谷崎潤一郎「細雪」から酒井順子は「なぜ、妙子は洋裁を習ったのか」と問う。
「なぜ、妙子は洋裁を習ったのか。家出騒ぎを起こした船馬のぼんとはだらだらと交際が続いていたが、ぼんと別れて独身生活をしていくとなったら経済力が必要になるから、という感覚を妙子は持っていた。
今なら『しっかりしたお嬢さんだ』とされる考え方だが、妙子の周囲は、洋裁を習うことに大反対している。
『こいさんが職業婦人めいて来ることには絶対反対』
という気持ちを姉は持っているし、交際相手のぼんも、
『職業婦人みたいなことはせんと置いてほしいんです』
という意見。
戦前、『職業婦人』は差別的な響きを持つ言葉だった。そこには、『女なのに働かなくては食べていくことができないかわいそうな人』という響きが含まれていたのであり、特に上流階級の人々は、生活のために働く女性に対して差別的な意識を持っていた」(酒井順子「習い事だけしていたい(9)」『群像・3・P.415~416』講談社 二〇二五年)
こうある。
「戦前、『職業婦人』は差別的な響きを持つ言葉だった」
「今なら」多くの人々がそんな差別的社会構造の実在をかつて日本にあった歴史的事実として認識しているだろうとおもう。
けれども、もうひとつの「今なら」は何らかの「問い」と「答え」なしに通り過ぎることが非常に困難な意味とすぐさま接続しないわけにはいかず、少なくとも一部の読者を困惑・座礁させる、あるいは引っかかりを覚えさせることになるだろう。
「今なら『しっかりしたお嬢さんだ』とされる考え方」
ほぼ必ず問われる。「しっかりしたお嬢さん」とは何か。「お嬢さんは常にしっかりしていなければ(一人前とは)認められないのか」。
さらに。
「女は経済的観念や経済的実務能力に秀でていなくては差別的な意味でしっかりしていないとされるのか」
「経済的にしっかりしていない女はダメなのか」
「そもそも<しっかり>とはどういうことなのか」
「今なら」それこそ津波のように繰り返し寄せては返すに違いない「問い」を見ないわけにはいかない。
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