ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「硫黄島、栗林忠道大将の教訓」

2009-01-10 07:41:07 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「硫黄島、栗林忠道大将の教訓」という本を読んだ。
著者は小室直樹という人で東京大学の教授ということであるが、我々の視点を超えた発想で非常に興味深く読んだ。
硫黄島の日米の激闘は我々も様々な本で知るところであって、最近ではこの事実をアメリカの映画俳優兼監督でもあるクリント・イーストウッドがアメリカ側の視点と日本側の視点という2本の映画をつくったことはよく知られている。
私はまだ見てないが、硫黄島の日米の激闘というのは我々の認識を超えたものであるらしい。
今に生きる我々の認識からすれば、戦争に負けてしまった以上、オール・オア・ナッシングで、その過程で如何なることがあろうとも、負けた後では意味をなさないという思考はもっともだと思う。
いくらそれを言ってみたところで、負け惜しみにしか受け取れないに違いない。
しかし、今、63年前のことを振り返ってみると、アメリカは真底日本が恐ろしかったと思う。
この本の主題は、アメリカが如何に日本を恐れていたか、ということの再確認のような本であるが、言われてみれば確かにそういう見方も成り立つ。
アメリカは日本人の戦いぶりを見て、真底日本を恐れた結果として、戦後の日本に相当気を配った施策を行ったというのがこの本の主題である。
ポツダム宣言も、日本にかなり有利な条件であったというし、その後の占領政策も、日本に対する恐怖心から相当に熟考された施策であったと述べている。
確かに、我々のポツダム宣言を受諾しての降伏は、無条件降伏ではなかったわけで、条件付きの降伏という意味で、ドイツの場合とは違っている。
こういう条件付きの条約に至ったのも、日本人、特に硫黄島における栗林大将の戦いぶりや、沖縄戦の戦いぶりがあってはじめて連合国側も条件付きの降伏文書にせざるを得なかった、という書きぶりである。
アメリカ側の軍人の視点から見ると、日本と戦を交えることは、嫌というか出来れば避けて通りたい、という気持ちであったことも確かだろうと思う。
私も戦後教育を受けた人間として、当時の日本の軍人の悪口を言いふらしている類の人間であるが、戦争で負けてしまった以上、戦争のプロとしての軍人が糾弾されるのはいた仕方ないと思う。
仲間が仲間内を批判するのは当然の成り行きだが、これが仲間の外からの評価だとすると、それを受け入れるには相当に考えざるを得ない。
我々の自己批判では、日清・日露の戦いで奢り高ぶって歴史から何も学ばなかった、という評価になりがちであるが、外側の人間からすれば、日清・日露の戦いに日本が勝ったこと自体が大いなる驚異であったわけで、そういう日本と戦ってかろうじて勝てたという印象であったのだろう。
日本に資源のないことは先方も即刻承知なわけで、その資源のない日本がアメリカに挑戦してくるとこと自体が驚きであり、脅威であり、恐怖であったにちがいない。
そして、日米開戦が始まるやいなや、真珠湾はやられるは、イギリスの東洋艦隊はやられるはで、決して舐めて掛かれる相手ではなかったはずである。
そこで、現実の問題として硫黄島を奪還しようとすると、アメリカは想像以上に犠牲を強いられたわけで、そういう自身の犠牲もさることながら、日本の頑強さに真底驚いたに違いない。
そういう驚きというか、対日感情ないしは日本に対する畏怖の気持ちは、戦いの終わったあとも生きていたわけで、彼らにしてみれば日本とは再び戦を交えたくはないという心境に至ったものと思う。
これは当然のこと、非戦、反戦の底流となるわけで、日本の占領政策はその線で推し進められたというのがこの本の本旨である。
あの第2次世界大戦の本質は、私の個人的な考えでいえば、日本の立場からいえばアジア特に中国問題のこじれというか、収拾策の失敗だったと思う。
しかし、アメリカの立場からすれば、日本問題、対日政策の問題ではなかったかと思う。
あの時代の我々は、アジア、特に中国に進出しようと躍起になっていたが、アメリカからすればそういうアジアに覇権を伸ばそうとする日本の存在が鼻もちならなかったわけで、日本パッシングの一環であったに違いないと思う。
だからこそ彼ら西洋列強、つまり連合軍側としては中国の蒋介石を援助したわけだが、その本音の部分には、真から蒋介石の助けるのではなく、蒋介石を助けてその代わり中国の地に利権を得ようとしていたにすぎないと思う。
絵にかいたような帝国主義的利権獲得の構図であり、国益の伸長を目指すものであったに違いない。
彼らは彼らなりに中国の地に利権を確立しようとしていたが、それには日本の存在が邪魔であったわけで、その為の日本パッシングであったわけだ。
ところが、それは政治と経済を内包した外交の問題なわけで、いざ戦争となると日本は舐めては掛かれないということが彼らにも十分わかっていたに違いない。
ところが、この時代には政治および外交というのは非常にグローバル化していたわけで、主権国家の国益を守るのに外交、つまり話し合いというのが大きなウエイトをしめるようになっていた。
この分野に関して、我々は非常に稚拙で、それは今でもいささかも変わっていないが、なにしろ四周が海で囲まれているので、どうしても井戸の中の蛙的思考から脱却できない。
自分達が良いことだと思っていることは、相手もそう思っているに違いない、という思い込みに陥ってしまうのである。
相手を騙し、嘘を言い、舌先3寸で黒を白とも言いくるめる狡猾な外交術でもって国益を擁護し、相手の懐に飛び込んで、肉を切らせて骨を切るという芸当ができない。
それは国民の側にも責任がある。それは目先の瑣末な利益に一喜一憂して、10年先20年先の投資には極めて冷淡なわけで、そういう遠大な計画は国民が許さない。
そういう掛け引きには、当然、外交上の秘密ということもついて回るはずであるが、日本の世論はそれを許さない。
前にも書いたことがあるが、我々は非常に識字率が高く、誰でも彼でも文字が読めるので、秘密の保持ということが極めて難しい。
俗に床屋談義といわれるように、床屋さんでさえ政治や外交の話が出来るわけで、こういう国情を考えると、政治・外交の秘密というのは極めて守りにくい。
情報が漏れれば、10年先20年先に計画は、その時点で御破算になってしまう。
戦後、三矢事件というのがあって、当時の防衛庁のトップが、毛利元就が息子たちを戒める意味で、3本の矢のたとえ話で防衛の大義を説いたら、それが戦後の日本の知識人に漏れた際、上から下まで大騒ぎした例を見てもわかるように、我々はまさしくマッカサーの言った通り、政治外交の認識では12歳の子供の域を出るものではない。
ところがこれが戦の現場となると、とんでもない底力を出すわけで、それが諸外国にとっては恐怖の的なわけである。
アメリカがその恐怖を実感として体験したのが、真珠湾であり、イギリス艦隊のせん滅であり、硫黄島、沖縄の戦いであったものと推察する。
我々はあの戦争の敗北の遠因を物量の差だと思っているが、そう考えていたのは我々だけではなく、アメリカも同じように考えていたわけで、日本は物資が少ないから、それに対抗するには物資の豊富さで行くしかないと考えたに違いない。
我々はあの戦争を振り返るとき、学徒動員や勤労奉仕でさんざんこき使われた、という印象で語られがちであるが、ああ言うことは我々の側だけの特殊な環境であったわけではなく、アメリカでも同じような措置があったわけで、アメリカの女性もB-29の胴体にむぐりこんでリベット打ちをしていたわけで、国家総力戦というのはああ言うものだと思う。
この地球上では、人間が人間を統治しているわけで、人間のすることである以上、政治の失敗、外交の失敗、経済の失敗も数々ある。
ドイツのユダヤ人虐殺もそのうちの一つであり、日本が朝鮮の人々に強制労働を強いたのもその一つであり、アメリカが日系人を差別したのもそういう問題の一つであるが、国家が国を挙げて戦争をしていれば、その裏側でこういう不合理が蔓延するのも避けては通れない道ではある。
硫黄島や沖縄の戦いは、アメリカをして、日本とは再び戦を交えたくない、と考えるに至ったのは彼らが歴史から学びとった最大の利益ではないかと思う。
しかし、それは彼らアメリカ側の問題であって、それに対応して我々はどうあらねばならないか、という意味で、歴史から何かを学ばねばならないと思う。
日本に物資がないことは彼らもわかっていたわけで、だからこそ兵糧攻めにしようとABCDラインなるものを考えた。
我々が生き残る為には彼らの上を行く発想で迎え撃たなければならなかった筈である。
昭和初期の日本側の軍人も、アメリカが物資の豊かな国だということはわかっていたので、基本的には戦争を回避することを考えねばならなかった。
