ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『近代のまなざし』

2012-12-05 08:38:25 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『近代のまなざし』という本を読んだ。
サブタイトルには、写真、指紋法、知能テストの発明となっている。
きしくも、再度、指紋に関する記述を読むことになったが、それは個人を確定するという認識の普及が時代と共に顕著になって来たということだ。
何故に個人の認識が近代と関係があるのかと言えば、近代は生存競争が個人のレベルのまで浸透してきたという事ではないかと思う。
近代はマスの中に個人が埋没してしまったが、それがため新たに個人の認識、個人の確定が必要になって来たということではないかと思われる。
大昔ならば、個人の行為の正邪を判定する裁量権を権力者が握っていたので、仮に冤罪であったとしても、それは社会に何の影響ももたらさなかった。
ただ間違えられた人が気の毒だ、で済んでしまったが、近代になればそういう権力者の間違いは権威の失墜に繋がるということが判って来たので、権力者も間違いを極力避けるように思考が傾いていった。
そのことは「悪いのは誰だ」という事を明確に確定しなければならなくなったわけで、それは当然の事、行為者の行為の確定を厳密にしなければならなくなった、ということである。
産業革命を経て人々が近代化に目覚めると、人々は富を求めて活発に移動するようになって、広い世界を目の当たりにすると、他者との相違を意識するようになった。
産業革命を経たイギリス人が、インドやアフリカ大陸に行く、そこでは大きなカルチャーギャップが厳然と存在するわけで、現地の人々が野蛮人に見えるのも致し方ない。
産業革命のような社会の大きな変革は、早々、誰でも彼でも素直に受け入れられるものではなかった筈である。
ヨーロッパの先進諸国の間でも、日本という国の中でも、新しい考え方に素直に順応出来る人とそうでない人はいるものだ。
それは国のレベルでも、民族のレベルでも同じように、新しいものへの順応の度合いとか対応の仕方には相違があって当然である。
ところが先に近代化に順応したものは、後からくるものが何となく野蛮に見えるわけで、この優越感が人類の悲劇を内包することになるのである。
先に近代化を成して、後ろを振り返ってみると野暮ったいものがのこのことついてくるわけで、「俺たちは彼等よりも優れているのだ」という自己満足に陥るのも当然といえば当然であろう。
この意識が個の覚醒でもあったわけで、それでもって自分の属する社会を眺めてみると、やはり野蛮な人々、野蛮な民族とは異質だと思うようになった。
それで自分の周りの人に視線を向けても、自分以外の他者は、それこそ人生いろいろで、考え方もいろいろなわけで、自分の気の合う仲間を選別しなければならない。
そのことはとりもなおさず、個の確立を推進して、自分と気の合う個の集団を創り上げねばならない。
こういう意識を抱く階層は、日々の生活に汲々している庶民ではなく、暇と金のある有閑層であらねばならず、それは当時の社会に普遍化していた世相を見事に反映していたと思われる。
言うまでもない事であるが、人間は独りでは生きておれないわけで、群れ、いわゆる社会を形成しなければ人間として生を全うすることが出来ない。
つまり、我々人類というのは、この世におぎゃあと言って生まれてきた瞬間から、社会との関わりなしでは生きておれないという事である。
それはヨーロッパの先進国でも、アメリカの開拓者でも、アフリカのマサイ族でも、北極圏のイヌイットでも全く同じであって、この世に生れ出た人間は、自分の属社会との関わりなしでは成長し切れない。
という事はおのずと、自分の属する社会の文化を身につけて成人に達するわけで、結果としてそれは文化の格差を生じせしめる。
この本の中では最後の方に知能テストに記述が及んで、各民族の優劣を比較する場面が出ているが、これこそ先進文明の奢りだと思う。
確かにこの地球上には数の概念のない民族や、文字を持たない民族がいることは承知しているが、だからと言って彼らが知能的に劣っているとは言えないと思う。
