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なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02009年003月009日(月)気持ちの悪い独り言

2009-03-09 | 休み
暇さえあればDVDの第2巻を観てる。10話まではエピソード的には重くない、軽い話が殆どなので、リピートが止まらない。まぁ暇があるような、ないような感じですが。



wikiを見ると原作の竹宮ゆゆこさんは過去のインタビューの中で「高橋留美子の漫画『うる星やつら』・『めぞん一刻』の世界が流れている」と述べていると記載されてる。多くの場合否定的な語られ方をされるいわゆる「終わらない学園祭」をかなり肯定的に捕らえているところが印象的。

けれども「終わらない学園祭」を強く意識しているせいか、『とらドラ!』は確実に時間経過する。それにある時期を境にして、アニメ版であれば11話以降「学園祭」、「クリスマス」、「修学旅行」というイベントを通し時間とともに関係性も大幅に変化して行く。高橋留美子的世界を意識しながらもそれで終わってない。

諸星あたるとかと違って竜児はよくあるハーレム型の主人公だけれど、関係性の曖昧さや進展の無さ、または遅さはまさに高橋留美子的。それをギャグとかハイテンションなコメディとしてコーティングしているから余計にそう感じる。


にしても見えているものと見えてないもののギャップが面白いなと。しかも2段階。大河も櫛枝も川嶋もキャラクターとしてかわいく描かれているけど、見た目はかわいいが中身はそれぞれ…凶暴、馬鹿と言えるほどの底抜けの明るさ、計算高い狡猾さと言えるような表層的な中身・行動が1つ目のギャップとしてある。その下にまたそれぞれ人一倍の優しさ・寂しさ、繊細さ・暗さ、純粋さみたいなものが内実みたいなものとしてあって、2つ目のギャップになっている気がする。実は大河はツンデレではないし。

こんなほどにギャップがあって複雑なキャラクターたちが恋愛なんだか友情なんだかよく分からない関係性をグダグダと牛歩に進めてゆくんだから面白くないはずが無い。何しろ小ネタやギャグも面白いし。そんなキャラたちがしかも微妙に複雑な4角関係や3角関係が重なり合って物語が進められるんだから、しかもその関係性に対して自覚的でなかったりするのだから、見ているとヤキモキしてしょうがない。

けれど原作だけマンガだけだったらこれほど盛り上がったのかは疑問。テレビアニメがライトノベルや電撃系コミックよりも大きな訴求力を持つことを差し引いても、アニメ版無くしてはここまでの盛り上がりは見せなかったと思う。一番のアニメと原作の差異は、原作やマンガは竜司は大河を女子として強く意識しているということ。ことあるごとに竜児が大河を女子として「かわいい」と思っている描写が目を引く。


例えば序盤のバスケットボールの実技のシーン。


(原作版)正直に言えば、散々な目に遭わされた今でさえ、竜児は逢坂を「かわいい」と思ってしまう。見た目限定の話ではあるが、高鳴る心臓は嘘をつかない。(竹宮ゆゆゆこ 『とらドラ!』2006年 p113)

(マンガ版)子細は異なるが原作と同様に竜司が大河を「かわいい」と思っている描写がなされている。(原作:竹宮ゆゆこ 作画:絶叫 『とらドラ!』 2008年 p112~113)


同じ1巻のほぼ同じページというのがなんとも面白いが、このシークエンスの直後では原作・マンガともに大河と竜児の柔軟体操がある。両方ともにこのシークエンスで竜児は大河の体を女子の体と意識して、”ブラ線”を強く意識してとても高校生の男子然としてる。


(アニメ版)第2話「竜児と大河」


(この動画では4分35秒ごろから体育のシーンが始まる。)


原作・マンガとともに1巻にあたる第2話の前半のシーンですが、原作・マンガにあった竜児が大河を「かわいい」と思うシーンは無く、柔軟体操のシークエンスも無い。これはもちろん意識的に排除されたシーンだと思う。

