例によって図書館から借りてきた本で、「環境問題のウソ」という本を読んだ。
著者は池田清彦氏。私とは全然面識のない人だ。
この本は、著者の思った事、考えた事がそのまま論旨となっているが、この世の大方の書物がそういうものであろうとも、その思考の行き着いた先はメディア批判となってしまっている。
またしてもメディアに対する批判になった。
メディアに対する批判というのは、言うなれば「メディアは嘘ばかり言っている」ということである。
これは一体どういうことなのであろう。
この本は冒頭に炭酸ガスによる地球温暖化の問題を取り上げているが、それにつづいてダイオキシン、外来種の駆除、自然保護の矛盾という風に、目下最大の話題になっていることを正面から糾弾している。
このいずれの一つをとっても、目下のところ地球規模で大問題となっているわけで、それは虚像に過ぎないと正面から否定している。
大騒ぎするほどのことではない、と正面から批判しているわけで、それは明らかにメディアとの戦争だ捉えてもいいと思う。
私は、これらの個々の問題は、それぞれに物質文明の功罪であり、陽のあたる面とその影の問題だと思っているが、私が憂うべき事と思うことは、誰かが正論をもっともらしく高々と掲げると、それを検証することも無く、ただただ一方的にその論理を鵜呑みにして、大騒ぎを演じるメディアの特質である。
私はメディアにかかわる人間をインテリ―ヤクザだと認識し、卑下しているが、世間ではメディアを白馬に跨った正義の味方だ、と一方的に思い込んでいる大勢の人間の存在である。
メディアに騙される人々も実に愚昧だが、本来ならば騙す側を厳しく取り締まらねばならない。
だ、とすると、「表現の自由を侵す」だとか、「信教の自由を損なう」などと言う屁理屈で、取り締まる側に対抗して来る。
ここで考えねばならないことは、「表現の自由」あるいは「言論の自由」を規制する、規制しなければならない状況というものを考えてみる必要がある。
表現者、執筆者が自己の信条を発信するのに、それが従来の公序良俗のモラルの範囲内に収まっておれば、規制ということはあり得ないが、それを超えるから無秩序なモラルの崩壊を阻止し、従来の規範を維持しなければ、という反動的な機運が醸成されるのであろう。
基本的に、メディアの報ずることが丸まる嘘であったとしても、それで直接人命が損なわれるわけでもなく、公序良俗が損なわれたとしても目に見える被害は何もないわけで、そういう嘘の報道に金を払う消費者がバカを見るだけである。
後でそれが嘘とわかっても、メディアは決して反省をすることもなく、謝罪することもなく、あたかもそんなことを言った覚えはない、と素知らぬ態度をするところが鼻持ちならない。
俗に「オオカミ少年の話」というのがある。
「オオカミが来る、オオカミが来る」とウソの警告ばかりを発していたので、本当の危機が来た時には誰も信用しなかったという話であるが、メディアというのはこのオオカミ少年の存在と同じで、常日頃言っていることは全部ウソなので、いざ真実の危機が迫って来た時には何の足しにもならなかったということになる。
それをもう一歩掘り下げて考えてみると、俗に真実と言われていることが、本当に真実かどうかも定かにはわからないということである。
テレビの刑事ドラマではないが、目撃者の証言として、目撃者の語ったことが本当に真実かどうかは定かではないわけで、メディアの取材記者が一生懸命取材して、当事者から聞いてきた話は、話としては真実であろうが、それが本当に真実かどうかはわからないまま報道しているということである。
「炭酸ガスが地球温暖化に影響を及ぼしている」とある学者が言い、それを取材した記者がそのまま報道すれば、これも確かに真実の一部ではあるが、本当の真実とは言い切れない部分がある。
科学者が言ったという面では確かに真実であるが、その内容が真実かどうかは定かでないわけで、メディアは「学者が言ったのだから真実だ」というスタンスで報道しがちである。
メディアとすれば報道した内容が間違っていても、それは学者が間違っていたのであってメディアの責任ではないと言い逃れするのである。
ダイオキシンの駆除を例にとれば、ダイオキシンが人間の身体に悪いことは当然であるので、ダイオキシンを身の回りから駆除せよというのは確かに正論である。