ただ近代化に素直に順応出来ないという部分では、これから先淘汰される運命であることは推察することができるが、だからと言ってそれを阻止することは多分できないだろうと思う。
現代に生きる我々は、そういう事象を何とか食い止めて、小数民族や、絶滅に瀕した民族を救済しようとするが、そのこと自体先進文化の奢りそのものだと思う。
この本の後半では、知能テストで白人が最も知能指数が高く、有色人種はそれに比べると劣る、と述べられているが、それは試験の方法に欠陥があるからだと思う。
今ある現状の中から被験者を選んでテストを実施すれば、知能テストに差異が出ることは当然ではないか。
何となれば、人は自分の属する社会の中で、その習俗風習に囲まれて成長するのであるから、数の概念のない種族、文字を持たない種族を同じ基準で測っても意味をなさないではないか。
民族間の知能の優劣を測るとするならば、同じ時期に生まれた赤ん坊を皆同じ環境で育てて、その後で知能テストをしなければ民族や種族の優劣は判らないはずである。
仮にそういう事をしたとしても、人にはそれぞれに個性が備わっているので、個人の個性でもって彼の属する民族の相対的な評価とはならず、その実験そのものが最初から意味を持っていないということである。
けれども、そんなことに挑戦しようという気持ちこそ、文明の奢りであって、文化人、教養人の傲慢さの表れである。
数の概念を持たない民族が不幸かと言うと、彼ら本人はそう思っていないかもしれない。
文字を持たない民族が彼らの歴史が残せないからと言って不幸かと言えば、彼ら自身はそう思っていないかもしれない。
我々は、自分以外の他者と比べるから、相手が羨ましく、自分が不幸だと思い込んでしまうだけで、他者と比較をしなければありのままに受け入れざるを得ず、自分が不幸などと思わないに違いない。
19世から20世紀のヨーロッパ諸国の帝国主義は、アジアに在ってヨーロッパにないモノを競い合って取り入れようとやっきになった結果である。
そのためには武力の行使も厭わないという考え方であった。
ところが日本の場合は、未開の人々を我々と同じレベルまで引き上げようという意図であったが、この真意はなかなか相手に伝わらなくて、最終的には武力でもって黙らせた結果として、戦後の日本の評価が確定してしまった。
戦前の日本が周辺諸国、具体的には台湾、朝鮮、満州を取り込んで5族協和を図ろうとした基底の部分には、いわゆる近代化への格差の是正があったわけで、この時点ではアジアで最初に近代化に成功した日本が、周辺諸国の近代化に手を差し伸べようとしてけれど、それが相手に伝わらなかったという事だ。
近代化ということは先進国のヨーロッパでも日本でも、いわゆる意識革命であったわけで、意識革命ということは従来の考え方の転換が伴うので、過去の思考の全否定ということに繋がる。
それを乗り越えないことには前に進めないわけで、アジアにおける日本の周辺諸国は、その部分で踏ん切りがつかなかったということであり、結果として日本が武力でもってそれを推し進めた為、戦後に至って日本は周辺諸国を侵略したということになってしまった。
この本のタイトルは「近代のまなざし」となっているが、眼差しということは視線、視点という意味合いがこもっていると思う。
だとすると、ここではメデイアについての論考も必要になってくると考えられる。
世界中が近代化に進むということは、情報が地球の細部にまで行き渡ったことによって、余所の地で起きたことを知ることになり、意識革命に拍車がかかったといえる。
人々が自分の知らない土地の出来事を知れば、良い意味でも悪い意味でも、格差を認識することになって、そこでは他者への優越観と傲慢さが同時に存在することになり、それは内なるエネルギーとして内在化してくる。
ここでメデイアの機能が大きくその状況を左右するようになるわけで、近代化の進捗状況は、メデイアの制御如何によって大きく結果に差異が生じることになる。
だから近代化の過程においては、メデイアの統御が大きな課題となり、ドイツのナチスや旧ソ連の情報操作のようなことが起きるのである。
近代化の流れの中で、情報を操作することによってナショナリズムというか、国民国家としての愛国心の涵養を推し進めて、それを国益追求の方向に仕向けるということが為政者によってなされたわけで、近代化ということはそういう意味でも、すべてが由とすべきものではなかったわけだ。