ところが国家予算をどんどん注ぎ込んで、ハード面の強化を図っていたわけで、そうであるとするならば、その場に至って、「今は戦争できません」ということはやはり言えなかったものと思う。
中国大陸ではその前から戦争が続いていたわけで、これも何の見返りのないまま引き返すこともできなかったはずで、そういう意味であの戦争は歴史の必然であったという他ないと思う。
歴史にifということはない、とよく言われるが、歴史研究というのは起きた事実を時系列に並べることなので、そこではifという言葉も無価値かもしれないが、政治とか外交というのは、ある種の処世術わけで、ifということを思いつくだけ並べて、比較検討することは極めて大事だと思う。
それとあの戦争の敗因として、日清・日露の戦争の成功事例に酔って、あれから教訓を得なかった、とよく言われているが、当然のことだと思う。
問題は、成功事例を研究することも大事だが、もっと重要なことは、失敗事例の研究だと思う。
日常生活でも失敗から学ぶということは多々あるわけで、失敗こそ最大の教訓だと思うが、我々はなかなかそういう発想に至らない。
それと我々日本民族というのは戦争と政治を分離して考える癖があって、物事を一体化して考えることが極めて不得意だと思う。
世の中のことは、すべてがことごとく連動しているわけで、戦争を始めるについては、経済から、教育から、日常生活まで含めて、トータルで考えなければならない筈であるが、我々はどうしてもセクショナリズムにとらわれて、海軍、陸軍という風に別個の存在として考えがちである。
当然のこと、縦割り行政で横の連携が極めて悪く、双方合わせて車の両輪のように機能するということにならない。
これは戦争に限らず、今の我々の日常生活の中にもふんだんに見られることで、道路一本でも、国交省の管括があり、農水省の管括があり、自治体の管括がありと三者三様で取り仕切っている。
銀行、病院、保養施設などでは、それ以上に同じものをそれぞれでかってに所管している。
官僚の見事なセクショナリズムの典型であるが、今までこういうバカなことを平気で繰り返してきたのが我々の民族の発想である。
戦争中の陸軍と海軍の在りようも、これを見事に踏襲していた。
私の素人考えでは、海岸の護岸でも、河川の護岸でも、コンクリートの堤防を護岸という目的だけではなく、それを道路として使うことも真剣に考える余地があるように思う。
既に河川の堤防を道路として使っているところもあるが、海岸の護岸については果たして存在しているであろうか。
そして高速道路なども、緊急時には戦闘機の滑走路として使うような複合的な発想があってもいいと思うが、こういうことを考えるとすぐにそれが好戦的な思考だと決めつけるので、将来的な遠大なことは一言も語れないということになってしまう。
先に述べた3矢研究というのもその顕著な例であるが、この戦争アレルギーというのがはなはだ困った存在だ。
軍備というハードを充実させると戦争したくなる、というのは基本的に極めて野蛮人に近い発想で、こういう思考の狭窄現象が戦後の日本の知識階層には極めて多い。
だから今日では、国を守るアイデアというのは何一つメデイアにのせれないわけで、それが昂じて「群盲、象を撫ぜる」ということになってしまっているではないか。
戦後の知識人が、平和念仏さえ唱えていれば、平和が維持されると思い違いしている図というのは、戦前・戦中に日本人の大部分が「撃ちてし止まん」とか「欲しがりません勝つまでは」とか「忠君愛国」だとか声高に叫んでいたのと全く同じ構図ではないか。
もっとも、戦前も戦後も、中身の日本人はいささかも変わっていないわけで、変わったのは時流という世相の雰囲気だけで、その意味からすれば大声で合唱するベクターの向きが変わっただけで、その付和雷同性はいささかも変わるものではない。
この変らないものの一つに、民族の傲慢さというのも戦前・戦後を通じていささかも変わっていない。
戦前にアジアの各地に進出した軍人も民間人も、現地の人々に対して極めて傲慢な態度をとったようだし、戦後、経済成長をなして世界各地に進出した日本企業も、その傲慢さにおいては戦前と同じように現地の顰蹙を買っているわけで、これこそ見事な島国根性の具現化であろう。
この島国根性がそもそも我々の政治下手、外交下手にそのまま通じているものと考える。
我々が戦争に強かったのは、こういう驕りとは別の次元の要因ではなかったかと思う。
それはある意味で、我々の民族のもつ先天的な性癖としての付和雷同性であって、これがあるが故に、ある種のプロジェクトを完遂せねばという大命題を提示されると、それに集中的に精力を結集させることができたのではなかろうか。
このある種のプロジェクトというのが、ある時は戦争であったり、ある時はオリンピックであったり、ある時は万国博覧会であったり、ある時は新幹線の建設であったわけで、こういうプロジェクトを何が何でも完成させねばという時の集中力が、世界の他の民族にはない特質であったに違いない。
馬の鼻先に二ンジンがぶら下がっている時には、想像を絶する馬力を出すが、目先の目標がなくなると、その馬は勝手にあっちに行ったりこっちに行ったりと自堕落になってしまうのではなかろうか。
仲間うちの場では、少々の自堕落も仲間がカバーし合ってくれるが、これが先方が他の民族となるとその自堕落をカバーしてくれないので、そこで尊大な態度に出て、それが奢りにつながり相手から嫌われることになるものを想像する。

「日本海軍、錨揚げ!」

2009-01-07 08:25:06 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「日本海軍、錨揚げ!」という本を読んだ。
阿川弘之と半藤一利の対談であったが、非常に面白かった。
阿川氏は実際に大日本帝国海軍に身を置いた経験を持ち、一方の半藤氏は文芸春秋社で編集者として戦後、様々な軍人たちとインタビューを試みた人で、こういう経歴を持った二人の座談会なので非常に興味あるものであった。
ただ両名とも知識人でもあるので、正面から旧軍人の悪口を言うことには、極めて控え目な表現をしているので、その深刻さがいくらか薄らいだ印象を受ける。
私に言わしめれば、あの戦争は軍部の奢り以外の何物でもなかったと思う。
その奢りがどこから来ているのか、という掘り下げが少し甘いと思う。
無理もない話で、当時の陸軍省あるいは海軍省というのは、ある意味で完全に官僚になりきってしまっていて、文部省あるいは商工省と同じレベルの官僚組織に成り下がってしまっていたところに最大の原因があるように思う。
官僚組織というのは、がっちりとしたピラミット型の強固な組織を形つくるのは当然であるが、トップの方とボトムの方はしっかりしていたが、その中間階層がトップの意向を借りて独断専横したように思える。
この両名の話は、ともするとトップの方の人の話が主であるが、結果として日本が戦争に負けたということは、トップが中間層を効率よくコントロールできなかったということだと思う。
普通の民間企業でも同じように、トップからボトムにわたるピラミット型の組織を形作っているが、企業ならばトップが経営に失敗しても、その下の組織を構成する人たちが死ぬということはない。
ところが、軍隊ではトップが作戦という判断を誤れば、組織を構成する人たちは皆死んでしまうわけである。
昭和初期の軍人たちは、この部分で自分達が判断を誤れば組織を構成する人たち、およびその組織に人材を提供している国民、市民、いわゆる銃後の人々を死に至らしめるという発想が最初から抜け落ちていたと思う。
この両名の話も、そういう部分にまでは及んでいないわけで、海軍の誰が名将で誰が凡将であったかという話に終始しているが、それでは歴史の教訓を汲み取れないと思う。
戦闘の経緯には非常に詳しいが、それぞれの戦闘で勝利を得た場面があったとしても、全体としては敗北してしまったわけで、敗北という結果の前では、緒戦の実績が如何なるものであったとしても何ら意味をなさない。
レイテ沖海戦で謎の反転をした栗田艦隊の栗田健男を擁護する発言があるが、こういうところに我々日本人の情の深さというか、立場を察する気風があるが、そもそもこういう心掛けが戦争に嵌り込み、戦争に敗北する原因ではなかろうか。
海軍兵学校が設立されて敗戦で消滅するまで69年間であるが、この間約70年にわたって、成績によって人物評価をする慣習というか、伝統というか、実績というものは一度も見直されたことはない。
優秀であるとされた海軍兵学校では、この矛盾に誰一人疑義を差し挟まず、それを踏襲し続けたということは一体どう考えたらいのであろう。
20歳前後の若者が、その時点では如何に優秀であろうとも、井戸の中の蛙的環境の中で年功を経て、その優秀さ、頭の良さ、判断力、決断力がそのまま維持し続けていると思う不合理に、誰一人気がつかないということは一体どういうことなのであろう。
陸軍でも海軍でも、いくら作戦が失敗しても、トップ同士は同窓生である。