しかし、その正論のためにいくらコストがかかってもそれを推し進めるだけの価値がある事かどうかと問うと、そうでもないというわけで、この場合は正論とコストの兼ね合いの問題になる。
ところがダイオキシンが身体に悪いという報道がなされると、その報道を受け取る側は、それが正真正銘の真実と思い込んでしまうわけで、そんなに体に悪いものならばいくらコストがかかろうとも排除しなければならない、という論理になってしまうのである。
しかし、実際にはダイオキシンで人が死に至るまでの年月は100年近くもあるわけで、これで果たして人体に害があると本当に言えるのかということである。
ダイオキシンが致死量に至るまでに100年かかるとすれば、それが本当に人体に害があると言えるかどうかの問題である。
それでも人体に害があることは事実なので、いくらコストがかかろうとも駆除すべきだ、という論理になるとコストとの兼ね合いを勘案しなければならないことになる。
メディアはそこまで掘り下げて報道することなく、「ダイオキシンは人体に害がある」という部分だけを取り出して報道するので、結果的に真実を言っていないということになるのである。
この本は、そういうことが炭酸ガスが地球温暖化に影響を及ぼしているという論議にも言えるし、外来種の駆除から、自然保護に至るまで、メディアの報ずる内容は極めて嘘に近い一方的な見解を言っているのだから「それを鵜呑みにするな」と警告を発しているのである。
だから環境問題も、メディアの報道の仕方の問題に帰結してくるので、そこで何時も言うようにメディアに携わる人の良心とか良識に責任が覆いかぶさってくるのである。
メディアの本質は、基本的にはオオカミ少年のように何時も大衆や民衆に対して警告を発する立場でいいが、日本のテレビ局、日本の新聞社、日本の出版界が、全部同じテーマを同じスタンスで報じるという部分に護送船団方式が見受けられるのである。
あるいは、ある一定のテーマを洪水のように一方的に報道して、異端の意見や、別の視点の論調というものを全然顧ないという点が極めて情緒的というか、付和雷同的に映るのである。
テレビのニュース画面を見ていて、首相や外国から来た要人の記者会見の情景を目にすると、記者が黒山のように取材対象に群がっている光景がみられるが、ああいう情景から勘案すれば、各社のニュースが全部金太郎飴のように皆同じになることはしごく当然なことである。
私は前々から思っているが、この狭い日本にはテレビ局も、新聞社も、雑誌社もあまりにも数が多すぎると思う。
資本主義社会の中の自由主義体制なのだから儲かりそうな事業ならば何社でも競争し合って、適者生存で自然の淘汰に任せればいいとはいうものの、お互いに淘汰されたくないので結果として相互に助け合って共存の道を探るわけで、要するに巧妙な談合に至るのである。
メディア各社は同業社同士でスクープ合戦をいくら演じようとも、視聴者はスクープというものをそう重視しているわけではない。
メディア各社がスクープ合戦を演じているからこそ、そのスクープの材料がない時には、同じ記事のオンパレードになるのかもしれない。
メディア各社が同じ記事、同じニュースを報ずると、視聴者の方はその問題が今世間ではもっとも重要な話題に違いない、と思い込むのも無理ない話だと思う。
メディアというのはテレビでも新聞でも大衆に送り届ける媒体には枠があるわけで、テレビならば時間という枠があり、新聞ならば紙面という枠があるわけで、その枠は特ダネがあろうとなかろうと、その枠だけは満たさなければならない。
テレビが「今日はニュースがないから5分に短縮」、新聞が「今日はニュースがないから裏表2面で済ます」というわけにはいかない。
ニュースがあろうとなかろうと、テレビでも新聞でも決められた枠だけは埋めねばならないわけで、その部分に世間に対してオピニオンらしきものを発信せざるを得ない。
以前、安全保障の本を読んだとき、21世紀になっても軍縮がはかどらないのは、軍需産業をつぶすわけにはいかないからだという論旨があったが、環境問題で大騒ぎする趣旨も、環境で飯を食う連中の雇用を確保し、そういう企業のリストラを回避し、引いてはそういう企業の利得を促すために大騒ぎを作り上げているのかも知れない。