数の概念を持たず、文字を持たない民族でも、彼らは精神的に近代人よりもよほど素直な幸福感に浸りながら生きているかもしれない。
現代人はあまりにも多くのモノを持ち、あまりにも多くの知識を持っているので、そのモノや知識に押しつぶされて、息つく間もない状況で生かされているのかもしれない。
人間、人というのはただ生きていく、生物学的に生を維持するだけならば、物質文明の恩恵などなくとも生きていけると思う。
尖閣諸島に中国人がいくら来ようとも、竹島に朝鮮人が要塞を築こうとも、我々がただ生物学的に生を維持するだけならば、何の関係もない事で済んでしまうが、「ヤレ日本人の誇りだ、自尊心だ、愛国心だ」ということになるから、必死になって国益なるものを擁護しなければならないことになる。
弱肉強食、適者生存、輪廻転生という自然の摂理をそのまま容認すれば、他者に対して死力を出して抵抗しない種族は、自然淘汰されることは必定で、それぞれの民族ではそうあってはならないと思うからこそ、祖国を守るという意識が醸成され、それが自己保存の意識となり自衛権という言葉に還元されるのである。
人は自分一人では生きられないので、群れをつくり社会の構成員の一人として、自らの属する社会の保護を受けると同時に、その社会に貢献する義務も合わせ持っているのである。
しかし、社会の構成員の一人として、社会からの保護はありがたいが、その見返りとしての義務は嫌なことに代わりはない。
こういう人間の自然の深層心理を知ってか知らずか、今の日本の政治家は、国民に向かって嫌なことを強要する勇気をもたず、綺麗ごとの社会からの保護の面ばかりを強調して人気を得ようと画策しているので、混迷の度が深まるばかりである。
これが民主政治の真の姿であって、人々は天から授けられるものはありがたく受け取るが、それに対する見返りには躊躇するわけで、いわばこれが人間としての本性でもあるということだ。
人間が自然のままの思考であれば、文化、文明が進化することはありえないわけで、人々は天の授かりものに対して十分な見返りを献上したからこそ、今日の物質文明がありうるものと考えられる。 

「ドキュメント・自衛隊と東日本大震災」

2012-12-01 20:58:18 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「ドキュメント・自衛隊と東日本大震災」という本を読んだ。
著者は瀧野隆浩という毎日新聞の記者であるが、この記者はこの本の奥付けによると、防大の出身者という事だ。
防大を出たけれども任官せずに毎日新聞の記者になったという経歴の人間らしい。
彼の経歴が本の内容に何らかの影響を与えたという風には感じれないが、しかし、素人の感覚としては、防大を出た人間がメデイアの毎日新聞の中で普通に仕事ができているとはとても思えない。
彼の経歴が仲間内で何らかの影響があって当たり前だと思えてならない。
けれども、文中にはそういうニュアンスは微塵も見れないが、その現実の中に既に何らかのバイアスが掛かっているようにも感じれる。
東日本大震災を語るについては、どうしても東京電力福島第1発電所の原子炉のメルトダウンの事が真っ先に頭に浮かぶことは致し方ない事だと思う。
あの事故に依って、日本全体が多大な被害をこうむったことは周知の事実であるが、だからと言って日本全国津々浦々に至るまで、「原子力発電反対」という大合唱になるというのも極めて短絡的な思考だと思う。
あの事故によって福島県民が多大な迷惑をこうむって、苛酷な試練に立たされた、という現実は当然のこと憂うべきことであるが、その一事でもって「日本の全ての原子力発電を直ちに止めよ」という論法はあまりにも乱暴だと思う。
あの事故が従来の安全神話を超越した想定外の大きな事故であったことは否めないが、仮にそうであったとしても、我々は冷静に合理的な思考でもってあの事故を検証しなければならない。
「原子力発電は大きな事故を起こすから直ちに全てを止めよ」という発想はあまりにも子供じみた思考回路でしかない。
あの事故を冷静に眺めてみれば、地震が起きた時点で、燃料棒の注入は地震を感知して自動で停止した。そこまでは従来の技術が十分に機能していたということを示している。
