愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

子どもをはじめ大人の起こす事件の奥底に想像力・想定力欠如社会が見えてくる!如何にせむ!

2012-04-25 | 日記
政治の世界が「一寸先は闇」と言ったのは川島正二郎代議士だったように記憶しているが、今の日本社会は、政治の社会だけでなく、すべての分野で「一寸先は闇」となっているようだ。

「原発神話」「小選挙区制による政権交代可能な二大政党制」政治の劣化にして然り。「個性化」「国際化」「多様化」「自由化」「新学力観」「ゆとり教育」などという美しいキャッチコピーを振りまきながら、実際はどうだったか、まさに今起こっている現象は一面では「一寸先は闇」現象だ。

こうした政治による劣化現象が日々メディアをとおして家庭に押し寄せている。その最大の被害者は子どもではないだろうか?子どもは社会の鑑らしい。だとするならば、子どもの起こす事件は、どんな大人社会の事実を映しているのだろうか?

そこで、以下の二つの事件をみてみよう。

まず一つ。「京都府亀岡市で集団登校中の児童らの列に軽乗用車が突っ込み、十人が死傷した事故」だ。これとて、「以前から無免許運転を繰り返していた」と供述している。「これまでにも他の知人らからも車やバイクを借り、常習的に運転していた可能性がある」とみているというが、少年は無免許運転がどのような事故事件を引き起こすか、想像できていなかった。しかも車を借りて、夜通し走っている。さらに少年の保護者、車を貸していた人たちや少年の友人など、少年に関係する人たちが少年にどのように接していたか、を含めて想像力の欠如、人間関係の希薄さを露呈したように思う。断定はできないが、感想だ。

次に「東京都八王子市のJR西八王子駅北口で路線バスの男性運転手(37)が刃物で刺された事件」だ。これとて、事件の後のことを思うと極めて稚拙だし、供述を見ると、不可解な点が多い。以下一覧してみる。
(1)昨年12月には「他の部員に下手と言われる」と顧問に悩みを相談していた。
(2)逮捕容疑を認め「友達からばかにされた。みんなを見返すため、バスの立てこもりをやろうと思った」
(3)「事件当日に公園で遊んでいた友達に『バスジャックをやったら、すごいだろうね』と言ったら『できっこない』と言われた」と話している
(4)生徒はバスに乗車する5分ほど前の22日午後2時55分ごろ、部活の顧問をしている教諭に携帯電話で「ぼくがバスジャックをしたらどうする?」と電話をかけた。顧問は「もちろん止めに行く」と答えたが、生徒は「バスジャックをしたら電話するから」と言って電話を切った。
(5)少年は当初、22日の部活動中に友人にバカにされたため「見返してやろうとバスの立てこもりを考えた」などと動機を説明していた。しかし、その後の調べで同日は部活がなかったことが判明。その後、動機についてはあいまいな供述を続けている。
(6)八王子市教委は23日に記者会見を開き、少年について「まじめで普通な中学生。特に問題はなかった」と説明した。いじめについては「現時点では把握していない」という。

こういう事件を起こしたら、家族や自分の将来について、どのような結果が生じるか、全く想像できていない。オトナの対応も右往左往だ。まさに現在の政治の生き写しだ。

都教委は24日、区市町村教委の指導部署の責任者を集めた臨時会を都庁で開き、生活指導の徹底を申し合わせた。
 51区市町村教委の担当者が出席。都教委は再発防止に向け▽子供たちに命の尊さを理解させる▽正当な理由なくナイフを所持することは法に触れ、暴力で問題は解決しないことを教える▽学校内外の子供たちの行動を把握する−−ことを各校で実践するよう求めた。

これをみて爆笑してしまった。こういうことを確認するということ、「実践するよう求めた」ということは実践できていなかったことを認めているようなものだからだ。ま、マスゴミの報道に問題アリと言えなくもないが、それにしても都教委は問題アリだ。

一つ一つは述べないが、石原都知事は全く逆のことをやっているからだ。都教委も権力的な教育行政をやっている。特に教職員には議論させることなく命令に服従を強要しているのではないのか?「ほうれんそう」行政が端的に示している。こうした先生たちや大人社会のありようが子どもに映っていくのは明らかだ。そこで反省すべきことをあげてみる。

1.命の尊厳は人権と民主主義を尊重することと一体のもので、これを否定してきたことこそを反省すべきだ。
2.「正当な理由」などいう抽象的な言葉ではなく、暴力ではなく話し合いで問題を解決することを大人自身が子どもに見せてこなかったこと、憲法と9条を尊重することを教えてこなかったことをこそ反省すべきだ。
3.学校内外の子供たちの行動を把握するためにも、先生たちを縛ってきたことをこそ反省すべきだ。
4.子どもの権利条約を学校に生かそうという行政をしてこなかったことをこそ反省すべきだ。

家庭も、地域も、職場も、学校も、コミュニティーが崩れているのではないだろうか?コミュとは「共同」だ。社会の在り様が、分断・分裂・対立状態に陥ってしまっているのだ。共同・連帯などという営みは希薄になっている。

バラバラ現象のもう一つの例をあげておこう。それは、以下の事例だ。

お年寄を騙して大金を掠め取っていく「オレオレ詐欺」にしても、騙す方が一番悪いが、これほど事件になっているにもかかわらず騙される人がいるのだ。たいていの場合は、肉親を間違えてしまっているのだ!これとて、肉親を想像できていない!しかも、これだけ頻発している「オレオレ詐欺」事件が想像できていないのだ。まさか自分に降りかかってくるなどと思ってもいないのだ、だから信用してしまう!詐欺行為をする人間たちに、どんな「こころ」があるか、想像するだけで怒りが湧いてくる。

だが、彼らをして、詐欺行為に走らせるのは何か、だ。まさに弱肉強食・優勝劣敗・自由競争の原理が貫かれているのだ。これは99パーセント対1パーセントという構図ではなく、99パーセント同士が足の引っ張り合いをしていることを意味している。弱気を助け、強気を挫くなどという美しい言葉とこころはいっさいないのだ!

こうした人間社会のバラバラな状態をどのようにしてアウフヘーベンしていけばいいのだろうか?ここがポイントかもしれない。そういう意味で新しい質的な段階の到来が求められているのかもしれない。新しいコミュのあり方だ。政治も社会も、これに尽きる!点から線へ、そして面へ、だ。

すさまじきこころの奥に住む鬼を善玉豆を蒔きて出ださむ