◎日本に洋菓子を普及させた森永太一郎
昨日は、思いもかけずアクセスが多かった(おそらく歴代六位)。そこで、森永太一郎の回顧録について、もう少し補足することにしよう。
筑摩書房から出た現代記録全集13、杉浦明平編『ひとすじの道』(一九七〇)には、森永太一郎の「自伝」が収められている。
函には「自伝 森永太一郎」とある。巻末の「出典一覧」にも、「自伝 森永五十年史(私家版、昭和二十九年)」とある。ところが、目次・本文では、「お菓子をつくって 森永太一郎」とある。
このあたり、不統一をまぬがれないが、一昨日のコラムでも述べたように、『森永五十五年史』のおけるタイトルは、「今昔の感」である。もう少し詳しく言えば、『森永五十五年史』の第Ⅰ部「回顧録」の「1」にあたるのが、「今昔の感」である。なお、この文章は、「森永太一郎が菓子新報のために談話し、昭和四年十月号から五年十月号までの同誌に十一回にわたり掲載されたものを補正したもの」だという。
『ひとすじの道』においては、「お菓子をつくって 森永太一郎」の前に、次のような解題が付されている。署名はないが、編者の杉浦明平によるものであろう。
お菓子を作って 森永太一郎
森永ミルクキャラメルをはじめ、ピスケット、ドロップス、チョコレート等々エンジェルマークの森永の菓子は、戦前の子供たちにとってもっともなじみ深い存在であった。餅と飴と餡とからなる和菓子の世界へ西洋系の菓子が進出したのは、そう古いことではなく、それなりの抵抗や苦難を経なくてはならなかったが、森永製菓を創立した森永太一郎はその成功した先駆者の一人であった。森永は一八六四年佐賀県伊万里町の商家に生れたが、幼くして父を失い、少年時代から店奉公に出たりした。やがて青雲の志に燃えて上京したが、みごと失敗、かなり大きな負債を背負う身となり、一もうけを企んで渡米したが、ここでもまた挫折する。しかしその挫折が動機となってキリスト教徒になる。たまたまそのころ菓子工場で働くことになってから、洋菓子の製造に着目、十年にわたって、苦心惨胆、さまざまた種類の菓子の製法を修得し、一八九九年、三十五歳のとき日本に帰り、二坪の菓子工場で洋菓子製造を開始した。販路の糸口をつかむまでに二カ月を要したというのも、日本人の嗜好の変化がおこっていなかったと同時に菓子業者の無理解の壁の厚さを感じさせる。が、自伝としては、こういう未開の荒野を、荊棘〈ケイキョク〉を切り払いつつ拓いてゆく部分が圧巻である。かれのすべての関心と興味は、西洋式菓子の製造と販売とに集中されている。記述の中には、かなり我執の強い性格も出ているが、そういう性格でなかったら、初志を貫きとおすことはむつかしかったかもしれない。
森永太一郎は、森永製菓が製菓会社として不動の地位を占め、なお発展の途上にあった一九三七年(昭和一二年)七十三歳をもって永眠した。功成り名遂げたといってよかろう。
なお、『ひとすじの道』に収められた「お菓子をつくって」は、惜しいことに、回顧録「今昔の感」の全文ではなく、抄録である。