ところが地震があまりにも大きかったので、原子炉の補器を動かす電源が落ちてしまって、燃料棒の注入停止後、炉を冷やすための水の注入ポンプが地震と津波による被害で作動せず、メルトダウンに至ったというものである。
発電所全体が巨大地震に伴う津波に対応できていなかったことは完全に想定外のことであって、この部分は人為的な措置の失敗とみなさなければならない。
燃料棒の注入は止まったが、それを冷やす水のポンプが動かないという部分については、明らかに人災と言わなければならない。
原子炉を冷やす水が送れないという段階で、電源車をかき集めたまでは良いが、ソケットが合わないというバカな話もないと思う。
時の総理大臣が管直人で、この人権派で革新系の政治家には、国家の危機管理という概念すら無かったに違いないと思う。
2001年9月11日アメリカで起きたWTCビルに旅客機が突っ込んだ事件で、当時のブッシュ大統領は「これは戦争だ!」と言って国民の団結を図ったが、管直人総理大臣にはこういう危機管理意識は毛頭無かったに違いない。
2011年3月11日は原発事故だけではなく東北地方は地震と津波で大災害をこうむっていたわけで、福島の原発事故だけがあったわけではない。
日本国中が未曽有の大混乱になっており、その中で人権派の政治家が綺麗ごとだけを並べても、何も意味をなさず、国家存亡の危機に個人の人権など関わらっている暇はないと思う。
地震被害や津波被害には放射能の心配を伴わないが、原発事故には放射能という目に見えない恐怖が伴うわけで、その対応には慎重さが要求される。
東京電力という会社は、日本でも有数の優良企業であったわけで、優良であるが故に、その組織は極めて官僚化していたとみなされる。
事故の何もない時ならば、官僚システムに則って粛々と業務をこなせばいいが、大地震で燃料棒の注入が自動停止し、冷却装置のポンプが止まったという緊急事態では、現場の責任者に処置を丸投げ、つまり指揮権を委譲して、全幅の信頼を寄せてそれをフォローすべきだと考える。
地震と津波でインフラが寸断された中で、本社の本部が組織図にある指揮命令系統を順守する術は既に失われているので、現場責任者に全てを委ねる他ない。
事故が起きた時点で、電源がダウンしたという事は、それに関連する機能は全てダウンしている筈で、通信網は死滅し、道路網は寸断し、人があちらでもこちらでも死んでいるわけで、こういう状況下であって見れば組織もすでに崩壊したとみなさねばならず、現場を一番よく知っている人にすべてを託すのが最良の方策である。
東京電力の本社のスタッフにしろ、総理大臣にしろ、現場に関してはずぶの素人の筈で、そんな者が肩書きを振り回して偉そうなことを言ったところで、ただ混乱を招くだけで何の足しにもならないことは火を見るより明らかである。
我々には昔から「能ある鷹は爪を隠す」という戯れ言葉があるが、こういう場で偉ぶって喚き散らす人ほど中身が空っぽという事だ。
この本では現地で活躍した自衛隊員の姿を浮き彫りにして、それを賞賛している。
だが、自衛隊員というは、それぞれが「人のために危険を顧みることなく尽くす」ことを入隊の時に契約して入っているので、ある意味では当然の行為という事が言える。
とはいう物の、自衛隊というのは戦後の平和志向の中でどうしても日陰者に近い異質な存在という点からして、こういう場面では素直に喜ばれ、賞賛されているが、それと同じことは消防隊員も警察官も同じようにしていると考えねばならない。
消防隊員や警察官は普通の市民の身近な存在で、行方不明者の捜索をしても、遺体捜索をしても、それが市民にとっては当然の仕事とみなされてしまうが、同じことを自衛隊がすると余計に喜ばれるという風にも感じれた。
ただこういう状況下で、自衛隊、消防、警察という夫々に違う組織を一本化して、一つの組織として運用するという経験は大きなものが残ったと思う。
日本という国、日本国という国家の真の危機管理は、当然の事、自衛隊単独ではありえず、消防や警察とも緊密に連携しなければ、真の危機管理というのは有り得ないわけで、そういう意味ではいくらかのノウハウが経験として残ったに違いないないと思う。
ただ憂うべきとは、東京電力という民間企業がどうして官僚化という泥沼から抜け切れなかったかという点である。
