NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02006年011月009日(木)

2006-11-09 | 授業


 今日の昼。家電量販店ではDSLiteが売っている。僕のDSはWiiのために売り飛ばしたが予約が出来なかったのでお金は手元にある。それに幾ばくか足した万冊をいたずらに全て千円札に両替したためパンパンになった財布が手元にあった。Yahooの脳ゲームをやったら、40歳という表示を頂いたので、知育系のDSに対して興味をそそられている僕。

 店頭にはプレイステーション3の実機が設置してあり、体験可能となっていた。ソフトは『グランツーリモHD』。確かにモニターに描かれたポリゴンは綺麗だったけれど、見た感じはちっとも面白くない。何だか知らないが「人」を強調していた前作、『4』の人よりも動いていない人ばかり。観客はプレステ3で木偶の坊に成ってしまわれた。動く、活きの良い人はダウンロード販売されるらしい。轢ける人は高額です。慰謝料込みとのことです。
 SIXAXIZはとっても軽かった。初代のコントローラーを思い出す。デュアルでもアナログでもなかったんだよな。
 

02006年011月009日(木)

2006-11-09 | 授業


 何の因果かあの試験で二次面接に行って良いらしい。行かせて頂きますが、行かせて頂きますが、あの試験でよく通ったなと何だか納得行かない感じを抱くよ、本当に。何せ回答の6割ほどは適当にマークしただけ。それも問題も見ずにマークが並ぶ美しさと言うか、見た目の良さでマークしただけなのにな。

 まぁ良いや。

02006年011月008日(木)ディスコンストラクション?

2006-11-09 | 授業

 今日の「クローズアップ現代」の特集を見て、パソコンに依存しまくっている自分と全く無縁でないどころか、ネットが無いと生きて行けない体になってしまった僕は高校時代に取得した漢検も大学時代のTOEICも全て頭から消えかけている。小学校の頃は結構沢山小説を読んでいたから周りよりも漢字の知識はあったのに、今では学術書くらいしか読んでない。その大半がキツイ。特に古典の原書となると一寸どころか大分キツイ。だからか語彙が少ないのは。過去ログを見ると「なんと言っても」とか「何」と言う単語が多すぎ。


 これまでの時代に僕が書いているような個人的な日記がパブリックな場所に公開されるということはありえなかったし、想像さえされなかったと思う。それまでの時代中世から近代、現代に至るまでパブリックな存在となるには何らかの主題が必要だった様に思う。それは小説であったり、論文であったり、何かの教義であったり、兎に角学術的、芸術的、宗教的なものとして社会に権威を与えられた物のみが日の目を見ていた、と思う。多分。だから必然的に記述されるものは何らかの一貫性を持っている。言うなれば「大きな物語」によって貫かれている。


 今の日常、僕なんかが扱うようなメディア、ブログだとかメールとかmixiでは社会的な権威は必要ない。日常的な話題を実際の会話のように行ったり、記述するだけでも、パブリックに発信できる。そこには全く学術的、芸術的、宗教的な主題は要らない。それらによってブログやメールの会話やmixiの営みを支えてもらう必要は無い。誰もが自分の言いたいことを発信できるけれども、そこで発信される多くのものは他愛も無い内容。


 切手代や書いたり投函したりする手紙には「大きな物語」とは言わないまでも意味が、意味が必要だった。相手に何かを伝えることが。でもメールは違う。「今暇?」、「暇」など1センテンスで行われる。メールでの会話の多くは会話ではない。もはや文章の振りをした記号のやり取りでしかない。AAや絵文字となんら変わりは無いのではないかと思う。


 番組では身体性を伴わないデジタル機器を用いた会話では、リアルな会話ほど脳の働きを必要とせず、それ故に脳が衰え現代の若者の言語能力が低下しているとしていたが、果たして身体性の欠如だけが脳が働くことを不要にしているのだろうか。


 「今日は~を買った」とか「今日の晩御飯は~」などの日常的なテーマには何らの社会的意味を必要としない。主題など無い。少なくとも社会的に意味のあるものがその存在を担保しては居ない。


 今日の『相棒』はシーズン4からのリンク。もう1年も経ったのか?ついこの間見たような気になっている僕は絶望の淵。何してきたんだろう、僕は。1年間何してきたんだろうか。何にも変わっていないぞ。