ブリショは道化師にも満たない役割を与えられている。そしてその種の人間は今なお大勢いる。ヴェルデュラン夫人がまだほとんど何ものでもなかった頃からのサロンの常連にありがちな記憶接続者として登場してはまた消える。この箇所は何度目かの再登場シーン。報告者は<私>。
「想いうかべる今は亡きサロンに捧げるブリショの微笑みを目の当たりにした私は、昔のサロンでブリショがもしかすると自分でも気づかずに愛しているのは、そこにあった大きな窓や、主人(パトロン)夫妻と信者たちが愉快にすごした若き日々である以上に、サロンのみならずあらゆるものに認められる(私自身もラ・ラスプリエールとコンティ河岸とのあいだに認められるいくつかの類似から抽出した)非現実的な部分であり、だれもが点検できる現在の外形はその延長にすぎないと悟った。この非現実的な部分は、私とことばを交わしている老教授にとってのみ存在する色合い、老教授も見せてくれるわけにはゆかない色合いをまとった純粋に精神化された部分であり、この部分が外的な世界から離脱してわれわれの心のなかに移り住み、その心に剰余価値を与え、心のふだんの実体と同化し、心のなかでーーー破壊された家並みや、昔の人たちや、コンポートに盛られた夜食の果物など、われわれの想いうかべるものがーーーわれわれの想い出からなる半透明な雪花石膏(アラバスター)と化してしまうと、その雪花石膏の色合いはわれわれにしか見えず、その色合いを他人に見せることができないがゆえに、こうした過去の事物について、われわれはうそ偽りなく他人にこう言うことができる、それがどんなものかは他人にわかるはずがない、それは他人が見たものとは似ても似つかぬものだ、そうした事物に心中で想いを馳せるとき、消えてしまったランプの光といい、もはや花をつけることのないクマデシの並木の香りといい、それらがなおしばらく生き残るのもわれわれの思考が存在するかぎりかと考えると、ある種の感慨を禁じえないと」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.216~217」岩波文庫 二〇一七年)
文字通りブリショの頭の中での作業について述べられている。そして極めて多くの人間が思いがけずしばしば繰り返している作業でもある。だがこの事態を可視化することができるのは翻訳というべき作業の仕方に習熟した芸術家に限られる。画家エルスチールの作業はその典型例として上げられている。
「エルスチールはどんな花でも、われわれがつねにそこに留まらざるをえない内心の庭へ移植するのでなければ、それを眺めることができなかったからである。エルスチールはこの水彩画のなかに、画家の目で見つめられ、その画家なくしてはけっして知られなかったバラを出現させたのであり、それゆえにこれは、創意工夫に富んだ園芸家と同じように画家の手であらたにバラ科に加えられた新種のバラと言えるものなのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.216」岩波文庫 二〇一五年)
しかし同じセンテンス内に置かれているため、重ね合わせの作業がなぜか切断論的操作と一緒くたに混同されるという勘違いがたびたび生じる。読者にとってはほとんど避けようのない勘違いだろう。にもかかわらずプルーストはおそらく意識的だ。
「サロンの昔の家具のうち、ときには配置もそのままここへ移され、また私自身にもラ・ラスプリエールに存在したとわかる家具は、現在のサロンのなかに昔のサロンのさまざまな部分を組みこんでいて、そうした部分は、ときとして幻覚と見まがうほどに昔のサロンを彷彿とさせるかと思うと、こんどは、ほかでしか見られないと想いこんでいた今は亡き世界の断片を周囲の現実のただなかに浮かびあがらせる点で、ほとんど非現実のものかと思われた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.217」岩波文庫 二〇一七年)
注目すべき後者。切断論的なプルーストの態度がとりわけ目立つ様相で描かれている。パッチワーク化作業に先立つ<断片>への取り組みという前提。エルスチールの絵画で<私>は次のように報告する。
「街なかの橋の下をぬって流れる川にしても、特別な視点から描かれているために、完全にとぎれとぎれになり、こちらでは湖のように広がっていたかと思うと、あちらでは糸のように細くなり、またべつの箇所では、街の人たちが夕涼みにやってくる丘が割って入るために途切れたように見える。この混乱した街のリズム全体を保証しているのは、いくつかの鐘楼の辿るびくともしない垂直の線だけである。それらの鐘楼は上にそびえ立つというより、むしろおのれの下に、凱旋行進で拍子をきざむ糸に吊るした重りのように、押しつぶされてずたずたになった川に沿って、靄のなかに折り重なっていっそう判然としない家並の総体を釣り下げているようだった。また、断崖のうえや山のなかで、自然のなかの半ば人間のものというべき道が、川や大海原の場合と同じように眺望の具合で途切れることがあった。山の稜線や滝のしぶきや海などが、道をずっと辿ることを妨げ、歩む人には見えている道が私たちには見えなくなるのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.426~427」岩波文庫 二〇一二年)
あるいは次の例も切断論的意味合いでは同じである。
「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
ただ、それが「夢」という形式を取っているからか、<夢という切断>、<切断としての夢>、という言葉では余り語られてこなかったし、語った批評家はいてもほとんど相手にされないままとっとと消化吸収できたかのような自己欺瞞的な態度で通過されてしまい今日に至っているのは残念で仕方がない。「とほほ」な現実社会。現実社会の「とほほ」さ。しかしそれは一体どれくらいの程度、強度と広がりとで、なのだろう。
例えばプルースト作品を取り上げてみても、読者の数だけ読み方があるのではなく、読者数以上の読み方が提出され提案され得るし、なかには採用さえされてきたものも当り前のように見られるはどうしてか。なぜそのようなことが可能なのか。可能になったのはいつ頃からか。
ここでヘーゲル弁証法を取り上げることは余りないけれども、だからといってここからヘーゲルが消えたことは一度もない。社会からヘーゲル弁証法が消えていないのに消えたふりをするのは余りといえば余りにも危険過ぎる身振り(言葉・振る舞い)だと思わないわけにはいかないからだが。では<リゾーム>は?当たり前のように世界中を謳歌している。もはや世界中がリゾーム化したからだ。今や<世界=リゾーム>と述べてもまるで間違いということは全然ない。そのぶん破格的に難儀な社会になった。カフカはいう。
「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)
ステレオタイプ(紋切型)な「はしご外し」という言い回しの非妥当性。前にも述べたがカフカが書いているような意味で、読者はいつも、この種の面くらわせる「はしご」を登らされている。ニーチェ流の言い回しとも言える。上に向かって登っていくかのように見えている「はしご」。だがその「はしご」のすぐ二、三段上までがかろうじて見えているに過ぎず、下の段は、足を離せば瞬時に消え失せる。そんな「はしご」だ。とはいえ、読者はまだまだいいのである。読書の次元で済まされるほかないから。ところが、実際に言語とか貨幣とか、信用を取り扱って生きている人々、とりわけ「IT長者」という立場、は万一の場合大変危うい。そこまでの事情はほとんど最大多数というくらいの人々が知らないし知らされることもない。巻き込まれつつ生まれてくるしかない未来の人々について、何一つ責任を持たなくてもいいのだろうかと思案に暮れるばかりだ。