久々に朝鮮関連のエントリーをしたいと思います。前回は広島で被爆死した朝鮮王族・李鍝公殿下についてお話しました。今回は「大韓帝国最後の皇女・徳恵翁主」について触れてみたいと思います。
「徳恵翁主」…韓国語読みでは「トッケオンジュ」と言います。翁主と言うのは朝鮮王朝における、王の側室の生んだ娘の称号です。ちなみに正室の娘は「公主(コンジュ)」と呼びます。
徳恵翁主は1912年にソウル(京城)で、李氏朝鮮第26代国王・高宗と側室・梁貴人との間に生まれています。
この「貴人」と言うのは李朝における側室の称号であり、最高位(正一品)である「嬪」に次ぐ、従一品の称号です。その後には昭儀(正二品)、淑儀(従二品)、昭容(正三品)、淑容(従三品)、昭媛(正四品)、淑媛(従四品)の称号がありました。
但し、日韓併合条約は1910年に締結され、歴史的事実として大韓帝国は大日本帝国に併合され、国王・高宗も徳寿宮李太王と言う称号を持つ、日本の準皇族になっています。従って、この「大韓帝国最後の皇女」という呼び方は厳密には誤りです。
徳恵翁主・11歳
7歳で父・高宗を亡くした徳恵は12歳の時に渡日し、学習院に入学します。そして18歳の彼女は旧対馬藩・宗家の当主である宗武志(たけゆき)と結婚します。
宗武志(23歳) 徳恵(18歳) 美男・醜女は言い過ぎでしょうか?
この結婚は宗家も李家も反発したそうですが、経済的困窮にあった宗家にとって、李家の支援は宗家にとって大きなメリットだったようです。東京大学卒の英文学者だった武志は、徳恵を愛し夫婦仲は非常に良かったそうです。1年後には長女・正恵も誕生し幸せな時間を過ごす徳恵でしたが、先天的に患っていた「総合失調症」が徐々に現れてきます。※この一子・正恵も結婚後、強度のうつ病から失踪・自殺と哀しい運命をたどります。
戦争が終わり旧皇族は解体され、多くの皇族・貴族が経済的苦境に立たされました。李王家の王族は韓国に戻ることを許されず、国籍も日本のままでした。その状況で徳恵はついに精神病院に入院することになり、結局、李王家の申し出により1955年に離婚しています。
その後、朴正煕大統領が旧李王家の人たちの帰国事業を支援したため、1962年に韓国・ソウルに戻り、昌徳宮の楽善斎で李方子様(梨本宮方子様・旧大韓帝国・元皇太子李垠の妃)と静かに暮らし、1989年4月12日にその悲しい人生を終えました。ちなみに方子様はその月の30日に亡くなっています。
さて昨年8月に韓国で1本の映画が上映されました。題名は「徳恵翁主」です。これが↓ポスターです。
主演のソン・イェジン、美しいですね…
ポスターの右上、縦書きには「大韓帝国 最後の皇女」とあります。左側の横書きには「トラオゴ シップスニダ ウリナラ テーハンミングク」=「帰りたい、私の国 大韓民国」とあります。
韓国の歴史では徳恵は日本に無理やり連行され、故国に戻ることも出来ず、無理やり結婚させられ、その結果精神を病み…みたいに教えられています。本当にそうだったのでしょうか?(実際には純宗の葬儀にも、母・梁貴人の葬儀にも帰国しています)
徳恵は終生、何も言いませんでした。記録らしい記録も残していません。ただ幼少期の詩作には優れたものがあり、あの宮城道雄が琴で作曲した歌も伝わっています。宗武志も東大時代に北原白秋に入門するほどの詩人であり、徳恵との別離に際しその悲しみを詩に残しています。
徳恵は沈黙したままこの世を去りました。何も言わなかったからと言って、勝手に脚色して良いものでは断じてありません。何も語らずに世を去った人の思いを弄ぶようなことは断じて許されません。このあたりが韓国人は実に無頓着です。
歴史的事実として李王家の人達は準皇族の待遇を受け、十分な経済的支援を受け、東京に邸宅を構え、子女は学習院に学び、日本の皇族の慣例に従って男子は陸軍に入隊しました。これらは紛れもない歴史的事実です。
韓国の友人と徳恵翁主の話になると、いつも二人の結婚写真を見せます。(2枚目の写真です) 誰もが驚きます。徳恵の不細工さと武志のイケメンぶりにです。誤解を恐れずに言うならば、写真に残っている朝鮮王族の女性は総じて不細工です。そして近親結婚の影響からか精神疾患を病んだ人も少なくはありません。
日本と朝鮮との歴史の狭間に「徳恵翁主」という小柄な女性の「儚い人生」があったという事実を知って頂ければ望外の幸せです。(Drop!)
