毎朝2階のベランダから朝の空気を吸うためにゆっくり外を眺める。
家に居る時は、何度となくそこから下の畑を見るのが常になっている。
私の住む住宅の向かいにはゲートボールの出来る公園と小さな児童遊園が有る。
間にアミーズ畑が有るわけで毎日の変化が楽しみだ。
すっかり紅葉ならぬ黄葉しているのは藤の枝の伸びた物だ。
この藤は、私達が30年前、公園になる前の土地に住んでいた時は、確か1m位の小さな木だった。
30年も経つとすっかり延びて5月の連休頃には藤棚の下で「ふじを見る会」も催される。
公園の管理係は藤棚の大きいのを作ってくれて、藤の花を切る事無く今日まで来ている。
そんな藤の木もすっかり色を変え隣の桜の木の葉と共に晩秋を知らせている。
木の葉がすっかり落ちると枝だけが残し冬になり、やがて木の芽時の春になる。
その準備をする為、じっとして、来る春の為にパワーをため込んでいるのだ。
そう暫く準備期間に突入する。
落葉は、はらはらと落ちると物悲しい気持ちになるが、これが春を呼ぶ儀式だと思うと
何となくいつもと違う冬を送れそうな気がする。
家に居る時は、何度となくそこから下の畑を見るのが常になっている。
私の住む住宅の向かいにはゲートボールの出来る公園と小さな児童遊園が有る。
間にアミーズ畑が有るわけで毎日の変化が楽しみだ。
すっかり紅葉ならぬ黄葉しているのは藤の枝の伸びた物だ。
この藤は、私達が30年前、公園になる前の土地に住んでいた時は、確か1m位の小さな木だった。
30年も経つとすっかり延びて5月の連休頃には藤棚の下で「ふじを見る会」も催される。
公園の管理係は藤棚の大きいのを作ってくれて、藤の花を切る事無く今日まで来ている。
そんな藤の木もすっかり色を変え隣の桜の木の葉と共に晩秋を知らせている。
木の葉がすっかり落ちると枝だけが残し冬になり、やがて木の芽時の春になる。
その準備をする為、じっとして、来る春の為にパワーをため込んでいるのだ。
そう暫く準備期間に突入する。
落葉は、はらはらと落ちると物悲しい気持ちになるが、これが春を呼ぶ儀式だと思うと
何となくいつもと違う冬を送れそうな気がする。