「その日は暑い日曜の午後だった。陽子は林の中の木の株に腰をかけて、よみかけの「嵐が丘」を読んでいた。林の中は涼しかった。
小説の主人公ヒースクリッフが捨て子であるということが、陽子の感情を刺激した。ヒースクリッフの暗い情熱が陽子にのりうつったような感じだった。陽子は息をつめるようにして読んでいった。捨て子だった主人公が、兄弟のようにして育ったキャザリンを愛し、キャザリンが人妻になっても執着し、遂には死んでしまったキャザリンの墓をあばき、キャザリンの幻影をいだきながら死んで行く激しさが、生みの親を知らない陽子には共感できた。
(親に捨てられた子は、ヒースクリッフのように、両手をさしのべていつまでも自分の愛するものを、〈ただひとつのもの、かけがえのないもの〉として老い求めずにはいられないんだわ。自分が親にとってさえ、かけがえのない者ではなかったという絶望が、こんなに激しく愛する者に執着するんだわ)
読みながら陽子は、自分もまた、激しく人を愛したいと思っていた。そして愛されたいと思っていた。
時々釣竿を肩に、小さなバケツを下げて、林の中の堤防を子供たちが通った。だが陽子は小説に熱中して気づかなかった。まして、陽子の思いつめたような横顔に、じっと視線を当てている青年が、チモシーの茂る小径に立っていることなど、気づくはずはない。
(すごいわ。ヒースクリッフは床をみても、敷石をみても、どの雲も、どの木も、キャサリンの顔に見えるんだわ)
陽子はヒースクリッフがうらやましかった。死んだ愛人の墓をあばいて、その後もなお面影を求めつづけるヒースクリッフこそ「かけがえのない存在」を持った人間なのだと陽子はうらやましかった。
(でも、彼はキャサリンにとって、〈かけがえのない存在〉ではなかったのだわ)
陽子は本から顔をあげたまま、思いつづけた。
(恋愛をするのなら、わたしもこんなに激しく真剣な恋愛をしたいわ)
その時、陽子の足もとをリスが走った。おどろいて立上った時、白いワイシャツに黒ズボンの青年が、陽子をじっとみつめているのに気づいた。」
(三浦綾子『氷点(下)』昭和53年5月20日第1刷発行、朝日新聞社、147~148頁より)