例によって図書館から借りてきた本で「硫黄島、栗林忠道大将の教訓」という本を読んだ。
著者は小室直樹という人で東京大学の教授ということであるが、我々の視点を超えた発想で非常に興味深く読んだ。
硫黄島の日米の激闘は我々も様々な本で知るところであって、最近ではこの事実をアメリカの映画俳優兼監督でもあるクリント・イーストウッドがアメリカ側の視点と日本側の視点という2本の映画をつくったことはよく知られている。
私はまだ見てないが、硫黄島の日米の激闘というのは我々の認識を超えたものであるらしい。
今に生きる我々の認識からすれば、戦争に負けてしまった以上、オール・オア・ナッシングで、その過程で如何なることがあろうとも、負けた後では意味をなさないという思考はもっともだと思う。
いくらそれを言ってみたところで、負け惜しみにしか受け取れないに違いない。
しかし、今、63年前のことを振り返ってみると、アメリカは真底日本が恐ろしかったと思う。
この本の主題は、アメリカが如何に日本を恐れていたか、ということの再確認のような本であるが、言われてみれば確かにそういう見方も成り立つ。
アメリカは日本人の戦いぶりを見て、真底日本を恐れた結果として、戦後の日本に相当気を配った施策を行ったというのがこの本の主題である。
ポツダム宣言も、日本にかなり有利な条件であったというし、その後の占領政策も、日本に対する恐怖心から相当に熟考された施策であったと述べている。
確かに、我々のポツダム宣言を受諾しての降伏は、無条件降伏ではなかったわけで、条件付きの降伏という意味で、ドイツの場合とは違っている。
こういう条件付きの条約に至ったのも、日本人、特に硫黄島における栗林大将の戦いぶりや、沖縄戦の戦いぶりがあってはじめて連合国側も条件付きの降伏文書にせざるを得なかった、という書きぶりである。
アメリカ側の軍人の視点から見ると、日本と戦を交えることは、嫌というか出来れば避けて通りたい、という気持ちであったことも確かだろうと思う。
私も戦後教育を受けた人間として、当時の日本の軍人の悪口を言いふらしている類の人間であるが、戦争で負けてしまった以上、戦争のプロとしての軍人が糾弾されるのはいた仕方ないと思う。
仲間が仲間内を批判するのは当然の成り行きだが、これが仲間の外からの評価だとすると、それを受け入れるには相当に考えざるを得ない。
我々の自己批判では、日清・日露の戦いで奢り高ぶって歴史から何も学ばなかった、という評価になりがちであるが、外側の人間からすれば、日清・日露の戦いに日本が勝ったこと自体が大いなる驚異であったわけで、そういう日本と戦ってかろうじて勝てたという印象であったのだろう。
日本に資源のないことは先方も即刻承知なわけで、その資源のない日本がアメリカに挑戦してくるとこと自体が驚きであり、脅威であり、恐怖であったにちがいない。
そして、日米開戦が始まるやいなや、真珠湾はやられるは、イギリスの東洋艦隊はやられるはで、決して舐めて掛かれる相手ではなかったはずである。
そこで、現実の問題として硫黄島を奪還しようとすると、アメリカは想像以上に犠牲を強いられたわけで、そういう自身の犠牲もさることながら、日本の頑強さに真底驚いたに違いない。
そういう驚きというか、対日感情ないしは日本に対する畏怖の気持ちは、戦いの終わったあとも生きていたわけで、彼らにしてみれば日本とは再び戦を交えたくはないという心境に至ったものと思う。
これは当然のこと、非戦、反戦の底流となるわけで、日本の占領政策はその線で推し進められたというのがこの本の本旨である。
あの第2次世界大戦の本質は、私の個人的な考えでいえば、日本の立場からいえばアジア特に中国問題のこじれというか、収拾策の失敗だったと思う。
しかし、アメリカの立場からすれば、日本問題、対日政策の問題ではなかったかと思う。
あの時代の我々は、アジア、特に中国に進出しようと躍起になっていたが、アメリカからすればそういうアジアに覇権を伸ばそうとする日本の存在が鼻もちならなかったわけで、日本パッシングの一環であったに違いないと思う。
