を退き、組合支部に戻ってみれば、このまだ青年臭を残したパフォーマンスの得意な若きリーダーには、それに相応しいようなポストはなかったらしく、いわば組合内部で本流から外れ冷や飯を食うような存在となっていく。以後数年間、彼自身も長い停滞期と感じる日々ではなかったか。そこへ降って湧いたような市会候補としてのご指名による打診が組織上部からあったのである。86(S62)年当時、労働組合関係は総評・同盟が連合へと再編していこうとする転換期であり、全電通(現NTT労組)を中心にした情報労連委員長山岸章がやがて連合会長へと転身して前夜である。政府与党は売上税導入を画策準備しており、自民党離れの現象も起こり国政は波乱含みであった。そんななかで山岸章らは国会議員だけではなく全国自治体に地方議員を拡大していくべしという作戦に出たのだが、そこで人受けのよい愛嬌者で大阪総評の青年議長という勲章をもつ奥野はその任に相応しいとされ、白羽の矢が立てられたというのが真相であったように思われる。 (この稿つづく)

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行き帰る果てはわが身の‥‥

2005-11-26 12:06:28 | 文化・芸術
N-040828-026-1
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-今日の独言-
引きつづき「逢ふ」談義

 白川静の字解によれば、「逢」や「峰」は形声文字だが、音符をなすのは「夆(ホウ)」である。「夆」は「夂(チ)」と「丰(ホウ)」を組み合わせた形で、夂は下向きの足あとの形で、くだるの意味がある。丰は上に伸びた木の枝の形で、その枝は神が憑(よ)りつくところであるから、神が降り、憑りつく木が夆である、という。したがって「峰」は、夆すなわち神が降臨し憑りつく木のある山、ということになるが、では「逢」はといえば、「辶」は元は「辵(チャク)」で、行くの意味があり、また中国の「説文」に、逢は「遇うなり」とあることから、「神異なもの、不思議なものにあうこと」をいう、と解している。
一方、明鏡国語辞典によると、「逢う」は会うの美的な表現で、親しい人との対面や貴重なものとの出会いの意で用いられる、とある。ところで、現在慣用的に人とあうことには「会」の字が用いられているが、またまた白川の字解によれば、「会」の旧字体「會」はごった煮を作る方法を示す字であり、むしろ元は象形文字の口の上に蓋をしている形である「合」のほうが、向き合うことであり、対座することであるから、人が会うことの意味に相応しいといえる。
これらのことを勘案するに、王朝人たちが「逢ふ」に込めた意味、しきりと歌に詠んだ意味は、今に残る「逢引」や「逢瀬」のように、特定の男女がかわす情交の意が込められた「逢ひ合ふ」ことなのだと得心がゆく。


<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<秋-42>
 貴船川玉散る瀬々の岩波に冰(こほり)をくだく秋の夜の月
                                  藤原俊成


千載集、神祇、詞書に、賀茂の社の後番の歌合せの時、月の歌とて詠める。
邦雄曰く、第四句「冰をくだく」の表現も鮮やかに、二句「玉散る」と結句「月」がきららかに響きあい、神祇・釈教歌中では稀有の秀麗な歌になっている。歌の核心は「月」、月光の、氷を思わせる硬質の、冷え冷えとした感じが、殆ど極限に近いまで見事に表現されつくした、と。


 行き帰る果てはわが身の年月を涙も秋も今日はとまらず
                                  藤原定家


拾遺愚草、員外、三十一字冠歌。定家三十四歳の秋の夜、藤原良経の命によって「あきはなほゆふまぐれこそただならぬはぎのうわかぜはぎのしもかぜ」の三十一文字による頭韻歌を制作したうちの、これは最後の歌と伝える。
邦雄曰く、三十一首、一連の末尾の作としての、涙を振り払うような潔さと、切羽つまった悲愴感が漲り人を魅してやまぬ。第四句「涙も秋も」の異質並列の離れ業は、この時期の定家の技法を象徴する、と。


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