ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「楼蘭への旅」

2010-04-27 19:49:02 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「楼蘭への旅」、サブ・タイトルとして「ロプ・ノ―ル旧湖床南北縦断記」という本を読んだ。
著者は金子民雄氏。
相当に分厚い部類に入る本であったが読み易かったので一気に読み終えた。
この著者が本文中に言っていたが、このロブ・ノ―ルやローランというのは日本人には特に人気のある地域らしい。
私もその例に漏れず一度は行って見たいと思う土地の一つである。
私がシルクロードに惹かれる最大の理由は、やはり様々な探検記の存在であろう。
古の昔には当然のこと「西遊記」が有るが、私はこの本を未だかって通して読んだ記憶がない。
昔からこの本はあまりにも有名であるが故に漫画にまでなっているので、そういうものを拾い読みしている内にきちんとしたものを読む気が失われてしまって、未だに真面目な書物としては読んでいない。
しかし、マルコ・ポーロの「東方見聞録」となると、若き日に文庫本で読んだ記憶がある。
もっとも、その内容はすっかり忘れてしまっているが、このローランとかロプノ―ルともなると発見されたのが大分後世になってからで、それも西洋人によってはじめて世間に知らされたという意味で、興味ががぜん身近なものに感じられた。
戦後もしばらくして、日本が高度経済成長の端緒に着いたころ、トヨタ自動車がヨーロッパからシルクロードを通ってアジア大陸を横断するという企画をしたことがある。
その時使われた車がトヨタ・クラウンで、例のドアが観音開きになるものであった。
正確な日時は忘れてしまったが、その時、アジア大陸にはシルクロードという太古からの道が有るということを新たに認識したものである。
その延長線上に、ヨーロッパの探検家がローランとかロプノ―ルを発見したが、中国ではその後の革命騒ぎで、その情報が閉されて、未知の世界になってしまったので、好奇心のみが異常に増殖したというわけだ。
そういう思いの日本人は、私一人ではなかったようで、この本の著者は「日本人には非常に人気が有る」と説いている。
シルクロードの中でも何故にこのローランとかロプノ―ルに我々の関心が集まるのだろう。
これらの場所は、全て廃墟になっているわけで、廃墟だからこそ関心が集まるのだろうか。
ロブノ―ルなど塩水の湖なわけで、有ったとしても魚も住めない池でしかなく、ローランなども完全に廃墟で、人の影さえないという部分に我々の想像を超越した郷愁を感じるのだろうか。
我々にはイメージさえ湧かないので、だからこそ「一度は自分の目で見てみたい」という欲求に駆られるのだろうか。
前に読んだ中国の蒸気機関車の本でも、中国の悪口を大いに書いたが、この本でも再びそれを繰り返さなければならなくなる。
というのは、日本人がこの地域、いわゆるローランとかロプノ―ルのあるシルクロードに観光旅行、あるいは研究旅行で入ろうとすると、入所料を法外に吹っ掛けるという彼らの仕儀である。
この著者は研究者として、先方からの招待という形なので、彼自身はそういう憂き目にあっていないが、その場の観察としてそれに言及している。
日本でいえば、京都や奈良のお寺を見学するのに、中国人に限ってべらぼうに高い拝観料、入場料を吹っ掛けるのと同じことで、日本人に限ってそういう支出を科すと言うことは、そこを管轄している行政の長の恣意的な行為だと言わざるを得ない。
中国人では俗に50以上の民族が混在していると言われているので、いちがいに中国人という大雑把な括り方は出来ないことは十分に承知しているが、彼の地の住む人々は、日本人と言うと頭からバカにする傾向が有るのではないかと思う。
もっとも、我々の側にも相手にそう思わせる要因が有ることも知るべきである。
というのは、我々は中国人から何かを言われると、それに対して効果的な反論をしない、言わない、沈黙をする、譲歩をする、論理的に説明が出来ない、理論整然と論駁しないという面が有り、そこに付け込まれてしまうのである。
中国に関する限り、我々の側は、日本文化の川上の存在、日本文化の源流という意識から抜けきれないが、先方の意識からすれば、日本の存在など中国の50いくつか目の民族の中の一つぐらいの意識しかないのだろうと思う。
こういう意識の格差というのは有って当然だと思う。
考えても見よ。彼の地では国家が教育を完全にコントロールしているわけで、彼の地の歴史教育を見れば、反日、抗日、侮日の列挙であって、それを国家が推し進めていることから考えれば、日本人に接したこともない内陸部の人々が、日本人を鬼子と思い込んでいるのも当然のことである。
