自分の住んでいる土地にも歴史があります。
今回あらためて気付かされたのは、地域の公民館のステージにある緞帳に描かれたものです。
これは、宮本公民館の緞帳に描かれている意富比神社(船橋大神宮)にある灯明台です。

古くから、海運業者や漁師が湾内を夜間航行する際に頼りにしていた常夜灯に起源はあるようです。
残念ながら慶応4年(1868年)の戊辰戦争の時に消失してしまい、現存するのは明治13年(1880年)に建てられたものです。

しかし、当時としては珍しい1・2階は和風、3階は洋風の作りの灯台です。
レンズの代わりに設けられた反射鏡(凹面鏡)によって約6海里(約11km)先まで照らしていたそうです。
1・2階の畳部屋では点火(石油ランプ)や見回りの管理員が休憩・仮眠をとっていたようです。
明治28年には政府によって廃止されましたが、今尚メンテナンスがしっかり行われていて、毎年1回だけ1月の成人式の日に点灯されます。
この他にも公民館には歴史を伝える絵が描かれています。
2つだけ紹介します。
1つは海神公民館の「塩浜の図」です。

これは、文政7年(1824年)に竹村立義が描いたものを基にしています。
尚、この絵は「鹿島参詣記」という手書きの地誌の挿絵として描かれたものです。
原画には富士山は描かれていませんが、何故か緞帳にはしっかり富士山が入っています。
全体のバランスを考えたのか、誰でも知ってる富士山を入れて注目を引こうとしたのか分かりませんが…。

もう1つは、中央公民館にある「船橋駅乃図」です。
これは、現物を撮影できませんでしたが、安政5年(1858年)に清宮秀堅が著した「成田参詣記」の挿絵として長谷川雪堤が描いたものです。
当時、街道一の宿場として賑わっていた九日市村中宿周辺ですが、この絵は海老川や船橋大神宮、そして江戸湾まで描かれています。

尚、この誇張して広く描かれた道は現在の本町通りで、当時は成田山へ参詣する江戸の人々で賑わい、本陣が1つ旅籠が29件も立ち並んでいた様です。
しかし、残念ながらここも戊辰戦争で官軍側による放火で消失してしまいました。
今回、地域を振り返る機会を提供してくださったのは海神公民館主催の歴史講座でした。
講師の綿貫啓一先生には感謝したいと思います。
-S.S-
今回あらためて気付かされたのは、地域の公民館のステージにある緞帳に描かれたものです。
これは、宮本公民館の緞帳に描かれている意富比神社(船橋大神宮)にある灯明台です。

古くから、海運業者や漁師が湾内を夜間航行する際に頼りにしていた常夜灯に起源はあるようです。
残念ながら慶応4年(1868年)の戊辰戦争の時に消失してしまい、現存するのは明治13年(1880年)に建てられたものです。

しかし、当時としては珍しい1・2階は和風、3階は洋風の作りの灯台です。
レンズの代わりに設けられた反射鏡(凹面鏡)によって約6海里(約11km)先まで照らしていたそうです。
1・2階の畳部屋では点火(石油ランプ)や見回りの管理員が休憩・仮眠をとっていたようです。
明治28年には政府によって廃止されましたが、今尚メンテナンスがしっかり行われていて、毎年1回だけ1月の成人式の日に点灯されます。
この他にも公民館には歴史を伝える絵が描かれています。
2つだけ紹介します。
1つは海神公民館の「塩浜の図」です。

これは、文政7年(1824年)に竹村立義が描いたものを基にしています。
尚、この絵は「鹿島参詣記」という手書きの地誌の挿絵として描かれたものです。
原画には富士山は描かれていませんが、何故か緞帳にはしっかり富士山が入っています。
全体のバランスを考えたのか、誰でも知ってる富士山を入れて注目を引こうとしたのか分かりませんが…。

もう1つは、中央公民館にある「船橋駅乃図」です。
これは、現物を撮影できませんでしたが、安政5年(1858年)に清宮秀堅が著した「成田参詣記」の挿絵として長谷川雪堤が描いたものです。
当時、街道一の宿場として賑わっていた九日市村中宿周辺ですが、この絵は海老川や船橋大神宮、そして江戸湾まで描かれています。

尚、この誇張して広く描かれた道は現在の本町通りで、当時は成田山へ参詣する江戸の人々で賑わい、本陣が1つ旅籠が29件も立ち並んでいた様です。
しかし、残念ながらここも戊辰戦争で官軍側による放火で消失してしまいました。
今回、地域を振り返る機会を提供してくださったのは海神公民館主催の歴史講座でした。
講師の綿貫啓一先生には感謝したいと思います。
-S.S-