例によって図書館から借りてきた本で『近代のまなざし』という本を読んだ。
サブタイトルには、写真、指紋法、知能テストの発明となっている。
きしくも、再度、指紋に関する記述を読むことになったが、それは個人を確定するという認識の普及が時代と共に顕著になって来たということだ。
何故に個人の認識が近代と関係があるのかと言えば、近代は生存競争が個人のレベルのまで浸透してきたという事ではないかと思う。
近代はマスの中に個人が埋没してしまったが、それがため新たに個人の認識、個人の確定が必要になって来たということではないかと思われる。
大昔ならば、個人の行為の正邪を判定する裁量権を権力者が握っていたので、仮に冤罪であったとしても、それは社会に何の影響ももたらさなかった。
ただ間違えられた人が気の毒だ、で済んでしまったが、近代になればそういう権力者の間違いは権威の失墜に繋がるということが判って来たので、権力者も間違いを極力避けるように思考が傾いていった。
そのことは「悪いのは誰だ」という事を明確に確定しなければならなくなったわけで、それは当然の事、行為者の行為の確定を厳密にしなければならなくなった、ということである。
産業革命を経て人々が近代化に目覚めると、人々は富を求めて活発に移動するようになって、広い世界を目の当たりにすると、他者との相違を意識するようになった。
産業革命を経たイギリス人が、インドやアフリカ大陸に行く、そこでは大きなカルチャーギャップが厳然と存在するわけで、現地の人々が野蛮人に見えるのも致し方ない。
産業革命のような社会の大きな変革は、早々、誰でも彼でも素直に受け入れられるものではなかった筈である。
ヨーロッパの先進諸国の間でも、日本という国の中でも、新しい考え方に素直に順応出来る人とそうでない人はいるものだ。
それは国のレベルでも、民族のレベルでも同じように、新しいものへの順応の度合いとか対応の仕方には相違があって当然である。
ところが先に近代化に順応したものは、後からくるものが何となく野蛮に見えるわけで、この優越感が人類の悲劇を内包することになるのである。
先に近代化を成して、後ろを振り返ってみると野暮ったいものがのこのことついてくるわけで、「俺たちは彼等よりも優れているのだ」という自己満足に陥るのも当然といえば当然であろう。
この意識が個の覚醒でもあったわけで、それでもって自分の属する社会を眺めてみると、やはり野蛮な人々、野蛮な民族とは異質だと思うようになった。
それで自分の周りの人に視線を向けても、自分以外の他者は、それこそ人生いろいろで、考え方もいろいろなわけで、自分の気の合う仲間を選別しなければならない。
そのことはとりもなおさず、個の確立を推進して、自分と気の合う個の集団を創り上げねばならない。
こういう意識を抱く階層は、日々の生活に汲々している庶民ではなく、暇と金のある有閑層であらねばならず、それは当時の社会に普遍化していた世相を見事に反映していたと思われる。
言うまでもない事であるが、人間は独りでは生きておれないわけで、群れ、いわゆる社会を形成しなければ人間として生を全うすることが出来ない。
つまり、我々人類というのは、この世におぎゃあと言って生まれてきた瞬間から、社会との関わりなしでは生きておれないという事である。
それはヨーロッパの先進国でも、アメリカの開拓者でも、アフリカのマサイ族でも、北極圏のイヌイットでも全く同じであって、この世に生れ出た人間は、自分の属社会との関わりなしでは成長し切れない。
という事はおのずと、自分の属する社会の文化を身につけて成人に達するわけで、結果としてそれは文化の格差を生じせしめる。
この本の中では最後の方に知能テストに記述が及んで、各民族の優劣を比較する場面が出ているが、これこそ先進文明の奢りだと思う。
確かにこの地球上には数の概念のない民族や、文字を持たない民族がいることは承知しているが、だからと言って彼らが知能的に劣っているとは言えないと思う。
ただ近代化に素直に順応出来ないという部分では、これから先淘汰される運命であることは推察することができるが、だからと言ってそれを阻止することは多分できないだろうと思う。
