たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ふぅっとため息・・・

2015年02月16日 20時19分07秒 | 日記
残念ですが雪解けにはまだ時間かかりそうです。
ふぅっとため息。
体中の力が抜けていきそうです。
切り替えていかなくっちゃ。
でもひきずったままではむずかしい。
自己肯定感は戻ってきていますが、どこに歩き出せばいいのやら。
また頭の中が飽和状態になってきました。
いろんなところでおかしなことになってきているのが見えてしまうと
どうすればいいのやら。

肩の力が抜けて・・・

2015年02月15日 18時53分03秒 | 日記
近づく山場を前に不思議と肩の力が抜けています。
先週の木曜日に身体の声を聴くプログラムにようやく行って肯定的なことをたくさん言ってもらえたことはすごくよかったと思います。私に見えてくる絵が、今雪山のてっぺんにいるけれど、もうすぐ雪は解けてきて緑や花が見えてくる、やがて私は自由に行き来できるようになると言ってくださったアーティストの方は共感覚の持ち主。
その方が、私は大丈夫だと言ってくださったのだから大丈夫だと信じることにします。不確実なものを信じるのはむずかしいことですが、自分の感性を信じるしかありません。
また悔しさのあまり歯ぎしりする結果になるかもしれませんが、それでも自分が納得するためにここまできたのだからそれでいいじゃないか。他の人はとっくにあきらめてしまうような局面をいくつもいくつも通り越して、ひとつひとつ向き合い理解しながらここまでやってきた自分をほめてあげようじゃないか。
身内に自分がバカなんだよと叱られるのはこたえます。
そう言われると、はいその通りですとしか言いようがないので仕方ないですね。
失ってしまった自尊感情を取り戻しながらいこうと思います。


今日はフォーウインズのセミナーに行ってきました。
妹が産まれたのは私が1歳10か月の頃。自分がどんな反応をしたのか、家族の中の状況はどうだったのか、全く覚えていませんが、何か私の体が記憶しているものがあるんでしょうね。
今さらそんなことを考えてもなにも戻ってはこないとわかっていても、お話を聴かせていただきながら、ついついそんなことを考えずにはいられません。


「大草原の小さな家」への旅_3日目(ミネソタ州ウォルナット・グローヴ)

2015年02月15日 10時50分40秒 | 「大草原の小さな家」への旅
2013年9月6日(金)

6:00 モーニングコールで起床。
薬を飲んだがすぐには眠れず、3時過ぎにも一度目がさめてしまったが、まあまあぼちぼちの睡眠。朝食には行かず、部屋でコーヒーを沸かして残ったものをつまみながら荷造り。なんとか間に合った。

7:30 ホテル出発

8:45頃 ウォルナット・グローヴ(クルミの森)着。バスで街をひと回り。

9:00 現地ガイドさんの案内でプラム・クリーク、土手の家跡。ローラの父さんが鐘の代金を寄付した教会(ルター派教会)の鐘の音を聴く。
クリークは今年は雨が少ないとのことで、水が少なかった。
土手の家跡は看板のみで、なかなかイメージしづらい。
今は植樹によって周囲に木々があるが、ローラが暮らした頃は草原で何もなかった。
物語に登場する大岩の片鱗も残っている。こんな所に横穴を掘って暮らしてたなんで原始人みたいで考えられない(とその時は思ってしまったのでした)。

野外劇場は外観のみ。

外の見学が終わったら買い物と博物館一帯を見学。

芝土の家、教会、学校、おばあさんの家などこじんまりとしているが、復元されている。
やっと土手の家のイメージができる。
博物館は、当時の暮らしぶりが伝わる品々。
ドラマ(「大草原の小さな家」の舞台は、ミネソタ州ウォルナット・グローヴ)に登場した
俳優さんたちが訪れた際のサイン入り写真など、あっという間に時間が過ぎる。
物語と挿絵、ローラの家のミニチュア、パッチワークキルト、ローラの父さんと母さんの結婚当時の写真もあった。

