モノと心の独り言

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ローカル・ポイント ってどうよ?

2010-07-18 07:52:36 | コミュニケーション-メディア
「消費することが生活」のような言われ方をして久しい。
「この街の情報は?」と聞くと、[新製品だ、ご当地グルメだ、雑誌で紹介された・・・」などなど、商品化され消費される対象のコトとを「情報」だと紹介し出す人が多い。
しかし、「生活が消費で、仕事が収入」だと「がむしゃら」だった時は、一段落したのでは?
「がむしゃら」、字で書けば「我武者ら」で、戦国武士の時代のことばから。
経済の時代は「我無者ら」が、「我の意志を無くして」、生産と消費をやたら増やそうとあがいている。

費用を消すのが消費、労働力を再生産するリ・クリエーション(re-creation:再生)、そして生産額、GDP(Gross Demestic Product)至上主義は、地域を越えた金融資本市場に活きているからだ。金融市場こそが、セカイの誰もが興味を持ち、期待と失望、歓びと悲しみを得る源泉なのだ? ・・・なのだろうか?
いやいや、歓びは、消費にも労働にも共通にある、伴に楽しみ、伴に動く、この伴にというところにあったのは、田植え・草刈りの農耕民族のDNAだからだろうか?いやいや狩猟民族だって、自然とのバランスのなかでガムシャラではなく、暮らしてきたはずだ。
「我無者ら」とは、我と他者との関係を失ってしまった姿。

自分・自分・自分と、自分を喜ばすとことにアガキ始めると、
面白がったり、ハマったり、オタクぶったり、フェチなポーズをしてみたり。
そのくせそれらは、語り・伝える他の人を意識したこどば。
受けたり・滑ったり、空気を読んだり、イジったり、相手との関係を基準にしている言葉なんだと、気づいてしまう。
他人の歓びを測りにかけて、検索上位、人気・ランキング・視聴率、行列の出来る・・・マスコミでとりあげられたと、基準を外おいてきたのも同じ。他人が拡がって市場社会化したゆえの言葉。

ホームページからブログ・SNS、FACEBOOK,ツイッターとつぶやいて、いつの間にやら、ケータイにぎりしめて、待ち合わせ。
結局、身近な相手が喜んでくれること、返事してくれることが大切だ!
身の届く相手、身の置ける地域が一番では?

ライフログも気をつけよう。
それでも、いつも一緒、同じ所に居るわけにいかないから、
自分一人でその手がかりを遺そうとのライフログ。
結局、他人をフォローする道具になるのか、統計資料。
相手との関わり・場所でのコトの手がかりを残して繫いでゆけかどうか?

ローカル・ポイントってどうだろう?

人と処を手がかりに、多様な人、多層なことを重ね合っている現代なのだから。

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