現代に生きる我々は、そういう事象を何とか食い止めて、小数民族や、絶滅に瀕した民族を救済しようとするが、そのこと自体先進文化の奢りそのものだと思う。
この本の後半では、知能テストで白人が最も知能指数が高く、有色人種はそれに比べると劣る、と述べられているが、それは試験の方法に欠陥があるからだと思う。
今ある現状の中から被験者を選んでテストを実施すれば、知能テストに差異が出ることは当然ではないか。
何となれば、人は自分の属する社会の中で、その習俗風習に囲まれて成長するのであるから、数の概念のない種族、文字を持たない種族を同じ基準で測っても意味をなさないではないか。
民族間の知能の優劣を測るとするならば、同じ時期に生まれた赤ん坊を皆同じ環境で育てて、その後で知能テストをしなければ民族や種族の優劣は判らないはずである。
仮にそういう事をしたとしても、人にはそれぞれに個性が備わっているので、個人の個性でもって彼の属する民族の相対的な評価とはならず、その実験そのものが最初から意味を持っていないということである。
けれども、そんなことに挑戦しようという気持ちこそ、文明の奢りであって、文化人、教養人の傲慢さの表れである。
数の概念を持たない民族が不幸かと言うと、彼ら本人はそう思っていないかもしれない。
文字を持たない民族が彼らの歴史が残せないからと言って不幸かと言えば、彼ら自身はそう思っていないかもしれない。
我々は、自分以外の他者と比べるから、相手が羨ましく、自分が不幸だと思い込んでしまうだけで、他者と比較をしなければありのままに受け入れざるを得ず、自分が不幸などと思わないに違いない。
19世から20世紀のヨーロッパ諸国の帝国主義は、アジアに在ってヨーロッパにないモノを競い合って取り入れようとやっきになった結果である。
そのためには武力の行使も厭わないという考え方であった。
ところが日本の場合は、未開の人々を我々と同じレベルまで引き上げようという意図であったが、この真意はなかなか相手に伝わらなくて、最終的には武力でもって黙らせた結果として、戦後の日本の評価が確定してしまった。
戦前の日本が周辺諸国、具体的には台湾、朝鮮、満州を取り込んで5族協和を図ろうとした基底の部分には、いわゆる近代化への格差の是正があったわけで、この時点ではアジアで最初に近代化に成功した日本が、周辺諸国の近代化に手を差し伸べようとしてけれど、それが相手に伝わらなかったという事だ。
近代化ということは先進国のヨーロッパでも日本でも、いわゆる意識革命であったわけで、意識革命ということは従来の考え方の転換が伴うので、過去の思考の全否定ということに繋がる。
それを乗り越えないことには前に進めないわけで、アジアにおける日本の周辺諸国は、その部分で踏ん切りがつかなかったということであり、結果として日本が武力でもってそれを推し進めた為、戦後に至って日本は周辺諸国を侵略したということになってしまった。
この本のタイトルは「近代のまなざし」となっているが、眼差しということは視線、視点という意味合いがこもっていると思う。
だとすると、ここではメデイアについての論考も必要になってくると考えられる。
世界中が近代化に進むということは、情報が地球の細部にまで行き渡ったことによって、余所の地で起きたことを知ることになり、意識革命に拍車がかかったといえる。
人々が自分の知らない土地の出来事を知れば、良い意味でも悪い意味でも、格差を認識することになって、そこでは他者への優越観と傲慢さが同時に存在することになり、それは内なるエネルギーとして内在化してくる。
ここでメデイアの機能が大きくその状況を左右するようになるわけで、近代化の進捗状況は、メデイアの制御如何によって大きく結果に差異が生じることになる。
だから近代化の過程においては、メデイアの統御が大きな課題となり、ドイツのナチスや旧ソ連の情報操作のようなことが起きるのである。
近代化の流れの中で、情報を操作することによってナショナリズムというか、国民国家としての愛国心の涵養を推し進めて、それを国益追求の方向に仕向けるということが為政者によってなされたわけで、近代化ということはそういう意味でも、すべてが由とすべきものではなかったわけだ。