軍令部で作戦を指示しているものも、出先で勇敢に戦っている司令官も、同じ兵学校の同窓生で、出先の司令官が作戦に失敗したからと言って、後方の軍令部がその同じ学校で苦楽を共にした学友に対して、卆直に責任を負わせるには忍びなかったものと考える。
これが文部省や商工省ならば、いくら政策を失敗しても誰も死なないし、悪ければその時点で修正すればことは済む。
ところが戦争ではそんな訳にいかないわけで、失敗すれば空母は沈み、戦艦は沈み、犠牲者は数えきれないほど出るわけで、だからこそ海軍でも陸軍でも優秀な人材をかき集めたわけだが、結果が負け戦ならば誰でもできる。
兵学校でも、陸士でも、いかに優秀であろうとも、負ける戦をしているからには何が優秀か、ということにならなければいけないのではなかろうか。
戦を運に頼るようでは、優秀な人材をかき集めた意味がないではないか。
この両名の話はそこまで突っ込んではいないわけで、そういう観点からこの本を読んでみると、やはり今までの戦記物と同じで、高位高官の話のオンパレードであるが、その高位高官の責任を掘り下げるというところまで至っていない。
極端に言ってしまうと、いくら作戦が失敗しても、こういう高位高官の人は、その作戦の失敗の責任を問われていない。
此処がそもそもおかしいと思う。
プロの戦争屋が、そのプロであるべき仕事で失敗しても、プロとしての責任を問われていない、ということである。
こんなバカな話もないと思う。
しかし、これは日本の官僚全部に言えることである。
対米戦の劈頭の外務省の失態、最後通牒が真珠湾攻撃の後になったという件でも、時の駐米大使はその責任を負わされていない。
結果が失敗であったとしても、本人は一生懸命やったのだから、責任を追及するのは可哀想だ、という発想であろうが、こんなバカな話もないと思う。
戦争のプロが負ける戦をした時は司令官は死をもって責任を果たすべきだと思う。
日露戦争で勝利をおさめた乃木希輔は、敵の旅順要塞のステッセルを敗軍の将として礼をもって処遇したが、彼は本国に帰還したらその責を問われて死に追いやられている。
真珠湾攻撃で海軍基地を壊滅されたキンメル提督は直ちに左遷されている。
日清戦争の中国の軍艦・定遠の艦長丁汝昌も、勝者から礼をもって遇されても自ら命を絶っているわけで、戦争のプロならば、自分の作戦が失敗した時はこれぐらいの責任感は当然だろうと思うし、周囲もそういう目で見るべきだと思う。
敗戦の責任を感じて、そういう責任の取り方をした将官がいたことも事実であるが、これが軍人として普通の身の処し方だと思う。
昔、同じ学校で苦労を共にしたから、などという感傷に浸っているわけにはいかないはずだ。
この部分の甘さは官僚特有のものではないかと思うし、官僚の枠を超えて、我々同胞としてはどうしてもこういう感傷に引き込まれがちだと思う。
考えても見よ、旧軍の言い分によると、赤紙一枚で集められた兵士が天皇の赤子であるとするならば、その天皇の子供を無暗矢鱈と殺してしまったまずい作戦ならば、指揮官は当然その責任を自ら負うべきではないのか。
天皇制のもとの軍隊ならば、当然こういう論理にならなければおかしいわけで、自分の作戦の失敗で多くの軍艦と兵士を死に至らしめて、なおその地位にいるということは許されるべきことではないはずである。
このごく当たり前の論理がわからない海軍兵学校をはじめとする軍人養成機関は一体どうなっていたのであろう。
ただここでも国民の気持ちということも考えなければならない。
日露戦争に勝ったとき、政府の裏側ではもう既に交戦能力が底を突き、のっぴきならない状態であったので、そこで講和に乗ったわけだが、それを不服として国民が騒いだ。
情報が開示されてなくて、日本の交戦能力が底を突いていたということを日本国民は知らなかったとはいえ、そこで政府側の国民への説得が足りなかったことは言うまでもないが、そういうことはやはり国益の面から考えると公にはし得なかった。
交戦中に、「戦費が底をついたから、もうこの辺で戦争をやめます」などということは政府としては公にはできないことは言うまでもない。
太平洋戦争中でも大本営の発表が嘘であった、ということがこの本の中でも言及されているが、やはり当事者としては、真実は言えなかったろうと思う。
歴史にifということはありえないが、もし仮に大本営が正直な報告をしていたら、我々国民の側としてはどういう反応をしたであろう。
反戦運動が高まるなどということはおそらくありえず、普通の人々はより一層激昂したのではなかろうか。
日露戦争で賠償も取れないことに激高して焼き打ち事件まで引き起こした大衆は、基本的に無知だと思う。
この無知の大衆と、社会のトップを形成している人々の間に、その中間層の人々がいたわけで、これがいわゆる諸悪の根源だと思う。
軍隊組織ならば下士官から、民間ならば学校の先生や、町内会の役員や、会社ならば課長、部長クラス、いづれにしても組織の中間層が上役の気に入るようにゴマをするために、下のものをコントロールする態度が社会そのものを軍国主義に導いたものと私は推察する。
この時期に学園生活を送った人の話を聞くと、いずれも配属将校の威張り散らす態度に腹を立てているが、配属将校というのは兵隊の中、いわゆる軍隊の組織の中では落ちこぼれた連中であったわけで、本人が優秀であれば配属将校等になるはずもないことは一目瞭然である。
軍隊組織の中の落ちこぼれなるがゆえに、娑婆、いわゆる一般社会では威張り散らして自分の存在感を誇示していたのである。
人間の織り成す社会である以上、上も下も綺麗事などで通じるはずもなく、極めて薄汚れた社会であるのは当然であるが、この座談会でも対談している両名は普通の社会人からすれば知識階層の部類に入るわけで、そういう人なればこそ、社会の上の方の醜さを暴きたてているが、汚いのは下層の庶民クラスでも同じである。
こういう人たちの議論は、上の方の人たちがああ言ったこう言ったという話になりがちであるが、その言葉も突き詰めると、下層の人々の心情を代弁していることも大いにあるわけで、大衆の意を汲んだトップの言葉そのものが間違っていたことも多分にある。
知識人が下層の人々の間違いを弁護する言葉に「情報がない」とか、「嘘を言った」とか、「真実を隠した」という言い分になる。
私に言わしめれば、社会のトップも人であり、下層の大衆も人である以上、双方で間違いを犯すこともあるわけで、その間違いが相互に干渉しあって、相乗効果をもたらすこともあると思う。
戦前・戦中の我が国の軍国主義というのは、まさしくそれではなかったかと考える。
関東軍がシナで騒擾を起こす、政府は不拡大方針でそれを抑えようとするが、当時のメデイアは軍部の動きをけん制するわけでもなく、国民を煽って、軍部の肩をもつ有様で、軍部は国民の声を代弁するような形で行動しているではないか。
軍部のシナでの行動を、「勝った勝った」と吹聴しまくったのは言わずもがな我が同胞のメデイアであったわけで、それを心から歓迎していたのは、ほかならぬ無知な大衆であったわけだ。
結果的に異論を力づくで抑え込んでしまったようなもので、日本全国が軍国主義一色で塗られてしまったのは国民の側のエネルギーであったような気がする。
しかし、戦争の結果が敗北となれば、軍部が悪い、政府が悪いということになってしまって、自分達があの時代軍国主義者であったことを綺麗さっぱり忘れてしまっている。
そして今あの戦争を語るものは、当時の軍人の誰それがこう言ったああ言ったという話に終始してしまっているが、本当ならば日本の大衆がなぜあの戦争を支持したかを掘り下げて考えなければならないと思う。
海軍であの戦争をリードした人たちは、昔の薩長閥だという話があったが、あの明治から大正の時代に若人が軍人養成機関に群がったのは、彼らの生まれた地域が貧乏だったからである。
薩摩や長州から有名な政治家や軍人が沢山輩出したが、こういう地域は押し並べて貧乏であったわけで、貧乏からの脱出の手段として政治家の道や軍人の道があったわけである。
裕福な地域からはそういう選択はすくない。
昔も今も、軍隊のイメージは人の嫌がる軍隊というのは変わらないわけで、貧しい地域から軍人養成機関に入りたがるというのは、そこさえ出れば人の嫌がることはしなくても済むからである。
その反面、豊かな地域の若者は、のんびりとしているので、青春を謳歌すべく学問や教養に価値を置くので、土壇場になると人の嫌がる軍隊に徴兵というシステムで追いやられるのである。
結果的に軍部のトップは薩長土肥で占められるということになったわけだ。
昭和初期の時代に、優秀な若者が海軍兵学校や陸軍士官学校にあこがれるというのは、そういう選択が立身出世の一番の近道だと認識していたわけで、前途有為な若者が将来を見こして、何が一番有利かと思考を巡らす部分に、人間の我欲というものが垣間見れる。
優秀であるが故の日和見、洞察力、処世術、せこさ、世渡りのうまさ、というものがにじみ出ている。