教育をコントロールしているだけではなく、中国国内の情報は固く封印し、入ってくる情報には厳しく検閲を掛けているわけで、彼の地に住む人々は、外国の事情というものがさっぱり分かっていないので、自分たちの行為が如何に国際信義にもとるか、ということまで気が回っていない筈だ。
学術調査、あるいは観光旅行でも、人が見たいと思うところ、あるいは行きたいと願えば、こちらの欲求が直ちに先方の金儲けのチャンスになるわけで、「ならば金を置いていけ」という論法になるわけである。
昔の関所と同じだし、ヤクザの寺銭とおなじ発想であるが、そのこと自体が時代錯誤であるにもかかわらず、その地の住民の立場からすれば、そういう方法しか現金収入の道がないということでもある。
地球規模で見てみれば、観光地で入場料を徴収するところは数多くある。
アメリカの国立公園では、その入り口では入場料を払わなければ中に入れないので、そのこと自体は太古からある人間の普遍的な行為であるが、それは一律に公平なシステムであって、人の顔を見て値段を決めるという不明朗なものではない。
当然、そこで徴収された金は公園の施設の維持管理やパトロールの経費に使われるわけで、それは来園する人たちに公平に科せられる。
こういう状況に置かれた時、我々の対応の仕方が実に不味いわけで、「そんな金を払うくらいなら帰る」と開き直ることが出来ない。
我々の感情としては「折角ここまで来たのだから、払える範囲ならば払ってでも見る」という態度になるから、相手に付け込まれるのである。
入場料だか人所料だか知らないが、理屈に合わない金でも、自分の欲望を優先させたいがため、相手の言うことに屈してしまうから、カモにされるのである。
これは一人一人の旅行者の問題を超越して、国の方針として「理屈に合わない金を取るところには行くな」と、国家の責務として自国民に言うべきである。
ところが、我々の国自体が毅然たる国家主権の意義、意味さえ確たる信念を持っていないので、中国に対しては腫れものに触るような気の使いようをしているため、相手は何処までも突け挙がってくるのである。
ロプノ―ル、ローランの存在というのも、中国の民にとっては何の価値もなかったわけで、約100年前、西洋人の探検家によって発見されて、世間にその存在が知れ渡り、学術的な価値が認識されてはじめて自分たちが金の卵を抱え込んでいることに気づいて、来訪者から金をせしめることを思いついたわけだ。
来訪者から金をむしり取っておきながら、「写真は撮るな!」とは全く馬鹿げた話だが、我々の同胞はそれにも素直に従っている。
現地で、現地の係官と押し問答したところで、来訪者にしてみれば何の得にもならないので、結果として泣き寝入りで終わるわけである。
私がこの本を読んで問題とすべき点は、中国の人々が自分たちの祖先の功績に対して全く無頓着だということである。
この遺跡が西洋人によって発見され、それが中国の人々によって破壊されつつある現状に何の憂いも感じていないということである。
それは同時に、この地域を観光資源として活用するアイデアにも何一つ貢献しようとしていないということでもある。
この地域は、日本人に人気が有って、日本人は喜んで来たがるので、その日本人からは高額の金をむしり取ることには何ら疾しさを感じていないが、それを観光資源として世界から人を集める、という発想には至っていない。
前の本でも述べたが、中国における内陸部と沿海部の格差というのは、有史以来あるわけで、内陸部においては社会的な基盤整備も有って無いがごとしであって、当然のこと教育にも格差が有るわけで、こういう現状から鑑みて、内陸部の人たちにとっては歴史的遺産の価値などというものは、端から理解しがたいことであったものと想像する。
紀元前に人間が作った文物だと言ったところで、この地に連綿と生き続けた現地の人からすれば、「それがどうした!」という感覚だと思う。
目の前にあるものの価値など、自分にとってい利用価値が有るか無いかでしかないわけで、世の学者先生が如何に「貴重な歴史遺産だ!」と言ったところで、地元住民にすれば、そんなことは預かり知らぬことで、それを取り壊して自分の家の土台にしようとも何の痛痒も感じないわけである。
私は、こういう歴史遺産を目の当たりにすると不思議な思いがする。
イタリアのポンペイにはまだ行ったことがないし、兵馬俑もまだ自分の目で見たことはないが、人間が昔生活していたところが地中に埋もれるというのがどうにも理解しがたいことに思われる。
イタリアのポンペイでは人間が生活したまま火山灰に埋もれたということもにわかに信じられないが、そういう意味で、かつてみたことのあるローマのコロッセオなども実に信じがたい思いがする。
この本の主題となっているロプノ―ルという湖、ローランという町が地中に埋もれてしまっていた、ということも私の理解を超越したことに思える。
ロブノ―ルの消滅もローランの消滅も、水の欠乏と同時に風の影響も大いにあるようだが、風の力で人間の生命力が淘汰されてしまう、というのも俄かに信じがたいことように思われる。
