愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

未だに旧日本軍関係者1000人 精神疾患が治癒せず 過去50年!東京新聞に大あっぱれを!だからこそ駆け付け警護は認めない!

2016-11-07 | 戦争法廃止

戦争に対する想像力を!

若者を戦場に送るな!送らせないぞ!

日本を加害国にはさせない!被害国にも!

旧日本軍関係者1000人 精神疾患が治癒せず 過去50年

東京朝刊  2016年11月7日

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201611/CK2016110702000122.html

戦争の影響で精神疾患になり、国の費用負担で療養を続けたまま亡くなった旧日本軍関係者らが、政府統計が残る過去約五十年で約千人に上ることが、共同通信のまとめで分かった。このうち七割近くは入院したまま最期を迎えた。それ以前の統計や民間のデータはなく、戦争で心の傷が生涯残った人は千人をはるかに上回るとみられる。

今後、駆け付け警護などで自衛隊の海外活動拡大が見込まれる中、隊員が戦闘に巻き込まれた場合などの精神面の影響を懸念する専門家もいる。

日本国籍を持つ旧軍人や旧軍属らが精神疾患を含めて戦争に関連するけがや病気と診断されると、戦傷病者特別援護法に基づき国が療養費用を負担する。この制度の対象者に関して国が毎年公表している統計資料などを基に集計した。

同法が施行された一九六四年度以降、精神疾患の療養を受けている状態で亡くなった元軍人らは九百九十九人に上る。内訳は入院先で最期を迎えたケースが六百八十二人、通院中が三百十七人。病気や事故、自殺など、死亡原因に関する情報はない。一方、治癒した人は延べ百七十五人にとどまり、後に再発したケースが含まれている可能性もある。

療養途中の人数を年度ごとに見ると、七四~八五年度は常に千人を超え、最多は七八年度の千百七人だった。今年三月時点では少なくとも九人が療養中とみられる。発症した状況は分からないが、陸軍病院の医療記録を分析している埼玉大の細渕富夫教授によると、戦闘への恐怖、軍隊生活で受けた制裁、加害行為への罪悪感などが精神疾患の要因になっている場合が多いという

民間人の精神疾患では、住民が地上戦に巻き込まれた沖縄県で、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)などと診断された人がいるが、実態が把握されているのはごく一部とみられる

自衛隊の活動拡大に関し、医療関係者でつくる「戦争ストレス調査研究ネットワーク」共同代表の猪野亜朗(いのあろう)医師(精神科)は「自爆テロなどがある現代の戦争は、精神的に休まる暇がないためPTSDなどになりやすい。その苦しみから逃れようとしてアルコールに依存する人が増えることが懸念される」と話す。

<元軍人の精神疾患への対応> 日中戦争開始翌年の1938年、陸軍は「戦争神経症患者」の扱いに関する方針を定め、千葉県にあった国府台(こうのだい)陸軍病院を中心に対応することを決定。各地から精神疾患の将兵を同病院に送る態勢が終戦まで続いた。戦後も精神疾患を含む戦傷病者の療養に国費を充てる仕組みがつくられ、現在は戦傷病者特別援護法で規定している。戦争や、関連する公務が原因と診断された旧軍人や旧軍属などに限られ、朝鮮半島や台湾の出身者は対象外。療養は手術や投薬といった治療のほか、自宅や入院先での看護を含む。(引用ここまで

 愛国者の邪論の父の場合、復員後、大酒を飲んで暴れたそうです。何故暴れたか!戦争に負けたのは、兵士が一生懸命戦わなかったからだ、という目線をかけた村人への怒りだったと、生前言っていました。3升もの酒を飲んだと!家の中に入り込んで、箪笥などをひっくり返したそうです。
 
父は大正7年(1918年)誕生し、昭和13年(1938年)、誕生日前に兵役に志願。それは貧乏で、そして職人になりたくなかったことで、中学校に進学できなかったために、軍隊に行けば学校に行けるということが原因だったと生前言っていました。習志野騎兵学校に配属。その時、先日永眠した三笠宮氏と一緒で、戦後「三笠会」に出席していました。父は優秀だったことから、昭和18年(1943年)上官との摩擦により北支に転属まで東部軍司令部付きとして、勤務。そこで東部軍司令部の電話交換手として勤務していた母と知り合うことになったのです。父は大陸へ、最後は華南作戦へ。飯田町に住んでいた母は、空襲が激しくなり、父と母と一緒に、私の父の実家に疎開。父は昭和21年(1946年)5月まで、復員処理に携わり、完了後にマラリアとともに復員。12月に母と結婚。私は、1951年、この世に!その上に姉と兄が!皆戦後ベビーブーム世代です。53年生まれの弟。4人の生を与えられたのでした。
 