戦後の高度経済成長のとき、工学部の学生が銀行や証券会社になだれ込んだ現象と同じで、優秀であればこそ、将来この職業が有利だというそろばん勘定が先に立ったわけである。
そういう若者が、ある小宇宙の中で純粋培養されると、公の仕事と己の立身出世の見境がなくなってしまって、結局のところ仕事そのものが私物化されてしまうのである。
前に何度も書いたことであるが、戦艦「大和」の沖縄特攻出撃も、海軍トップ、いわゆる艦長の死に場所を求めての死出での旅であったわけで、こんなバカなことが許されてたまるかと言わなければならない。
こんなことは個人の独りよがりの自己満足に過ぎないではないか。
我々は、死んだ人を悪くいうことは、人としての倫理に欠けるという認識で、誰も本音を言わないが、これこそ戦争の私物化ではないのか。
インパール作戦でも、最初から冷静な思考で考えれば無理だということをわかっていながら、意地で押し通したわけで、戦争を意地で進める参謀、あるいは司令官というのは、それこそ戦いを私物化していたのではなかろうか。
この本の結論として、あの戦争は日本の奢りがさせたものだということは私も同感であるが、その奢りがどういうところから出てきたのかという考察はまだ不十分だと思う。
この人たちの言い方としては、日露戦争の成功事例から脱却できないでいたということになっているが、それはその通りであろう。
ならばその反省として、失敗の研究をしなければならないのではなかろうか。
我々は失敗から学ぶということに対して非常に臆病だと思う。
しかし、成功事例を研究するにも、失敗事例を研究しても、出る答えは一つで、それは戦争をしないということであるが、これを国民の側が許さないということを肝に銘じておくべきだと思う。
今の我が同胞は、「戦争反対」を軽々しく唱えているが、これも視点がずれているわけで、戦争の本質を知らないまま、先の大戦のイメージから戦争反対を唱えているが、ここが大きな落とし穴である。
今の日本人の戦争反対のシュプレヒコールは戦前のイケイケドンドンの軍国主義と同じ性質のもので、ただ単なる付和雷同の掛け声にすぎない。
国民の総意というのは屋根の上の風見鶏と同じで、左から風が吹けばそちらを向き、右から風が吹けばそちらになびくわけで、そこが大衆の日和見というものである。

「日本の文化ナショナリズム」

2009-01-05 07:51:45 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「日本の文化ナショナリズム」という本を読んだ。
著者の鈴木貞美という人は、奥付きによると若い学者のようであるが、学者の文章というのはどうしてこうも読みにくいのだろう。
表題からして意味不明ではないか。
「日本の文化」なら理解できる。
「日本のナショナリズム」でも理解できる。
しかし、「日本の文化ナショナリズム」と言われると、とたんに理解不能になる。
「文化ナショナリズム」とは一体何なんだ。
でも我慢して読み進めたが、結局、読み終わっても一体何が言いたかったのかさっぱり理解できなかった。
こういう難解な文章が学術論文というものだろうか。
これが学術論文であるとするならば、ただの凡人の私ごときが意味不明と思ったとしても大勢に全く影響はない。
ただ小難しい文章を読んでいて思ったことは、こういう文学論は煎じつめれば、言葉の遊びに過ぎないということだ。
もともと学問というものは言葉の遊びの延長線上のもので、庶民の生き様や人生に大きなインパクトを与えるものではない。
洋の東西を問わず、学問を修める人、いわゆる高等教育の恩恵を受ける人というのは、金持ち、あるいは貴族、あるいは豪商の子息で、額に汗して働く必要のない有閑階層のものであったはずだ。
それは日本でも西洋でも同じだと思う。
だからこそ学問の基本が西洋では死語としてのラテン語であったわけで、ラテン語の習得が貴族の教養を示すということは、ただただ遊びの延長でしかなかったということである。
日本でも正座して「師のたまわく」と言っていた間は、富裕階級の学問、いわば金持ちの遊びの延長線上のものでしかなかった筈である。
そうは言うものの、社会が複雑になり輻輳化してくると、それに対応して言葉も複雑になり、状況に応じて適切に表現しなければならないので、それに対応して学問の幅も奥行きも深まったことは否めない。
ただ、こういう学問と称する言葉遊びに長けた人が、一般の無学の庶民から崇められたことも事実であるが、人類の科学技術の進化は、そういう階層の幅を極端に狭くしてしまった。
科学技術の進化が昔風の貴族と農奴という階層を消滅の方向に追いやり、その代わりとして資本家と労働者という新たな階層を作り上げたことも歴史的な事実ではある。
しかし、この新たな階層も、教育が普遍化するとともに、その階層の幅が狭められたことも歴史が証明している。
そういう人間の進化の中でも、学問としての人文科学、つまり文学、経済、神学というような学問は、あくまでも言葉遊びの域を出るものではなかった。
一見偉そうな学者といわれる無為徒食の人間が、象牙の塔の中で、ああでもないこうでもないと愚にもつかない話をして、挙句の果てが仲間内で意見が合わないと言ってはイジメを展開するわけで、こういう連中が学術用語を弄んで、パズルのようにあっちにやったりこっちにやったりして、それを学問と称しているのである。
そこに行くと、新大陸のアメリカでは、そういう過去の確執がない分、人間の生活に密着したプログマチズムという領域が発達するのは必然的な流れであったに違いない。
学問というものは、本来、生きた人間の生活に貢献するものでなければ意義がないと思う。
神がどうの、仏がどうの、キリストがどうの、マンモスの骨がどうの、土器のかけらがどうの、と言っているうちは言葉遊びの域を出るものではないが、こうあからさまに言ってしまうと高給を食んでいる学者先生の存在価値そのものを否定することになってしまうのでそこまでは言い切れない。
そういう意味で、西洋の過去の学問を、私が言葉遊びと決めつける大きな理由の一つである。
そういう歴史的な必然でアメリカでは工学とか理学、あるいは自然科学が発達するのは当然だと思う。
それに翻って、我々の日本はどうかというと、我々は古来から創意工夫の民族で、世界中からいいものだけを吸収するという極めて特異な存在だと思う。
日本人ならば、誰でも我々の文化が中国、アジアに起源があるということは承知している。
しかし、それはサルまねではなかったわけで、このサルまねでなかったというところが我々の創意工夫の最たるものだと思う。
中国、アジアの地で見たり聞いたりして、良いものだけを採用し、先方の思考、考え方、ノウハウを取捨選択して、自分達の国情に合うものだけを採用したわけで、これこそ創意工夫の典型的な例だと思う。
戦後の一時期、日本を「サルまね文化だ」と自虐的にいった人がいたが、真似をするには、真似をするだけの下地がなければ真似さえもできないわけで、その意味で我々にはその下地があったという点は大いに誇っていいと思う。
ただ、文化論から言うと、日本人は世界でも特異な種族だと思う。
その最大の特徴は、識字率が高いということではないかと思う。
第2次世界大戦中の日本の政治は、「東条英機首相の独裁政治だった」という風に左翼陣営の人は言うが、これは間違った表現であって、事実はきちんと立憲君主制は維持されていたわけだから、こういう間違いを誰もその都度是正するという動きが出てこない。
これは日本人の大部分の人が、その事実を知っているので、針で重箱の隅を突くような議論をしないだけのことで、その間違いの裏側にある真実を皆が認識して、そのうえの暗黙の了解になっていたのである。
ことほど左様に、日本の国民の大部分が、字が読めるということは大変なことだと思う。
国民の大部分が字が読めるということは、人の意見もそれだけ多種多様性を秘めているということでもある。
字が読める人は、その人が自分独自の見解をもつということに直結しているわけで、それに基づいて自分の考えが確立し、そういう意味で我々の民族は独裁ということを認識の外の置いていたわけである。
だから「東条英機が独裁者だった」という言い方は、根本的に間違っているわけで、この間違いは2重に自分の無知を曝け出している。
一つは、当時の政治の状況を知らないことで、もう一つは独裁政治というものを知らないということである。
この両方の無知を自ら世間に公言しているのである。
逆に、それを受け取る側は、「なにをバカなことを言っているんだ」と言いつつ、そういう無知をあざ笑いながら、何の是正措置も取らないわけで、ある意味で不作為の是認という形になっている。
我々の同胞の識字率が高いということは、人々の意見がそれだけ多様化しているので、一つの事を成そうとしても、賛否両論が湧きあがり最終的には意見がまとまらない。
