NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02009年003月014日(土)

2009-03-14 | 休み
「亜美ちゃんを幸せに」とは? 『週刊とらP!』で制作陣にインタビューを敢行!!(電撃オンライン)

気になった部分だけ少し抜粋。

――竹宮先生からは、どのような要望があったんですか?

小林さん:「亜美ちゃんを幸せにしてほしい」と。強い要望でしたね。

――ちなみに制作期間はどれくらいになるんですか?

亀谷さん:1年と3カ月くらいですね。新しい技術を入れているので、少し試行錯誤な部分もあったんですよ。そういう部分でもちょっと苦労しました。
(上記リンクより一部抜粋)



竹宮先生の要望もそうですが、まさに主役の2人以外が一切報われない形で終わりそうなことになっているので、こういうゲームは必要。まぁ、どこまで描いているかにもよりますが。どうせならGW最終日に大河と竜司がファミレスに行かなければ展開が変わったみたいだったらもっと嬉しかったかもしれませんが、そんなボリュームは不可能なのでこれだけでも凄いなぁ。

発売時期が放送終了後1ヶ月後になったというのは今後の展開込みの長期戦略なのかぁ?と期待せずにいられなかったですが、結局のところ一度作り直されたため開発期間が長期化した単なる遅延みたいでがっかり。角川はこのところパブリシティの一貫として一部作品をU局で再放送したり、Youtubeで全話公開などやってるので、U局とかで再放送してくれないかなぁ…

02009年003月012日(木)ところどころデッサンが狂っているような

2009-03-12 | 休み
よく考えれば原作の序文からして、アニメ版の竜児と大河のモノローグからして、もともと竜児と大河が運命の相手同士ということが示唆されていたので当然は当然。前半戦でことあるごとに櫛枝が2人のことを運命の相手同士であることを冷やかしていたりもしていたし。バイトの帰り道の2人のシークエンスがバカップルっぽい。


好き同士がそのことを薄っすら分かりあってる様は傍から見ると、微笑ましくもあり、ちょっとイラッとしたりするなぁ。大河の「普通に恋がしたい」のそのココロは恋人同士として竜児と出会いたかったということなんだろうなぁ、と。


竜児と櫛枝が付き合えば良いという、大河の櫛枝への優しさは竜児に告白を拒否されたときに竜司を失うことへの逃げであって、実際は櫛枝のためではなく。やっちゃんのために進学を諦め就職するという、竜児のやっちゃんへの優しさは今まで苦労をかけてきたやっちゃんへの気遣いのようでいて、その実は自分の将来への責任を回避しているということなんだろう。


第11話 「大橋高校文化祭【前編】」

この構造は今までに幾度と無く繰り返されていて、学園祭のエピソードで頑なに父親との対面を拒む、大河に半ば無理やりに父親と合うべきだと説き諭した竜児のその内実は父親と大河が一緒に暮らしたほうが良いという思いやり、大河への優しさではなく竜児自らがなしえない父親との邂逅の代替行為だったと思える。というか竜児自身、後半にそのことを認めている。


第3話 「君の歌」

この構造を目の当たりにすると、第3話「君の歌」のあるシークエンスが思い出される。休日も休み無く働く「蘇る勤労」のことをあれこれと詮索して「もしかして 金が必要な理由があるんじゃないか?」と大河に食い下がり質問を続ける竜司に対して大河は「そういう思い込み 捨てた方が良いよ」と切って捨てる。


一見素晴らしいことのように思える相手への思いやりというものが、その本当に意図するところは相手への思いやりというよりも自身のエゴでしかありえないということなんだろうか。それがたとえ意識的であろうと、無意識であろうと。


能登が後半執拗に大河の肩を持ち、大河と北村をくっつけようと色々と工作する。けれどその真意というのは一生懸命なタイガーへの友情ではなく、北村へ思いを寄せる木原に北村を諦めさせようという能登自身の自己防衛として捉えることも出来ます。ただこの場合、その時点で能登に好意があったかどうかが問題になりますが。



にしても、櫛枝と大河の中身が入れ替わってしまってるのが気になるというか。自分の傷を木原や香椎に見せびらかそうとするなんて、しかも駄洒落だかなんだかよく分からない口上のようなものを交えてするなんて。少なくとも大河はまるで別人になってる。大河のバレンタインに関する考え方が欧米っぽい。さすがミッション系出身!