幌馬車をみる。これに馬をつないで家財道具一式積んで家族5人、何百キロも移動したなんて
考えられない。すごい。

12:00 ネリーズカフェで昼食。ネリーの写真がいっぱい。

13:20 出発。芝土の家を途中で見学。ちゃんとした家は、夏涼しく、冬あったかく、日本の土壁の家に似ている。キルトカバーのベッドなど、家具類がそろっていれば普通に暮らせそうだ。

14:05 ミネアポリス空港目指して出発。車窓からの景色は、とうもろこし畑、小麦畑、大豆畑、草原地帯。とにかく広い。とうもろこしは、土地を疲弊させるので、一年おきに違うものを植えるそうだ。

アメリカは農業国。内陸部にこそ、その原点はあるという松本先生のお話。

こんな機会をもててよかった。
たぶん二度と来ることはないウォルナット・グローヴとお別れ。
ミネソタ州とお別れ。
間もなくミズーリ州セントルイス。広すぎてどこがどこだかよくわかっていない。
帰ったら復習しよう。

20:18機内にて。
デルタ航空DL2377便にてミネアポリス→セントルイスへ。

セントルイス泊。





土手の家があった場所には看板が立っていました。







周囲にはこんな風景が広がっていました。






大陸にいるとなぜだか日本にいるよりも空が高い感じがします。


陽射しのあたたかな午後のつぶやき

2015年02月14日 17時32分10秒 | 日記
陽射しのたっぷりある部屋にいるとあったかいですが、外にでると風がまだまだ冷たいですね。
昨日の夜は、都心で発達障害の基礎を学ぶ講座を聴講してきました。
精神医学を少しずつ勉強し直していければという思いがあってのことでした。
講師の先生はあったかいお人柄が伝わってくる方で、勉強しっぱなしで忘れてしまっていることも思い出しながら聴かせていただきました。

アイスブレイクで、自分が小さかった時すきだった場所を思い出してグループで話してみてください、と言われたときに、思い出したくない、言いたくない、と思っている私がいることを感じてしまいました。
小さかった時、お正月は毎年おばあちゃんの家に行っていましたが、私がお正月を待ちきれずに大晦日におばあちゃんの家に行ったことがあるそうです。自分ではおぼえていません。高校生ぐらいの時だったでしょうか。両親からきかされました。
大人になって、苦しみの時がおとずれようなど想像できるはずもなかった小さい頃。
夏休みの終わりごろは、毎年近所の神社のお祭りが待ち遠しかったり、あまり思い出したくないけれど、小さかった私が好きだった場所はたくさんあると思います。
楽しい思い出は、楽しいまま心の中に持ち続けていきたい。

今の私は、まず傷つけられた自尊感情を取り戻して落ち着くことが必要なんだと気がつきました。ずっと働いてきていたので、なんだかさぼっているみたいな、後ろめたいような気持ちもあってきついですが、緊張感から自分を解き放ってあげることが大切。
山場の結果しだいです。
雪の下には、生命が芽生えていることを信じるしかありません。

普通に生きていくことが、当たり前のようですが、実はいちばんむずかしいことなんだと
あらためて感じるこの頃です。

生きていくのにこっちが絶対に正解で、こっちは不正解、という答えはどこにないのでむずかしいです。


もうすぐ雪解け・・・

2015年02月12日 19時52分22秒 | 日記
まもなくやってこようとしている大きな山場を前に、去年の秋から行きたいと思っていた自分の身体の声を聴くプログラムに、今日ようやく行ってきました。これもまた、出会いのタイミングがあるんだろうと思います。

妹とのお別れのあとカウンセリングスクールのフォーカシング合宿で、自分のお腹の中にまっすぐに伸びていこうとする白い木があることを感じました。(その時のレポートは、2013年6月9日に「まっすぐに伸びる木」と題してブログに書きました。よろしかったら読んでください。)

混乱を収束できるのか、自分の力ではどうすることもできないので、否が応でも緊張感が高まってきており、これからのことへと手探りも続いている日々の中で、また自分の身体の声を聴いてみたいと思いました。