だからこそ彼ら西洋列強、つまり連合軍側としては中国の蒋介石を援助したわけだが、その本音の部分には、真から蒋介石の助けるのではなく、蒋介石を助けてその代わり中国の地に利権を得ようとしていたにすぎないと思う。
絵にかいたような帝国主義的利権獲得の構図であり、国益の伸長を目指すものであったに違いない。
彼らは彼らなりに中国の地に利権を確立しようとしていたが、それには日本の存在が邪魔であったわけで、その為の日本パッシングであったわけだ。
ところが、それは政治と経済を内包した外交の問題なわけで、いざ戦争となると日本は舐めては掛かれないということが彼らにも十分わかっていたに違いない。
ところが、この時代には政治および外交というのは非常にグローバル化していたわけで、主権国家の国益を守るのに外交、つまり話し合いというのが大きなウエイトをしめるようになっていた。
この分野に関して、我々は非常に稚拙で、それは今でもいささかも変わっていないが、なにしろ四周が海で囲まれているので、どうしても井戸の中の蛙的思考から脱却できない。
自分達が良いことだと思っていることは、相手もそう思っているに違いない、という思い込みに陥ってしまうのである。
相手を騙し、嘘を言い、舌先3寸で黒を白とも言いくるめる狡猾な外交術でもって国益を擁護し、相手の懐に飛び込んで、肉を切らせて骨を切るという芸当ができない。
それは国民の側にも責任がある。それは目先の瑣末な利益に一喜一憂して、10年先20年先の投資には極めて冷淡なわけで、そういう遠大な計画は国民が許さない。
そういう掛け引きには、当然、外交上の秘密ということもついて回るはずであるが、日本の世論はそれを許さない。
前にも書いたことがあるが、我々は非常に識字率が高く、誰でも彼でも文字が読めるので、秘密の保持ということが極めて難しい。
俗に床屋談義といわれるように、床屋さんでさえ政治や外交の話が出来るわけで、こういう国情を考えると、政治・外交の秘密というのは極めて守りにくい。
情報が漏れれば、10年先20年先に計画は、その時点で御破算になってしまう。
戦後、三矢事件というのがあって、当時の防衛庁のトップが、毛利元就が息子たちを戒める意味で、3本の矢のたとえ話で防衛の大義を説いたら、それが戦後の日本の知識人に漏れた際、上から下まで大騒ぎした例を見てもわかるように、我々はまさしくマッカサーの言った通り、政治外交の認識では12歳の子供の域を出るものではない。
ところがこれが戦の現場となると、とんでもない底力を出すわけで、それが諸外国にとっては恐怖の的なわけである。
アメリカがその恐怖を実感として体験したのが、真珠湾であり、イギリス艦隊のせん滅であり、硫黄島、沖縄の戦いであったものと推察する。
我々はあの戦争の敗北の遠因を物量の差だと思っているが、そう考えていたのは我々だけではなく、アメリカも同じように考えていたわけで、日本は物資が少ないから、それに対抗するには物資の豊富さで行くしかないと考えたに違いない。
我々はあの戦争を振り返るとき、学徒動員や勤労奉仕でさんざんこき使われた、という印象で語られがちであるが、ああ言うことは我々の側だけの特殊な環境であったわけではなく、アメリカでも同じような措置があったわけで、アメリカの女性もB-29の胴体にむぐりこんでリベット打ちをしていたわけで、国家総力戦というのはああ言うものだと思う。
この地球上では、人間が人間を統治しているわけで、人間のすることである以上、政治の失敗、外交の失敗、経済の失敗も数々ある。
ドイツのユダヤ人虐殺もそのうちの一つであり、日本が朝鮮の人々に強制労働を強いたのもその一つであり、アメリカが日系人を差別したのもそういう問題の一つであるが、国家が国を挙げて戦争をしていれば、その裏側でこういう不合理が蔓延するのも避けては通れない道ではある。
硫黄島や沖縄の戦いは、アメリカをして、日本とは再び戦を交えたくない、と考えるに至ったのは彼らが歴史から学びとった最大の利益ではないかと思う。
