例によって図書館から借りてきた本で、「日本海軍、錨揚げ!」という本を読んだ。
阿川弘之と半藤一利の対談であったが、非常に面白かった。
阿川氏は実際に大日本帝国海軍に身を置いた経験を持ち、一方の半藤氏は文芸春秋社で編集者として戦後、様々な軍人たちとインタビューを試みた人で、こういう経歴を持った二人の座談会なので非常に興味あるものであった。
ただ両名とも知識人でもあるので、正面から旧軍人の悪口を言うことには、極めて控え目な表現をしているので、その深刻さがいくらか薄らいだ印象を受ける。
私に言わしめれば、あの戦争は軍部の奢り以外の何物でもなかったと思う。
その奢りがどこから来ているのか、という掘り下げが少し甘いと思う。
無理もない話で、当時の陸軍省あるいは海軍省というのは、ある意味で完全に官僚になりきってしまっていて、文部省あるいは商工省と同じレベルの官僚組織に成り下がってしまっていたところに最大の原因があるように思う。
官僚組織というのは、がっちりとしたピラミット型の強固な組織を形つくるのは当然であるが、トップの方とボトムの方はしっかりしていたが、その中間階層がトップの意向を借りて独断専横したように思える。
この両名の話は、ともするとトップの方の人の話が主であるが、結果として日本が戦争に負けたということは、トップが中間層を効率よくコントロールできなかったということだと思う。
普通の民間企業でも同じように、トップからボトムにわたるピラミット型の組織を形作っているが、企業ならばトップが経営に失敗しても、その下の組織を構成する人たちが死ぬということはない。
ところが、軍隊ではトップが作戦という判断を誤れば、組織を構成する人たちは皆死んでしまうわけである。
昭和初期の軍人たちは、この部分で自分達が判断を誤れば組織を構成する人たち、およびその組織に人材を提供している国民、市民、いわゆる銃後の人々を死に至らしめるという発想が最初から抜け落ちていたと思う。
この両名の話も、そういう部分にまでは及んでいないわけで、海軍の誰が名将で誰が凡将であったかという話に終始しているが、それでは歴史の教訓を汲み取れないと思う。
戦闘の経緯には非常に詳しいが、それぞれの戦闘で勝利を得た場面があったとしても、全体としては敗北してしまったわけで、敗北という結果の前では、緒戦の実績が如何なるものであったとしても何ら意味をなさない。
レイテ沖海戦で謎の反転をした栗田艦隊の栗田健男を擁護する発言があるが、こういうところに我々日本人の情の深さというか、立場を察する気風があるが、そもそもこういう心掛けが戦争に嵌り込み、戦争に敗北する原因ではなかろうか。
海軍兵学校が設立されて敗戦で消滅するまで69年間であるが、この間約70年にわたって、成績によって人物評価をする慣習というか、伝統というか、実績というものは一度も見直されたことはない。
優秀であるとされた海軍兵学校では、この矛盾に誰一人疑義を差し挟まず、それを踏襲し続けたということは一体どう考えたらいのであろう。
20歳前後の若者が、その時点では如何に優秀であろうとも、井戸の中の蛙的環境の中で年功を経て、その優秀さ、頭の良さ、判断力、決断力がそのまま維持し続けていると思う不合理に、誰一人気がつかないということは一体どういうことなのであろう。
陸軍でも海軍でも、いくら作戦が失敗しても、トップ同士は同窓生である。
軍令部で作戦を指示しているものも、出先で勇敢に戦っている司令官も、同じ兵学校の同窓生で、出先の司令官が作戦に失敗したからと言って、後方の軍令部がその同じ学校で苦楽を共にした学友に対して、卆直に責任を負わせるには忍びなかったものと考える。
これが文部省や商工省ならば、いくら政策を失敗しても誰も死なないし、悪ければその時点で修正すればことは済む。
ところが戦争ではそんな訳にいかないわけで、失敗すれば空母は沈み、戦艦は沈み、犠牲者は数えきれないほど出るわけで、だからこそ海軍でも陸軍でも優秀な人材をかき集めたわけだが、結果が負け戦ならば誰でもできる。
兵学校でも、陸士でも、いかに優秀であろうとも、負ける戦をしているからには何が優秀か、ということにならなければいけないのではなかろうか。
