◎遺骨を海に捨てるというのは本当ですか(木谷記者)
今月二三日は、東條英機ら七名のA級戦犯が処刑されてから、七十三年が経過した日であった。その日たまたま、『特集文藝春秋 私はそこにいた』(一九五六年一二月)という古雑誌を開いていたところ、木谷忠(きたに・ただし)の「七戦犯の骨を探して」という記事を見つけた。
記事によれば、当時、朝日新聞の記者だった木谷は、一九四八年(昭和二三)一二月二三日の朝、久保山火葬場の煙突から「黒い煙り」が上がるのを見たという。本日は、この記事を紹介してみたい。
なお、本年六月のことだが、A級戦犯七名の遺骨は飛行機によって太平洋にまかれたという事実が、新たに発見された米国公文書によって明らかになった(東京新聞、2021・6・7)。これについては、当ブログ記事「三文字正平はA級戦犯の遺骨を回収しえたのか」(2021・6・9)を参照されたい。
七 戦 犯 の 骨 を 探 し て
東條らA級戦犯は、何時、何処で、如何に処刑されたか?
その処刑の煙を眺めた筆者は当時の朝日新聞記者。
出入を禁止さる
その年――昭和二十三年〔一九四八〕の十一月四日から市ガ谷法廷で始まつた極東軍事裁判の判決文朗読は同月十二日、東條、廣田、松井、土肥原、板垣、木村、武藤の七被告に絞首刑を宜告して幕を閉じた。宣告が終ればあとは、マックアーサー元帥による再審査という、いわば形式的な手続きが残されているだけで、いつ何時でも「この再審査が終了した」という一片の発表がGHQからあり次第、刑の執行がわれわれの知らないうちに行われてしまう恐れがある。われわれは躍起になつて動き出した。
宣告後しばらくすると、少しずつ洩れてくる情報のなかに、実際に刑の執行を担当するのは第八軍司令部であり、しかも現場で執行に立会うのは、第八軍の監督長官(インスペクター・ジュネラル)とやはり第八軍の憲兵司令官ら五人の米人であるという話があつた。私は立ち所に、この監督長官と憲兵司令官に接近しようと決心した。
まず第一の段取りとして、私たちが平成そこだけに出入を許されている第八軍情報部の新聞係り大佐に「この二人に会わせてほしい」と頼んだ。日頃わりに温和だと思つていた大佐は、私の頼みをきくと、急に顔を硬ばらせ、頭からこれを拒絶した。「君はこの司令部への出入パスをもらつた最初から、情報部以外へは出入りしないと誓約したのを忘れたのか」というのだ。そう言われて改めてパスの文面をみるとなるほどそう書いてある。仕方なく引退つたが、私の野心はそのままでは承知しない。一日、二日後、私は何喰わぬ顔で要所要所に立つている衛兵の前を通り抜けて、いくつかの階段を上り、長廊下を回つて「インスペクター・ジェネラル」と大きく名札の出ている部屋の前に立つた。若い兵隊の秘書が出てきて、何か用かと尋ねた。こわごわながら虚勢を作つて、「朝日の記者だが、長官に会いたい」というと、意外にも直ぐに通してくれた。監督長官というのは比較的若い大佐だつたが、大体が日頃日本人記者との接触など全くないから、どう取扱つていいのか、とつさの判断ができず、つい面会してしまつたものとみえる。内心予想もしなかつただけに、ワクワクしながら、私は「処刑はいつごろですか」「死体はどう処理するのですか」「火葬にしたあと骨は海の中へ捨てるというウワサがあるが、本当ですか」とか、考えてみれば向うが答えるはずもないことばかり質問した。「何も言えません」「知りません」というのが決つた答えだった。それでもこのことに気をよくして私はその後、処刑に関係のある十数人の米軍人を訪問した。総合しても収穫はゼロに近かつたが、やれるだけやつてみたという満足感が駈け出しだった私を相当得意にさせていた。
ところがある日突然、新聞係り大佐から私に呼び出しがあった。何事かと行つてみると彼はこわい顔で、「お前のボスを連れて、一緒に来い」という。仕方がないので支局長に事情を話し、同道して再び大佐の前に立つた。彼は私たちを見ると、立ち上って支局長が差出した握手の手を憎々し気に無視し、大きい声で私の罪状を述べ立てた。私は吃りながら、自分で自分の犯した罪について、逐一通訳した。最後に大佐は私に出入パスを出せ、といい、支局長と私の目の前で力一杯私の写真も貼つてあるパスを破り捨てた。そして支局長に「この男は今後第八軍司令部に一切出入を差止める」と宣告した。【以下、次回】
木谷記者は、第八軍の監督長官に向かって、「火葬にしたあと骨は海の中へ捨てるというウワサがあるが、本当ですか」と問うている。このウワサには、それなりの根拠があった。ニュールンベルグ裁判で処刑され、火葬された戦犯の遺骨は、イーザル川に流されている。おそらく木谷記者も、この話を伝え聞いていたのであろう。
なお、「第八軍」とは、アメリカ陸軍の部隊のひとつで、一九四四年一月に創設された。初代の司令官は、アイケルバーガー中将(一九四八年八月まで)。日本占領の主力となったのは、この部隊で、占領後の司令部は、横浜市の横浜税関本庁舎に置かれた。
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