しかし、それは彼らアメリカ側の問題であって、それに対応して我々はどうあらねばならないか、という意味で、歴史から何かを学ばねばならないと思う。
日本に物資がないことは彼らもわかっていたわけで、だからこそ兵糧攻めにしようとABCDラインなるものを考えた。
我々が生き残る為には彼らの上を行く発想で迎え撃たなければならなかった筈である。
昭和初期の日本側の軍人も、アメリカが物資の豊かな国だということはわかっていたので、基本的には戦争を回避することを考えねばならなかった。
ところが国家予算をどんどん注ぎ込んで、ハード面の強化を図っていたわけで、そうであるとするならば、その場に至って、「今は戦争できません」ということはやはり言えなかったものと思う。
中国大陸ではその前から戦争が続いていたわけで、これも何の見返りのないまま引き返すこともできなかったはずで、そういう意味であの戦争は歴史の必然であったという他ないと思う。
歴史にifということはない、とよく言われるが、歴史研究というのは起きた事実を時系列に並べることなので、そこではifという言葉も無価値かもしれないが、政治とか外交というのは、ある種の処世術わけで、ifということを思いつくだけ並べて、比較検討することは極めて大事だと思う。
それとあの戦争の敗因として、日清・日露の戦争の成功事例に酔って、あれから教訓を得なかった、とよく言われているが、当然のことだと思う。
問題は、成功事例を研究することも大事だが、もっと重要なことは、失敗事例の研究だと思う。
日常生活でも失敗から学ぶということは多々あるわけで、失敗こそ最大の教訓だと思うが、我々はなかなかそういう発想に至らない。
それと我々日本民族というのは戦争と政治を分離して考える癖があって、物事を一体化して考えることが極めて不得意だと思う。
世の中のことは、すべてがことごとく連動しているわけで、戦争を始めるについては、経済から、教育から、日常生活まで含めて、トータルで考えなければならない筈であるが、我々はどうしてもセクショナリズムにとらわれて、海軍、陸軍という風に別個の存在として考えがちである。
当然のこと、縦割り行政で横の連携が極めて悪く、双方合わせて車の両輪のように機能するということにならない。
これは戦争に限らず、今の我々の日常生活の中にもふんだんに見られることで、道路一本でも、国交省の管括があり、農水省の管括があり、自治体の管括がありと三者三様で取り仕切っている。
銀行、病院、保養施設などでは、それ以上に同じものをそれぞれでかってに所管している。
官僚の見事なセクショナリズムの典型であるが、今までこういうバカなことを平気で繰り返してきたのが我々の民族の発想である。
戦争中の陸軍と海軍の在りようも、これを見事に踏襲していた。
私の素人考えでは、海岸の護岸でも、河川の護岸でも、コンクリートの堤防を護岸という目的だけではなく、それを道路として使うことも真剣に考える余地があるように思う。
既に河川の堤防を道路として使っているところもあるが、海岸の護岸については果たして存在しているであろうか。
そして高速道路なども、緊急時には戦闘機の滑走路として使うような複合的な発想があってもいいと思うが、こういうことを考えるとすぐにそれが好戦的な思考だと決めつけるので、将来的な遠大なことは一言も語れないということになってしまう。
先に述べた3矢研究というのもその顕著な例であるが、この戦争アレルギーというのがはなはだ困った存在だ。
軍備というハードを充実させると戦争したくなる、というのは基本的に極めて野蛮人に近い発想で、こういう思考の狭窄現象が戦後の日本の知識階層には極めて多い。
だから今日では、国を守るアイデアというのは何一つメデイアにのせれないわけで、それが昂じて「群盲、象を撫ぜる」ということになってしまっているではないか。