数の概念を持たず、文字を持たない民族でも、彼らは精神的に近代人よりもよほど素直な幸福感に浸りながら生きているかもしれない。
現代人はあまりにも多くのモノを持ち、あまりにも多くの知識を持っているので、そのモノや知識に押しつぶされて、息つく間もない状況で生かされているのかもしれない。
人間、人というのはただ生きていく、生物学的に生を維持するだけならば、物質文明の恩恵などなくとも生きていけると思う。
尖閣諸島に中国人がいくら来ようとも、竹島に朝鮮人が要塞を築こうとも、我々がただ生物学的に生を維持するだけならば、何の関係もない事で済んでしまうが、「ヤレ日本人の誇りだ、自尊心だ、愛国心だ」ということになるから、必死になって国益なるものを擁護しなければならないことになる。
弱肉強食、適者生存、輪廻転生という自然の摂理をそのまま容認すれば、他者に対して死力を出して抵抗しない種族は、自然淘汰されることは必定で、それぞれの民族ではそうあってはならないと思うからこそ、祖国を守るという意識が醸成され、それが自己保存の意識となり自衛権という言葉に還元されるのである。
人は自分一人では生きられないので、群れをつくり社会の構成員の一人として、自らの属する社会の保護を受けると同時に、その社会に貢献する義務も合わせ持っているのである。
しかし、社会の構成員の一人として、社会からの保護はありがたいが、その見返りとしての義務は嫌なことに代わりはない。
こういう人間の自然の深層心理を知ってか知らずか、今の日本の政治家は、国民に向かって嫌なことを強要する勇気をもたず、綺麗ごとの社会からの保護の面ばかりを強調して人気を得ようと画策しているので、混迷の度が深まるばかりである。
これが民主政治の真の姿であって、人々は天から授けられるものはありがたく受け取るが、それに対する見返りには躊躇するわけで、いわばこれが人間としての本性でもあるということだ。
人間が自然のままの思考であれば、文化、文明が進化することはありえないわけで、人々は天の授かりものに対して十分な見返りを献上したからこそ、今日の物質文明がありうるものと考えられる。
サブタイトルには、写真、指紋法、知能テストの発明となっている。
きしくも、再度、指紋に関する記述を読むことになったが、それは個人を確定するという認識の普及が時代と共に顕著になって来たということだ。
何故に個人の認識が近代と関係があるのかと言えば、近代は生存競争が個人のレベルのまで浸透してきたという事ではないかと思う。
近代はマスの中に個人が埋没してしまったが、それがため新たに個人の認識、個人の確定が必要になって来たということではないかと思われる。
大昔ならば、個人の行為の正邪を判定する裁量権を権力者が握っていたので、仮に冤罪であったとしても、それは社会に何の影響ももたらさなかった。
ただ間違えられた人が気の毒だ、で済んでしまったが、近代になればそういう権力者の間違いは権威の失墜に繋がるということが判って来たので、権力者も間違いを極力避けるように思考が傾いていった。
そのことは「悪いのは誰だ」という事を明確に確定しなければならなくなったわけで、それは当然の事、行為者の行為の確定を厳密にしなければならなくなった、ということである。
産業革命を経て人々が近代化に目覚めると、人々は富を求めて活発に移動するようになって、広い世界を目の当たりにすると、他者との相違を意識するようになった。
産業革命を経たイギリス人が、インドやアフリカ大陸に行く、そこでは大きなカルチャーギャップが厳然と存在するわけで、現地の人々が野蛮人に見えるのも致し方ない。
産業革命のような社会の大きな変革は、早々、誰でも彼でも素直に受け入れられるものではなかった筈である。
ヨーロッパの先進諸国の間でも、日本という国の中でも、新しい考え方に素直に順応出来る人とそうでない人はいるものだ。
それは国のレベルでも、民族のレベルでも同じように、新しいものへの順応の度合いとか対応の仕方には相違があって当然である。
ところが先に近代化に順応したものは、後からくるものが何となく野蛮に見えるわけで、この優越感が人類の悲劇を内包することになるのである。