戦を運に頼るようでは、優秀な人材をかき集めた意味がないではないか。
この両名の話はそこまで突っ込んではいないわけで、そういう観点からこの本を読んでみると、やはり今までの戦記物と同じで、高位高官の話のオンパレードであるが、その高位高官の責任を掘り下げるというところまで至っていない。
極端に言ってしまうと、いくら作戦が失敗しても、こういう高位高官の人は、その作戦の失敗の責任を問われていない。
此処がそもそもおかしいと思う。
プロの戦争屋が、そのプロであるべき仕事で失敗しても、プロとしての責任を問われていない、ということである。
こんなバカな話もないと思う。
しかし、これは日本の官僚全部に言えることである。
対米戦の劈頭の外務省の失態、最後通牒が真珠湾攻撃の後になったという件でも、時の駐米大使はその責任を負わされていない。
結果が失敗であったとしても、本人は一生懸命やったのだから、責任を追及するのは可哀想だ、という発想であろうが、こんなバカな話もないと思う。
戦争のプロが負ける戦をした時は司令官は死をもって責任を果たすべきだと思う。
日露戦争で勝利をおさめた乃木希輔は、敵の旅順要塞のステッセルを敗軍の将として礼をもって処遇したが、彼は本国に帰還したらその責を問われて死に追いやられている。
真珠湾攻撃で海軍基地を壊滅されたキンメル提督は直ちに左遷されている。
日清戦争の中国の軍艦・定遠の艦長丁汝昌も、勝者から礼をもって遇されても自ら命を絶っているわけで、戦争のプロならば、自分の作戦が失敗した時はこれぐらいの責任感は当然だろうと思うし、周囲もそういう目で見るべきだと思う。
敗戦の責任を感じて、そういう責任の取り方をした将官がいたことも事実であるが、これが軍人として普通の身の処し方だと思う。
昔、同じ学校で苦労を共にしたから、などという感傷に浸っているわけにはいかないはずだ。
この部分の甘さは官僚特有のものではないかと思うし、官僚の枠を超えて、我々同胞としてはどうしてもこういう感傷に引き込まれがちだと思う。
考えても見よ、旧軍の言い分によると、赤紙一枚で集められた兵士が天皇の赤子であるとするならば、その天皇の子供を無暗矢鱈と殺してしまったまずい作戦ならば、指揮官は当然その責任を自ら負うべきではないのか。
天皇制のもとの軍隊ならば、当然こういう論理にならなければおかしいわけで、自分の作戦の失敗で多くの軍艦と兵士を死に至らしめて、なおその地位にいるということは許されるべきことではないはずである。
このごく当たり前の論理がわからない海軍兵学校をはじめとする軍人養成機関は一体どうなっていたのであろう。
ただここでも国民の気持ちということも考えなければならない。
日露戦争に勝ったとき、政府の裏側ではもう既に交戦能力が底を突き、のっぴきならない状態であったので、そこで講和に乗ったわけだが、それを不服として国民が騒いだ。
情報が開示されてなくて、日本の交戦能力が底を突いていたということを日本国民は知らなかったとはいえ、そこで政府側の国民への説得が足りなかったことは言うまでもないが、そういうことはやはり国益の面から考えると公にはし得なかった。
交戦中に、「戦費が底をついたから、もうこの辺で戦争をやめます」などということは政府としては公にはできないことは言うまでもない。
太平洋戦争中でも大本営の発表が嘘であった、ということがこの本の中でも言及されているが、やはり当事者としては、真実は言えなかったろうと思う。
歴史にifということはありえないが、もし仮に大本営が正直な報告をしていたら、我々国民の側としてはどういう反応をしたであろう。
反戦運動が高まるなどということはおそらくありえず、普通の人々はより一層激昂したのではなかろうか。
日露戦争で賠償も取れないことに激高して焼き打ち事件まで引き起こした大衆は、基本的に無知だと思う。
この無知の大衆と、社会のトップを形成している人々の間に、その中間層の人々がいたわけで、これがいわゆる諸悪の根源だと思う。
軍隊組織ならば下士官から、民間ならば学校の先生や、町内会の役員や、会社ならば課長、部長クラス、いづれにしても組織の中間層が上役の気に入るようにゴマをするために、下のものをコントロールする態度が社会そのものを軍国主義に導いたものと私は推察する。