戦後の知識人が、平和念仏さえ唱えていれば、平和が維持されると思い違いしている図というのは、戦前・戦中に日本人の大部分が「撃ちてし止まん」とか「欲しがりません勝つまでは」とか「忠君愛国」だとか声高に叫んでいたのと全く同じ構図ではないか。
もっとも、戦前も戦後も、中身の日本人はいささかも変わっていないわけで、変わったのは時流という世相の雰囲気だけで、その意味からすれば大声で合唱するベクターの向きが変わっただけで、その付和雷同性はいささかも変わるものではない。
この変らないものの一つに、民族の傲慢さというのも戦前・戦後を通じていささかも変わっていない。
戦前にアジアの各地に進出した軍人も民間人も、現地の人々に対して極めて傲慢な態度をとったようだし、戦後、経済成長をなして世界各地に進出した日本企業も、その傲慢さにおいては戦前と同じように現地の顰蹙を買っているわけで、これこそ見事な島国根性の具現化であろう。
この島国根性がそもそも我々の政治下手、外交下手にそのまま通じているものと考える。
我々が戦争に強かったのは、こういう驕りとは別の次元の要因ではなかったかと思う。
それはある意味で、我々の民族のもつ先天的な性癖としての付和雷同性であって、これがあるが故に、ある種のプロジェクトを完遂せねばという大命題を提示されると、それに集中的に精力を結集させることができたのではなかろうか。
このある種のプロジェクトというのが、ある時は戦争であったり、ある時はオリンピックであったり、ある時は万国博覧会であったり、ある時は新幹線の建設であったわけで、こういうプロジェクトを何が何でも完成させねばという時の集中力が、世界の他の民族にはない特質であったに違いない。
馬の鼻先に二ンジンがぶら下がっている時には、想像を絶する馬力を出すが、目先の目標がなくなると、その馬は勝手にあっちに行ったりこっちに行ったりと自堕落になってしまうのではなかろうか。
仲間うちの場では、少々の自堕落も仲間がカバーし合ってくれるが、これが先方が他の民族となるとその自堕落をカバーしてくれないので、そこで尊大な態度に出て、それが奢りにつながり相手から嫌われることになるものを想像する。
著者は小室直樹という人で東京大学の教授ということであるが、我々の視点を超えた発想で非常に興味深く読んだ。
硫黄島の日米の激闘は我々も様々な本で知るところであって、最近ではこの事実をアメリカの映画俳優兼監督でもあるクリント・イーストウッドがアメリカ側の視点と日本側の視点という2本の映画をつくったことはよく知られている。
私はまだ見てないが、硫黄島の日米の激闘というのは我々の認識を超えたものであるらしい。
今に生きる我々の認識からすれば、戦争に負けてしまった以上、オール・オア・ナッシングで、その過程で如何なることがあろうとも、負けた後では意味をなさないという思考はもっともだと思う。
いくらそれを言ってみたところで、負け惜しみにしか受け取れないに違いない。
しかし、今、63年前のことを振り返ってみると、アメリカは真底日本が恐ろしかったと思う。
この本の主題は、アメリカが如何に日本を恐れていたか、ということの再確認のような本であるが、言われてみれば確かにそういう見方も成り立つ。
アメリカは日本人の戦いぶりを見て、真底日本を恐れた結果として、戦後の日本に相当気を配った施策を行ったというのがこの本の主題である。
ポツダム宣言も、日本にかなり有利な条件であったというし、その後の占領政策も、日本に対する恐怖心から相当に熟考された施策であったと述べている。
確かに、我々のポツダム宣言を受諾しての降伏は、無条件降伏ではなかったわけで、条件付きの降伏という意味で、ドイツの場合とは違っている。
こういう条件付きの条約に至ったのも、日本人、特に硫黄島における栗林大将の戦いぶりや、沖縄戦の戦いぶりがあってはじめて連合国側も条件付きの降伏文書にせざるを得なかった、という書きぶりである。
アメリカ側の軍人の視点から見ると、日本と戦を交えることは、嫌というか出来れば避けて通りたい、という気持ちであったことも確かだろうと思う。