肩をいからせて頭のてっぺんから足の先まで全身で緊張し続けて、頭のエネルギーを振り絞って自分の気持ちと向き合いがら何か月も過ごしてきました。思いもよらなかったことの連続、こんなこと自分にはやれないと思っていた山をいくつも通ってきました。
あまりにも肩に力が入りすぎていて、ストレッチをしても力が抜けていくまでにはちょっと時間がかかりました。
指、手首、足首、関節を感じながらストレッチをやっていって、身体で表現するプログラムもいくつか行いました。
人ってみんな、日常生活では表現する時間も場もないけれど、それぞれに内側に豊かなものをもっているんですね。そういうものを自由に擬音も出しながら表現できる時間でした。
体を動かし始めてから、ずっと涙がにじんでいました。

私ずっと強固なものに否定され続けてきて、心身共にエネルギーを消耗してしまって、自己肯定感がすごく下がっていました。自分を責めるばっかりでした。3時間ほどいろいろと身体を動かしてから、身体の声を聴いたとき、私の中から出てきたのは、情景ではなく、「うーっ」という苦しい声でした。頭ばっかり重くってすっかり疲れてしまいました。つらかったです。苦しかったです。よくここまでがんばりとおしました。
なかなか人には説明しづらい、理解されにくいことの連続で、話すことに疲れてしまっていることもあり、一人ではさみしいくせに誰とも話したくないような気持ちにもなっていました。

講師の先生が私をイメージして言ってくださったのは、こんなことでした。
私今雪山のてっぺんにいる。けれども雪は解け始めていて、下には春の息吹が広がっている。やがて緑やお花が見えてくると、どんどんひろがっていって自由に私は行き来できるようになる。
そうなんだ、私大丈夫なんだ。
ここに来たこと自体大丈夫なんですよ、と言ってくださいました。
そうなんだ、涙が出ました。


最後に雪山のてっぺんで膝を抱えて、寒いよー、苦しいよー、誰か助けてー、とひとりぼっちの私を妖精が迎えに来てくれて、一緒にプリンス・エドワード島の心に残っている風景を身体と声で表現してみました。といっても、はじめてのことでド素人がやることなので、人にみせるものではないのですが参加者の方々とお互いに共有しました。
お一人お一人、豊かなものをみなさんもっていらっしゃいます。


気持ちはちぢこまっているのに、身体を動かしている時の私の動きがすごく大きいので、すごく人の面倒をみてきた人なんじゃないかと思うと言ってくださいました。その通りなんです。ずっとそうやって十年以上がんばってきました。

私最初に会場に入った時は、うなだれて疲れ果てていたのが、ビフォーアフターのように、終わった時にはすごく生き生きとして表情に変わっていたそうです。他の参加者の方も心配してくださって嬉しかったです。
壮大なエネルギーを感じる、頭のいい人なんだろうな、頭の回転が速い人なんだろうな、純粋な人なんだろうな、社会に向かって発信したいものがあるんだろうな、元気になってよかった・・・。いいことたくさんいってもらえると嬉しいですね。
自己肯定感が戻ってきました。

普通じゃない緊張感とつきあってきたので、あまりにも固まりすぎていました。
こうして頭がほぐれたのはかなり久しぶり。
これからは体を動かす仕事をやっていくといいかも、というアドバイスもくださいました。
分かれ目はここで外に向かって気持ちを開いていけるかどうか、一人でいてまた閉じてしまったらせっかく見え始めている広い世界がまた見えなくなってしまいます。

ずっと自分の中に閉じ込め続けているあふれるような思い。
ここに書くことはできませんが、何らかのかたちで伝えていきたいという思いも持ち続けています。


まだ自分を否定されることもありうるので、気を抜くことができずつらいところですが、
自分の中にあるエネルギーを感じ取ることができたので、きっと大丈夫。
妹と両親が空から守ってくれているので、きっと大丈夫。
もう少し楽に呼吸してみよう。


全身に気がめぐっていてまだ足の先がすごくあったかいです。
ずっとこのまま維持するのは無理ですが、この感覚を忘れないで山場に臨もうと思います。

信じるということは、不確実なものを信じていくこと、カウンセラーの先生がおしえてくださいました。
いろんなことがあり過ぎて大変ですが、自分の感性を信じていくしかないですね。
きっと雪解けはもうすぐです。