これに関連して興味深いのが同じシーンで能登が櫛枝を相手に指名するシークエンス。原作は細かい描写が無く、アニメ版はそれこそニュートラルに誘っているが、マンガ版だと能登が照れながら櫛枝を誘ってる。(前掲書 p111)おそらくは原作の男子の女子観をっ持って描かれたんだと思う。


少し飛ぶけれど、アニメ版の竜児の櫛枝に対する客観的評価がまたまた興味深い。


(アニメ版)第21話 「どうしたって」




竜児が櫛枝に振られたと告白するシークエンス。竜児は櫛枝をして「あの訳の分かんねえ女」と言う。大河が、櫛枝を好きだという竜児に「生意気」と言ったにもかかわらず。身の程知らずという意味での言葉と解釈するのが自然であるので、そう考えると櫛枝は竜児には似つかわしくない、美少女と評価されていることになる。


何を意味するかと言えば、アニメ版の過剰な性的な描写の削除。高校生男子なんだから女子の”ブラ線”が気にかかったりするのはある種自然な反応です。だからこそ原作やマンガでは、竜児も大河を女子として意識していて、能登も櫛枝を女子として意識している。アニメ版でも美少女であるのだから能登が意識しても当然。でもそうなってない。

けれどアニメ版はあえてそこをはずして1種のファンタジーに作り変えてる。そうすると竜児と大河の関係性も若干の修正がある。竜児は大河に女子を見ていないということ。でもこれは竜児に限ったことではなく、主役である大河にもこの傾向が見て取れる。最も顕著なのが大河による北村への告白シーンのとあるシークエンス。


(原作版)「でも、その、別に、高須くんのこと嫌いなんじゃない!全然、嫌いなんかじゃないの!一緒にいると、息が苦しくならないの!いつも苦しいのに……そう思ってたのに……でも高須くんは……竜児は、私においしいチャーハンを作ってくれたの!傍にいて欲しい時に、竜児だけが傍にいてくれたの!嘘をついてでも、私を元気付けてくれたの!……一緒にいたいって、いつも、そう思うの!……今も、そう思ってるの!ちぎれそうで、なんだか痛くて、私。竜児を……いつだって、いつだって……今、だって!竜児が、いてくれたからっ!いてくれたから、私はこうやって……っ!」(前掲書 p229)


原作はもはや北村への告白を通り越して、確実に誰がどう見ても竜児への告白です。それもかなり具体的な形での告白。竜児が大河を女子として意識しているのと同様に、大河もかなり竜児を男子として意識しています。でアニメ版。

(アニメ版)第2話 「竜児と大河」


(この動画では37秒くらいから。それにしても良いエピソードです。演出が最高です。)

原作と比較すると、かなり抑え目に、竜児のおかげで勇気を出して告白できるという形で竜児を支援者的な形で伝えている。北村への告白にかこつけて竜児への告白とは取られない(北村には取られてはいるけど)ぎりぎりのラインを守っています。ちゃんと北村への告白になってます。もちろん言う順番もあるのですが、男子としての竜児を可能な限り避けてる。やはり通底しているのは女子、男子の抑制です。川嶋や春田など一部を除いて基本的に抑制的です。


結局何が言いたいのかといえば、アニメ版は原作とは違って性欲や恋愛感情を極端に控えて、感情も直接的な描写は避けて、煮え切らなさを醸成しまくっているということです。竜児と大河にしてもあの告白のシークエンスが原作どおりだったらここまではまらなかったと思います。だってそれじゃまんまですもん。だからこそアニメ版はより面白いんだと思います。




何で著作権無視の動画がyoutubeや他の動画サイトにごろごろと削除されずに置いてあるのかはこの辺りの事情だと。色々問題がありそうだけれど、後から見ようとする時、放送終了前に追いつくにはこういったアーカイブスが必要だなぁ。DVDリリースを待つと鉄は冷めちゃって硬くなるし。まぁ、DVDだろうがなんだろうが、買わずにはいられなくなるので関係ないですが。



さぁ10巻の発売日です。早売りならば今日から。そろそろラストのネタばれに注意しなければなりません。どうなるんだろうかと気にはなりながらも、アニメ版が心底楽しみなのでネットは最低限の利用にとどめておこう。

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