私も戦後教育を受けた人間として、当時の日本の軍人の悪口を言いふらしている類の人間であるが、戦争で負けてしまった以上、戦争のプロとしての軍人が糾弾されるのはいた仕方ないと思う。
仲間が仲間内を批判するのは当然の成り行きだが、これが仲間の外からの評価だとすると、それを受け入れるには相当に考えざるを得ない。
我々の自己批判では、日清・日露の戦いで奢り高ぶって歴史から何も学ばなかった、という評価になりがちであるが、外側の人間からすれば、日清・日露の戦いに日本が勝ったこと自体が大いなる驚異であったわけで、そういう日本と戦ってかろうじて勝てたという印象であったのだろう。
日本に資源のないことは先方も即刻承知なわけで、その資源のない日本がアメリカに挑戦してくるとこと自体が驚きであり、脅威であり、恐怖であったにちがいない。
そして、日米開戦が始まるやいなや、真珠湾はやられるは、イギリスの東洋艦隊はやられるはで、決して舐めて掛かれる相手ではなかったはずである。
そこで、現実の問題として硫黄島を奪還しようとすると、アメリカは想像以上に犠牲を強いられたわけで、そういう自身の犠牲もさることながら、日本の頑強さに真底驚いたに違いない。
そういう驚きというか、対日感情ないしは日本に対する畏怖の気持ちは、戦いの終わったあとも生きていたわけで、彼らにしてみれば日本とは再び戦を交えたくはないという心境に至ったものと思う。
これは当然のこと、非戦、反戦の底流となるわけで、日本の占領政策はその線で推し進められたというのがこの本の本旨である。
あの第2次世界大戦の本質は、私の個人的な考えでいえば、日本の立場からいえばアジア特に中国問題のこじれというか、収拾策の失敗だったと思う。
しかし、アメリカの立場からすれば、日本問題、対日政策の問題ではなかったかと思う。
あの時代の我々は、アジア、特に中国に進出しようと躍起になっていたが、アメリカからすればそういうアジアに覇権を伸ばそうとする日本の存在が鼻もちならなかったわけで、日本パッシングの一環であったに違いないと思う。
だからこそ彼ら西洋列強、つまり連合軍側としては中国の蒋介石を援助したわけだが、その本音の部分には、真から蒋介石の助けるのではなく、蒋介石を助けてその代わり中国の地に利権を得ようとしていたにすぎないと思う。
絵にかいたような帝国主義的利権獲得の構図であり、国益の伸長を目指すものであったに違いない。
彼らは彼らなりに中国の地に利権を確立しようとしていたが、それには日本の存在が邪魔であったわけで、その為の日本パッシングであったわけだ。
ところが、それは政治と経済を内包した外交の問題なわけで、いざ戦争となると日本は舐めては掛かれないということが彼らにも十分わかっていたに違いない。
ところが、この時代には政治および外交というのは非常にグローバル化していたわけで、主権国家の国益を守るのに外交、つまり話し合いというのが大きなウエイトをしめるようになっていた。
この分野に関して、我々は非常に稚拙で、それは今でもいささかも変わっていないが、なにしろ四周が海で囲まれているので、どうしても井戸の中の蛙的思考から脱却できない。
自分達が良いことだと思っていることは、相手もそう思っているに違いない、という思い込みに陥ってしまうのである。
相手を騙し、嘘を言い、舌先3寸で黒を白とも言いくるめる狡猾な外交術でもって国益を擁護し、相手の懐に飛び込んで、肉を切らせて骨を切るという芸当ができない。
それは国民の側にも責任がある。それは目先の瑣末な利益に一喜一憂して、10年先20年先の投資には極めて冷淡なわけで、そういう遠大な計画は国民が許さない。
そういう掛け引きには、当然、外交上の秘密ということもついて回るはずであるが、日本の世論はそれを許さない。
前にも書いたことがあるが、我々は非常に識字率が高く、誰でも彼でも文字が読めるので、秘密の保持ということが極めて難しい。
俗に床屋談義といわれるように、床屋さんでさえ政治や外交の話が出来るわけで、こういう国情を考えると、政治・外交の秘密というのは極めて守りにくい。
