セカンドライフ 

歳を重ねるのも悪くはない

8月31日

2010-08-31 | セカンドライフ
暑い暑いと念仏の様に唱えながら今年の8月はその儘9月へ突入。
人間が地球を粗末にして生活をして来たので、まるでお仕置きをされている様で、
そう反省を促されている様でも有る。

天候は全て観測史上初めてを更新中~~今週も深夜も気温の下がらぬ、夜が続くのだろうか。
緑が少なく一度上がった気温が逃げ場がなく、朝まで街の中を彷徨っている。
緑の多い田舎に帰ると夜は夜でしっかり気温が下がる。

東京はコンクリートで囲まれているんだもの当り前の現象で、大きいビルも思いっ切り
冷房を効かせ外気に拍車をかけている。

悪循環はいつまで続くのだろうか?こんな夏が来るなんて思いもしなかったが、専門家は
当然予想された事ですって・・・・エッ?
何のために専門家がいるの?地震予報官と似た様な事をおっしゃる。

事前告知が出来、未然に防ぐから専門家じゃないの?納得出来ない。
地震だって「今に、今に」東海地方と言われ何十年経つの?
大地震が起きてから「ここは大地震が起きても当然の●○プレートでして、云々」結果を研究
するのも専門家と言わなくもないが・・・・・

明日は、防災の日でうちの前の公園でも町会で予備演習をしている。
どうか暫くの間は穏やかな日が過ごせますように・・・・・。


 
   千葉県・鴨川市【大山千枚田】

 大型バスで沢山の観光客が見えていました。

☆ 御 礼 ☆

2010-08-31 | セカンドライフ
 この度は、私事でしたが、皆様に慰めのお言葉や、励ましのお言葉を沢山頂戴致しました。
 お電話・はがき・お手紙・メールそのどれもが、どれだけ私の心を元気にした事でしょう。
 皆様の優しいお気持ち、しっかり心に刻みました。本当に有難うございました。
 心より嬉しく、御礼申し上げます。


 未だ未だ暑く長い夏が続きます。皆様お一人お一人十分健康にご留意され
 お元気な日々を過ごされます様、願っております。

静かに・・・今

2010-08-29 | セカンドライフ
自宅から帰り暫くは何をしていいのかもわからず、さりとてパソコンを開く気にもなれず
静かにしていました。
なる様になればいいと・・・・。

私はリタイアしフリーの立場であればこそじっくり、ゆっくりと父との別れが出来た。
父が85歳頃大病をしたり、手術をしたり色々有って姉から電話が来るとびくびくしたものだ。

  余談だが同僚でお父様のお葬儀でも、夜会社に出向いて仕事を処理した女性も居た。 
  普通は考えられない事だが、どうしても女性の処理が終わらないと次に進まない仕事の
  流れで気の毒な事だったと、今も記憶にある。


特に姉からの夜の電話が怖くて普通の用事か区別してと頼んでおいた。
「私よー。何でもないよ―。」と言うのが第一声の習慣になって10年も経ってしまった。

何度熱が出たからと呼び出され最終バスで涙をこぼしながら帰って来た事か・・・
これ程何回も最期を訓練して来たのに、練習と現実は全く違うものだった。

今日「今書いておかないと」と思い、思いついた部分のみをざっと書いてみたが、「有難う」の
言葉が私の中に残り、涙は流しても良い父親で幸せな私だと痛感している。

他人の父親が、どんな人でも関係ない沢山の皆さん、もっともっと辛い思いをされて親御さんとの
お別れを経験されたと言う方も多いかと思います。
自分のブログと言う性質上、数ページに渡り書かせて頂きました事、お許し下さいね。

ここ迄一気に書いて参りました。
明日から又、以前の元気な私に戻れそうな予感がします。
気持ちを表現する場所が有って良かったなーと、今感じて居ります。

沢山カメラに収める景色も有りましたが、一枚も撮る気持ちになれませんでした、と言うか
ブログやカメラの事も殆ど忘れていました。

又元気に日々の記録を残して頂きたいと思います。宜しくお願い致します。

父の人と、なり④

2010-08-29 | セカンドライフ
父は若い頃から車には親しんでいた。
(と呼んでいた)では昔から、普請(フシン)と言う仲間仕事が有った。
道路は勿論アスファルトでは無く泥んこ道を折々に道普請(ミチブシン)やトンネルまでも
掘ったりしていた。

昔の人達の生活の逞しさを垣間見る事はそこここにあった。
欠かせないのはオート三輪車の運転。トラクターやオート三輪車を運転するには免許証が
必要なのは当然だが、父はバイクの免許しか持っていないのに仲間仕事で車を運転した。