先に近代化を成して、後ろを振り返ってみると野暮ったいものがのこのことついてくるわけで、「俺たちは彼等よりも優れているのだ」という自己満足に陥るのも当然といえば当然であろう。
この意識が個の覚醒でもあったわけで、それでもって自分の属する社会を眺めてみると、やはり野蛮な人々、野蛮な民族とは異質だと思うようになった。
それで自分の周りの人に視線を向けても、自分以外の他者は、それこそ人生いろいろで、考え方もいろいろなわけで、自分の気の合う仲間を選別しなければならない。
そのことはとりもなおさず、個の確立を推進して、自分と気の合う個の集団を創り上げねばならない。
こういう意識を抱く階層は、日々の生活に汲々している庶民ではなく、暇と金のある有閑層であらねばならず、それは当時の社会に普遍化していた世相を見事に反映していたと思われる。
言うまでもない事であるが、人間は独りでは生きておれないわけで、群れ、いわゆる社会を形成しなければ人間として生を全うすることが出来ない。
つまり、我々人類というのは、この世におぎゃあと言って生まれてきた瞬間から、社会との関わりなしでは生きておれないという事である。
それはヨーロッパの先進国でも、アメリカの開拓者でも、アフリカのマサイ族でも、北極圏のイヌイットでも全く同じであって、この世に生れ出た人間は、自分の属社会との関わりなしでは成長し切れない。
という事はおのずと、自分の属する社会の文化を身につけて成人に達するわけで、結果としてそれは文化の格差を生じせしめる。
この本の中では最後の方に知能テストに記述が及んで、各民族の優劣を比較する場面が出ているが、これこそ先進文明の奢りだと思う。
確かにこの地球上には数の概念のない民族や、文字を持たない民族がいることは承知しているが、だからと言って彼らが知能的に劣っているとは言えないと思う。
ただ近代化に素直に順応出来ないという部分では、これから先淘汰される運命であることは推察することができるが、だからと言ってそれを阻止することは多分できないだろうと思う。
現代に生きる我々は、そういう事象を何とか食い止めて、小数民族や、絶滅に瀕した民族を救済しようとするが、そのこと自体先進文化の奢りそのものだと思う。
この本の後半では、知能テストで白人が最も知能指数が高く、有色人種はそれに比べると劣る、と述べられているが、それは試験の方法に欠陥があるからだと思う。
今ある現状の中から被験者を選んでテストを実施すれば、知能テストに差異が出ることは当然ではないか。
何となれば、人は自分の属する社会の中で、その習俗風習に囲まれて成長するのであるから、数の概念のない種族、文字を持たない種族を同じ基準で測っても意味をなさないではないか。
民族間の知能の優劣を測るとするならば、同じ時期に生まれた赤ん坊を皆同じ環境で育てて、その後で知能テストをしなければ民族や種族の優劣は判らないはずである。
仮にそういう事をしたとしても、人にはそれぞれに個性が備わっているので、個人の個性でもって彼の属する民族の相対的な評価とはならず、その実験そのものが最初から意味を持っていないということである。
けれども、そんなことに挑戦しようという気持ちこそ、文明の奢りであって、文化人、教養人の傲慢さの表れである。
数の概念を持たない民族が不幸かと言うと、彼ら本人はそう思っていないかもしれない。
文字を持たない民族が彼らの歴史が残せないからと言って不幸かと言えば、彼ら自身はそう思っていないかもしれない。
我々は、自分以外の他者と比べるから、相手が羨ましく、自分が不幸だと思い込んでしまうだけで、他者と比較をしなければありのままに受け入れざるを得ず、自分が不幸などと思わないに違いない。
19世から20世紀のヨーロッパ諸国の帝国主義は、アジアに在ってヨーロッパにないモノを競い合って取り入れようとやっきになった結果である。
そのためには武力の行使も厭わないという考え方であった。
ところが日本の場合は、未開の人々を我々と同じレベルまで引き上げようという意図であったが、この真意はなかなか相手に伝わらなくて、最終的には武力でもって黙らせた結果として、戦後の日本の評価が確定してしまった。