この意見が一つにまとまらないところが日本人の本質的な部分で、皆が一様に高レベルの教養と知性を備えているので、意見が一つに集約できないわけで、これを称してアメリカ占領軍のマッカサーは「日本人は12歳の子供だ」と言ったのである。
しかしこの現実は、民主主義の効率ある推進にとっては大きな足かせになっていることも事実で、マッカサーが「日本人はバカだ」という感覚で、12歳の子供だという意味もわかる。
結果として、その意見を一つにする際に、何らかの不合理、不具合を内包したまま見切り発車ということになってしまう。
政治の状況では、何かしら結論を出さねばならないわけで、何時までも堂々めぐりしているわけにもいかず、何時までも両論併記では済まされないので、結果として無理に結論を導き出すものだから、もう一方に不満が残ることになる。
そういう意味で我々は如何にも民主主義の実践には稚拙な部分を抱え込んでいる。
この本が、日本の文化に力点を置いているのか、ナショナリズムに力点を置いているのかわからないが、日本の文化を語るとすれば、視点を民族の足元に向けなければならないと思う。
そういう意味で、日本の俳句が俎上に乗せられているが、文化を論ずるということこそ、最初に述べた言葉の遊びに直結することではなかろうか。
そうは言いつつも、我々の同胞の文化というものをよくよく見てみると、文化そのものは実にすばらしいと思うが、どうもそれを継承する段になると金儲けが付きまとっているような気がしてならない。
例えば、華道、茶道という日本古来の文化が芸術といえるかどうか定かには解らないが、これを伝承する徒弟制度というのは、まさしく金儲けのシステムそのものではないか。
それとは逆に、最近の傾向としては、漢字検定とか色彩検定とか、ご当地検定などと称して、何でもかんでも試験で、知識や知恵の階層化を図る風潮も由々しき問題だと思う。
そうかといえば将棋、囲碁、ゴルフという趣味の遊びまでプロがいるわけで、そういうプロの人達は、素人相手に対戦して、その都度掛け金を得るという意味でプロというのならばすんなり理解できるが、そうではなくて、それなりの業界に所属して、その所属する業界内でプレーをして生活するという点には、いささか違和感を感じずにはおれない。
業界の枠の中だけで、業界のルールでプレーして、外からの出入りには高い壁を作るなどということは、産業界におけるトラストと全く同じ構図ではないのか。
また、日本の文化という場合、最近の傾向として世界各地の日本食のブームなども大いに喜ばしい現象だと思う。
食文化という言い方もあるように、食べる事というのは、やはり文化だと思う。
中華料理が世界各地に広がったのは、中国人が華僑という形で地球規模で生活圏を広げた結果に深くかかわっているのと同じように、日本食ブームも日本人の世界規模の活躍に付随して広がったに違いなかろう。
それが世界的な健康食ブームとも合致して広がったに違いないが、これなども文化輸出の最たるものであろう。
そして、アニメーションとか漫画などというのも、世界的な規模で広がっているということであるが、私の個人的な感想では、アニメーションなど我が方の作品は、デイズニ―作品の足元にも及んでいないように思うのだが、それがそうではないというのだから驚くほかない。
我々は昔からなんとなく西洋のものが有難いという潜在意識をもっているようだが、それに関連して、日本の浮世絵がヨーロッパに送られた荷物の緩衝材として使用されたという話は、我々の価値観の中では想定外のことではなかったろうか。
それを契機として、あちらでジャポニズムというものが起きたと言われているが、アニメーションや漫画も、その手のものだろうか。
私はアニメーションも漫画も、自分では見ないが、時々孫が見ているテレビの番組を覗く程度の認識しかないので、こういったものが海外で受けているなどとは信じられない。
我々はどうしたわけか西洋のもの、外国のものは素晴らしいものだ、という先入観から抜け切れていないようで、芸術家の中にも、日本にいる時は全く評価されなかったが、向こうで評価されると一躍日本でも名が売れるということが往々にしてある。
こういう現象を見ると、日本のその道の大家と言われる人の目は節穴だったと言わざるを得ない。
節穴というよりも、もともと芸術というようなものには、価値基準がないわけで、評価する、されるということは、その人、作者なり作曲家なりの運次第で、運が良ければ評価され、運が悪ければいつまでたっても評価されないということであろう。
その顕著な例が、芥川賞や直木賞の受賞作品である。
何時も受賞が発表された後で、それを読んでみるが、納得した作品は一遍もなく、なぜこんな作品が受賞したのか不思議な気がしたものである。
審査員の感性と私の感性が格段に違っていることは自分でも納得できるが、その審査員の感性が果たして本当に優れたものかどうかは、誰がどう判断するのであろう。
感性というのは世代によっても位相が違っているので、それを標準化した評価というのはありえないわけで、作品が受賞するかどうかは、神のみぞ知るというもので、必ずしも審査員の評価が正鵠を得たものではないということを知るべきである。
ただ決まった後から、受賞の理由をこじつけるわけで、審査の段階では優劣つけがたい作品が目白押しだろうと思う。
ところがそれでは審査にならないわけで、何が何でも雌雄を決しなければならないので、審査員も大変なことは理解できる。
如何なることでもそうであるが、日本の場合、こういう状況になると、つまり立派で権威ある賞を受賞するとメデイアが寄ってたかって英雄に仕立て上げてしまう。
メデイアに煽られてついうっかりその気になったら最後、その人の才能はつぶされてしまうに違いない。
芥川賞や直木賞に受賞した人は、決してメデイアに寛容な態度を示してはならず、もしそんなことをしたらきっとしたら己がつぶされてしまうに違いない。
こういう文化とナショナリズムはどこでどういう結びつきが生まれるのであろう。
文化の中にナショナリズムが包含されるのか、それともその反対か、あるいは対等か、こういう愚にもつかないこと口角泡を飛ばして議論することの無意味さは、それこそ言葉の遊びではなかろうか。

「現代史の対決」

2009-01-03 13:07:33 | Weblog
正月2日は一日中本を読んで過ごした。
例によって図書館から借りてきた本で、「現代史の対決」という本である。
著者は秦郁彦氏。
この著者の本は過去に何度も読んだことがあるので、彼の思考形式はおおよそ察しがついていたが、この本も彼の本旨が如何なく発揮されていた。
イデオロギー的な色分けをするとなれば、右に寄りかかっているが、彼の主張は基本的に中道を歩いているものだと思う。
現在の日本のメデイアの報ずるものはあまりにも自虐的で、自分で自分自身の価値を陥しめているが、これは一体どういうことなのであろう。
20世紀を語るとなれば、戦争を抜きには語れないが、今の我々の知識人というのは、あの戦争に敗北したという意味ら、極端に自信を喪失して、強いものには媚びるという風に精神構造が歪曲してしまっているということであろうか。
20世紀も21世紀も、人間は生きて行かねばならないが、人間の織り成す社会というのは、基本的に動物の社会と同じなわけで、生きるということの本質的な意味は、弱肉強食、優勝劣敗の世界だと思う。
強いものが弱いものの犠牲の上に人間の社会が出来上がっていると思う。
これは動物界の地球誕生以来の鉄則であって、我々人間も生き物の中の一種であるとするならば、この自然の摂理からは免れない。
戦争が悪いことだという認識は、人間の経験則から得た英知ではある。知恵でもある。
地球上のあちらこちらで自然発生的に生まれた人間の集落では、集落の中ではお互いに仲良く暮らしておれた。
何となればその集落の中ではお互いに近親者であったわけで、お互いに身内同士であるので相互扶助の精神が自動的に作用していたに違いない。
ところが隣り合う集落とは、双方の接点で利害が衝突するのが当然で、ここでは紛争が起きるのも自然の摂理である。
これが今ある自然界の野生動物のファミリーならば、集落、いや群れと群れどうしがテリトリーの境界線で接触しても、他方がもう一方を威嚇するだけで紛争という事態になる前にそれを回避してしまう。
実力行使の場合でも、同じ種同士では相手を殺すような執拗な攻撃はしない。
ところが人間の集団では、我々・ホモサピエンスというのは、頭脳を持っているので、その頭脳で以って、目前の問題を解決しようという思考が、これまた自然発生的に生まれてくる。
我々の祖先が4つ足で歩行していたにもかかわらず、二足歩行を常態化したのも、我々の持つ頭脳の発達であったわけで、その頭脳が目前の局面を思考することで解決する手法を編み出してしまった。
ゴリラの集団のように、ドラミングすることでもう一方の集団が引き下がれば、我々人類の言う紛争ということはあり得ない。
ところが人類の場合は、こういう場面でも相手の威嚇を如何に受け取り、如何に対応するかを自らの頭脳で考えてしまう。
