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郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

ドキュメンタリー映画「風に立つ愛子さん」を見ました。

2025年04月02日 | 日記
藤川佳三監督はこの作品の前に、『石巻市立石巻小学校避難所』を撮影しています。

津波で家族をなくし、家財を失った被災者たち、見ず知らずの人たちが扶け合い家族のように共に暮らす「石巻小学校避難所」、2011年4月の開所から10月の閉鎖までの日々を記録したものです。

避難所でとりわけ個性的で、明るく、存在感ある村上愛子さん(当時69歳)、「みんなには怒られるかもしれないけど、私には津波サマサマだ」とからりと言ってのける愛子さんに藤川監督は強く惹かれ、その後の愛子さんを追った作品が、「風に立つ愛子さん」です。


避難所の仲間に見送られ、一人で石巻市内の公園に作られた仮設住宅に引っ越す。
ドアを開けて、狭い台所にまな板を置く場所がないと驚きながらも「長屋暮しはいいよ、玄関を回らなくても、壁をどんどん叩けばお隣の人と話ができるのだから」と彼女はいいます。

一人で生きてきた愛子さんにとって、避難所の共同生活、津波に何もかもなくした人たちと身を寄せ合い、扶け合って暮らす共同生活は家族のようで、奇跡のような愉しい日々だったようです。
「津波のお陰だ、津波サマサマ」の所以です。

でも、避難所で知り合った仲間とはバラバラの仮設入居。70代に入った愛子さんはたった一人で仮設で暮しを始めます。
仮設住宅は、長屋のようだけれど、避難所のような必要に迫られた共同生活ではなく、1軒1軒ばらばらの暮らし。
彼女が仲良くなったご夫婦は、夫が重い病気で妻が介護しています。

「仮設のみんな、彼女のご主人が病気だと知っているのに、声を掛けないの。だから私が奥さんに『○○さんがご主人の病気どう?』と心配していたよというの。ウソ。でもね、奥さんは、みんなが気にしてくれているって聞いて嬉しそうなの。だから私、どんどんウソをつく。△△さんがね『ご主人の様子、この頃どう?』って…ウソばっか。でも、どんどんウソをつくとホントになるの」
愛子さんの子ども時代の「とうもろこしトロボー」の話。


「藤川さん、『おだづもっこ』って言葉知っている? お母さんが、私にいつも言っていた『愛子はおだづもっこだ』って、お調子者っていう意味。」「藤川さん言ってみて」「おだづもっこ」
「ダメ、もっと愛情をこめて言うのよ。お母さん、いつも言っていた、『愛子は育てるのに他の子の5倍手がかかった。でも飽きなかった』って。娯楽がない時代だったからよかったよね」。

父親はおカネ儲けの下手な人だったけど、演説が好きな人で、父親の胡坐のなかで、お酒を飲みながらみんなに演説するをきいていた。
家は貧しかったけれど、愛子さんは両親に愛されて、すくすく育った。
愛子さんは高校進学はしないで、働き家計を助けた。

お母さんが病気になり、働きながらお母さん看病、入院したお母さんに付き添った。
「ある時ね、お母さんに『お母さんの人生は何だったのでしょうね』というとお母さんがものすごく怒ったの。『無礼者、娘だとて許さない、本人が苦労だと思わなければ苦労ではない』。オムツを替える時はお母さんに、『お母さん、粗相をしてお水をこぼしてしまいました。替えさせてください』と言って、オムツを替えるの。熱いタオルで拭いてあげた。ある時、看護婦さんの持っている名簿にお母さんだけ赤丸がついているの、『なんで、母だけ赤丸がついているのですか?』と看護婦さんに聞いたら、『次に死ぬ人よ』といったの。私、絶対に死なせるものかと思った。それから6年、生きました」


 文学少女だったと言うお母さんを看取って、愛さんは、「銀の匙」という店をもち、生計を立てた。
2011年3月、東日本大震災大津波に遭遇、奇跡的に流されなかった隣家の2階で2泊3日飲まず食わず一人で過ごし低体温症になり、危機一髪のところを救出された。


愛子さんは、藤川監督に、繰り返し、湊小学校避難所で出会った10歳のゆきなちゃんの話をする、息がぴったり合い、いつも一緒にいた、年齢を超えた友情を語る。

ゆきなちゃんの10歳の誕生パーティのビデオ繰り返し見る。
「ゆきなちゃんはもう高校生、どんな子に育っただろう。私のこと覚えているかしら? 覚えてなくていい。あの子が幸せになってくれれば、私は嬉しい。私にはこのビデオがあれば、満足」と語った愛子さん。

その後仮設住宅は閉鎖となり、愛子さんは、7年暮らした長屋暮しから、野良猫にさよならをして、災害公営住宅に引っ越す。
引っ越しには藤川監督とボランティアの女性が手伝いに同行する。
愛子さんは、流しにまな板が置けると歓声を上げる。
ボランティアの女性が荷物をほどき収納しながら。
「これは愛子さんの思い出の品だから一つにまとめておきましょう」というと、愛子さんは突然、大声で「思い出なんかいらない!思い出なんかいらない!」と感情を爆発させ、奥の部屋に駆け込でドアをしめてしまう。

・・・愛子さんは災害公営住宅に引っ越して、わずか半年で亡くなります。
享年76。


(画像は同映画公式サイトより借用)

藤川監督は語っています。
「愛子さんが7年間住んだ仮設住宅の住民も年々高齢化し、愛子さん自身も持病が進行し認知症もでてきた。自分は仕事に忙殺されて、愛子さんが公営住宅に移った後は、尋ねることが稀になってしまった。」

一人暮らしの愛子さんは、災害公営住宅ではなく、自立型ケアホーム、グループホームに入ると言う選択はなかったのだろうか。
彼女を支える地域包括センターはなかったのだろうか。

愛子さんは仲間を求め、扶け合い、喜びや悲しみを共にする社会の中で生きたかった・・・60代なら、パートの仕事もあり、人とつながれる。
だけど70を過ぎて、持病もあり、体力がなくなると、自分から新たな関係を求めていくのは難しくなる。
マンション暮しのような、お隣とは挨拶を交わす程度の公営住宅の部屋の中で愛子さんは社会から孤立させられて、生きる気力がしぼんでいってしまったのではないだろうか。

愛子さんは、私より2つ年上、同世代で、独り身で、他人事とは思えません。
老いをどう生きるか考えさせられました。





-Ka.M-

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