たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出-フォンテーヌブロー宮殿-年代記

2022年02月09日 00時00分01秒 | パリから世界遺産を訪ねて
2008年9月10日(水)、JTBの格安ツアーで訪れました。

写真も旅日記もないので現地で購入した日本語の見学ガイドより、

「年代記-8世紀にわたる歴史

 フォンテーヌブロー宮殿は、狩猟に適した鳥獣が多く棲む広大な森のなかにあり、8世紀にわたって、国の支配者たちのお気に入りの場所であった。ルーヴルやヴェルサイユとは異なり、この王宮が政治の中枢の場になったことは一度もなく、どちらかといえば、特に狩猟シーズンに都会の喧騒の中から逃れ、家庭的なくつろぎを楽しむ館として好まれてきた。このように常に愛されてきた建物や装飾は、それぞれの時代の流行にあわせて絶えず修正や拡張が行なわれ、その美しさに磨きがかけられた。一目でここを理解するのが難しいのはこうした理由からであり、同時にまた、フォンテーヌブローの豊かさと価値も、同じ理由によって説明できる。実際、それぞれの統治者が自らの必要や欲望に応じて翼館の増築、建物の取り壊しや再建を行ったため、視点をかえるたびに、それまでとはまったく別の宮殿がそこにあるように思えるほどである。したがって、その歴史をたどれば、この宮殿をより深く理解できるであろう。

 12世紀、少なくともルイ7世の治世には、この地に城塞のあったことが知られている。聖王ルイ(ルイ9世)は都会を離れてここに来ることを好み、1259年には、病院の維持を担う三位一体修道会の修道院をこの傍らに建てさせた。端麗王フィリップ4世はこの宮殿で生まれ、亡くなっている。15世紀になると、宮殿は王妃イザポー・ド・パヴィエールによって美しく装飾された。

 1528年、パヴィアの戦いによって敗れ捕虜となっていたフランソワ1世は解放され国に戻ると、首都から遠く離れることなく狩猟を楽しめ、しかもパリから逃れることのできるこの場所に愛着をもつようになった。王は中世の建物の土台の上に新しい宮殿を建てることにしたが、正方形をした大きな塔であるドンジョン(主塔)は取り壊さずに残し、その開口部のみが採光をよくするために広げられた。ドンジョンは現在も「楕円形の中庭」の奥に見ることができる。また、イタリアで接した建築に魅了された王は、森に面する側に新しく「黄金の門」を造らせた。この門は、現代的なピラスター(付け柱)と三角形のペディメント(切妻壁)の付いた窓、そしてロッジアで装飾が施されている。さらに中庭に突き出た部分には、「セルリオのポルチコ(柱廊)」と呼ばれる堂々たる会談も造らせた。この会談は後にファサードと一体化された。」


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