この時期に学園生活を送った人の話を聞くと、いずれも配属将校の威張り散らす態度に腹を立てているが、配属将校というのは兵隊の中、いわゆる軍隊の組織の中では落ちこぼれた連中であったわけで、本人が優秀であれば配属将校等になるはずもないことは一目瞭然である。
軍隊組織の中の落ちこぼれなるがゆえに、娑婆、いわゆる一般社会では威張り散らして自分の存在感を誇示していたのである。
人間の織り成す社会である以上、上も下も綺麗事などで通じるはずもなく、極めて薄汚れた社会であるのは当然であるが、この座談会でも対談している両名は普通の社会人からすれば知識階層の部類に入るわけで、そういう人なればこそ、社会の上の方の醜さを暴きたてているが、汚いのは下層の庶民クラスでも同じである。
こういう人たちの議論は、上の方の人たちがああ言ったこう言ったという話になりがちであるが、その言葉も突き詰めると、下層の人々の心情を代弁していることも大いにあるわけで、大衆の意を汲んだトップの言葉そのものが間違っていたことも多分にある。
知識人が下層の人々の間違いを弁護する言葉に「情報がない」とか、「嘘を言った」とか、「真実を隠した」という言い分になる。
私に言わしめれば、社会のトップも人であり、下層の大衆も人である以上、双方で間違いを犯すこともあるわけで、その間違いが相互に干渉しあって、相乗効果をもたらすこともあると思う。
戦前・戦中の我が国の軍国主義というのは、まさしくそれではなかったかと考える。
関東軍がシナで騒擾を起こす、政府は不拡大方針でそれを抑えようとするが、当時のメデイアは軍部の動きをけん制するわけでもなく、国民を煽って、軍部の肩をもつ有様で、軍部は国民の声を代弁するような形で行動しているではないか。
軍部のシナでの行動を、「勝った勝った」と吹聴しまくったのは言わずもがな我が同胞のメデイアであったわけで、それを心から歓迎していたのは、ほかならぬ無知な大衆であったわけだ。
結果的に異論を力づくで抑え込んでしまったようなもので、日本全国が軍国主義一色で塗られてしまったのは国民の側のエネルギーであったような気がする。
しかし、戦争の結果が敗北となれば、軍部が悪い、政府が悪いということになってしまって、自分達があの時代軍国主義者であったことを綺麗さっぱり忘れてしまっている。
そして今あの戦争を語るものは、当時の軍人の誰それがこう言ったああ言ったという話に終始してしまっているが、本当ならば日本の大衆がなぜあの戦争を支持したかを掘り下げて考えなければならないと思う。
海軍であの戦争をリードした人たちは、昔の薩長閥だという話があったが、あの明治から大正の時代に若人が軍人養成機関に群がったのは、彼らの生まれた地域が貧乏だったからである。
薩摩や長州から有名な政治家や軍人が沢山輩出したが、こういう地域は押し並べて貧乏であったわけで、貧乏からの脱出の手段として政治家の道や軍人の道があったわけである。
裕福な地域からはそういう選択はすくない。
昔も今も、軍隊のイメージは人の嫌がる軍隊というのは変わらないわけで、貧しい地域から軍人養成機関に入りたがるというのは、そこさえ出れば人の嫌がることはしなくても済むからである。
その反面、豊かな地域の若者は、のんびりとしているので、青春を謳歌すべく学問や教養に価値を置くので、土壇場になると人の嫌がる軍隊に徴兵というシステムで追いやられるのである。
結果的に軍部のトップは薩長土肥で占められるということになったわけだ。
昭和初期の時代に、優秀な若者が海軍兵学校や陸軍士官学校にあこがれるというのは、そういう選択が立身出世の一番の近道だと認識していたわけで、前途有為な若者が将来を見こして、何が一番有利かと思考を巡らす部分に、人間の我欲というものが垣間見れる。
優秀であるが故の日和見、洞察力、処世術、せこさ、世渡りのうまさ、というものがにじみ出ている。
戦後の高度経済成長のとき、工学部の学生が銀行や証券会社になだれ込んだ現象と同じで、優秀であればこそ、将来この職業が有利だというそろばん勘定が先に立ったわけである。