身体を動かしていると、思い出すのはプリンス・エドワード島の遠く高い空、ぽっかりと浮かぶ白い雲、木々のいろんな緑、風のささやく声、赤い道、銀色にキラキラと光る海、橙色の夕陽・・・。島にいるとき感じたわけもない幸せ感。
私の大切な心の風景、ふるさとです。





早いもので・・・

2015年02月10日 13時01分58秒 | 祈り
早いもので母との突然のお別れから丸三年になります。もう会うことはないのだという実感がいまだにありません。三年前の今日、新幹線に乗るために駆けつけた駅に、たまたま今日用事があって来ています。急逝の知らせに茫然と気持ち立ちすくみながら、週末だったので夕方の新幹線の切符を買ってこの駅で乗車時間を待っていたことを思い出しました。
色々な思いが湧き上がってきて、これからの用事を考えるとPCの画面をみない方がいいのですが、こうして書かずにはいられない感じがあります。

プライベートなことをどこまで書いていいものやらという気もしますが、人のことではなく私自身のことなので正直に書こうと思います。

二年前の手帳の記述を振り返ってみます。

「2013年2月12日(火)

母の一周忌は終わった。
昨年の今頃告別式が始まろうとしていた。
今日と同じ、雪がちらつきそうな寒い日だった。
今だ信じられない。実感がわかない。
いつもの部屋で寝ていないのが不思議だ。
Y君はすぐに救急車を呼ばなかったことを後悔している。
自分を責めている。時が癒してくれるのを待つしかない。
救急車で運ばれたら家で最期を迎えることはできなかっただろう。
母の本望ではなかっただろうか。
ただ傷のあったことは痛ましい。

父と母の衣類を整理していたら、Mちゃんの遺品が出てきた。
母だろうか、細々した物が箱にまとめられていた。
Mちゃんがまとめたものを、母がタンスの中にしまっていたのか、よくわからないが
奥の部屋にあった。
Mちゃんの日記が出てくる。
亡くなった年の5月6日から9月18日まで。
私には辛いシロモノだ。うつにとりつかれて幻聴も起こっていたようだ。
死にたい気持ちが綴られている。
まともには読めなかった。やめよう、今さら自分を責めるのは。
その分まで、私が一生懸命生きればいい。それでいい。
それしかないんだ。言い聞かせる。」

なぜなのか、なぜ私の家族なのか・・・。
その答えを探し続けてきたけれど、どこにもなかった。
どこにもないということを引き受けながら生き続けていくのが私の役割。
私が人生から何かを問われている。
何を問われているのか、その答えはまだ見つからない。
熱い思いだけが空回りし続けている。

重い話が続きましたね。
次回はまた旅日記か観劇日記を書ければと思います。


プリンス・エドワード島の春は6月、お化けの森の散歩道にはたんぽぽが咲いていました。

母とのお別れが一つの区切りでこのブログを始めました。
こんなささやかなブログへの訪問、ありがとうございました。

『続・悩む力』より_人生が投げかける「問い」に答える

2015年02月09日 10時41分50秒 | 本あれこれ
昨日はノンフィクション作家の柳田邦男先生の講演会があり、御茶ノ水の方まで出向いてきました。休日なので電車が遅れることもなく乗り換えもスムーズでそれほど大変な感じが自分の中でしていなかったのですが、終わって最寄駅まで戻ってきてみるとぐったり。
荷物を持って、そこまで出向いていくのは、それだけでやはり大変なことなんだと感じました。
終盤で、フランクルの「それでも人生にイエスと言う」のお話を先生がされたので、姜尚中さんの『続・悩む力』を思い出しました。
去年の3月9日にフランクルのことを記載した箇所を引用して以来、久しぶりに読み返してみると、あらためて共感するところがたくさんあります。フランクルのことが紹介されている箇所からまた引用してみたいと思います。


「人間の尊厳と、人生に向かいあう態度という意味では、フランクルが本のタイトルに使った「それでも人生にイエスと言う」という言葉が思い浮かびます。

 この言葉は、第二次世界大戦中にナチスの迫害を受けてブーヘンヴァルト収容所に収監されたユダヤ人たちが、過酷な日々のなかで作った歌に由来するものです。彼らは明日の命の保証もない極限の状況のなかを生き、それでもなお、人生をあきらめまいとして、「それでも人生にイエスと言う」という歌を作り、これに望みを託したのです。