大河の「大丈夫!」という言葉にやっちゃんを重ね合わせて母性をみていたりして、もう幸せラストじゃなきゃ、嘘だよなぁ。この「終わりの始まり」的な空気が耐えられないなぁ。切ない。

02009年003月012日(木)

2009-03-12 | 休み
以前、土屋アンナさんがよく人種的な理由で苛め抜かれたとインタビューで語っていたのを見て以来、ハーフ(正しくはダブル)のタレントの人たちのそういった種類の発言をなるべく見て置くようにしていると、頻繁にそういったエピソードを持っている人が多かったことに驚きました。ぼくより下の世代の土屋さんでさえもそういったことがあるのかと衝撃を受けて見聞きしてました。

そんな土屋さんがエリザベスサンダーホーム出身者との対面をするという、テレビ東京の「トンネルの向こうはぼくらの楽園だった」をアナウンスされて以来待望していました。エリザベスサンダーホームについては色々と言われていたということとダン野村さんくらいの知識しかなかったのですが。


出演される方々のしわが皆誰一人の例外も無く深かったのが非常に印象的でした。


60年前に生き別れになった親族との60年ぶりの対面した方の対面した際の表情には喜びと戸惑いと怒りみたいなものがない交ぜになっているようなものが感じられ、時折フイと視線をずらすところにわだかまりの深さみたいなものが現れていたように見えました。テレビって凄い。

最もガツンと来たのは移民としてブラジルに渡った方が病床で残した言葉です。「親がぼくを置いていこうが 親がぼくをどこに連れて行こうが ちっともそれは親の責任ではない 罪じゃない」その方がブラジルで成功を収めて、しかも病床の淵にいたからかもしれませんが、そんなことを差し引いても凄い言葉だと思いました。




別の番組をブルーレイで撮っていた為に地デジで観つつも、録画はアナログでした。番組が終了して、「WBS」の予告の際にアナウンサーの方の目元が薄っすらと赤らんでいたように地デジでは観えたのですが、アナログの録画を見返してみたら画素がつぶれてよく分かりませんでした。地デジはそういう良さもあるのかなぁ。

02009年003月009日(月)気持ちの悪い独り言

2009-03-09 | 休み
暇さえあればDVDの第2巻を観てる。10話まではエピソード的には重くない、軽い話が殆どなので、リピートが止まらない。まぁ暇があるような、ないような感じですが。



wikiを見ると原作の竹宮ゆゆこさんは過去のインタビューの中で「高橋留美子の漫画『うる星やつら』・『めぞん一刻』の世界が流れている」と述べていると記載されてる。多くの場合否定的な語られ方をされるいわゆる「終わらない学園祭」をかなり肯定的に捕らえているところが印象的。

けれども「終わらない学園祭」を強く意識しているせいか、『とらドラ!』は確実に時間経過する。それにある時期を境にして、アニメ版であれば11話以降「学園祭」、「クリスマス」、「修学旅行」というイベントを通し時間とともに関係性も大幅に変化して行く。高橋留美子的世界を意識しながらもそれで終わってない。

諸星あたるとかと違って竜児はよくあるハーレム型の主人公だけれど、関係性の曖昧さや進展の無さ、または遅さはまさに高橋留美子的。それをギャグとかハイテンションなコメディとしてコーティングしているから余計にそう感じる。