焼却炉のメーカーが自社製品の販売促進のために、知識人に「ダイオキシンは身体に悪い」と、誇大に吹聴してもらい、あるいはそういう問題で騒いでもらうように金を渡しているのかもしれない。
炭酸ガスは地球温暖化の元凶だから削減せよ、ダイオキシンは体に悪いから排除せよ、こういう問題はいくら論理的にその不合理、非合理を説いても、一旦思い込んだ信念は覆されない。
そしてそれは正論であり、正義となってしまう。
我々が考えるべきことは、この世間一般にいわれている正義とか正論というものが本当に人間の生存にとって正しい道なのかどうかということを検証することだと思う。
ダイオキシンが身体に悪いというからには、それをゼロにしなければならないのかどうかということである。
環境問題、自然保護の問題、これは厳密にいえば人間の存在そのものが既にこの問題に抵触しているわけで、人々が農業を営む、人々が牧畜を営む、人々が工業を営む、そのこと自体がすでに地球の環境を汚染し、自然を破壊しているではないか。
自己の生存は、地球の環境を促進し、自然を再生していると思い込んで、他者の生存を否定するような論理に整合性があるわけないではないか。
人々が大地を耕し、自らの生存を維持するために麦、コメ、牧草を栽培すること自体、人為的な行為であり、そのこと自体が自然を傷つけ、植生の秩序を壊し、自然淘汰に異変を起こしているわけで、そういうことに目をつぶったままで他者を批判中傷する論理は知識の驕りだと思う。
今起きている災害は突き詰めると人為的な理由によるものが多いと思う。
地震などというものは人為的な要素の入り込む隙はないが、春先に日本に襲いかかる黄砂というのは明らかに人為的なもので、人間の営為の結果である。
炭酸ガスが地球温暖化を促進し、人間の営為が自然破壊を招いているというのは紛れもない事実であるが、ここでそれを止めるということは生きた人間に対して「死ね」というに等しいわけで、そこに思いを致さない知識人の存在が不可解千万である。
問題は、この世の知識人も要するに未開人・野蛮人と同じで、究極の自己愛から逃れられず、そのためには他者を踏みつけてでも自己の生存を優先させねばならないと言うことである。
自己が生き続けるための手法というのは様々あって、ある人は水田で稲を作り、ある人は牧場で牛を飼い、ある人は鞴を吹いて鉄を加工し、ある人は教鞭をとって子供を教え、ある人は嘘をさも真実かのように言いふらして回り、その合間に金を取って商品の宣伝をして生き続けている。
ところがこのオオカミ少年の存在というのは、まことに困ったことに善良な人々をあらぬ方向に洗脳してしまうことである。
なにしろ彼らは大きな耳と、大きな口を持っているいので、遠くの情報をいち早く知り、その情報を自分の好みに合わせて加工し、自分の好みの方向に人々を誘導する機会をうかがっているのである。
環境問題についても、彼らは情報としてその問題を捉えているので、学究的な要因は二の次三の次で、ただただ世間に対して警告を発したポーズさえ取れればそれでいいわけだ。
情報の中身など、オオカミ少年のあずかり知らぬことで、皆がそれに驚いてくれれば、彼らの存在意義はあるとみなしているのである。
無理もない話だと思う。
メディアに携わっている人たちは、それぞれに立派な大学を出ているわけで、そういう人がその後も内部で研鑚を積んで、学識経験を積めば、普通の社会で起きている現象などまさしく馬鹿らしく思えるのも当然だと思う。
何となれば、彼らは決して当事者になることはないわけで、どこまで行っても傍観者であり、第3者であり、観察者であって、自らは何一つタッチしていないとなれば、全ての事に口先だけの評価、評論、批判、非難が出来るわけである。
自分では言いたい放題したい放題のことをしているので、記者と乞食は三日やったら止められない、というのもあながち嘘ではなさそうだ。
メディアの本質がオオカミ少年だとすれば、ここで一般大衆の側が彼らに対する認識を改めなければならない。
未だにテレビに顔が映ることを喜び、新聞記事になることを喜んでいる人がいるが、こういう人は実に胡乱な人で、自分がメデイアに利用されていることに気が付いていない。
心ある人ならば、メデイアのインタビューなどにはかるがるしく出ないことだ。
