◎慈鎮和尚は諡で、元来は慈円僧正であります
山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一二回目。本日、紹介するところも、「第五 古事記序文第一段」の一部である。
この部分は、「脱線」している部分ではあるが、「百王」という言葉をめぐって、たいへん興味深い話が展開されている。
「而百王相続」といふ言葉の「百王」については、それは歴史的に考へますと非常に深い事実がこれに宿つてをります。これは支那の昔からあるのでありまして、礼記〈ライキ〉の中にも「百王ノ同ジウスル所古今ノ一トスル所ナリ」といふ風、昔から今まで沢山の王様、多数の帝王がある、これらを百王と言つたのであります。これは荀子の中にもあり、支那では珍らしい言葉ではないのであります。別に深い意味がなく、たゞ無数の帝王といふ意味であつたのでありますが、鎌倉時代になつて参りますといふと、百王といふ言葉の意味が間違へられて来たのであります。古事記の序文ではさういふことを言ふ必要はないのでありますけれども、こゝでは特にお話しておきます。慈鎮和尚の書きました愚管鈔といふのがありますが、これは歴史観を述べたものでありまして、日本の史論として注目すべきものだといつて今までの歴史家に極めて珍重せられて来てをるのであります。序に〈ツイデニ〉ちよつと申しますが、慈鎮和尚は天台宗の人でありますから、和【ヲ】尚とはいはず和【クワ】尚であります。和尚とよぶのは禅宗であるます。これは元来梵語〔upādhyāya〕の訳であります。それを音訳して和上、和尚と書いたのをいろいろによむことになつたのですが、律宗では和上【ワジヤウ】と申します。この慈鎮和尚といふのは諡〈オクリナ〉でありまして、元来は慈円僧正であります。この慈円和尚が愚管鈔を書いた。それが歴史史家に珍重せられてをるのでありますが、我々の國體観よりその思想を考へを見れば実に怪しからぬものがあるのであります。この愚管鈔のなかに百王といふ事をばどう解釈してをるかといふと、昔から天照大御神〈アマテラスオオミカミ〉、八幡大菩薩〈ハチマンダイボサツ〉が百王を守らせ給ふといふことがあるが、いま既に八十四代になつて、残りは十六代だといふことを言つてをる。これは順徳天皇様の御代は八十四代、あとが十六代残つてをる、かういふ事を言つてをります。即ちこの百といふもめをば限定数の百と考へたのが慈鎮の思想であります。かういふ風な思想が起つて参りますといふと、天皇の御位〈ミクライ〉が進むに従つてこの国の前途が危まれるのであります。九十九、百となればもう日本の国はお終ひになつてしまふ。もしさういふことがあつたとしたら皆さんにはどういふ考へが起るか。天皇様の御位が今度で九十五代だ、さあ困つた、九十六、九十七代、いよいよ大変だ、九十八、九十九となつて来たら、もうこれで日本はお終ひになつてしまふだらうといふ、さういふ情けない思想が起つて来るのは当然であります。しかもこの愚管鈔のなかにはその思想が繰返されてをる。さういふ点から考へて見ますと、愚管鈔といふ書物は我々の國體観の方からすればこれほど怪しからぬ〈ケシカラヌ〉書物はない。かういふ書物を褒めるやうな思想は國體を問題にしない思想であります。我々日常の生活でも、もう僅かしかお金がない、十円のものが九円無くなり一円になつた、さあそれから先をどうしようかといふことになるのが人情であります。それから先まだまだ旅行しなければないといふのに、若し百円持つてゐた旅費があと十五円しかない、一日経つて五円になつた、その補充がつかないとなればこれは旅行さへも心細い限りであります。日本の天皇様が百代しか続かない、それでお終ひだ、かういふ思想を持つてゐたならば大変な話であります。後醍醐天皇様の御代〈ミヨ〉は九十四代、九十五代、かういふ時代であります。この時代において足利尊氏の如きものがあの暴威を揮つたのも、あれは尊氏一人の力ではない、日本人の思想が麻痺してをつたのであります。大抵の歴史家は上面【ウハツラ】ばかり見て物を言ふ。勿論上面も見なければならないが、その当時の人間がどういふ思想を持つてゐたかといふことを考へて来ると、足利氏が跋扈〈バッコ〉した理由も自ら〈オノズカラ〉分るでせう。もう日本はあとが二、三代しかないといふことがはつきりと分つたならば、楠木正成とか北畠親房とかいふ純忠無比の人は別でありますが、当時の普通人は、どうせ国が亡くなるのだから生きてゐる中に御馳走を食べようと、かういふ思想になるのは当然です。この思想があの大乱を起して来るのです。私は左様に解釈し得ると思ふのです。〈一一四~一一七ページ〉
文中、「愚管鈔」は原文のまま。一般には「愚管抄」と書かれる。
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