考えた末、ベストの対応を編み出すわけであるが、それが功を奏するかどうかはその時点では分からないわけで、結果的に失敗であったということも往々にしてあるわけだ。
問題は、ここで人間が考えるという行為である。
失敗から学び、なぜ失敗したかを考えるわけで、それが集積されて知恵となる。
考える行為の中でも一番初歩的なものは経験から学ぶということだろうと思う。
その次が自分の欲望を満たすということだと思う。
こういうものが生活を通して蓄積されて総合的に知恵という知識の塊になる。
現代人は、この知識というものを教育によって集中的に習得すれば知恵もそれに付随して増えてくると思い込んでいるが、それは大間違いなわけで、知識というものはあくまでも生活のノウハウであって、いくらノウハウを知っているからと言って、それが自然の摂理を克服するものにはなり得ない。
ただ自分の欲望を満たす手段にはなり得るが、それはあくまでも個人の問題に収斂されるだけのことで、自然の摂理を克服するものではない。
原始の人間社会が長い年月の間に近代化して、19世紀、20世紀、21世紀ともなると、人間は知識を備えた人間ばかりになって、昨今の人間の在りようは、知識人の集合体になり替わってしまっている。
しかし、人々が教育の普及でいくら知識を身につけても、それで自然を克服しているわけではないので、自然の摂理というのは未だに連綿と生き続けている。
それが人々の諍として今日でも存在しているのである。
そして、今日の文明国、あるいは先進国では、教育が広汎に普及して、知識を持った人が大部分であるが、そういう人は自分の頭脳で考えた末に無意味な諍は止めましょうと言いつつ、自然の摂理からは脱却出来ないでいる。
なぜ自然の摂理から脱却できないでいるのかと問えば、やはりここでも人間の頭脳の考えるという作用が機能していて、「欲望を満たすには如何なる手段が効果的か」と思考するからである。
今日の地球上には富の格差が蔓延しているが、この格差の偏在も、基本的には人間の考えるという能力の結果であって、考えて考えて考え抜いた人たちと、日暮れ腹ヘリで平和的、牧歌的に平穏にのんべんだらりと暮らしてきた人たちの現実の姿を映し出しているにすぎない。
考えても見よ。地球上の人間は皆同じ時間を共有しているではないか。
アメリカ人も、日本人も、ロシア人も、ネイティブ・アメリカンも、アポリジニも、アフリカの人々も、皆同じ時間をもっていたではないか。
地球上の人類は皆同じ時間を共有していたにもかかわらず、今日これだけ格差が生じたのは、それぞれの地域や、それぞれの民族の、考え方や、欲望を満たす努力や、目前の問題を克服する努力の差ではなかろうか。
今の時点でアメリカが世界で一番最強で、一番富んだ国であるが、これはアメリカ人の努力の結果だと思う。
しかし、そのアメリカも今は陰りがさしこんできているが、これもアメリカの責任であって、アメリカの責任とはいうもののその影響が世界的規模で地球上に拡散することも事実であろう。
ところが、それに如何に対応するかも、これまた各国、あるいは地域の思案のしどころでもある。
昨年、2008年の末期のアメリカの景気後退も、アメリカ人の奢りの結果ということは明らかなわけで、それはアメリカ自身の失敗であるがゆえに、アメリカも立て直し策を懸命に模索するであろうが、それに如何に対応していくかは、こちら側の問題である。
資本主義経済というのは、必然的にサインコサインカーブを描くのが自然の摂理であるのだから、こういう事態が来るのも自然の流れの一環ではある。
だからこういう場面に遭遇したら、この局面を如何に捉え、如何に考え抜くかということがもっとも大事なわけで、我々は十分に考え抜く資質を持っている民族だと思う。
その考え抜く段階で、自然の摂理、自然の道理ということを心しなければならないが、現在の我々はその部分をかなり疎かにしていると思う。
アメリカが富に溺れたように、我々は智に溺れているように思える。
我々の国は非常に教育が普及していて、すべての同胞がいわゆる未開人から比べれば知識人のクラスにまで及んでいる。
これを冷静な目で見ると、知に溺れて本質を見失っている部分が目につく。
その顕著な例が、強いもの、体制側、統治する側、権力サイドを誹謗中傷して溜飲を下げることに快感を覚えている節があるが、判官びいきというのは庶民にとっては拍手喝采と行きたいところであろうが、理や法にかなっているわけではなく、あくまでも人治の一環なわけで、それは緊急処置の一つにすぎないことを忘れてはならない。
強きをくじく事に快感を覚えるというのは、自分が相手より知識のあることに心ひそかに酔いしれて、自分一人悦に入っている図であって、それを楽しんでいる構図である。
それを増幅しているのがメデイアであることは言うまでもないが、逆にいうと、為政者はメデイアを上手に手なずける知恵をもたなければならないということでもある。
この本の中で、著者は教科書問題とか、従軍慰安婦の問題とか、靖国神社の問題とか、瀋陽の日本大使館の問題とか、様々な問題を提起しているが、こういう問題が話題を呼ぶということは、その根底のところに基本の基軸がぐらぐらしているということにある。
日本の公立学校の教科書の内容に関して、外国からとやかく言われる筋合いは最初からいささかもないにもかかわらず、それがこういう大きな問題になるということは、我々の側に確たる信念がないから、相手に振り回されているのであって、きちんと筋の通った話をすれば、何ら問題視することはない。
ここでも問題はメデイアの対応である。
当局側のメデイアに対する対応が、篤物に触るような恐怖心にかられて、びくびくな態度で接するから彼らは増長するのである。
メデイアというのは「狼が来る狼が来る」と言い続けなければ彼らは録を食めないわけで、為政者の側もそれを十分に汲んで対応をしなければならないわけで、ここでも本筋をきちんと通せばよかった筈である。
我々はメデイアというものによくよく注意して接しなければならない。
メデイアの側の人間というのは、昔からインテリヤクザと言われているわけで、こういう差別用語に類するような言葉が使われるということ自体、その本質を見事に表しているわけで、彼らには一切責任というものがないので、報道されたことがかりに嘘であったとしても、それによる罰則というものは存在しない。
自分の行為に一切責任を問われない職業に裁判官というのもある。
裁判官も、自分の出した職業的結果に対して一切責任を負うことがないわけで、如何なる判決を出してもそれは言いっぱなしで済まされる、
まことに恵まれた職業である。
普通のビジネス界では、失敗すればその責任を問われる。
降格人事、あるいは左遷ですめばもうけものの内で、運が悪ければクビにもなりかねないが、裁判官は上級審で逆転判決が出されても、前の判決を出した裁判官が処断されるということはない。
裁判官やメデイアの人間が、ことほど左様に野放図に生きられるというのも、知の傲慢による。
教育は、高ければ高いほど立派な人間というのは、ある種の思い込みに過ぎないが、一般の人はこの錯誤になかなか気がつかない。
人々が教育の普及にあこがれるのは、その教育が立身出世の手段になっているからであって、なぜ立身出世にあこがれるかと問えば、それは我欲の実現に対する一番の近道であるからである。
自らの立身出世のために高等教育にあこがれ、艱難辛苦をものともせずその実現に挑戦するという行為を人々は崇めたてまつり称賛するが、それこそ人間の知の奢りだと思う。
世界中の人々は、皆一様にそういう価値観で以ってそれぞれの人生を生き抜いてきたものと思うが、それは結果として知と知のぶつかり合いを生み出し、自分の知を優先させんがために、暴力の行使となっているのである。
戦後の日本の知識階層というのは、知の先に暴力が潜んでいるということに、故意に目をつぶっている。
戦後の平和運動を見ても、表面上は知と知のせめぎ合いのような様相を呈していたが、自分達の知の実現が思うようにいかないと、最後には手が出るわけで、ならば今まで口先で平和を唱えていたその呪文は一体何であったのかということになる。
平和を唱えながら、あまりにもながながとその方法論を論じていると、論議が暗礁に乗り上げて、最後には手が出るというのは極めて人間的な自然の成り行きである。
「暴力はいけない」というのは正論であるが、これが正論であるということ自体が人間の知の奢りであって、基本的に自然の摂理には反しているわけで、それは人間の考える力というのが、人間の理性で以って自然の摂理を抑え込んでいる姿だと思う。
人間は考える力を持っているので、極限まで、お互いに暴力を使わない方策を講じようとするが、最後の最後に事を決するのは、やはり暴力しかないということに行きつく。
この暴力の行使が人間の生存にとっては最悪の行為だというのは、人間が考える生きものなので、考えた結果として理性では納得できる。
