スゴイ人
2009-09-06 | 休み
コメント欄で教えていただいたところによると、聴講生が少なかったのは単純に夏休み期間の収録だったためだったとか。「学生、酷すぎ」なんて偉そうなこと書いていてるくせに、矢野顕子さんをまともに聴いたのは学校を出た後で、それも去年の話で、カバーアルバムと一番新しいオリジナルアルバムの2枚を聴いただけ。ラジオで聴いた「赤いクーペ」が聴きたくて。なんとも。
―佐野元春のザ・ソングライターズ(NHK)
佐野さんも指摘していたけれど、この人の真髄はカバーだと思います。いや視聴歴が浅いぼくの浅い聴き方ではあるけど。メロディーラインを大胆にぶっ壊して、矢野さんのリズム・メロディの上に詩を再構成する方法だから、どんなに色のついた・色のあせた他人の曲でも矢野さんの曲になってしまうし、その歌詞の持つ魅力を別の視点から見せてくれる凄さ。
「雷が鳴る前に」―槙原敬之(youtube)
「雷が鳴る前に」―矢野顕子(youtube)
もう別の曲です。前にも書きましたが、小学生の時に聴いていた聴きなれた曲も矢野さんのフィルターを通して聴きなおすとまったく異なった印象を受けます。正直に言って、矢野さんのカバーの方が好き。
一番印象的だったのは言葉の問題。定型質問での「嫌いな言葉は?」という質問。他の今まで登場してきた男性ミュージシャンは言葉を扱う人間の自負として「嫌いな言葉は無い」と言い切る中にあって、「人を卑下したり、人の品格を貶めたりする言葉は全部嫌い」と言い切ってしまえることが驚きでした。
詩と曲どっちが先かという質問に、「曲によって違う」とエクスキューズをした上で大抵は曲が先とするあたり矢野さん。「メロディとか出だしのなんかが出来て、それに言葉が「ちょっと待って」と言葉が乗っかってくることが多いかなぁ」という矢野さんの説明が全てをあらわしているように思います。
詩にしても意味性よりも曲、メロディーラインに重きを置いていて、カバーをする際にしても元のメロディを無視して、作り直して歌うのも「創意工夫のように思われますが、なんてこと無い(そのままだと)ただ気持ち悪いからそうやって歌うだけ」としてしまうのがやっぱり印象的。
カバーをする・しないの基準を問われれば、「言葉が結構大きな要素になってるんです。その詩の中に、私が普段の生活の中で口から出さない言葉がもし入っているならば、歌わないですね」と。自身の作詞にしても、自分自身と作詞の差異は無いと言い切れるあたりが凄い。みんなフィクションに逃げるのに。
そして「愛の歌」。特段に特徴的な言葉を用いて愛の歌を歌っているわけでもないのに、そもそも非常に平易な「愛」という単語を使って陳腐になりそうで、陳腐にならない。やっぱりそこには、もちろん言葉の置き方もあるのだろうけど、矢野さんの声が変な自意識を含んでいないからこその力なんだと思う。そしてそこに多分嘘が無いからなんだと思う。というか自意識を意識させないのは自分を誇張も萎縮もしないからなんだろうと思う。
この人を駆動させるのはやっぱり感性なんだと今回見ていて思いました。一言で言ってしまえば天才、ワンアンドオンリーなんだと。今まで登場してきた人たちも非常に才能あふれた人なんだと思いますが、努力や理性による抑制が強い人だとも思える。でもこの人は好きか・嫌いか、気持良いか・気持ち悪いかで曲を作れる。普通それは自己満足=気持悪い、になるんだけど、この人の自己満足は他人が見ても気持良い、それはもう天賦の才としか言いようが無い。素敵な人だなぁ、と。歌の通りに。
―佐野元春のザ・ソングライターズ(NHK)
佐野さんも指摘していたけれど、この人の真髄はカバーだと思います。いや視聴歴が浅いぼくの浅い聴き方ではあるけど。メロディーラインを大胆にぶっ壊して、矢野さんのリズム・メロディの上に詩を再構成する方法だから、どんなに色のついた・色のあせた他人の曲でも矢野さんの曲になってしまうし、その歌詞の持つ魅力を別の視点から見せてくれる凄さ。
「雷が鳴る前に」―槙原敬之(youtube)
「雷が鳴る前に」―矢野顕子(youtube)
もう別の曲です。前にも書きましたが、小学生の時に聴いていた聴きなれた曲も矢野さんのフィルターを通して聴きなおすとまったく異なった印象を受けます。正直に言って、矢野さんのカバーの方が好き。
一番印象的だったのは言葉の問題。定型質問での「嫌いな言葉は?」という質問。他の今まで登場してきた男性ミュージシャンは言葉を扱う人間の自負として「嫌いな言葉は無い」と言い切る中にあって、「人を卑下したり、人の品格を貶めたりする言葉は全部嫌い」と言い切ってしまえることが驚きでした。
詩と曲どっちが先かという質問に、「曲によって違う」とエクスキューズをした上で大抵は曲が先とするあたり矢野さん。「メロディとか出だしのなんかが出来て、それに言葉が「ちょっと待って」と言葉が乗っかってくることが多いかなぁ」という矢野さんの説明が全てをあらわしているように思います。
詩にしても意味性よりも曲、メロディーラインに重きを置いていて、カバーをする際にしても元のメロディを無視して、作り直して歌うのも「創意工夫のように思われますが、なんてこと無い(そのままだと)ただ気持ち悪いからそうやって歌うだけ」としてしまうのがやっぱり印象的。
カバーをする・しないの基準を問われれば、「言葉が結構大きな要素になってるんです。その詩の中に、私が普段の生活の中で口から出さない言葉がもし入っているならば、歌わないですね」と。自身の作詞にしても、自分自身と作詞の差異は無いと言い切れるあたりが凄い。みんなフィクションに逃げるのに。
そして「愛の歌」。特段に特徴的な言葉を用いて愛の歌を歌っているわけでもないのに、そもそも非常に平易な「愛」という単語を使って陳腐になりそうで、陳腐にならない。やっぱりそこには、もちろん言葉の置き方もあるのだろうけど、矢野さんの声が変な自意識を含んでいないからこその力なんだと思う。そしてそこに多分嘘が無いからなんだと思う。というか自意識を意識させないのは自分を誇張も萎縮もしないからなんだろうと思う。
この人を駆動させるのはやっぱり感性なんだと今回見ていて思いました。一言で言ってしまえば天才、ワンアンドオンリーなんだと。今まで登場してきた人たちも非常に才能あふれた人なんだと思いますが、努力や理性による抑制が強い人だとも思える。でもこの人は好きか・嫌いか、気持良いか・気持ち悪いかで曲を作れる。普通それは自己満足=気持悪い、になるんだけど、この人の自己満足は他人が見ても気持良い、それはもう天賦の才としか言いようが無い。素敵な人だなぁ、と。歌の通りに。