モノと心の独り言

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フジテレビのニュースから、情報化社会の選択肢

2005-03-02 07:42:49 | コミュニケーション-メディア
六本木ヒルズも
朝の日の中でシルエット
手前の黒い塔は、青山学院初等部、
次の時代の基礎工事中。

3月1日20時56分のフジテレビのニュースは、
僅か3分ほどの枠の最初に、
「リーマンブラザースにライブドア株式取得の事情調査があった」と流れ、
次に
「裁判所の聴取があり、ライブドア、ニッポン放送、双方の言い分・・・・を聴いた」と流れた。

この日、いくつか見た他局のニュースでは、
リーマンブラザースに触れた局はなかったし、
初期の時間外買い付け、転換社債、ライブドアの資金源などの話題は、
以前放映済みであり、この時間枠に入れる重要性があるとは思えない。
このような話題の選択と順番付けが、
メディア操作の判りやすい現れの一つである。
”公共放送”という幻想を守るなら、不適切な放映だし、
”私的放送”なら、視聴者がその意図を見抜いておくべきだ。

コミュニケーションは、相手に伝達するだけでなく、
相手の行動の変容を目的とするし、
メディア組織も、大なり小なり、
自分を支えるものの意向に沿ったコミュニケーションを試みる。

内外の境界がありコントロールされる組織体である限り、
たとえそれがスポンサーや組織内人事の利害の為であろうと、
その組織生命の本能がそうさせる。
放映されている組織のために広報しているわけではない。
メディアが自己組織のための番組をつくれば、プロパガンダという範疇であり、
局からのお知らせだけでなく、ニュース・ドラマ・CM・・・
どのようにも織り込むことができる。

もう、限られた電波、占有するスポンサーが支え、
時間と伴に流される放送という概念が、
変わり始めていいのではないか?
それは、効率よい映像配信機能のTV放送局のあり方は、
もう変わっていいのではないか?


すでに、同時録画、全放送録画ができる技術・機器が普及しだしてみると、
放送の同時性・一回性・一方通行性など、視聴のあり方も変わっていい。
インターネットが、1対1から、グループへ、そしてマスへと展開してきている。
放送は、同時の、同じ地域の、同じテーマのという、
”同じ”という性格を、規模として拡大したバーチャル・ランドであり、
一方通行から双方向へと仕組みを変えつつある。
その存在価値が、視聴率だけでない時代が来ている。

今の放送局の価値はなにか?
マス・メディア番組が、バラエティー化している現状を振り返って、
そのバラエティーな癒しと、好みでザッピングする視聴生活は、
私たちの本能だと言い切っていていいのだろうか?

自分たちの組織・好み・直感などが、瞬時に動き出し、
雪崩を起し、TSUNAMIとして、広がってしまう情報化時代では、
公正を自己演出しても徒労だ。

すでに、資本の論理は、産業や金融だけではなく、
メディア資本論理へと進んでいる。
それは、メディアの速さ・広がり・深さを累積する
メディア国際市場の時代である。

ライブドアは、マネーゲームだけではなく、
ITワールド化のテクノロジーを身に付けた、
「人間が、テクノロジーと伴に、世界の一部である時代」の
申し子だろう。
ラジオとトーキーの世界大戦後、
急速に普及した今のTV・ラジオ局が、
メディアの普遍の組織体だとは思えない。
映画・音楽がパッケージ化されて、
繰り返し視聴されているのはメディア生活の他の面である。
そして、個人同士の携帯TV電話まで使われ始めると、
もう何らかの組織的中心性、そして人間的中心性を
言葉にし、共有化することは、より難しくなってゆく。

この時代は、理念とかビジョンだとか、
人間中心の世界可能性を問う基盤は、すでに人間のものではない。
宗教家・王侯貴族・市民革命家(近代経営者達)などにも、
金融資本の自己運動でも、資本家・経営者の戦略家たちにもない。
音や映像や、他のセンサー・テクノロジーの仲介により、
流動的・複雑系の世界の一部となってゆく可能性しかない。
もともと、人間が世界の主役だという思い込みは、
わずかこの1世紀そこそこのことだ。

世界の一部として、私たちは、
個々の個人・家族・仲間の小さな意志の方向に関わっている。
そこでは、自分が関わる自然・地域・人・行動を選ぶ
意志による選択肢が残っているに過ぎない。
その選択の結果は、時が示してくれる。


ps)
堀江氏と日枝氏の個人の戦いだと囃すのは、
バラエティー番組のネタでしかない。
世論調査をするのなら、他方、
ニッポン放送で働いている人たちの声を、
お得意の変換音声ででも、流したらいいのにね。



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