「Ⅱ 送る言葉」
「私が上野英信門下であることは自他共に認めることであるが、しかし私の記録文学第一作になる『風成の女たち ―ある漁村の闘い』執筆中には、私はまだ氏に出会っていなかったし、・・・/・・・、氏の『追われゆく坑夫たち』すらまだ読んでいなくて・・・/・・・私が『風成の女たち』出版後の〈事件〉で追いつめられて・・・のちに彼等の方から誤解を詫びてきた。・・・/とはいえ、私が不肖の門下であることは紛れもないことで、「君は本を出し過ぎるよ」という氏の小言一つにも、ただただ小さくなって首をすくめざるをえない」(pp.163-167)。
上野さんに関する印象に残る一篇「原石貴重の剛直な意志」(pp.168-195)。もう一度読み直したい一篇。師としての上野さんとの触れ合いと別れ。魚住昭さんに通づる、ジャーナリスト、ノンフィクションライターとしての「業」。「少数の同志の中からは逮捕者」得さん。しかし、師曰「君ねえ、ほんとうに苦しい闘いというのはだね、自殺者が何人も出るものなんだよ。君らの闘いに、もう自殺者は出たのかね」!!、「一瞬にして口を緘 (かん) せられたように、私の嘆きは封じられることになった」。筑豊の泥くさき「ドロキツイスト」上野英信。『暗闇の思想を』は僭称であり、「・・・筑豊の地の底の闇を知らぬ私に「暗闇の思想」を名乗る資格は、もとよりないのであった」。晴子さんや朱さんのことも。町立病院での最後のやり取り。また、センセの書いた書評に対して、上野さんは「・・・いま、ぼくは泣いていました」。このエピソードは「筑豊を掘り進む 上野英信著『出ニッポン記』解説」(pp.199-204) にも。