モノと心の独り言

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パワースポットは、身の回りに

2011-01-06 06:40:37 | 基本的なコト
年が明け、或いは年が改まり、お参りや誓いなどをしてしまう。’パワースポット’や’歴史・史跡’めぐりなどが話題になると、自然や祖先を畏敬する気持ちが戻ってきたようにも思う。しかし、西欧に開いたこの百年余をへて、’私=I’という、近代西欧の個人意識が、西欧キリスト教の神との関係を抜きにして、日本の通念となったのは、戦後復興を遂げたバブル期だったのではないだろうか?
’私’のパワーであり、’私’のエコポイントであり、個人の利得の対象として身の回り・家族・社会・自然などに対峙して、孤立してしまった。
 西欧の個人にしろ法人にしろ、私有を認め、競合を認めているのは’キリスト教の神’であって、その神を前提にした法やや制度が、国際基準を支えている。
日本の信仰を、アミニズムとか原始宗教とかということばで卑下し、殺してしまったこの百年、(私たち)は、公私の’公=社会’を失ってきたのかもしれない。この(日本)の社会:極東の僅かな資源を活かす勤勉さは、私ではなく、私たちという無意識が、日本語の主語を省いた表現に表われていた。しかし今、国際社会に活きるには、日本語ではなく米語(世界の移民を受け入れた、最小限のローマ字記号による、共通語)をブロークンに使い、米ドルを使って未来への希望と不安を金融資本市場の上で、実体経済の不安定さを、保険料を払って過ごすのだろう。
 今信じるのは、これもまた国際通貨に支えられた保険であり、現代の’神’=頼りなのだろうか? 地域間通貨と地域内通貨を共通化したのは、ベニスの商人ではなく、大英帝国の株式会社と保険制度だったのだろうか?この国際社会、異なる神々・自然を背景にもつ人々を社会をささえるのは’保険’なのか?’保険’が不安を軽減し、市場が希望をふくらせる。政策はなく市場があり、人はなく政局がある。なぜならば、社会性を失った’人’は、動物なのだから。自己保存本能で動く’私’は、関わりで活きてきた’人間’ではないのだから。その自身の活力を得るために、ガソリンスタンドに寄るように、パワースポットに時々往くのだ。願うのは’宝くじ’。寺銭を集め、管理費を除いたものを僅かな人で分ける制度。繰り返すほどに目減りしてゆくモノなのだから、未来の希望や不安まで担保に金融経済規模を膨らませてゆき続けるしかない。
 だから、自分だけちょっと良いことを願う、’私’だけがのこり、’私たち’という言葉を、’全体主義’だと遠ざけて、’ミンナそれぞれ違って良い’と、協調することを教えない。相手をたて、自分を活かすすべを知らないから、違う相手を否定するいじめを放置し、目立たないように怯えさせ、公平という進学・入社試験だけで競わせ、入った企業は市場社会でのオンリーワンを目指す。自分だけはと孤立を深め合う社会は、差別化を競う市場社会を裏から見た姿。
 では、衣食住の生存条件が満たされる国際社会がくるという希望をすてないで、さらなる’私’の欲望を満たすことは? マズローの法則のような社会学者の視点ではなくて、自身が実感する欲望の対象とは?世界のオンリーワンのモノを手にし、味わい、尊敬のされることだろうか?それは、願うことばかりが増え、不満や不安ばかりが増えるのでは?それよりは、得たことを喜ぶ感謝をためこんだらどうだろう。そこに、有り難いこと、ありがとうと言える、対象・相手がいることなのではないだろうか?パワーは、身の回りとの関係を大切に、感謝を積んでゆくことなのでは?
(年頭なのか、私も信仰を語り、文をはしょってしまった。)

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1 コメント

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保険料って (バカボンの叔父)
2011-02-08 10:44:53
この1年、公共イベントを続けていると、来場者が増えるほどに保険料金が増してしまう。イベント費用の25%を保険料に払うときまであり、保険会社も1社では負担してもらえない。
これって、なんなの!保険保証をもとめる人の首を絞めているのは、誰?世界の保険会社を牛耳っているのは何? 
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