テレビカメラの前では必要最小限の言葉しか発しないことだ。
著者は池田清彦氏。私とは全然面識のない人だ。
この本は、著者の思った事、考えた事がそのまま論旨となっているが、この世の大方の書物がそういうものであろうとも、その思考の行き着いた先はメディア批判となってしまっている。
またしてもメディアに対する批判になった。
メディアに対する批判というのは、言うなれば「メディアは嘘ばかり言っている」ということである。
これは一体どういうことなのであろう。
この本は冒頭に炭酸ガスによる地球温暖化の問題を取り上げているが、それにつづいてダイオキシン、外来種の駆除、自然保護の矛盾という風に、目下最大の話題になっていることを正面から糾弾している。
このいずれの一つをとっても、目下のところ地球規模で大問題となっているわけで、それは虚像に過ぎないと正面から否定している。
大騒ぎするほどのことではない、と正面から批判しているわけで、それは明らかにメディアとの戦争だ捉えてもいいと思う。
私は、これらの個々の問題は、それぞれに物質文明の功罪であり、陽のあたる面とその影の問題だと思っているが、私が憂うべき事と思うことは、誰かが正論をもっともらしく高々と掲げると、それを検証することも無く、ただただ一方的にその論理を鵜呑みにして、大騒ぎを演じるメディアの特質である。
私はメディアにかかわる人間をインテリ―ヤクザだと認識し、卑下しているが、世間ではメディアを白馬に跨った正義の味方だ、と一方的に思い込んでいる大勢の人間の存在である。
メディアに騙される人々も実に愚昧だが、本来ならば騙す側を厳しく取り締まらねばならない。
だ、とすると、「表現の自由を侵す」だとか、「信教の自由を損なう」などと言う屁理屈で、取り締まる側に対抗して来る。
ここで考えねばならないことは、「表現の自由」あるいは「言論の自由」を規制する、規制しなければならない状況というものを考えてみる必要がある。
表現者、執筆者が自己の信条を発信するのに、それが従来の公序良俗のモラルの範囲内に収まっておれば、規制ということはあり得ないが、それを超えるから無秩序なモラルの崩壊を阻止し、従来の規範を維持しなければ、という反動的な機運が醸成されるのであろう。
基本的に、メディアの報ずることが丸まる嘘であったとしても、それで直接人命が損なわれるわけでもなく、公序良俗が損なわれたとしても目に見える被害は何もないわけで、そういう嘘の報道に金を払う消費者がバカを見るだけである。
後でそれが嘘とわかっても、メディアは決して反省をすることもなく、謝罪することもなく、あたかもそんなことを言った覚えはない、と素知らぬ態度をするところが鼻持ちならない。
俗に「オオカミ少年の話」というのがある。
「オオカミが来る、オオカミが来る」とウソの警告ばかりを発していたので、本当の危機が来た時には誰も信用しなかったという話であるが、メディアというのはこのオオカミ少年の存在と同じで、常日頃言っていることは全部ウソなので、いざ真実の危機が迫って来た時には何の足しにもならなかったということになる。
それをもう一歩掘り下げて考えてみると、俗に真実と言われていることが、本当に真実かどうかも定かにはわからないということである。
テレビの刑事ドラマではないが、目撃者の証言として、目撃者の語ったことが本当に真実かどうかは定かではないわけで、メディアの取材記者が一生懸命取材して、当事者から聞いてきた話は、話としては真実であろうが、それが本当に真実かどうかはわからないまま報道しているということである。
「炭酸ガスが地球温暖化に影響を及ぼしている」とある学者が言い、それを取材した記者がそのまま報道すれば、これも確かに真実の一部ではあるが、本当の真実とは言い切れない部分がある。
科学者が言ったという面では確かに真実であるが、その内容が真実かどうかは定かでないわけで、メディアは「学者が言ったのだから真実だ」というスタンスで報道しがちである。
メディアとすれば報道した内容が間違っていても、それは学者が間違っていたのであってメディアの責任ではないと言い逃れするのである。
ダイオキシンの駆除を例にとれば、ダイオキシンが人間の身体に悪いことは当然であるので、ダイオキシンを身の回りから駆除せよというのは確かに正論である。
