千葉日報のまともな社説にアッパレ!
日の丸・君が代を強制するのは何故か!
国旗・国歌だから「礼を尽くす」のは「当然だ」論
こんなスリカエ・デタラメ・ゴマカシ・大ウソは
直ちに廃棄すべき!
今あらためて論議を/国旗掲揚と国歌斉唱
千葉日報 2016/3/14 14:05
http://www.chibanippo.co.jp/serial/310462
岐阜大学長が卒業式や入学式で国歌斉唱をしない方針を示したことに対し、馳浩文部科学相は講演で「(学長の発言は)ちょっと恥ずかしい」と語ったという。国歌斉唱が式次第に上る卒業式シーズンだ。これを機会に家庭で学校で、国旗・国歌についてあらためて考えてはどうか。
愛国者の邪論 素晴らしい問題提起です!何故か!そもそも「家庭で学校で、国旗・国歌について」「あらためて」「考え」ることなどないからです。当たり前のことして、思考停止に陥っているからです。
以下の問題設定は、文科省・教育委員会でさえも、資料化していません!学校では、どれくらい教えているでしょうか?日の丸・君が代の歴史を教えると、「自虐的」と言われていないでしょうか?
国旗・国歌が日の丸・君が代なのはなぜか。
国旗・国歌とは何か。どのような歴史と役割があるか。
そもそも、「日本」という国名は、いつごろから使われててきたか。また何故「日本」か。
更に言えば、君が代・日の丸の由来・意味は何か。
日の丸・君が代の歴史は何か。
日の丸・君が代は、明治前と明治以後、どのような役割を果たしてきたか。
戦後はの日の丸・君が代はどうだったか。
国は教育の観点から、日本人として国旗と国歌を尊重する態度を育てる-として、1989年、新学習指導要領で小中学校での国旗掲揚と国歌斉唱を義務化した。
愛国者の邪論 中身を教えないで「義務化」したのです。都道府県教育委員会は、「斉唱率・掲揚率」によって、教育現場が、どのように閉塞してきたか!その象徴的事件が、平和教育のメッカ的存在であったはずのヒロシマで起こったのです。校長の自殺事件です。それが契機となって、、口実となって、以下の法制化に突き進んでいったのです。
次いで99年に日の丸を国旗、君が代を国歌とすることを法制化した。
愛国者の邪論 しかし、法制化しても、義務付けはしないと、付帯事項で、国民を安心させたのです。しかし、その後の歴史の事実は、全く逆の、この法律違反が、国家権力と行政によって行われてきたのです。大阪の橋下氏は、その象徴です。口パク事件です。
しかし、この「強制」で判ったことがあります。それは、国旗≒日の丸、国歌≒君が代に対する中身を報せることなく、教育することなく、「強制」だけが独り歩きしていくことの意味は、一体全体何か!ということです。
それは、権力者に対する「服従」だけだということです。それが「上司の命令」に従うということであり、再び戦前の回帰が始まったということだったのです。軍人勅諭と教育勅語思想の回帰であり、日の丸・君が代に対する冒涜・不道徳が浮き彫りになったということだったのです。
国民として国旗・国歌を称揚することは当然の行為とする人は多い。またそうした経験を有するからこそ他国の国旗・国歌に礼を尽くすことが出来るという意見もある。しかし、これに対して少なからぬ人が否定的な見解を示している。
愛国者の邪論 中身を教えてもらっていない圧倒的多数の国民は、上記のロジックに基づいて、日の丸・君が代問題に意見を言う人間に対して、違和感を抱いているのが実態でしょう。ここが自民党政権のネライだったのです。
「国民として」論で言うのであれば、「日本国憲法」を使わない方がよほど問題なはずです。
「日の丸≒国旗・君が代≒国歌に礼を尽くすからこそ外国の国旗国歌に礼す尽す」論が如何に誤りか!それは、オリンピック精神を視れば一目瞭然です。
「礼を尽くす」論のスリカエ・ゴマカシ・デタラメ・大ウソは、「人間」が抜け落ちていることです。「礼を尽くす」べきは、人間です。このことは日本国憲法前文の国際平和強調主義に明確に書かれていることです。
しかし、「国旗・国歌に礼を尽くす」ことが、一体全体何になるのか、何が何だかわからないモノに「礼を尽くす」論浮き彫りです。
そもそも「礼を尽くす」論が正しいとすれば、それは国家・国民・民族・宗教は対等平等だと言うことに連動していかなければなりません。そのような思想が、強制を排除するのは当然です。しかし、国民に対して国旗・国歌を強制する思想が、他国・他国民・多民族・多宗教を対等平等の対象として認めることができるでしょうか。
日の丸・君が代を国旗・国歌として認め、斉唱と掲揚・礼拝を強制するのが当然としている人たち、すなわち、安倍派=國派=日本会議派が、ヘイトスピーチを禁止することに、なかなか賛同しないのは、このことを雄弁に物語っているのではないでしょうか!