理性では納得し得ても、人類が根源的に備えている自然の衝動、考えた結果としての理性の奥底に沈殿している自然の衝動には勝てないわけで、それが噴火してしまうのが人類の愚かな行為としての諍だと思う。
戦後の日本の知識階層というのは、人間が本来持っている自然の摂理ということに、いささかも注目することなく軽視している。
我々は極めて広範に教育が普及しているので、日本そのものが知識人の集団なわけで、知識があるが故にその知識に溺れ、本来の人間の姿というものを見ようとしていない。
知を過信して、知に溺れ、知で何事も解決出来ると思い込んでいるが、それはある種の傲慢に通じているわけで、その傲慢さゆえに、物事の本質を見失っている。
物事の本質を知れば、筋道だった思考がついてくるにもかかわらず、知に溺れて余計な事にまで気を回すから物事がややこやしくなるのである。
そしてこの余計な事が大きくなって世間の話題になればなったで、それは知識人の興奮をより一層かきたてるわけで、結果的に「群盲、象を撫でる」ということになってしまう。
昔も今も、地球上のあらゆる人間の集団、社会なり、国家なり、民族なりで、リーダーが失敗を犯すということはごく当たり前にあるわけで、今日の世界の状況というのは、ある意味で失敗の結果だともいえる。
成功のままで国家が何年も何十年も存在し続けるということはあり得ないわけで、現在の日本も、アメリカも、中国も、理想を求めて駆けてはいるが、成功にはいたらずをその意味で失敗の中にあるわけである。
成功した国家というのは、未だ地球上には存在していないわけで、この地球上の人間が追い求めるのは成功した国家ではなく、成功に向かって理想を追い求める平穏な手段を見つけ出すということだ。
地球上の人類は皆同じ時間を共有しているが、それと同時に、皆同じように考えるという行為を成しているわけで、その考えるという行為で、自分の私利私欲の克服ということを考えるべきだと思う。
この本のテーマの、歴史教科書の問題、従軍慰安婦の問題、靖国神社の問題、瀋陽の日本大使館の愚昧さ、等々の問題はすべて個人の私利私欲の延長線上の問題なわけで、それが集合して国益の問題にすり替わっている。
この地球上に幾つの人種があるか正確には知らないが、この宇宙空間に生きる人間には、民族を超え、国家の枠を超え、人間として皆が一様に順守しなければならいない基準、規範、倫理というようなものがあると思う。
例えば「弱者をいたわる」というのは民族を超え、国家を超えて普遍的な価値観だと思う。
我々凡人が「か弱い人はいたわりましょう」、と言うと、この言葉は世界的に普遍的な価値観として通るが、これが日本の知識階層にかかると、弱者とはなんだ?、弱者の定義は?か弱いとは差別ではないか?という形で問題提起される。
こういう屁理屈をこねることは、知識人の得意芸であるが、それこそ知を横暴、知識の傲慢そのものである。
理念、理想を弄んでいる図でしかない。
これを無責任なメデイアが茶の間のワイドショウ―的な見世物に昇華、ショウアップするものだから、日本中が蜂の巣をつついた様な騒ぎになってしまう。
ここで勇気ある人が、本筋を通して一刀両断に処理してしまうと、事はそこで収まってしまうが、これではメデイアも知識階層も自らの存在価値が消滅してしまうので、なんとか存続を賭して生き残りをかけ問題の蒸し返しを図るのである。
平和な、平穏無事な社会ではメデイアは存続しきれない。

「昭和ひとけた時代」

2009-01-01 18:47:29 | Weblog
年が開けて新しい年に入れ替わったが、知能の活動に切れ目があるわけではない。
よって、例の如く昨年中に図書館から借りてきた本を新年早々から読んだ。
「昭和ひとけた時代」という本で、著者は永沢道雄という人だ。
奥付けによると朝日新聞整理本部長となっているので、左翼的なバイアスがかかっていることはいた仕方ない。
しかし、そういうバイアスを抜きにして考えても、昭和初期の日本の政治というのは実に不可解である。
その不可解さの源泉は軍部が政府の言うことを全く聞かないという点に尽きる。
これは一体どういうことなのであろう。
普通の市民が政治を語るとき、当然のこと、統治するものとされる側という対立軸は避けて通れない道であるが、この時代の日本の政治というのは、当時の日本を統治していたのは一体何なのかという点に行きつく。
極めて唐突な個人的な意見ではあるが、それはある種の老害ではなかろうか。
1926年12月大正天皇が崩御され、昭和天皇が即位されたが、この時新しい天皇陛下は22歳だったと私は考える。
その根拠は、亡くなったのが1989年でそれから在位期間の64年を引くとこういう勘定になるのでそう考えた次第であるが、人間、特に民族を問わず国を問わず、22歳の男といえば、まだまだあらゆる面で未熟だと思う。
いくら帝王学を治められているとはいえ、それは皇室という密室の中でのことであって、それこそ井戸の中の蛙的な学問でしかなかったと思う。
それに引き替え、重臣といわれる人たちは、明治維新を経験し、日清・日露の戦役を経験してきた人たちであったわけで、22歳の若者など簡単に壊柔出来たに違いない。
そこに持ってきて、昭和天皇は自分自身、立憲君主制を信条とする気でいたものだから、いわば独裁の対極の思考であったわけだ。
戦前・戦後を通じて、日本の左翼陣営というのは天皇制そのものを攻撃の対象としていたが、そこに彼らの視線の間違いがあったわけで、彼らは天皇の重臣を攻撃すべきであった。
政府要人や天皇の側近への攻撃もあるにはあったが、その争点があさっての方向を向いていたように見える。
当時も今も、政治に関わる人たちはあまりにも年寄りすぎると思う。
そして日本の明治維新以降の我が国の政治というものをよくよく見ると、日本には民主政治というものが未だに完成の域に達していないように見受けられる。
志を一つにするものが集まるというのは、人間の自然の摂理であって、それ自体は決して咎められるべきことではない。
というものの、その異なった意見を如何に集約するかという段になると、それぞれに自己主張を繰り返すのみで一向に話が進展しないわけで、この部分に民主主義の未熟さが見事に露呈している。
これは民族の特質になっているのではなかろうか。
昨今の政治の状況でも、麻生総理大臣が誕生した時には確かに選挙をして民心の刷新が目前の課題であったが、そこに突然アメリカ発の経済恐慌に見舞われて、選挙どころではなくなってきた。
それは麻生さんの責任ではなく、ある意味で外圧であったはずである。
アメリカからのおお津波を被って、目前の経済立て直しをすべく交付金のバラマキをしようとすると、野党は「それは選挙対策だから罷りならぬ」という論法で反対し、執拗に選挙の実施を迫っているが、ここには目先の国民の経済的苦境を如何にするかという視点が野党側に抜け落ちている。
ただただ政権交代さえすれば日本経済は自然に回復するような論調であるが、こういう能天気な政治思考はありえないと思う。
現状打開の方法はいろいろ考えられるが、政治をする側とされる側では、見解がまるきり反対向いているわけで、ただただ政権を自分の方に手繰り寄せたいばかりに、手前勝手な主張ばかりを繰り返しているのが日本の政治の状況だと思う。
志を一つにするものが徒党を組んで、ある目標の進むこと自体は咎められることではないが、自己の主張を通そうとするあまり、暴力的なテロでそれを進めようとするところが極めて未熟だと思うし、一旦決めた結論をまた後から横やりを入れて結論そのものを引くり返すなどということは野蛮以外の何物でもない。
このあたりの事を戦後日本に進駐してきたダグラス・マッカサーは「日本人は12歳の子供だ」と評したが、まさしくその通りだと思う。
我々は民主主義というものにまことに不慣れであったわけで、従来の日本人は独裁主義でもなかったが、民主主義とも別の思考原理で生きてきたということに他ならない。
我々日本人の太古からの思考原理は、家父長制に依拠する責任分散思考であったと思う。
独裁者がいないのだから、責任をある特定の人に全部追い被せるということもない代わりに、全員が責任逃れをしているわけで、責任者というものがいない状態を作り出しているのである。
昭和初期の日本の現状を見れば、軍部としての関東軍が独断専行して中国と戦争してしまって、挙句の果てに満洲国というものまで軍部が作り上げてしまった。
政府は政府で、戦線格大を必死で止めようとしても誰も言うことを聞かない。
政府の言うことを無視して独走した軍部に対して、誰一人処罰をしたり責任追及する者がいなかったわけで、事後承認という形で追認してしまったが、追認したことに対して政府を責めるものもいないし、独走した軍部を責めるものも一人もいないわけで、これは一体どういうことなのであろう。
若い昭和天皇は、ある意味で蚊帳の外に置かれていたわけで、それを自分達に都合のいいように言いくるめたのは、年を経た年寄りの重臣たちだったに違いない。