そういう若者が、ある小宇宙の中で純粋培養されると、公の仕事と己の立身出世の見境がなくなってしまって、結局のところ仕事そのものが私物化されてしまうのである。
前に何度も書いたことであるが、戦艦「大和」の沖縄特攻出撃も、海軍トップ、いわゆる艦長の死に場所を求めての死出での旅であったわけで、こんなバカなことが許されてたまるかと言わなければならない。
こんなことは個人の独りよがりの自己満足に過ぎないではないか。
我々は、死んだ人を悪くいうことは、人としての倫理に欠けるという認識で、誰も本音を言わないが、これこそ戦争の私物化ではないのか。
インパール作戦でも、最初から冷静な思考で考えれば無理だということをわかっていながら、意地で押し通したわけで、戦争を意地で進める参謀、あるいは司令官というのは、それこそ戦いを私物化していたのではなかろうか。
この本の結論として、あの戦争は日本の奢りがさせたものだということは私も同感であるが、その奢りがどういうところから出てきたのかという考察はまだ不十分だと思う。
この人たちの言い方としては、日露戦争の成功事例から脱却できないでいたということになっているが、それはその通りであろう。
ならばその反省として、失敗の研究をしなければならないのではなかろうか。
我々は失敗から学ぶということに対して非常に臆病だと思う。
しかし、成功事例を研究するにも、失敗事例を研究しても、出る答えは一つで、それは戦争をしないということであるが、これを国民の側が許さないということを肝に銘じておくべきだと思う。
今の我が同胞は、「戦争反対」を軽々しく唱えているが、これも視点がずれているわけで、戦争の本質を知らないまま、先の大戦のイメージから戦争反対を唱えているが、ここが大きな落とし穴である。
今の日本人の戦争反対のシュプレヒコールは戦前のイケイケドンドンの軍国主義と同じ性質のもので、ただ単なる付和雷同の掛け声にすぎない。
国民の総意というのは屋根の上の風見鶏と同じで、左から風が吹けばそちらを向き、右から風が吹けばそちらになびくわけで、そこが大衆の日和見というものである。
阿川弘之と半藤一利の対談であったが、非常に面白かった。
阿川氏は実際に大日本帝国海軍に身を置いた経験を持ち、一方の半藤氏は文芸春秋社で編集者として戦後、様々な軍人たちとインタビューを試みた人で、こういう経歴を持った二人の座談会なので非常に興味あるものであった。
ただ両名とも知識人でもあるので、正面から旧軍人の悪口を言うことには、極めて控え目な表現をしているので、その深刻さがいくらか薄らいだ印象を受ける。
私に言わしめれば、あの戦争は軍部の奢り以外の何物でもなかったと思う。
その奢りがどこから来ているのか、という掘り下げが少し甘いと思う。
無理もない話で、当時の陸軍省あるいは海軍省というのは、ある意味で完全に官僚になりきってしまっていて、文部省あるいは商工省と同じレベルの官僚組織に成り下がってしまっていたところに最大の原因があるように思う。
官僚組織というのは、がっちりとしたピラミット型の強固な組織を形つくるのは当然であるが、トップの方とボトムの方はしっかりしていたが、その中間階層がトップの意向を借りて独断専横したように思える。
この両名の話は、ともするとトップの方の人の話が主であるが、結果として日本が戦争に負けたということは、トップが中間層を効率よくコントロールできなかったということだと思う。
普通の民間企業でも同じように、トップからボトムにわたるピラミット型の組織を形作っているが、企業ならばトップが経営に失敗しても、その下の組織を構成する人たちが死ぬということはない。
ところが、軍隊ではトップが作戦という判断を誤れば、組織を構成する人たちは皆死んでしまうわけである。
昭和初期の軍人たちは、この部分で自分達が判断を誤れば組織を構成する人たち、およびその組織に人材を提供している国民、市民、いわゆる銃後の人々を死に至らしめるという発想が最初から抜け落ちていたと思う。
この両名の話も、そういう部分にまでは及んでいないわけで、海軍の誰が名将で誰が凡将であったかという話に終始しているが、それでは歴史の教訓を汲み取れないと思う。