韓国を始めとして中国も、歴史が捻じ曲げられていますね。
先日の6月4日の天安門事件、中国ではなかったことになっていますね。
Dropさんがおっしゃる通り、徳恵さんはお世辞にもきれいとは言えないですね。
でも、映画ではおきれいな方が演じておられますね。
いつもながら、博学なDropさんには脱帽です!
ところで、当時の韓国では近親婚の危険性は認知されていなかったのでしょうか?
徳恵の韓国映画については、韓国の教育から
の根深い反日感情があることを考えれば、致し方無いことかとも思います。
私も全くDropさんの書かれている
「何も言わなかったからと言って、勝手に脚色して良いものでは断じてありません。
何も語らずに世を去った人の思いを弄ぶようなことは断じて許されません。」
に、同意します。
日本としては、大韓帝国に敬意を表し、学習院に入られたということからも、最高の待遇で徳恵を日本にお招きしたのではと?思いましたが、ご本人が、何も語らなかった、何も記録を残さなかった以上、ご本人が日本での生活を、推察で語る訳にはいきませんね。ただ、
「日本での生活、特に、宗武志との結婚生活は、幸せな日々でした。」
と思っていたということは、願いたいです。
写真も力って凄いと思います。
Dropさんが学生時代から収集している、膨大な挑戦関連の写真もいつか公開して下さいね。
朝鮮も同様で、易姓革命の伝統を持つので、前王朝・前政権は完全否定される運命にあります。
日本と朝鮮との関係については、日本人の多くも詳しくは知らず、まるで軍事力で強引に侵略し、植民地下の都と、略奪・搾取したみたいな風に考えている人も驚くほど存在します。
歴史は必ず2面性があり、双方の考えが一致することはまずありません。そこをどのように克服するかが知恵なんですが…
まぁ中東地域は、日本人からすれば訳の分からない戦いを続けていますし、同じように日本と朝鮮も理解しがたい関係であるのは間違いないです。
徳恵翁主に関しては、失礼ながらその不細工さと、ご主人のイケメンぶりがワイドショー的に面白いと思います。
日本と韓国が心からの友人になる日は、永遠に来ないと思っています。あまり残念ではありません。
全てが停滞し、凄まじい身分差別の中で両班たちは派閥争いのみに熱心で、己の閨閥つくりにばかり夢中になっていました。この状況では混信結婚の危険性は認識していてもどうしようもなかったでしょう。
今の韓国もそうですが、養子を取る場合に全くの他人から選ばず、一族から選びます。これも一族主義の名残でしょうね。
私には韓国人ホステスの知り合いが何人かいますが、彼女たちが私に一番望むものは「私の戸籍」です。もちろん
そうすることでビザの取得が容易になり、在留カードが入手でき、就労もやりやすくなります。そしてあわよくば日本国籍を入手したいと言います。
「日本が戦争に負けなかったら貴方も今頃は日本人なのに」と冗談を言っています。
李王家は1910年前後、どうしようもない状況に陥っていました。清国・ロシア・日本から圧力を受け、いずれを頼るべきか? 今の状況と極似していますね。
米国か中国か、そして北朝鮮は中国からロシアに乗り換えようとしている…
その状況で日本の決断=朝鮮を併合する、は渡りに船だったことでしょう。
私が初めてソウルに行ったとき、昌徳宮に方子様も徳恵もまだ存命でした。長い時間、何も言わずにお暮らしでした。
状況から判断すれば、徳恵は幸せだったと思っています。それだけにこんな映画を作る韓国人の無神経さ、無頓着さに腹立たしい思いがします。
中国は南京事件の証拠だとか言って、嘘の写真を提示していますし、韓国も強制労働の証拠だと言って「米兵」の写った写真を公開しています。
本当に懲りない人たちです。
徳恵と武志の結婚写真1枚でも色々と想像が可能です。
そしてなんとは無く真実が見えてきそうな気がします。
写真の持つ力に、今更ながら驚かされています。
統合失調症は、生得的な要因と環境要因などのその他の要因とが重なって発症に至るようにです。
このような特異な環境がどれくらい影響していたのかと思います。
日韓関係の修復が期待される今、これまでの日韓の歴史を、解釈の違いはあるにせよ、正しく把握することは双方にとって大事なことと改めて感じました。