仮に、若い昭和天皇が正論を述べて、軍部の独走を戒めたとしても、仲を取り持つ重臣たちはいいように天皇を懐柔したに違いない。
軍部が独走するについても、日本の軍隊は私兵ではないわけで、ある程度手続きを経て行動を起こしているはずで、いわばいく層にもチェック機能があったはずであるが、それが全く機能していなかったということは一体どう解釈したらいいのであろう。
言えることは、組織ぐるみの違反行為であったということで、平たく言えば軍律違反を軍そのものがおかしていたということで、これを正すには如何なる手法がありえたのであろう。
ここでその力を発揮すべきが本来ならばメデイアでなければならないと思う。
メデイアが社会の木鐸であるとするならば、メデイアがその軍隊の常軌を逸した行動に対して、国民に向けて警鐘を鳴らさねばならなかった。
ここで再びメデイア論になるわけだが、メデイアというのは国が発展途上にある時は、国威掲楊の旗振りに徹するということもわからないではないが、その中にも正常な倫理規定を保持し、事の善し悪しを冷静沈着な目で凝視しなければならないと思う。
時の時流に便乗して、売れる記事に徹していては3文の値打ちもないが、この時期のメデイアは実に時流に迎合していたわけだ。
戦争をやめようやめようと動く政府をバカにして、華々しく戦果をあげる軍部に迎合し、無知な国民の軍国主義を煽りに煽っていたわけだ。
ここでも責任というのは一瞥だにされていないわけで、あらゆる報道に対して責任不在のまま今日に至っていると思う。
我々の民族が、この責任ということに極めて寛大というか、責任回避に長けている理由は、我々の先祖が農耕民族であったというところに内在していると思う。
つまり、我々の先祖は、農村で農業を生業として生きてくる途中で、農事の責任を皆で交替で行ってきた。
いわゆる輪番という制度で、村の長を輪番で務めてきたので、自分がトップになったからといって独裁主義的に振舞うことはなく、長老の意見を聞き入れて、皆で協議してことを決めてきた。
ある時は集落のトップであったとしても、次は皆と同じただのメンバーになってしまうので、トップになったからと言って極端にあこぎなことをすれば後でみなの反発を食うので自然にそういう独断専横的な行動は自重する。
皆で協議して決めるので、責任の所在も極めて曖昧になってしまって、「誰それの責任だ」ということは言えなくなってしまう。
メンバーは皆均一に責任の一端を平等に担なっているので、事が失敗しても責任者を追及するということは極めて難しい。
昭和の初期の日本の社会の状況というのは、これの延長線上にあったのではなかろうか。
軍部は軍部として、政界は政界として、それぞれの組織の中で、この村落共同体意識で連帯が生きていたので、軍部の独走を誰もが阻止できず、政府の追認を誰もが阻止できなかったのではなかろうか。
問題は、この時まだ生存していた明治の元勲と言われる元老たちの存在である。
この元老たちの存在は明らかに老害そのもので、この連中が近代的なでデモクラシーの本質を知らず、明治維新当時の文明開化の意識から抜け切れていなかったものと推察する。
その意味からすれば、メデイアもいまいち時代遅れであったが、こういう状況下で問題にしなければならないことは、知識人の役割である。
中でもこの時代には既に共産主義が日本に蔓延していたわけで、当時の知識人の多くがこういう思想にあこがれていたという点である。
旧ソビエット連邦が崩壊した今、共産主義を哄笑するのはいともたやすいことではあるが、それを見抜けなかった当時の知識人の認識というのを今どういうふうに考えたらいいのであろう。
あの戦争に、近代の戦争の本質も知らずに突き進んだ当時の軍部の愚昧さと同じレベルの愚昧さではなかろうか。
我々の責任追及の甘さというのは、軍部が仲間をかばい合う構図と瓜二つで、こういう共産主義のユートピアを真底信じていた当時のインテリ―たちの責任追及も当然行われてしかるべきだと思う。
しかし、戦後の論壇は、軍部の失敗はとことん追求したつもりでいながら、共産主義者は特高警察の弾圧の犠牲者という位置づけで、被害者という認識で彼らを擁護する発言が一世を風靡したではないか。
特高警察の拷問を擁護する気はないが、そういう犠牲を払ってまで共産主義を守ろうとする人たちの気も、我々凡人には計り知れないものがある。
ここで考えなければならないことは、特高警察といえども我々と同じ同胞なわけで、同じ同胞でありながら、考えが違うというだけで同胞を拷問する心理である。
あっさりと現行犯で射殺するというのならば、同じ死に至らしめる過程でも、その残酷さに斟酌の余地があるが、同胞が同胞を拷問するということは、凡人には計り知れない行為である。
そこには憎悪の感情が極限にまで高まっていなければそういうことはし得ないと思う。
普通の精神の状態ではありえないはずで、する方もされる方も人知を超えていると思う。
それが権力の名において行われたわけで、それをした側の人間はその後どういう人生を歩んだのであろう。
この問題は、実行犯だけの問題ではなく、その上層部にも大いにかかわり合う問題だと思うが、この件でも直接の責任問題というのはうにゃむなに処されたのであろう。
ということは、昭和ひとけたの時代というのは、あらゆるものがうにゃむにゃに曖昧のまま処理されたということで、事の本質を厳格に正すということが全くなかったということであろう。
こういう場合に、本来ならば知恵を出すべき存在が年寄、年長者の存在だろうと思うが、この年寄り連中の性根が腐っていたのではなかろうか。
中でも政府が軍部の独走を阻止できなかった点を深く考察しなければならないと思う。
この問題を掘り下げると、おのずから統帥権の問題に行きつくが、ここで毅然たる発言をすべきが本来ならば東郷平八郎でなければならなかった。
ところが彼は若手の海軍将校の口車に満々と乗せられて海軍省の利益、つまり省益に走ったので、世の中の正義が正義として通らなくなってしまった。
これこそ老害の最たるもので、日露戦争の日本海海戦の栄光をそのまま引きずって近代の外交交渉に影響を及ぼした悪しき先例であったわけである。
こういう時代でも物事を素直に見、常識を備えた人もいるにはいたが、そういう人は少数派で、正論を吐くとそれが少数派になってしまうというところがこの時代の奇異なところである。
それともう一つ、我々の政治が未熟な点は言葉の解釈にとって意味が反転してしまうということがある。
それは前線の戦闘で敗色がこくなって本来ならば「撤退」というべきところを、「転進」と言い換えると、敗色の部分が薄れて尚も健闘しているかのような印象を受ける。
ところが実際は玉砕しているわけで、結果的には嘘を言ったことになるが、心情的には故意に嘘を言ったわけではないので、責任の所在は不問に付されてしまう。
統帥権の問題でも、国際会議に出席した全権団が取り決めてきた約束事に、統帥権干犯などという文句をつけること自体屁理屈そのもので、論理的におかしなことであるのに、それを政争の具にしたわけで、明らかに天皇を政争の場に引きだしたようなものなのに、誰一人その不具合、論理の不合理を突くものがいなかったわけでこれは一体どういうことなのであろう。
当時の貴族院、衆議院のなかで、こういう正論を吐く人が少数派であったということは一体どういうことなのであろう。
政治というものが、政党の足の引っ張り合い、言葉尻を捕まえた揚げ足取り、ただただ政権交代のみを目指す政治交代劇になってしまっているところが我が民族の政治が12歳の子供の域を出るものではないといわれる所以である。
我が民族は、近代的な民主政治というのは未来永劫マスターしきれないかもしれない。
何となれば、21世紀の今日に至っても、この時と同じレベルの政治でしかないわけで、軍部、軍隊こそ今は存在していないが、していることはこの時とたいして変わりはない。
統帥権の問題もさることながら、美濃部達吉の「天皇機関説」の排斥運動も、実に大人げない様相を呈していたわけで、どうしてこういうことが大人の社会で起こりうるのであろう。
明らかに今日の教育現場で起きているイジメの問題と全く同じ構図であったわけで、官憲が共産党員を弾圧するのとはわけが違っている。
従来、何の不具合もない事項に、ある日突然「不適切だ」と言いがかりをつけて、寄ってたかってイジメ抜く構図ではないか。
そして最後には政府もその他大勢の意見に押されて、イジメの総仕上げをするわけで、これは一体どういうことなのであろう。
ここでもやはり問題とすべきはメデイアの良心だと思う。
メデイアがその不具合、世論の間違った指針を直すキャンペーンを張ってしかるべきだと思う。
世間がこういう間違った意見に追従しかかった背景には、テロの恐怖があったことは認めざるを得ない。
正論を吐けばテロの標的にされかねないという恐れは多分にあったに違いないが、それにしても当時のメデイアは腰ぬけだったと思う。
ここでもやはり知識人の責任が問われるべきではなかろうか。