巨大地震で燃料棒の注入は自動で止まったが、冷却水を送るポンプが津波で破損した。
メルトダウンが予想されるが、さてどうするという段になって、本社のスタッフが慌てふためき、あちこち電話をかけまくって情報収集に務めたが、有効な指示が無いまま事態は切迫して、ついに水素爆発に至ってしまった。
これでは烏合の衆の集まりと何等変わるものではないではないか。
東京電力と言えば、優秀な人材が掃いて捨てるほど居る会社ではないのか。
こういう優秀な人材は、こういう危機存亡の時にはどういう働きをするのか不思議でならない。
こういう危機存亡の時、原子炉がメルトダウンするかもしれないという緊急時に、優秀な人が優秀な大学で優秀な成績で習得してきた知識や知恵はどういう風に効果的な解決策を生み出すのであろう。
東京電力に籍を置く優秀な人達は、それまでに習得し、研さんしてきた知識と知恵をどう生かし切ったのであろうか。
彼らは優秀であるが故に、東京電力という優秀な会社の中で官僚化してしまって、自分で自分をコントロールしきれないロボットに成り下がってしまったということだ。
大地震という緊急事態に直面して、誰にどういう指示を仰ぐべきか判らなくなってしまって、右往左往する以外に何もし得なかったわけで、優秀な頭脳が何一つ有効に機能しなかったということだ。
指示がないと動けない、人から指示されないことには何をしていいか判らない、というのは完全に官僚化の極致に至っているという事で、これでは危機管理機能が無いも同様である。
しかし、これは東京電力という一民間企業の内部事情であって、日本のエネルギー問題の根本にかかわる話ではない。
我々同胞の思考回路の恐ろしい所は、こういう事態が起きたら最後、日本全国津々浦々に至るまで「原子力発電反対」のシュプレヒコールの渦に埋まるという現象である。
先にも述べたように、地震の震動で燃料棒の注入は自動停止したわけで、それについては従来の技術が立派に作動したが、問題は、地震と津波で補器を動かす電源がダウンしたことで、冷却水が送れずに原子炉がメルトダウンしてしまったことにある。
その部分については、東京電力という会社の対応の不味さがあったわけで、他の原子炉の不安材料とは次元の異なる話だ。
あの福島の原子力発電の事故を目の当たりにして、日本の原子力発電を全否定する発想は、あまりにも幼稚じみた思考だと思う。
原子力発電など無いに越したことはないが、日本のような無資源の国が永続的なエネルギーとして原子力を抜きには今後ともありえないように思うし、再生可能なエネルギーに転換すると言っても、風車を回して今の電力事情に追いつくわけがないではないか。
原子力発電を止めれば、必然的に化石燃料による火力発電にならざるを得ないわけで、日本国内で原発反対と叫べば叫ぶほど、産油国はほくそ笑んでいるわけで、彼らを喜ばせる結果になるではないか。
老朽化した原子炉を順次廃炉にするのは必然的な流れであろうが、新しく安全な原子炉までも建設を差し止めるなどという事は、あまりにも無責任な思考である。
そういう事を叫ぶ人は、自分を良い子に見せようとしているだけで、原子力発電が有った方が良いか無い方が良いかと問えば、無い方が良いに決まっている。
しかし、それでは我々の現在の生活が維持できないので、どうしようかと言った場合、風車や太陽光で今の電力が賄えるわけがないではないか。
こういう赤ん坊でも判る理屈を差し置いて、理想論ばかり並べて、自分を良い子ぶって見せても、何も益するものはない筈である。
この本は原子力の問題を論ずるのが目的であったのではなく、自衛隊員の活躍を称えるのが目的であった。
自衛隊員が自分の身の危険も顧みずに任務遂行を果たしたことを顕彰しているが、この我が身の危険を顧みずに公益に準ずる精神というのは、我々日本人の誇りとして良い部分だと思う。
先の戦争については、私も本で読んだ知識しか持ち合わせていないが、この自衛隊員が我が身の危険を顧みずに任務を遂行する精神は、そのままあの特攻隊員の精神と相通じるものがあるように思える。
特攻隊員も、あの時代の大義に殉じる気持ちであって、「死に行く」という想いではなかったと思う。
特攻隊員として志願したという事は、飛行機で敵に突っ込むことを「死に行く」と考えればとてもできないが、「国家が自分に与えた任務を遂行するのだ」と考え方をすり替えなければ、飛行機に乗り込めなかったに違いない。