勤めにはバイクを使っていたが、普通車の免許を取る機会が無かったらしい。
兄の娘が遠くの高校へ通う様になり、毎朝6時前の電車で通学する事になった。

父は既に80歳になっていたが孫が可哀そうだと急いで普通免許証を取得する事にしたのだ。
自動車学校に通い始めた頃の父は嬉しそうに学校の勉強の事を話していた。

孫の様な若者の中で1人だけお爺さんの父は大丈夫かな?と心配する私に
「なーに、みんながな、寄って来て大丈夫かい?大丈夫かい?と励ましてくれるんだよ。」とそれはそれは
嬉しそうに過ごしていた。若者達と同じクラスで教えて貰ったり仲良くしたり楽しくて
仕方がなかった様だ。

本試験の時は孫が二人で毎晩「おじちゃん頑張れ頑張れ」「はい、これは答えは何なの?」とつき添って
千葉市の方へ試験を受けに向かったと。

孫娘は「おばちゃん(私)おじいちゃんはね折角頑張ったのに老眼鏡忘れちゃっておっこったんだよ」と
残念そうに言っていた。父も緊張の極みだったのだろう。
二度目に合格をし、3年間無事に朝晩、駅迄孫の送り迎えが出来たと嬉しそうだった父。

その後はリウマチで通院している母を横に乗せ病院通いも楽しんだ。何でも楽しんじゃう人で。

その後デイサービスのお世話になる様になって、母とお風呂に入れて貰う様になり、行事が
ある度にピアノで伴奏したり、絵を描いたり習字を作品にしたりと一番楽しんでいたと
聞く。

ゲートボールは地域ではいつも優勝し他地域にも試合に行ったと聞き、そうか~、
父は父なりの身の丈に合った人生を楽しんで過ごしたのだーと少し安堵する事が出来た。
父が北枕で横になっている時、葬儀場に行かれない、腰の曲がった方や高齢者の皆さんが、
朝早くからお線香を上げに来て下さった。

私が子供の頃の顔と余り変わっていないと、皆さんに声をかけて頂き、父の思い出話を
沢山聞かせて下さった。

いろいろ苦労もあったと思われる父ではあるが、こうして地域の皆さんに愛され親しくして頂き
父の本望だったと思い、幸せな生涯を過ごせたのだと嬉しかった。

100年近く生きた人を語ろうとすると、とても語り切れず、これでもう~んとはしょった一部分の内容
なのだが、語り切れる物ではない事を悟った。
父が恋しくなったら、ブログを読み返して忍んでみよう。

父の人と、なり③

2010-08-29 | セカンドライフ
私は高校卒業と同時に上京をした。当時は当り前の現象だった。
独身の間は随分貧乏な生活だった。今思うと苦痛では無く楽しい毎日だった。
アルバイトは上京して直ぐに働き口を見つけて、部屋の整理が付かない内に働いた。

幸せな事に働く所には事欠かない有難い時代だった。
ピアノの好きな私は、ピアノの月謝を捻出しようと必死だった。
そんな私に父は手紙で励まし続けてくれた。「お米さえ有れば何とかなるだろう」と
お米を買った事が無い程、送り続けてもくれた。

娘が世話になると大家さんさんに迄心付けてくれた。
「学ぶ事には無駄が1つも無いぞ、今しか出来ない事を精一杯やれよ、一番何でも身に付く
年代だから、後悔のない様に」常に応援メッセージを呉れた。

人には誠実に付き合え、見栄を張ったりおごったりする事は無駄な事だ、実直にひたすらに
生きて行けば間違いないぞ・・・とこんな調子で娘の都会生活を見守り応援してくれた。

親とは本当に誰よりも有難い人だ、存在だと思いながら心の支えにして生きて来た私。
父はお金より、人には心が大事だと思っていた人。
私は一生懸命生きても、それでも親不孝をする事もあった。
それでもいつも、優しく「頑張っても駄目な事なんて人生にはいくらでも有るんだぞ、それよりも
この後(アト)をどうして、生きて行くのかが大事な事だ。身体だけには注意しろよ」と娘の健康を
気遣って呉れた。

父に「お父さんは幸せな人生だった?」と尋ねる私に決まって「そうさなーお前達子供が元気な事が一番幸せかな」と。
全く私利私欲の無いひたすら生活を楽しみ会う度に今度は豆腐を作りたい、パンを作りたい
なんて言っていたっけ。

仕事場を定年した時に「お父さん、何かプレゼントしたいんだけど」と言うと特に欲しい物は無い、
と言いながらも、しつこく言うと「じゃ折角だから・・・油絵セットが欲しい」と言ってくれた。
それ迄、水彩やパステル画を楽しんでいたが、その後は油絵を楽しんで呉れた。

棺には描きかけの絵とお習字の紙、大筆・中筆・小筆を、私は選んで父の手の近くに忍ばせた。

心、気持ちの平らな人で寡黙ではあるが一言一言が深く私の心の底まで届く言葉の数々。
娘としては感謝と言う以外お礼の言葉も見つからない。

親孝行は出来なかった私だが、長生きしてくれた父は子供孝行だった。