情報が漏れれば、10年先20年先に計画は、その時点で御破算になってしまう。
戦後、三矢事件というのがあって、当時の防衛庁のトップが、毛利元就が息子たちを戒める意味で、3本の矢のたとえ話で防衛の大義を説いたら、それが戦後の日本の知識人に漏れた際、上から下まで大騒ぎした例を見てもわかるように、我々はまさしくマッカサーの言った通り、政治外交の認識では12歳の子供の域を出るものではない。
ところがこれが戦の現場となると、とんでもない底力を出すわけで、それが諸外国にとっては恐怖の的なわけである。
アメリカがその恐怖を実感として体験したのが、真珠湾であり、イギリス艦隊のせん滅であり、硫黄島、沖縄の戦いであったものと推察する。
我々はあの戦争の敗北の遠因を物量の差だと思っているが、そう考えていたのは我々だけではなく、アメリカも同じように考えていたわけで、日本は物資が少ないから、それに対抗するには物資の豊富さで行くしかないと考えたに違いない。
我々はあの戦争を振り返るとき、学徒動員や勤労奉仕でさんざんこき使われた、という印象で語られがちであるが、ああ言うことは我々の側だけの特殊な環境であったわけではなく、アメリカでも同じような措置があったわけで、アメリカの女性もB-29の胴体にむぐりこんでリベット打ちをしていたわけで、国家総力戦というのはああ言うものだと思う。
この地球上では、人間が人間を統治しているわけで、人間のすることである以上、政治の失敗、外交の失敗、経済の失敗も数々ある。
ドイツのユダヤ人虐殺もそのうちの一つであり、日本が朝鮮の人々に強制労働を強いたのもその一つであり、アメリカが日系人を差別したのもそういう問題の一つであるが、国家が国を挙げて戦争をしていれば、その裏側でこういう不合理が蔓延するのも避けては通れない道ではある。
硫黄島や沖縄の戦いは、アメリカをして、日本とは再び戦を交えたくない、と考えるに至ったのは彼らが歴史から学びとった最大の利益ではないかと思う。
しかし、それは彼らアメリカ側の問題であって、それに対応して我々はどうあらねばならないか、という意味で、歴史から何かを学ばねばならないと思う。
日本に物資がないことは彼らもわかっていたわけで、だからこそ兵糧攻めにしようとABCDラインなるものを考えた。
我々が生き残る為には彼らの上を行く発想で迎え撃たなければならなかった筈である。
昭和初期の日本側の軍人も、アメリカが物資の豊かな国だということはわかっていたので、基本的には戦争を回避することを考えねばならなかった。
ところが国家予算をどんどん注ぎ込んで、ハード面の強化を図っていたわけで、そうであるとするならば、その場に至って、「今は戦争できません」ということはやはり言えなかったものと思う。
中国大陸ではその前から戦争が続いていたわけで、これも何の見返りのないまま引き返すこともできなかったはずで、そういう意味であの戦争は歴史の必然であったという他ないと思う。
歴史にifということはない、とよく言われるが、歴史研究というのは起きた事実を時系列に並べることなので、そこではifという言葉も無価値かもしれないが、政治とか外交というのは、ある種の処世術わけで、ifということを思いつくだけ並べて、比較検討することは極めて大事だと思う。
それとあの戦争の敗因として、日清・日露の戦争の成功事例に酔って、あれから教訓を得なかった、とよく言われているが、当然のことだと思う。
問題は、成功事例を研究することも大事だが、もっと重要なことは、失敗事例の研究だと思う。
日常生活でも失敗から学ぶということは多々あるわけで、失敗こそ最大の教訓だと思うが、我々はなかなかそういう発想に至らない。
それと我々日本民族というのは戦争と政治を分離して考える癖があって、物事を一体化して考えることが極めて不得意だと思う。
世の中のことは、すべてがことごとく連動しているわけで、戦争を始めるについては、経済から、教育から、日常生活まで含めて、トータルで考えなければならない筈であるが、我々はどうしてもセクショナリズムにとらわれて、海軍、陸軍という風に別個の存在として考えがちである。
