たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2018年『1789バスティーユの恋人たち』_思い出し日記(3)

2020年06月05日 23時34分43秒 | ミュージカル・舞台・映画
2020年6月3日:2018年『1789バスティーユの恋人たち』_思い出し日記(2)

https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/4405eba342604a8eb4b89ff96ca94298


(2018年帝国劇場公演プログラムより)

「1789年7月14日-世界を変えた日、世界を変えた若者 竹中幸史(山口大学人文学部教授)

ジャーナリズムの力

 本作でロナンはロベスピエールと出会って印刷工として働きはじめ、革命へと導かれていきます。史実でも、デムーランとロベスピエールはパンフレットや新聞を発行して自らの主張を広めているのですが、こうしたちょっとした伏線もフランス革命の革命たるゆえんに大きく関わっています。

 そもそも、フランス革命はなぜ全国的な市民運動に展開しえたのでしょう。その要因の一つは活字メディアによって国民が情報を共有できるようになったことです。近年の研究によってフランス革命期には新聞創刊数の激増が見られたことがわかりました。たとえば1786~88年の3年間、フランス語新聞は国外も含め、119紙が創刊されていました。ところが88年夏にネッケルが政治犯の釈放と検閲の廃止を決めたことにより、人びとが理想を語り、旧体制を批判し始めます。1789年には、何とパリだけで144紙が産声をあげました。このうち日刊紙が59、週2・3刊のそれが38であったといいますから、まさしく毎日ニュースが飛び交うようになったわけです。

 革命がはじまると、この数はいっそう伸びてゆきます。1799年までの10年間では、パリにおける新聞創刊数は1899、地方でも332にのぼりました。ジャーナリズムの黄金時代が到来したわけですが、これによって首都における事件が全土に伝わり、市民が同時多発的に行動することが可能になったのです。とはいえ限界もありました。当時、地方において各地の方言を話すのが普通で、正確なフランス語を日常的に話すのは人口の1割強に過ぎなかったのです。しかしこの空隙を新聞より手軽で、読み上げやすいパンフレットの洪水が埋めつくしました。1789年~99年までに発行されたパンフレットは実に1万3000タイトル。人びとは新メディアと口コミで情報を得て、思いを共有したのです。作品中のデムーランの「僕は『人民に自由を!』と書いた最初の革命家になる!」という叫びは、まさしく新時代の産声でした。」

 物語で印刷工となった農民のロナンは、弁護士のロベスピエールとデムーランに対して、俺だって字ぐらい読めるといきがっていました。ロナンをはさんで、肩を組んで「革命の兄弟」をうたい、志をひとつにしたロベスピエールとデムーランがこの数年後には袂をわかち血で血をあらうことになっていくという史実。「かつての友が憎い敵に・・・」、『鎌足』の中で入鹿を討つ決心をした鎌足の歌の一小節ですが、人の心のあやうさを歴史は語っているなとつらつら思います。

2016年の帝国劇場公演より。

















この記事についてブログを書く
« 星組『鎌足-夢のまほろば、... | トップ | それでも新幹線は走っている »

ミュージカル・舞台・映画」カテゴリの最新記事