 先に、人間のなす行為のなかで最も価値の高いものは「態度」だと言いましたが、収容所に投げ込まれた彼らは、それを実行しなければ生きていけなかった人たちでした。何しろ彼らは無力なのです。できることは「態度」しかないのです。彼らはその唯一できることを実行したのです。だからこそ、収容所体験をもつフランクルは、人間の究極の価値として、態度ということをあげたのだと思います。

「それでも人生にイエスと言う」という言葉には、前向きでおおらかな感じがあります。字面だけ見れば「人生を楽しもう」といった楽観的で、それこそ「幸福の弁神論」的なイメージです。しかし、実際にはまったく逆で、シリアスで深い意味を含んでいる言葉なのです。

 私たちは人生というものに対して、しばしば「この人生は、私にとって何の意味があるのか?」とか「この人生は、私にとってどんなよいことがあるのか?」とか疑問を抱き、不満を吐き出します。そして、意味がないかと思えば絶望し、最悪の場合は、自分の手で自分の人生を終わらせてしまったりします。(第七章で取り上げた)「人生なんて無意味だ」に出てくる子供達もそうです。彼らは「意味のあるもの」探しにとりつかれ、あやういところに踏み込んでしまいました。

 しかし、フランクルの主張はまったく逆です。

 人生とは、「人生のほうから投げかけてくるさまざまな問い」に対して、「私が一つ一つ答えていく」ことだと考えたのです。フランクルはこの考え方の逆転を、「コペルニクス的転回」と呼びました。収容所の人びとにこの考えをあてはめていうならば、人生のほうが「おまえはこの忍びがたい屈辱を忍ぶことができるか?」とか、「おまえはこの別れの悲しみを乗り越えられるか?」とか、問うてきたわけです。これに対して、彼らは、一つずつ、「イエス、自分は受け入れる」「イエス、それを受け入れる」と、答えていったのです。

 そして、人生からの問いかけに対して答えつづけた人だけが、すべてではないにしても、過酷な試練を乗り越えて生き延びたのです。逆に、途中で答えるのをやめた多くの人が生から脱落してしまったのです。

 問いに対して「答える」ということは、「応答すること」であり、すなわち「決断する」ことであり、また「責任を取る」ということでもあります。

 「責任」と訳されるresponsibilityという英語が、「応答」を意味するresposeから派生してできた言葉だということも、「答える」ことと「責任を取る」この関係性を示しているといえます。

 こうして見てくると、人生からの問い一つ一つに、きちんと「イエス」と答えていくということは、決して楽天的な選択ではなく、非常に重い決断であることがおわかりでしょう。

 このことを、先に見た三つの価値に対応させて考えてみると、自分が世界に対して要求をしていくのが「創造」であり、自分を超えた世界からの要求に対して、責任をもって答えていくのが「態度」ということになります。

 しかし、「態度」を単なる受動的なものとみなすのは間違いです。世界というものを、自分の力の及ばざる「超意味」の存在として認識しつつ、なおかつそのなかで、自分が問われている役割について、一つ一つ責任をもって決断していくことです。これが「態度」ということであり、運命を唯々諾々と受け入れることではないのです。

 (姜尚中著『続・悩む力』集英社新書、2012年発行、205-207頁より引用しています。)

 
 原発事故で飯館村からの非難を余儀なくされ、フランクルの「それでも人生にイエスと言う」を励みにされている小林麻里さんという女性を柳田先生が紹介されました。
20代を心の病気で過ごした小林さんは30代で結婚、飯館村に移住して民家を借りて農作物の種を蒔き、人生をやり直そうとしましたが結婚から2年半で夫が病気のために他界。そして、立ち直ろうとした矢先に3.11と原発事故。「書くしかない」とその後日記を綴られ、本にまとめられたそうです。本の中に、「私の魂はこういう経験をしたかったんだと気づいた」という記述があるそうです。