にしても見えているものと見えてないもののギャップが面白いなと。しかも2段階。大河も櫛枝も川嶋もキャラクターとしてかわいく描かれているけど、見た目はかわいいが中身はそれぞれ…凶暴、馬鹿と言えるほどの底抜けの明るさ、計算高い狡猾さと言えるような表層的な中身・行動が1つ目のギャップとしてある。その下にまたそれぞれ人一倍の優しさ・寂しさ、繊細さ・暗さ、純粋さみたいなものが内実みたいなものとしてあって、2つ目のギャップになっている気がする。実は大河はツンデレではないし。

こんなほどにギャップがあって複雑なキャラクターたちが恋愛なんだか友情なんだかよく分からない関係性をグダグダと牛歩に進めてゆくんだから面白くないはずが無い。何しろ小ネタやギャグも面白いし。そんなキャラたちがしかも微妙に複雑な4角関係や3角関係が重なり合って物語が進められるんだから、しかもその関係性に対して自覚的でなかったりするのだから、見ているとヤキモキしてしょうがない。

けれど原作だけマンガだけだったらこれほど盛り上がったのかは疑問。テレビアニメがライトノベルや電撃系コミックよりも大きな訴求力を持つことを差し引いても、アニメ版無くしてはここまでの盛り上がりは見せなかったと思う。一番のアニメと原作の差異は、原作やマンガは竜司は大河を女子として強く意識しているということ。ことあるごとに竜児が大河を女子として「かわいい」と思っている描写が目を引く。


例えば序盤のバスケットボールの実技のシーン。


(原作版)正直に言えば、散々な目に遭わされた今でさえ、竜児は逢坂を「かわいい」と思ってしまう。見た目限定の話ではあるが、高鳴る心臓は嘘をつかない。(竹宮ゆゆゆこ 『とらドラ!』2006年 p113)

(マンガ版)子細は異なるが原作と同様に竜司が大河を「かわいい」と思っている描写がなされている。(原作:竹宮ゆゆこ 作画:絶叫 『とらドラ!』 2008年 p112~113)


同じ1巻のほぼ同じページというのがなんとも面白いが、このシークエンスの直後では原作・マンガともに大河と竜児の柔軟体操がある。両方ともにこのシークエンスで竜児は大河の体を女子の体と意識して、”ブラ線”を強く意識してとても高校生の男子然としてる。


(アニメ版)第2話「竜児と大河」


(この動画では4分35秒ごろから体育のシーンが始まる。)


原作・マンガとともに1巻にあたる第2話の前半のシーンですが、原作・マンガにあった竜児が大河を「かわいい」と思うシーンは無く、柔軟体操のシークエンスも無い。これはもちろん意識的に排除されたシーンだと思う。

これに関連して興味深いのが同じシーンで能登が櫛枝を相手に指名するシークエンス。原作は細かい描写が無く、アニメ版はそれこそニュートラルに誘っているが、マンガ版だと能登が照れながら櫛枝を誘ってる。(前掲書 p111)おそらくは原作の男子の女子観をっ持って描かれたんだと思う。


少し飛ぶけれど、アニメ版の竜児の櫛枝に対する客観的評価がまたまた興味深い。


(アニメ版)第21話 「どうしたって」




竜児が櫛枝に振られたと告白するシークエンス。竜児は櫛枝をして「あの訳の分かんねえ女」と言う。大河が、櫛枝を好きだという竜児に「生意気」と言ったにもかかわらず。身の程知らずという意味での言葉と解釈するのが自然であるので、そう考えると櫛枝は竜児には似つかわしくない、美少女と評価されていることになる。


何を意味するかと言えば、アニメ版の過剰な性的な描写の削除。高校生男子なんだから女子の”ブラ線”が気にかかったりするのはある種自然な反応です。だからこそ原作やマンガでは、竜児も大河を女子として意識していて、能登も櫛枝を女子として意識している。アニメ版でも美少女であるのだから能登が意識しても当然。でもそうなってない。