しかし、その正論のためにいくらコストがかかってもそれを推し進めるだけの価値がある事かどうかと問うと、そうでもないというわけで、この場合は正論とコストの兼ね合いの問題になる。
ところがダイオキシンが身体に悪いという報道がなされると、その報道を受け取る側は、それが正真正銘の真実と思い込んでしまうわけで、そんなに体に悪いものならばいくらコストがかかろうとも排除しなければならない、という論理になってしまうのである。
しかし、実際にはダイオキシンで人が死に至るまでの年月は100年近くもあるわけで、これで果たして人体に害があると本当に言えるのかということである。
ダイオキシンが致死量に至るまでに100年かかるとすれば、それが本当に人体に害があると言えるかどうかの問題である。
それでも人体に害があることは事実なので、いくらコストがかかろうとも駆除すべきだ、という論理になるとコストとの兼ね合いを勘案しなければならないことになる。
メディアはそこまで掘り下げて報道することなく、「ダイオキシンは人体に害がある」という部分だけを取り出して報道するので、結果的に真実を言っていないということになるのである。
この本は、そういうことが炭酸ガスが地球温暖化に影響を及ぼしているという論議にも言えるし、外来種の駆除から、自然保護に至るまで、メディアの報ずる内容は極めて嘘に近い一方的な見解を言っているのだから「それを鵜呑みにするな」と警告を発しているのである。
だから環境問題も、メディアの報道の仕方の問題に帰結してくるので、そこで何時も言うようにメディアに携わる人の良心とか良識に責任が覆いかぶさってくるのである。
メディアの本質は、基本的にはオオカミ少年のように何時も大衆や民衆に対して警告を発する立場でいいが、日本のテレビ局、日本の新聞社、日本の出版界が、全部同じテーマを同じスタンスで報じるという部分に護送船団方式が見受けられるのである。
あるいは、ある一定のテーマを洪水のように一方的に報道して、異端の意見や、別の視点の論調というものを全然顧ないという点が極めて情緒的というか、付和雷同的に映るのである。
テレビのニュース画面を見ていて、首相や外国から来た要人の記者会見の情景を目にすると、記者が黒山のように取材対象に群がっている光景がみられるが、ああいう情景から勘案すれば、各社のニュースが全部金太郎飴のように皆同じになることはしごく当然なことである。
私は前々から思っているが、この狭い日本にはテレビ局も、新聞社も、雑誌社もあまりにも数が多すぎると思う。
資本主義社会の中の自由主義体制なのだから儲かりそうな事業ならば何社でも競争し合って、適者生存で自然の淘汰に任せればいいとはいうものの、お互いに淘汰されたくないので結果として相互に助け合って共存の道を探るわけで、要するに巧妙な談合に至るのである。
メディア各社は同業社同士でスクープ合戦をいくら演じようとも、視聴者はスクープというものをそう重視しているわけではない。
メディア各社がスクープ合戦を演じているからこそ、そのスクープの材料がない時には、同じ記事のオンパレードになるのかもしれない。
メディア各社が同じ記事、同じニュースを報ずると、視聴者の方はその問題が今世間ではもっとも重要な話題に違いない、と思い込むのも無理ない話だと思う。
メディアというのはテレビでも新聞でも大衆に送り届ける媒体には枠があるわけで、テレビならば時間という枠があり、新聞ならば紙面という枠があるわけで、その枠は特ダネがあろうとなかろうと、その枠だけは満たさなければならない。
テレビが「今日はニュースがないから5分に短縮」、新聞が「今日はニュースがないから裏表2面で済ます」というわけにはいかない。
ニュースがあろうとなかろうと、テレビでも新聞でも決められた枠だけは埋めねばならないわけで、その部分に世間に対してオピニオンらしきものを発信せざるを得ない。
以前、安全保障の本を読んだとき、21世紀になっても軍縮がはかどらないのは、軍需産業をつぶすわけにはいかないからだという論旨があったが、環境問題で大騒ぎする趣旨も、環境で飯を食う連中の雇用を確保し、そういう企業のリストラを回避し、引いてはそういう企業の利得を促すために大騒ぎを作り上げているのかも知れない。