 本当にいろんな方がいらっしゃって、どちらがより大変だとか比べっこするものではないです。人それぞれ。これでもかこれでもかとやってくる試練。それらから逃げ出すことなく向き合ってきた、もがきながら必死に自分の正直な気持ちと向き合ってきたら気が付いたとき今ここにいます。
人生の大きな転換期、私はまだこれでよかったんだ、私には必要なことだったんだと思うことができないでいます。それはきっと次へと具体的に踏み出せたとき。今はまだどこに踏み出せはいいのかわからず、自分の至らなさが招いたことだと自分を責めるばかり。一個人の責任だけではないこともわかっています、一個人の責任だけにされてしまうのはあんまりだとも思ってはいますが、今は自責の念が大きいし、なんだかやりきれなくて力が抜けています。
私がほんとうに納得できるまでには、まだしばらく時間が必要なんだろうと思います。


来月自死遺族の当事者として始めて少し話をさせていただくことになりました。
大切な役割。思いを振り返り、自分の中で整理し直して伝えられたらいいなと思います。

「大草原の小さな家」への旅_ミネソタ州ワバシャ

2015年02月05日 20時57分34秒 | 「大草原の小さな家」への旅
「西部に入った私たちは、ミシシッピ河畔の町ワバシャで、ランチをとった。

 
 今はひっそりした町だが、アメリカの南部と北部を結ぶミシシッピ河の水上交通が盛んだったころは、にぎやかな土地だったのだろう。河のほとりには巨大な穀物倉庫があり、その取引の事務所だったと思われる建物がならんでいた。

 
 実は、ここワバシャもローラにゆかりがある。一家は、物語に書かれているよりも、ずっと頻繁に各地を移動していて、この近くに住んだこともあるのだ。

 『プラム・クリークの土手で』(1937年)の舞台ミネソタ州ウォルナット・グローヴで、イナゴの大群にあって大不作となり、暮らしに困った一家は、エリザおばさんとピーターおじさんの家に、一時期、身をよせた。それがここワバシャ群なのだ。」

(松本侑子著『アメリカ・カナダ物語紀行』平成21年幻冬舎文庫、168頁より引用しています。)




収穫祭の飾りつけでしょうか、街のあちらこちらでこんな光景を見かけました。



すごくかわいた感じがします。




お昼にいただいた野菜のハンバーガー。



西部のナンバープレート。



街の古いホテルの入口、ラブリーな内装の写真は次回。



春なのに寒い日

2015年02月04日 21時45分34秒 | 日記
今日は立春だそうですが明日の朝は雪が降ろうかという寒い夜になっています。
これからしばらくが一年で一番寒い頃ですよね。
それでも窓から見える小さな小さな山の木々は少しずつ、緑へと、新しい季節へと
生まれ変わっていこうとしています。

数年前の今ごろ具合が悪くなってお医者さんにいって、風邪薬を処方してもらって飲んでもよくならないので、またお医者さんにいったら軽いインフルエンザにかかっていたということがありました。所定日数分の薬を飲んで、飲み切ったらフラフラしながらおでこに冷えピタを貼って職場に行きました。二人分労働の業務量オーバーで大変だった頃のお話。今は不思議な感じです。

ちょっときついところですが、あまりがんばりすぎずに、でも自分で動いていくしかないので、今日はまたちょっとがんばりました。どんな出会いが待っているのか、自分の目で確かめるしかないので、混乱の収束もまだですが、今やれそうなことからやってみます。

気持ちの整理がかなりついてきて、こういうことだったんだと、
ようやく自分の中でストンと落ちてきたのは大きいかもしれません。
最終的にどんな形で、どう自分が納得できるのかはまだわかりません。
今まで積み重ねてきた自分の引き出しを総動員しないとここまでくることはできなかった大変なこと。
これからはもう少し肩の力を抜いて、ほんとうに自分のために、正直ベースの私のままで生きていけたらいいなと思います。
そんな出会いがあるのかな・・・、手さぐりは続きます。

『モーツアルト』(3)

2015年02月02日 22時37分25秒 | ミュージカル・舞台・映画
「どうすれば
 自分の影から 逃れられるのか?
 自分の過去から 解き放されたい
 心捨てれば 忘れられるのか
 自分の影から 自由になりたい

