NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

田辺のツル

2009-11-19 | 休み
人に諭すようなしゃべり方をする人が居たり、時折状況によってそういうしゃべり方をする人がいるが大嫌いだ。時折ぼくもそういう風に何の権利か人に対して上から保護者目線で語りかけてしまうときがあって、そういう時は後からじゃなくて言ってる傍から凹んで嫌悪感に苛まれる。


今日も今日で家で石を潰していると、夕方頃チャイムが激しく鳴る。近所に住む祖母だった。いつもはテレビが壊れたとかおすそ分けだったりするのに、今日は顔色が違った。祖母と同居している叔母が昨晩から帰ってこないという。どこかで叔母が倒れてしまっているのではないか、祖母はそう心配をしていた。あまりに心配だったのか、傘も差さずに家に来ていた。

叔母が昨日から帰っていないとしたら、それは大変だ。家の周りで倒れているのではないのか、祖母は心配してぼくに確認するように言う。祖母に言われるがままに、家の周囲を探してみたけれど倒れた叔母は居なかった。祖母に促され祖母の家もくまなく見て回った。部屋で亡骸が転がってたら嫌だなぁ、と思いつつ探してけれど、幸い叔母の亡骸は無かった。

どうやら祖母は昼寝をして起きたときに、朝と晩を勘違いしてしまったらしい。昼寝から起きた際に、雨戸がしまっていなかったり、カーテンが閉まっていなかったのを見て勘違いしてしまったのだろう。話の矛盾は見ない振りをして、祖母の勘違いに話をあわせ、ぼくはぼくの一番嫌悪する上から目線の説き伏せるような話し方をついしてしまった。

今は朝の6時ではなく、夜の6時だと説明すると祖母は納得できないような表情をした後に頭がおかしくなってしまったのかと動揺を露にしていた。それはそうだ、ぼくの方もショックだし。でもポジティブに考えれば、20代のぼくにだって寝落ちしてしまったときには曜日や時間の感覚がなくなることがある。夜のニュースと朝のニュースを勘違いしたりして。90代も折り返した祖母ならさもありなん。

田辺のツル(「田辺のツル」・『絶対安全剃刀』―高野文子 1982年 白泉社)

軽くは無いショックを受けてしまった。祖母自身もショックだろうけど。一方で不謹慎とは思いながらも、高野文子の短編「田辺のツル」を思い出した。田辺家のツルおばあさんの心が子供の頃に戻ってしまった状況をその心の年齢のままに描写して、その心の幼児性をメタファーとしてというか直喩というか老人を幼児として描いたお話だった。画としては幼児だけれど、その他の家族にとってはおばあちゃん。

物事は受け止め方一つだと思うので、ショックを受けている祖母にぼくのショックを悟られないように、寝ぼけて勘違いしたんだと言ってみた。諭すように。なのでまた凹む。今度は少し冗談めかして、その勘違いを粗忽さとしておっちょこちょいなんだからと笑い飛ばそうとしてみた。結局叔母が帰ってくるまで祖母の家でぼくは待っていた。笑いに還元してしまうのは本当に良かったのか。また凹む。

テレビのドキュメンタリーや情報では知っていても、それを自分の祖母で垣間見るとやはり少しショックだった。お年寄りはその属性から来ると思われる失敗を笑われると傷付くと以前聴いたような気がして、それを思い出して凹む。でもそのときは咄嗟に祖母が自身の勘違いにショックを受けて、正体を失ったと思うよりは粗忽さだと思ったほうが良いのではないだろうかと思ったのだけれど。


帰ってきた叔母と母に、ぼくが家に居たことを感謝された。複雑だ。

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