郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

私の少年時代ー8(台風)

2021年05月23日 | 日記

秋になると必ずやって来るのは台風だ。

「台風○○号」という言い方が、まるで王選手のホームランの様に感じていた。
事実、年によってはどちらが多く打つ(発生する)か競争している様なこともあった。

農家にとって、台風は迷惑千万どころか、襲来する時期によっては大きな被害をもたらす厄介者だ。

そんなことは深く考えもしなかった私たち子どもは、台風接近の雰囲気が漂ってくると、大人とは違った意味で心が騒ぎ出し気持ちが高ぶるのであった。
まだテレビのなかった我が家では、ラジオが伝える台風情報が唯一の判断材料だった。
NHKのラジオをつけっ放しにして耳を傾けていた。

「台風○○号は、○時現在、潮岬の遥か南方○○キロメートル付近にあり、中心気圧は910ミリバール、中心付近の最大風速は45メートル・・・、時速35kmの速さで北北東に進んでいます。」
こんなセリフは暗記するほど何度も耳に響いたものだ。

どういうわけか、中心がやって来るのはいつも夜だった。
家中が慌ただしく動く。
まだ明るい頃から台風を迎え撃つ準備をするのだ。
もちろん、子どもの私たちも手伝う。

一番楽しかったのは、祖父の手伝いである。
暴風で雨戸が飛ばされないように、太い竹で内と外から木の雨戸を挟んで固定するのだ。
祖父が太い針金を外から差し出すと、家の内側でそれを竹に回して外へ返す仕事だ。
「いいか! ちゃんと竹を一回りさせたか!?」
大きな声で祖父が問う。
「やったよ!」
私たち兄弟が叫ぶ。

雨戸の間に隙間ができ、風も雨も少しは家の中に吹き込んでくるが、これでとりあえず家ごと吹き飛ばされる心配はなくなる。
今思うに、何と貧弱な住居だったことか・・・。
因に、雨戸は守られても、茅葺きの屋根は一部が風で剥がされ周囲に茅が吹き飛んでいたこともあった。

家の中の準備は、何といっても灯り対策だ。
停電は間違いなくやってくるので、ロウソクやランプの用意をしなくてはならない。
百匁蝋燭(ひゃくめろうそく)という大きなロウソクは必需品だったし、昔は菜種油で灯していたというランプもどこからか祖母が持ち出してきた。

夕飯も早めに済ませてしまうのだが、ある年は夕飯時に突然の停電。
ロウソクやランプを灯しての食事は、質素なおかずにもかかわらず何故かとっても雰囲気があって楽しかったのを覚えている。

「早く寝ろ!」と言われても眠れるわけがない。
ゴーッ!という風の音とともに家のあちこちで軋む音がすると、布団を頭から被りジィーとしている。
怖いという気持ちもあるが、スリル満点だ。

やがて、台風が去っていく頃には既に記憶はない・・・。

台風一過とはよく言ったもので、翌朝はほとんど真っ青な空だった。
まるで別世界の雰囲気だ。
辺りには様々な物が落ちている。
屋根の茅は後の修理が大変だが、子どもたちには思わぬプレゼントもあった。

ちょうど食べ頃の次郎柿や富有柿、高いところになっていたので容易に採ることができなかったものだ。
それと、家の裏にある栗の木からは、茶色になった大きな丹波栗がイガに入ったままいくつも落ちていた。
さらに、チャンバラに使えそうな杉の小枝もたくさん落ちていたりする。

しかし、良いことばかりのはずがない。
祖父は朝早くから田んぼに出かけ、おだ(稲掛け)が倒れて水に浸かった稲を掛け直したり、屋根に上って茅を埋め込む修理をしたりしていた。
また、ある年は裏山付近が崩れたが、人家から離れていたこともあるのか、これはどうしようもなく放置され、そこに竹や草木が生えるのを待つしかなかった。

稲の刈り取りが済んでいればまだ良かったが、年によっては刈り入れ前の稲がすっかり水没してしまったこともあり、そんな時には村中総出で作業が続いたようだ。

大人たちは本当に大変だったに違いない。
それでも私は、台風が来るのをどこか待っている気持ちがあった。
あのドキドキ感はいったい何だったのか・・・。

 

-S.S-


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