 不安で一杯 のしかかる重り
 何を聞いても答えてはくれないのに
 何処かで見てる 息がつまりそう
 いつかアイツに 殺されてしまうだろう

 自分の影から 逃れられるのか?
 自分の定めを 拒めるのだろうか?
 殻を破り 生まれ変われるのか?
 自分の影から 自由になりたい

 運命に
 従う他ないのか
 絶対に
 無理なのか
 影から
 自由になりたい」

(ヴォルフガングが歌う「影から逃れて」より)


2014年12月16日夜の部のキャスト

ヴォルフガング・モーツアルト:山崎育三郎
レオポルト(モーツアルトの父);市村正親
ナンネール(モーツアルトの姉):花總まり
コンスタンツェ(モーツアルトの妻);平野綾
ヴァルトシュテッテン男爵夫人:春野寿美礼
コロレド大司教:山口祐一郎
コンスタンツェの母:阿知波悟美
コロレドの部下:武岡惇一
シカネーダー(劇場の支配人):吉野圭吾



11月27日昼の部とキャストが違うのはヴォルフガング、ヴァルトシュテッテン男爵夫人とアマデの子役ちゃんの三人だけでした。
この日は、終演後に山崎さんによるお見送りイベントというのもあり、舞台衣装のまま観客を見送ってくださいました。間近で拝見する山崎さんは美しかったです。

幼い頃の自分の影アマデと生涯葛藤し続けるヴォルフガング。
自由奔放な井上さんヴォルフガングとアマデの対決にはすごく緊迫感があってどきどきしましたが、山崎さんヴォルフガングはもう一人の自分アマデを拒みながらも、より二人で一人といった雰囲気だったでしょうか。
生きるのが下手で、危なっかしくていつもはらはらさせられるヴォルフガング。
ラストの自らの胸に羽ペンを刺してアマデと共に旅立つ姿は、緊張と共に心に残っています。
アマデを演じる子役ちゃんもまた演じる女の子によって、雰囲気が違いました。
この日は、より柔らかくヴォルフガングにいつも寄り添っている感じのアマデでした。

ヴァルトシュテッテン男爵夫人は春野寿美礼さん。
香寿たつきさんのヴァルトシュテッテン男爵夫人はヴァルフガングの背中を押す雰囲気でしたが、春野さんは見守っているという雰囲気だったでしょうか。
「星から降る金」をていねいに美しく歌われていました。宝塚の男役時代は一度しかみたことがなく、2012年の「エリザベート」で拝見して以来でした。
同期の花總さんとこうやって同じ舞台に立たれているのも、なんだか感慨深いものがあります。

同じ役で同じ歌、台詞なのに演じる人によって、舞台全体の雰囲気も変わってきます。
だからダブルキャスト、トリプルキャストになると一回では終われなくなってしまいますね。
心のエネルギーチャージのためにはこんな時間も必要でした。


今夜もすごく寒いですね。
自分にふりかかってきたことも日本でおこっていることも世界の中でおこっていることも、いろんなことが混沌としすぎていてどう受けとめればいいのかわからないことの連続でおいついていかない。
ドライにも機械的にもなれない私は、どこに漕ぎだせばいいのかわからず戸惑いながら、ようやくまた少し書いてみました。
こんなこと言っている私がもちろん私が甘いのですが、なんだかほんとうにわからない感じがするばかりです。正直ベースで生きていけないとすごく息苦しいけど、正直ベースではたぶんむずかしい・・・。わかならいです。

35年の生涯で、そうとは知らなくても今も私たちの耳にしみ込んでいる曲を残してくれたヴァルフガングのことをまた書ければと思います。


(写真は全て東宝の公式フェイスブックから転用しています。)

山崎さんヴァルフガングとアマデ




「魔笛」の場面、山崎さんヴァルフガングと吉野さんのシカネーダー



春野さんのヴァルトシュテッテン男爵夫人




姉ナンネールと父レオポルトが見守る中皇帝の前で演奏するアマデ



ヴァルフガングがザルツブルグの家の飛び出してしまった後の姉ナンネール
「私はプリンセスで弟はプリンス」と歌うのが、二度目ではとてもせつなく響きました。



キャストボード



上演時間のお知らせボード