太平洋戦争での悲惨な経験が主な背景だ。国内においては戦争へと国民を動員するシンボルとして使われ、海外においては侵略のシンボルとされた暗い歴史に思い至るのだろう。
愛国者の邪論 日の丸・君が代が、何をシンボルとしているか!それは、大日本帝国憲法体制=天皇制でした。軍人勅諭・教育勅語を視れば一目瞭然です。「侵略戦争」へと「動員するシンボル」だったのです。それに反対する「臣民」は「非国民」「国賊」でした。だからそのシンボルによって「士気」を高めて、命を懸けて、侵略戦争に協力加担していったのです。
当然、皇軍兵士は、「名誉ある戦死か、負傷」が待ち受けています。この点では被害者です。しかし、皇軍兵士によって、命も財産も身体も奪われ、冒された多民族・他国民は、「侵略のシンボル」に対して、どのような感情を抱くか!北朝鮮の拉致被害に対する日本国民の感情を視れば、逆の意味で一目瞭然です。
名実ともに日本という近代国家が誕生したのは明治維新以降とされる。幕藩体制においては、庶民は町人や領民であって国民ではなかった。出身の藩主領地が自らが所属する「お国」で、隣り合っていても他藩は違う国だった。欧米諸国に肩を並べる近代国家へと生まれ変わったが、その後は諸外国との戦争が続いた。太平洋戦争では、国民という立場に身を置いてわずか七十数年でありながら、「お国のため」と玉砕攻撃を選択するまで、一部国民の意識はエスカレート。
愛国者の邪論 1945年前の戦前の70年は膨張主義と植民地主義、侵略主義の日本でした。一部国民の意識はエスカレート」論は間違いです。大国中国を畏怖しながら日清戦争後は見下す!朝鮮をバカにしているのは、江華島事件と日朝修好条規を視れば一目瞭然です。
これらの政策の根土台に何があったか。吉田松陰の朝鮮満州強奪論・福澤諭吉の「脱亜論」が、大きな影響を与えたことは明らかです。同時に皇国史観に基づく教育勅語体制による国民教化です。
これらが社会のあらゆる場面で国体=天皇制の精華と繁栄のための装置として使われたのです。それを反省することなく、強制しているのが、今日の日本社会の実態です。
掲揚、斉唱という行為は、決して戦争を賛美するものではないが、戦時下において挙国一致のための装置とされたとの見方もある。そうした観点から見解を持ち出されれば、否定するものであっても耳を傾けざるを得ないのではないか。憲法で「思想及び信条の自由はこれを犯してはならない」とされている。
愛国者の邪論 当然の視点です!「掲揚、斉唱という行為」そのものを取りだせば、「決して戦争を賛美するものではない」というのは当然です。しかし、これが義務づけられ、強制されるシンボルとなると、その後の果てになにがあるか!戦前の教訓は一目瞭然です。ロジックは、全く同じなのです。戦前の誰もが、天皇を敬うことが、その後に自らがどのような境遇に置かれることになるか!想像力は全く思考停止していたのです。
国立大には国費が投入されていることをことさらに取り上げて、掲揚・斉唱を強制しても本質的な解決にはつながらない。国民として当然のことと、無批判に受け入れるのではなく、自由の国の民として論議を深めてもいいはずだ。(引用ここまで)
愛国者の邪論 「掲揚・斉唱を強制しても本質的な解決にはつながらない」論と「自由の国の民として」論に大アッパレ!です。
そもそも「国費が投入されている」論を言うのであれば、憲法を活かせ!です。岐阜大学に言う前にやることあるだろう!
まあ、共産党の支持率みたいなもんだ。(笑)