静かな劇場 

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因果の道理を説くと、救いから遠ざかる??(2)

2009-11-01 18:06:21 | Weblog
昨日からの続きです。
まだ昨日のブログを未読の方は、そちらを読んでから御覧下さい。


昔、中国に、何時も樹上で坐禅瞑想していた鳥彙(うか)禅師という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天がその樹の下を通り、一つ冷やかしてやろうと思った。
「そこの坊さんよ、そんな高い木の上で目をつむっていては、危ないではないか」
 鳥彙禅師すかさず、
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」
と切り返した。
 この坊主、相当偉い奴かも知れぬと見てとった白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、貴僧の名を承りたい」
と訊くと、
「私は鳥彙という名もなき坊主だ」
 これが有名な鳥彙禅師と知った白楽天は、かねてから仏教に関心を持っていたので、
「いい処で貴僧に会った。一体、仏教とは、どんなことを教えているのか、一言でおききしたい」
と頭を下げた。

鳥彙禅師は即座に、

諸悪莫作(もろもろの悪を為すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善を行い奉れ)
自浄其意(自らその心を浄めて)
是諸仏教(これが諸仏の教えである)

と答えた。

 白楽天、いささか呆れ顔で、
「そんなこと位なら、三歳の子供でも知っている」
と冷笑すると、鳥彙すかさず、
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」
と大喝している。


「仏教とは一言で言えばどんな教えか?」という白楽天の問いに対する鳥彙禅師の答えが、
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」でした。
この話からも分かりますように、釈尊45年間の教えの99パーセントは廃悪修善なのです。

もし、仏法の救いと善の勧め(廃悪修善)が無関係、あるいは反って遠ざけるものだとするならば、なぜ釈尊は45年間の大半かけて、このことを説かれたのか?という素朴な疑問が残ります。

さらに鳥彙禅師は
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」と言っています。
これは、理屈は子供でも納得できる単純明快なことでも、その通り実行が難しい。悪を止めようとしても止められず、善を行おうとしても行えないということでしょう。

なぜそういうことになるのか?

それは私たちの本性が、悪性だからではありませんか。
根っからの悪性の者に、廃悪修善を説いて、簡単に実行できる道理もありません。
「八十の翁も行うこと難し」とは、そのことを意味しているのでしょう。

廃悪修善は、道徳倫理でも説くことかもしれませんが、昨日書きましたように、道徳倫理で勧められる善は、専ら身業と口業に限られるのに対し、仏教では心(意業)を最も重んじます。
鳥彙禅師も、「自浄其意(自らその心を浄めて)」と言っているではありませんか。

だから、仏教における廃悪修善の教え導きがあってこそ、はじめて己の心に目が向くのではありませんか。
このほかに、己の心に目を向けさせるどんな方法があるというのでしょう。

だれしも自惚れ強くできているので、己をそんな悪性の者とは思ってはおりません。口では「悪性の者です」などと殊勝そうに言ってはいても、心の中では全然……。そんな横着なしたたか者に、己の真価を知らせるのに、因果の道理を明らかにし、廃悪修善を説く以上の方法があるのでしょうか?
他にないから、釈尊は45年間、説き続けられたのではなかったでしょうか。

もしこれ以上の方法があると言うなら、きっとその人は釈尊以上の先生なのでしょう。そういうのは〃珍しき法門〃だと思われます。

因果の道理をいくら説いて聞かせても、ほとんどが白楽天のように、「廃悪修善?もう分かった、分かった、それよりもっと大事な話があるだろう」という聞き方をするのです。

そんな不遜な心で、己の真実が知らされたり、仏意を正しく理解できるものなら苦労はありません。(つづく)

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