郷土教育全国協議会(郷土全協)

“土着の思想と行動を!”をキャッチフレーズにした「郷土教育」の今を伝えます。

私の少年時代ー9(そとあそび)

2021年05月25日 | 日記

雨さえ降らなければ外で遊ぶのは当たり前な時代だったが、この遊びが色々あって細かい名称を上げればきりがない。
その中でもスポーツを真似した遊びは面白かった。
定番の野球以外にも色々工夫してやってみた。

まずは「ゴルフ」だ。
クラブやゴルフボールはなかったが、野球のバットとボールが代替えした。
ホールは庭の随所に掘った穴。
簡単に入りそうな所から傾斜がかった所まで全部で10ホールくらいは作った。
グリーンはもちろんのことバンカーや池もなかったが、わざと障害物を置いて難しくしたりした。

ティーショットはいつも同じ場所から打つのだが、一打で入れば10点で打数が増えるごとに点数をマイナスする。
10回で入らない場合は、マイナス点を加えるという子どもながらに良く考えていたと思う。
距離の短いホールでは時々ホールインワンが出たりして、飛び上がって喜んだりもした。

その点数はノート等の紙に書くのではなく、庭の地面をきれいにした所に釘や棒で書く。
最終の10ホール目まで順位が入れ替わったりして、ドキドキしながらボールを打ったものだ。

あのまま本格的にゴルフのレッスンを受けていたら人生も変わっていただろうが、そんなことができればゴルフ遊びなんか考えることもなかっただろう・・・。


次にすぐ思い出すのが、「どこいき」というオリジナルな遊びだ。
これは近所の先輩中学生が教えてくれたものだが、当時アジア大会というスポーツ祭典に関心があったこともあり、一人一人に韓国・台湾・タイ・カンボジア・フィリピン等々の国名をつけて競うものだった。

庭の中心に半径1メートル位の円を書き、円を8等分位に分けて場所の名前を書き入れる。
桜の木、お寺、門柱、橋・・・といった特定の場所を指定して、そこまで一斉にヨーイ・ドン!と走るのだ。
その場所を決めるため、事前に各自が所定の場所からボールを円に向けて転がす。

できるだけ近くの場所へ走りたいからその場所を目指して投げるが、思い通りにいかないと逆に遠い場所に入ってしまったりする。
全員が行き先がどこか決まると、スターラインに立ってスタートする。
目的の場所を折り返してスタート地点まで戻ったらゴールインだ。
どんなに遠い場所でもみんな必死に走った。

一着10点、2着8点、3着6点といった具合に点数をつける。
遊びを仕切る先輩が、「台湾10点!、日本8点!」なんて調子で大声で叫びながら点数を書き込む。
例によって地面に・・・。
この点数争いも面白くて妙にはまってしまった。

よくしたもので、私たちが遊びを覚えた頃には先輩は顔を出すことはなかった。
遊びの指導を自然にやってくれていたのだと思うと、今更ながら感謝の念が募る。
「どこいき」という名称をつけてくれたのも先輩だった。
その名のとおり、どこへ行くか分からないが、どこかへ走って行って競う遊びだからだ。


家の中にこもって遊ぶのは台風の時くらいで、雪が降っても多少の雨でも外へ飛び出して遊んだ。
もちろん冬場でも同じだった。

雪が積もることはほとんどなかったが、たまに大雪ともなると早速裏山の竹を切り出してスキー板?を作る。
太めの竹を割って節をきれいに取り去り、足を乗せるところにはキリで穴を開け針金を通す。
先の方を火であぶって上に反らせるとより上等な板が完成した。
スキー靴の代用はもちろんゴム長靴。
ストックは竹の棒。
ちなみに、田んぼに張った氷の上では、スケート靴の代用に下駄も使っていたことを思い出す。

何度も滑っているうちに竹が割れてくる。
その頃にはスキーに飽きて雪合戦が始まるのであった。

年によっては雪がそれほど積もらない冬もあり、そんな時は「仮装スキー」をやった。
お寺の横にある小高い丘に続く小径は、熊笹に覆われたS字カーブ連続の面白い場所だった。
この小径を竹棒のストックを持って駆け下りるのだった。
まさにスキーの回転か大回転のつもりであった。

こんな遊びをしていたある時、付近でバーン!という猟銃の音がした。
私たちは思わずそこへしゃがみこんでしまった。
すると、犬の鳴き声と共に猟師と思われる人が走ってくる気配を感じた。
きっと雉か狸を追っていたに違いない。
熊の住む場所ではなかったから・・・。

この熊笹が繁る場所には、秘密の隠れ家を作って遊んだこともある。
そこに柿や落花生や栗等の食べ物を持って行き、友達とワイワイやりながら食べるのが楽しかった。
この秘密基地だが、当時私たちは「ええこや」ともよんでいた。
「ええこや=良い小屋」という意味である。

「ええこや」は、自宅の敷地内にも作り、それは原始時代の住まいを少しばかり進化させた物だった。
周辺にあるありとあらゆる材料を使い、雨が降っても中で遊べる程度の小屋だった。
しかし、これも短期間に撤去だった。
農作業の邪魔になるから、いつも同じ場所に作るわけにはいかないのだ。


「そとあそび」なんて言葉すらなかったあの時代、子どもたちはそれなりに考え体を動かしていた。

 

-S.S-


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