戦前の日本が周辺諸国、具体的には台湾、朝鮮、満州を取り込んで5族協和を図ろうとした基底の部分には、いわゆる近代化への格差の是正があったわけで、この時点ではアジアで最初に近代化に成功した日本が、周辺諸国の近代化に手を差し伸べようとしてけれど、それが相手に伝わらなかったという事だ。
近代化ということは先進国のヨーロッパでも日本でも、いわゆる意識革命であったわけで、意識革命ということは従来の考え方の転換が伴うので、過去の思考の全否定ということに繋がる。
それを乗り越えないことには前に進めないわけで、アジアにおける日本の周辺諸国は、その部分で踏ん切りがつかなかったということであり、結果として日本が武力でもってそれを推し進めた為、戦後に至って日本は周辺諸国を侵略したということになってしまった。
この本のタイトルは「近代のまなざし」となっているが、眼差しということは視線、視点という意味合いがこもっていると思う。
だとすると、ここではメデイアについての論考も必要になってくると考えられる。
世界中が近代化に進むということは、情報が地球の細部にまで行き渡ったことによって、余所の地で起きたことを知ることになり、意識革命に拍車がかかったといえる。
人々が自分の知らない土地の出来事を知れば、良い意味でも悪い意味でも、格差を認識することになって、そこでは他者への優越観と傲慢さが同時に存在することになり、それは内なるエネルギーとして内在化してくる。
ここでメデイアの機能が大きくその状況を左右するようになるわけで、近代化の進捗状況は、メデイアの制御如何によって大きく結果に差異が生じることになる。
だから近代化の過程においては、メデイアの統御が大きな課題となり、ドイツのナチスや旧ソ連の情報操作のようなことが起きるのである。
近代化の流れの中で、情報を操作することによってナショナリズムというか、国民国家としての愛国心の涵養を推し進めて、それを国益追求の方向に仕向けるということが為政者によってなされたわけで、近代化ということはそういう意味でも、すべてが由とすべきものではなかったわけだ。
数の概念を持たず、文字を持たない民族でも、彼らは精神的に近代人よりもよほど素直な幸福感に浸りながら生きているかもしれない。
現代人はあまりにも多くのモノを持ち、あまりにも多くの知識を持っているので、そのモノや知識に押しつぶされて、息つく間もない状況で生かされているのかもしれない。
人間、人というのはただ生きていく、生物学的に生を維持するだけならば、物質文明の恩恵などなくとも生きていけると思う。
尖閣諸島に中国人がいくら来ようとも、竹島に朝鮮人が要塞を築こうとも、我々がただ生物学的に生を維持するだけならば、何の関係もない事で済んでしまうが、「ヤレ日本人の誇りだ、自尊心だ、愛国心だ」ということになるから、必死になって国益なるものを擁護しなければならないことになる。
弱肉強食、適者生存、輪廻転生という自然の摂理をそのまま容認すれば、他者に対して死力を出して抵抗しない種族は、自然淘汰されることは必定で、それぞれの民族ではそうあってはならないと思うからこそ、祖国を守るという意識が醸成され、それが自己保存の意識となり自衛権という言葉に還元されるのである。
人は自分一人では生きられないので、群れをつくり社会の構成員の一人として、自らの属する社会の保護を受けると同時に、その社会に貢献する義務も合わせ持っているのである。
しかし、社会の構成員の一人として、社会からの保護はありがたいが、その見返りとしての義務は嫌なことに代わりはない。
こういう人間の自然の深層心理を知ってか知らずか、今の日本の政治家は、国民に向かって嫌なことを強要する勇気をもたず、綺麗ごとの社会からの保護の面ばかりを強調して人気を得ようと画策しているので、混迷の度が深まるばかりである。
これが民主政治の真の姿であって、人々は天から授けられるものはありがたく受け取るが、それに対する見返りには躊躇するわけで、いわばこれが人間としての本性でもあるということだ。
人間が自然のままの思考であれば、文化、文明が進化することはありえないわけで、人々は天の授かりものに対して十分な見返りを献上したからこそ、今日の物質文明がありうるものと考えられる。