焼却炉のメーカーが自社製品の販売促進のために、知識人に「ダイオキシンは身体に悪い」と、誇大に吹聴してもらい、あるいはそういう問題で騒いでもらうように金を渡しているのかもしれない。
炭酸ガスは地球温暖化の元凶だから削減せよ、ダイオキシンは体に悪いから排除せよ、こういう問題はいくら論理的にその不合理、非合理を説いても、一旦思い込んだ信念は覆されない。
そしてそれは正論であり、正義となってしまう。
我々が考えるべきことは、この世間一般にいわれている正義とか正論というものが本当に人間の生存にとって正しい道なのかどうかということを検証することだと思う。
ダイオキシンが身体に悪いというからには、それをゼロにしなければならないのかどうかということである。
環境問題、自然保護の問題、これは厳密にいえば人間の存在そのものが既にこの問題に抵触しているわけで、人々が農業を営む、人々が牧畜を営む、人々が工業を営む、そのこと自体がすでに地球の環境を汚染し、自然を破壊しているではないか。
自己の生存は、地球の環境を促進し、自然を再生していると思い込んで、他者の生存を否定するような論理に整合性があるわけないではないか。
人々が大地を耕し、自らの生存を維持するために麦、コメ、牧草を栽培すること自体、人為的な行為であり、そのこと自体が自然を傷つけ、植生の秩序を壊し、自然淘汰に異変を起こしているわけで、そういうことに目をつぶったままで他者を批判中傷する論理は知識の驕りだと思う。
今起きている災害は突き詰めると人為的な理由によるものが多いと思う。
地震などというものは人為的な要素の入り込む隙はないが、春先に日本に襲いかかる黄砂というのは明らかに人為的なもので、人間の営為の結果である。
炭酸ガスが地球温暖化を促進し、人間の営為が自然破壊を招いているというのは紛れもない事実であるが、ここでそれを止めるということは生きた人間に対して「死ね」というに等しいわけで、そこに思いを致さない知識人の存在が不可解千万である。
問題は、この世の知識人も要するに未開人・野蛮人と同じで、究極の自己愛から逃れられず、そのためには他者を踏みつけてでも自己の生存を優先させねばならないと言うことである。
自己が生き続けるための手法というのは様々あって、ある人は水田で稲を作り、ある人は牧場で牛を飼い、ある人は鞴を吹いて鉄を加工し、ある人は教鞭をとって子供を教え、ある人は嘘をさも真実かのように言いふらして回り、その合間に金を取って商品の宣伝をして生き続けている。
ところがこのオオカミ少年の存在というのは、まことに困ったことに善良な人々をあらぬ方向に洗脳してしまうことである。
なにしろ彼らは大きな耳と、大きな口を持っているいので、遠くの情報をいち早く知り、その情報を自分の好みに合わせて加工し、自分の好みの方向に人々を誘導する機会をうかがっているのである。
環境問題についても、彼らは情報としてその問題を捉えているので、学究的な要因は二の次三の次で、ただただ世間に対して警告を発したポーズさえ取れればそれでいいわけだ。
情報の中身など、オオカミ少年のあずかり知らぬことで、皆がそれに驚いてくれれば、彼らの存在意義はあるとみなしているのである。
無理もない話だと思う。
メディアに携わっている人たちは、それぞれに立派な大学を出ているわけで、そういう人がその後も内部で研鑚を積んで、学識経験を積めば、普通の社会で起きている現象などまさしく馬鹿らしく思えるのも当然だと思う。
何となれば、彼らは決して当事者になることはないわけで、どこまで行っても傍観者であり、第3者であり、観察者であって、自らは何一つタッチしていないとなれば、全ての事に口先だけの評価、評論、批判、非難が出来るわけである。
自分では言いたい放題したい放題のことをしているので、記者と乞食は三日やったら止められない、というのもあながち嘘ではなさそうだ。
メディアの本質がオオカミ少年だとすれば、ここで一般大衆の側が彼らに対する認識を改めなければならない。
未だにテレビに顔が映ることを喜び、新聞記事になることを喜んでいる人がいるが、こういう人は実に胡乱な人で、自分がメデイアに利用されていることに気が付いていない。
心ある人ならば、メデイアのインタビューなどにはかるがるしく出ないことだ。
テレビカメラの前では必要最小限の言葉しか発しないことだ。