あの震災直後の我々同胞の対応の仕方というのは、世界か賞賛したのも充分にうなずけることである。
あれだけの災害にもかかわらず人々は粛々と自らの運命を受け入れたわけで、この健気さは支援する側にも同胞を助けるという意味合いで共有していたという事である。
ただこれが政治という場面に投影されると、この単純な相互扶助という精神が歪んでしまい、いびつな態様に変わってしまうのが不可解な部分である。
被災地の人を支援する、被災した人たちを助ける、という行為は政治を超越して、人々の善意でもって盛り上がっているが、この自然の人間の感情の盛り上がりを、人為的に方向付けしようとするとそれが政治となり、混迷の渦に嵌り込むことになる。
私が思うに、人の上に立ちたがる人間は、そういう人々の善意を自分の利得につなげよう、という恣意が働くのではなかろうか。
この場合の私利私欲というのは、何も金銭的なものではなく、自己の大義であったり、自分の実績であったり、自分の名誉であったりするわけで、社会的な貢献と混同されがちで、純真な心の持ち主は、その部分の欺瞞に気が付かないという事ではないかと思う。
日本が先の戦争に嵌り込んでいった過程を見ても、戦争を欲していたのは草の根の国民大衆の側であって、昭和天皇も山本五十六も、対米戦を決断しなければ、自分がテロの犠牲になるかもしれないと心配していたではないか。
原子力発電でも、この震災が起きるまでは、資源小国の日本として大いに奨励してきたわけで、震災が起きた途端に一夜にしてベクトルが逆向きになるという事は、我々の思考回路は一体どうなっているのかと問いたい。
この状況を鑑みて考えられることは、我々、日本民族は、時の雰囲気、時の時流に極めてもろく、自分の頭脳で沈思黙考することが無く、風評に左右されやすいという事だと思う。
東日本大震災が起きて、大勢の人が苦労している。ならば皆で助けましょうというムーブメントが起きると、日本全国津々浦々に至るまでその熱気が吹き荒れて、それが大儀に昇華して、被災者の支援をしない者は極悪人だというレッテルが張られることになるのである。
その流れの中で、「甚大な被害をもたらす可能性のある原子力発電は止めて、風車と太陽熱で行きましょう」と無責任な発想に至っているのである。
こういう国家的な危機に直面した時に、建設的な指針を示すべきが本来ならば教養知性に富んだ学識経験者という人たちであらねばならないが、こういう人たちがすべて反政府、反体制、反行政というポーズをとるので、世の中がますます混迷の際に嵌り込んでしまうのである。
人の考えは千差万別で、人生いろいろで、十人十色で、いくら大学者でも人の考えを一つに収斂することはできない、という説は極めて整合性に富んだ意見であるが、それならばインターネットカフェで屯している人の考えと寸分も変わらないわけで、知識人としての教養知性は何の価値も持ち合わせていない、存在していないという事ではないか。
平成24年11月30日の新聞報道によると、東京電力が事故当時のテレビ会議のテープ300時間余りを今ごろ公開したと報じているが、これは一体何なんだと言いたい。
東京電力の隠ぺい体質というのも、筆舌に尽くしがたい噴飯ものであるが、既にこの事故に関しては政府をはじめとする3つも事故報告がなされているが、あれは一体何なんだということになる。
こうなるともう東京電力という会社の存立そのものが許し難い物となっている。
組織そのものが完全に根腐れしてしまって、組織の体を為していない。
組織というのは言うまでもなく人が作るものであって、東京電力という組織をこういう体たらくにまで貶めたのは当然のこと、東京電力の社員であり、その経営者であったわけで、そういう人たちもきっと優秀な大学で優秀な成績で卒業してきた人たちであろうが、そういう人たちが何故こういう不合理なことをしでかしたのであろう。
日本の高等教育の場・大学というのは、日本の未来を背負う若者たちにどういう教育を施していたのであろう。
昔も今も我々の同胞は大学という高等教育の場に群がって、教養知性の習得に励んでいるが、そこで授けられた高等教育というのは、果たしてどういう形で社会に還元され、人々に貢献しているのであろう。