けれどアニメ版はあえてそこをはずして1種のファンタジーに作り変えてる。そうすると竜児と大河の関係性も若干の修正がある。竜児は大河に女子を見ていないということ。でもこれは竜児に限ったことではなく、主役である大河にもこの傾向が見て取れる。最も顕著なのが大河による北村への告白シーンのとあるシークエンス。


(原作版)「でも、その、別に、高須くんのこと嫌いなんじゃない!全然、嫌いなんかじゃないの!一緒にいると、息が苦しくならないの!いつも苦しいのに……そう思ってたのに……でも高須くんは……竜児は、私においしいチャーハンを作ってくれたの!傍にいて欲しい時に、竜児だけが傍にいてくれたの!嘘をついてでも、私を元気付けてくれたの!……一緒にいたいって、いつも、そう思うの!……今も、そう思ってるの!ちぎれそうで、なんだか痛くて、私。竜児を……いつだって、いつだって……今、だって!竜児が、いてくれたからっ!いてくれたから、私はこうやって……っ!」(前掲書 p229)


原作はもはや北村への告白を通り越して、確実に誰がどう見ても竜児への告白です。それもかなり具体的な形での告白。竜児が大河を女子として意識しているのと同様に、大河もかなり竜児を男子として意識しています。でアニメ版。

(アニメ版)第2話 「竜児と大河」


(この動画では37秒くらいから。それにしても良いエピソードです。演出が最高です。)

原作と比較すると、かなり抑え目に、竜児のおかげで勇気を出して告白できるという形で竜児を支援者的な形で伝えている。北村への告白にかこつけて竜児への告白とは取られない(北村には取られてはいるけど)ぎりぎりのラインを守っています。ちゃんと北村への告白になってます。もちろん言う順番もあるのですが、男子としての竜児を可能な限り避けてる。やはり通底しているのは女子、男子の抑制です。川嶋や春田など一部を除いて基本的に抑制的です。


結局何が言いたいのかといえば、アニメ版は原作とは違って性欲や恋愛感情を極端に控えて、感情も直接的な描写は避けて、煮え切らなさを醸成しまくっているということです。竜児と大河にしてもあの告白のシークエンスが原作どおりだったらここまではまらなかったと思います。だってそれじゃまんまですもん。だからこそアニメ版はより面白いんだと思います。




何で著作権無視の動画がyoutubeや他の動画サイトにごろごろと削除されずに置いてあるのかはこの辺りの事情だと。色々問題がありそうだけれど、後から見ようとする時、放送終了前に追いつくにはこういったアーカイブスが必要だなぁ。DVDリリースを待つと鉄は冷めちゃって硬くなるし。まぁ、DVDだろうがなんだろうが、買わずにはいられなくなるので関係ないですが。



さぁ10巻の発売日です。早売りならば今日から。そろそろラストのネタばれに注意しなければなりません。どうなるんだろうかと気にはなりながらも、アニメ版が心底楽しみなのでネットは最低限の利用にとどめておこう。

02009年003月007日(土)古のイニシエーション

2009-03-07 | 休み
あんまりアニメとか観て意味とかそんなのばっかり考えていると気が触れるので、バランスを取るためにイニシエーション。







意味がどストレートだったり、意味が無かったり、意味が全く分からない歌を特にロックで聴かせてくれるのって何て素敵なんだろうかと。ブルーハーツの解散理由が技術的な問題というのはハイロウズを聴くと良く分かる気がする。






チバさんの歌詞は表向きはガチのロックなんですが、その実は「少コミ」とかみたいなすぐセックスしちゃうような少女マンガじゃなくて、昔ながらの大島弓子とかのふわふわした女子特有の感性な少女マンガに似ている気がしてます。



てなことを考えつつもDVDは観る訳で。やっぱり前半は恋愛関係が無いので緩くて見易い。でもおまけのショートアニメは『ぷちえう゛ぁ』のスタンスなのかなんなのか分かりませんが、演じている人だけが同じの別アニメの様相で、あんまりうれしくない…面白くない…