NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

ザ・フューチャー(原題;the Future)

2013-01-23 | 授業
なんだろうか。監督・脚本・主演と聞くと、北野武というよりもヴィンセント・ギャロが浮かんじゃう。そしてミランダ・ジュライの顔って他の俳優と表現形式が違う。浦沢直樹のマンガに萩尾望都というか。違うか。予告編を観てもまったくピンと来なかったけれど…


リトルランボーズ


冒頭、保護した猫を引き取るまでの時間が自分たちの残された自由な時間だと考えた(何で?)ダンス教室に勤めるソフィーとパソコンの遠隔サポート業務を行うジェイソンのカップルは自由な内に自分のやりたいことをしようと退屈でつまらない今の仕事を辞めてしまう(何で?ねぇ、何で?)。そして気の赴くままに自分のやりたいと、ほんのちょっとだけほんのちょっとだけ、思ったことをはじめる。具体的にはソフィーは自分が踊りたい創作ダンスを作ることであり、ジェイソンはたまたま道で声を掛けられた環境保護ビジネス(端的に言うと、寄付名目で木を売る怪しい商売)をはじめる。

「ELLE」日本版2月号のミランダ・ジュライのコメントによるとこれは「リアルに描いた」のだそうだけれど、創作ダンスと環境保護(という名の怪しいビジネス)と多くの人にとっては身近ではない職業。そもそも猫が家に来ることが自由な時間の終わり(=モラトリアムの終焉)という設定自体が寓話的だし、ソフィーもジェイソンもその仕事に本気に、心から取り組んでいるようではない。それはモラトリアムだから真剣にならないでも良いのか、モラトリアムだからこそ、その先の為に何かをすべきじゃないのか。でもソフィーはなんだかむにゃむにゃとダンスし、ジェイソンは訪問販売で寄付を募り木を売る。売れないけれど。


後半、ソフィーが偶然知り合った(この知り合い方もソフィーはメンヘルの危ない女にしか見えない…)おっさんとの立ちバック(!?)から物語は大きく転調する。ソフィーはおっさんの下に走り、ジェイソンを捨てる決意をする。別れ話を切り出されたくないジェイソンがソフィーの頭に「待って!」と手を置くと、何故か時間が止まる。状況が飲み込めないジェイソンに対して、月が状況を話して聞かせてくれる(これって『素晴らしき哉人生』の”神”として描かれる惑星のイメージなんだろうか)。おっさんの下に走ったソフィーの下に或るものが尋ねてきたり、ジェイソンが時間を戻すとか、ボキャブラリの少ないぼくの表現で言えば極めてデヴィッド・リンチ的な怪奇的な表現が展開される。



久しぶりにアート映画を見た気分。コンテンポラリーアーティストでもあるミランダ・ジュライの本領が発揮されてる後半部分とかは面白いけれど、基本的にはソフィー以外はみんな物語の駒でしかない。全編として苦笑せざるを得ない部分が続くけれども、そういう批判はいったん横に置いて、女性がこの映画をどう評価するのか大変興味深い。映画が終わった後、観客の大半を占めていたお洒落系女子の方々に感想を聞いてみたい所をぐっと抑えて帰って着た。(ちなみにエンドロールが始まると直ぐに席を立つ人が数人居たけれど、どれも男性だったように思う。)


良くも悪くもアート映画なんだと。