その父が昭和63年(1988年)、おしりも天皇が、下血騒ぎの時、がんを発症。昭和の終焉を見ながら、3月永眠しました。
 
その闘病の時、抗がん剤を投与した父がうわ言を!抗がん剤投与後、骨と皮になってしまった父は、尻が床ずれに。赤チン消毒の後、シーツが赤く染まっていると、その部分を指さして、「これは何だ」。私が「赤チンだよ」と言うと、「アカは怖いぞ!」と。そして天井の隅を指さして、「攻めてくるぞ!」と叫んでいました。そう言えば、「国民党軍は怖くないが、八路は強い!」と言っていたことを想い出したのでした。
 
永眠後、母に話すと、戦後、ずっと、それも度々、夜中、大声で起き上がったこともあったということです。恐らく夢をみていたのでしょう。父は、夏庭に水道で水まきをしていたとき、「機関銃の弾は、こうやって撃ってくる」と言って、ぐるぐる回しながら、庭の隅から隅まで、水を満遍なく撒いていました。まさに弾の雨の中を生き延びてきたのだな、と小学生ながら聞いていたことを覚えています。また、人間の首を切るのは、こうしてやるのだ!などと、言って見せてくれたのでした。そういう父をカッコいいと思っていましたし、誇りに思っていました。その勇気に!
 
だから、父の写真を兵士の頃の、しかも戦地の写真を見ながら、父を尊敬したが故に、将来は自衛隊に、防衛大学に入学することを夢見て、中学生から剣道をはじめ、庭で兄と一緒に、父に稽古をつけてもらったのでした。
 
しかし、その父に反旗を翻したのは高校2年の夏。世界史の夏休みの宿題で岩波新書版『中国現代史」を読んで衝撃を受けたのでした。そこに書かれていた日本兵の中国戦線における蛮行に!「俺の親父も、こんなことを!」。晩酌をして。いい気分の父に向かって、「父ちゃん、この本に、こんなことが書いてあったけど、父ちゃんも、こんなことをやったのか」と。父は、顔面蒼白に!「当時は、皆そうだったのだ」というのが精いっぱいでした。その後、私は、こんな父の子どもに、生まれたことを後悔し、その後、口を聞くのを拒んだのでした。しかし、父は、私に気を遣って、剣道の試合を観に来たり、卒業式に参加もしてくれました。
 
そのような父を許せるようになったのは、戦前の歴史を学び、父のような学校にも行けない一塊の農民にとって、「仕方のなかったことだ」と理解できたときです。
 
そんな父は、私が38歳の時、戦争の遺産を引き受けながら、ガンに罹り、その痛みに悶絶しながら、抗がん剤に妄想しながら、永眠したのでした。
 
父は、「上の者は信用できない!」と度々言っていました。何故か。「神風が吹かなかったからだ」と。そして自分を戦地に転属させた上官のことをずっと言っていました。しかし、父は、「教育勅語には、いいことが書いてある」と言っていましたし、天皇誕生日には、皇居に参賀にも行きました。私が小学校に上がる前ですが。
 
そんな父の70年の歴史は何だっか!一番の成果は、4人の子どもと10人の孫と5人のひ孫が誕生したことでしょうか。勿論、父の仕事は、大変社会的意義のあるものだったことも事実です。それなりに。しかし、それは父が、「英霊」にならなかったからです。このことを想うと、「英霊」にならざるを得なかった若者たちの「無念」の声が聞こえてくるようになってきました。それは私にとって、新鮮な驚きでした。姪の子どもが生まれたときに、その感情が彷彿としてこみあげてきたのでした。
 
だからこそ、靖国神社に参拝する安倍首相をはじめ閣僚たちの「英霊に感謝」「英霊に尊崇の念」をなどいう言葉を聞くにつけ、許しがたいと思うのです。
 
以上、個人的なことを述べてきましたが、父の戦前戦後、そして死を前に、朦朧として叫んだ戦争の悪夢を想うと、自衛隊員の若者を同じような体験をさせることは絶対にできないと思うのです。彼らの命、人生を遮断することは、いかなる者のできない!と思うからです。
 
そもそも政治の最大の仕事は、戦争をしない!国民の暮らしを守る!そのことで、国民の命の営みを保障する!ことです。
 
この東京新聞の記事を読んで、愛国者の邪論のようなことを想う人はたくさんいるのではないでしょうか!だからこそ、あの侵略戦争の反省の上に制定された国家の最高法規である憲法を活かすことを、残った時間に費やすということ、これが父と連帯することになるのではないか、と。
 
そして、父が戦地に『出征』して、そのことで、それだけの中国の民衆の命と財産を奪ってきたのか、そのことも忘れずに、隣国であり、日本の二千年の歴史に大きな影響を与えてきた中国・朝鮮・韓国の人々に対して、二度と同じ過ちはしないことを発信し続け、共に生きていく展望を模索する時間とすることを、思うのです。
 
これこそが、戦争犠牲者の皆さんに報いることではないか!と。そして、これから生きる子どもや若者へのプレゼントになるのではないか!と。憲法平和主義によって、私の人生は守られてきました。そのことも忘れることはできません!だからこそ!必ず憲法を活かす政権と日本社会を!


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