当然のこと、縦割り行政で横の連携が極めて悪く、双方合わせて車の両輪のように機能するということにならない。
これは戦争に限らず、今の我々の日常生活の中にもふんだんに見られることで、道路一本でも、国交省の管括があり、農水省の管括があり、自治体の管括がありと三者三様で取り仕切っている。
銀行、病院、保養施設などでは、それ以上に同じものをそれぞれでかってに所管している。
官僚の見事なセクショナリズムの典型であるが、今までこういうバカなことを平気で繰り返してきたのが我々の民族の発想である。
戦争中の陸軍と海軍の在りようも、これを見事に踏襲していた。
私の素人考えでは、海岸の護岸でも、河川の護岸でも、コンクリートの堤防を護岸という目的だけではなく、それを道路として使うことも真剣に考える余地があるように思う。
既に河川の堤防を道路として使っているところもあるが、海岸の護岸については果たして存在しているであろうか。
そして高速道路なども、緊急時には戦闘機の滑走路として使うような複合的な発想があってもいいと思うが、こういうことを考えるとすぐにそれが好戦的な思考だと決めつけるので、将来的な遠大なことは一言も語れないということになってしまう。
先に述べた3矢研究というのもその顕著な例であるが、この戦争アレルギーというのがはなはだ困った存在だ。
軍備というハードを充実させると戦争したくなる、というのは基本的に極めて野蛮人に近い発想で、こういう思考の狭窄現象が戦後の日本の知識階層には極めて多い。
だから今日では、国を守るアイデアというのは何一つメデイアにのせれないわけで、それが昂じて「群盲、象を撫ぜる」ということになってしまっているではないか。
戦後の知識人が、平和念仏さえ唱えていれば、平和が維持されると思い違いしている図というのは、戦前・戦中に日本人の大部分が「撃ちてし止まん」とか「欲しがりません勝つまでは」とか「忠君愛国」だとか声高に叫んでいたのと全く同じ構図ではないか。
もっとも、戦前も戦後も、中身の日本人はいささかも変わっていないわけで、変わったのは時流という世相の雰囲気だけで、その意味からすれば大声で合唱するベクターの向きが変わっただけで、その付和雷同性はいささかも変わるものではない。
この変らないものの一つに、民族の傲慢さというのも戦前・戦後を通じていささかも変わっていない。
戦前にアジアの各地に進出した軍人も民間人も、現地の人々に対して極めて傲慢な態度をとったようだし、戦後、経済成長をなして世界各地に進出した日本企業も、その傲慢さにおいては戦前と同じように現地の顰蹙を買っているわけで、これこそ見事な島国根性の具現化であろう。
この島国根性がそもそも我々の政治下手、外交下手にそのまま通じているものと考える。
我々が戦争に強かったのは、こういう驕りとは別の次元の要因ではなかったかと思う。
それはある意味で、我々の民族のもつ先天的な性癖としての付和雷同性であって、これがあるが故に、ある種のプロジェクトを完遂せねばという大命題を提示されると、それに集中的に精力を結集させることができたのではなかろうか。
このある種のプロジェクトというのが、ある時は戦争であったり、ある時はオリンピックであったり、ある時は万国博覧会であったり、ある時は新幹線の建設であったわけで、こういうプロジェクトを何が何でも完成させねばという時の集中力が、世界の他の民族にはない特質であったに違いない。
馬の鼻先に二ンジンがぶら下がっている時には、想像を絶する馬力を出すが、目先の目標がなくなると、その馬は勝手にあっちに行ったりこっちに行ったりと自堕落になってしまうのではなかろうか。
仲間うちの場では、少々の自堕落も仲間がカバーし合ってくれるが、これが先方が他の民族となるとその自堕落をカバーしてくれないので、そこで尊大な態度に出て、それが奢りにつながり相手から嫌われることになるものを想像する。