この本でも述べられているが、風の力で湖が干上がり、町が砂に埋没するというのも、基本的には人間が木を伐採してしまった結果のように思える。
当時の人にしてみれば、彼ら自身が生き延びるために周囲の木々を伐採して、自らもこの地で生き延びようとしたのであろうが、結果的にはそのことが人間の生存そのものを拒否することになってしまったわけだ。
私が思うに、彼の地には過去に人間が住んでいた形跡が残っていたということであるが、その事実の発見が何故に外国人、すなわち西洋人によってなされ、中国人によってそれがなされなかったかのか、という疑問である。
これらの地は中国の沿海部の人から見れば、それこそ「化外の地」であって、流刑地と同じ認識であったに違いない。
その意味では台湾と同じで、台湾も漢民族の認識からすれば「化外の地」以外の何ものでもなかったわけで、科挙の試験に通った者の中でも一番赴任したくない土地であったことは間違いないと思う。
そういう土地に、自ら行きたいと願う人間はいないわけで、そのことからこういう歴史的遺産の発見が西洋人に委ねらられてしまったのであろう。
この辺りに住む人々にとってみれば、遺跡の歴史的価値などというものは、屁のツッパリにもならないわけで、ただ学者先生が「ああでもないこうでもない」と日がな口角泡を飛ばして議論するネタにすぎず、そういう人たちから如何に金を巻き上げるかが最大の関心事であったに違いない。
何度も言うように、私に言わしめれば、アジアの内陸部、つまり中国の内陸部とアメリカの内陸部は不毛の大地という意味で、非常に酷似した地勢的な条件だと思う。
アメリカ大陸の内陸部も、ヨーロッパ系の白人が入植するまでは、この地と何ら変わるところはなく、不毛の大地という点では同じ条件下にあったと思う。
しかし、今日、21世紀という歴史の最先端においては、その差は大きなものになっているわけで、その原因を突き留めなければならないと思う。
私に言わしめれば、この大きな格差の根源は、価値観の相違だと思う。
アメリカ大陸の内陸部に入植したヨーロッパ系の白人の価値観と、漢民族の価値観の相違がこういう大きな格差を生じせしめたものと考える。
価値観の相違の根源は、額に汗して働くことの認識の違いだと思う。
アメリカに入植したヨーロッパ系の白人たちは、キリスト教文化圏を構成していた人たちであって、彼らは額に汗して働くことに非常に大きな価値を置いていたが、儒教思想に凝り固まっていたアジアの人々は、人が額に汗して働くことを蔑視しており、そういうことは下等な階級の者の仕事だと認識し、無意味で冗長な議論にあけくれることこそ人のあるべき姿だと勘違いしていたのである。
だから、我々の認識では、文武両道ということが人間の理想として好ましいという見識であったが、この地の人たちの常識では、文官が武官よりも上位に位置するわけで、今流の言葉でいえばシビリアン・コントロールこそが人のあるべき姿だと考えていたわけである。
しかし、人類の歴史というのは、ある意味で戦争の歴史でもあったわけで、現実の統治では文官が武官を抑えきれなくなって、シビリアン・コントロールが成り立たなくなることが往々にしてあったわけである。
中国大陸の王朝の変遷というのは、それを如実に表しているわけで、陸続きのそれぞれの国家は、軍備抜きでは生存そのものが成り立たなかった。
こういう状況下であってみれば、シビリアン・コントロールでは国家の存続そのものがありえないことであったにもかかわらず、文官が武官の上で采配を振ったことの瑕疵として、国家、あるいは民族の衰退を助長する結果を招いたのである。
儒教思想の中では、人が額に汗して働くことを下等な行為という認識が連綿と生き続けていたので、自分の命を的に戦う戦士が、口舌の徒の下に置かれており、それこそシビリアン・コントロールの具現であったが、それでは弱肉強食の現実の世界を泳ぎ切れず、近代化に乗り遅れるという結果を招いたわけだ。
地球上の人類にとって、時間というものは見事に平等に付与されており、アメリカ人には沢山付与されて、中国人には少ししか付与されていないということはない。
人類であるかぎり、地球上の人にとって時間は完全に平等である。
アメリカ人も中国人も、時間というのは全く公平に天から賦与されているわけで、にもかかわらず近代化、民主化、意識改革にこれだけの差が出来たということは、それぞれの民族に潜んでいた潜在意識の所為だと言ってしかるべきだと思う。
何時も言うように、儒教思想では親を敬い、年長者を立て、年功序列を遵守し、人の言うことを素直に聞き入れることが大事だと諭されるが、若者がこの教えに従順であるならば、決して意識改革、近代化への前向きの思考、民主化への脱皮ということはあり得ない。
若者がこういう長年の呪縛から脱する決心をしたからこそ、近代化や民主化が達成されるのであって、儒教思想というのは、こういう若者の考え方を抑え込む方向に作用しているのである。