戦闘の経緯には非常に詳しいが、それぞれの戦闘で勝利を得た場面があったとしても、全体としては敗北してしまったわけで、敗北という結果の前では、緒戦の実績が如何なるものであったとしても何ら意味をなさない。
レイテ沖海戦で謎の反転をした栗田艦隊の栗田健男を擁護する発言があるが、こういうところに我々日本人の情の深さというか、立場を察する気風があるが、そもそもこういう心掛けが戦争に嵌り込み、戦争に敗北する原因ではなかろうか。
海軍兵学校が設立されて敗戦で消滅するまで69年間であるが、この間約70年にわたって、成績によって人物評価をする慣習というか、伝統というか、実績というものは一度も見直されたことはない。
優秀であるとされた海軍兵学校では、この矛盾に誰一人疑義を差し挟まず、それを踏襲し続けたということは一体どう考えたらいのであろう。
20歳前後の若者が、その時点では如何に優秀であろうとも、井戸の中の蛙的環境の中で年功を経て、その優秀さ、頭の良さ、判断力、決断力がそのまま維持し続けていると思う不合理に、誰一人気がつかないということは一体どういうことなのであろう。
陸軍でも海軍でも、いくら作戦が失敗しても、トップ同士は同窓生である。
軍令部で作戦を指示しているものも、出先で勇敢に戦っている司令官も、同じ兵学校の同窓生で、出先の司令官が作戦に失敗したからと言って、後方の軍令部がその同じ学校で苦楽を共にした学友に対して、卆直に責任を負わせるには忍びなかったものと考える。
これが文部省や商工省ならば、いくら政策を失敗しても誰も死なないし、悪ければその時点で修正すればことは済む。
ところが戦争ではそんな訳にいかないわけで、失敗すれば空母は沈み、戦艦は沈み、犠牲者は数えきれないほど出るわけで、だからこそ海軍でも陸軍でも優秀な人材をかき集めたわけだが、結果が負け戦ならば誰でもできる。
兵学校でも、陸士でも、いかに優秀であろうとも、負ける戦をしているからには何が優秀か、ということにならなければいけないのではなかろうか。
戦を運に頼るようでは、優秀な人材をかき集めた意味がないではないか。
この両名の話はそこまで突っ込んではいないわけで、そういう観点からこの本を読んでみると、やはり今までの戦記物と同じで、高位高官の話のオンパレードであるが、その高位高官の責任を掘り下げるというところまで至っていない。
極端に言ってしまうと、いくら作戦が失敗しても、こういう高位高官の人は、その作戦の失敗の責任を問われていない。
此処がそもそもおかしいと思う。
プロの戦争屋が、そのプロであるべき仕事で失敗しても、プロとしての責任を問われていない、ということである。
こんなバカな話もないと思う。
しかし、これは日本の官僚全部に言えることである。
対米戦の劈頭の外務省の失態、最後通牒が真珠湾攻撃の後になったという件でも、時の駐米大使はその責任を負わされていない。
結果が失敗であったとしても、本人は一生懸命やったのだから、責任を追及するのは可哀想だ、という発想であろうが、こんなバカな話もないと思う。
戦争のプロが負ける戦をした時は司令官は死をもって責任を果たすべきだと思う。
日露戦争で勝利をおさめた乃木希輔は、敵の旅順要塞のステッセルを敗軍の将として礼をもって処遇したが、彼は本国に帰還したらその責を問われて死に追いやられている。
真珠湾攻撃で海軍基地を壊滅されたキンメル提督は直ちに左遷されている。
日清戦争の中国の軍艦・定遠の艦長丁汝昌も、勝者から礼をもって遇されても自ら命を絶っているわけで、戦争のプロならば、自分の作戦が失敗した時はこれぐらいの責任感は当然だろうと思うし、周囲もそういう目で見るべきだと思う。
敗戦の責任を感じて、そういう責任の取り方をした将官がいたことも事実であるが、これが軍人として普通の身の処し方だと思う。
昔、同じ学校で苦労を共にしたから、などという感傷に浸っているわけにはいかないはずだ。
この部分の甘さは官僚特有のものではないかと思うし、官僚の枠を超えて、我々同胞としてはどうしてもこういう感傷に引き込まれがちだと思う。
考えても見よ、旧軍の言い分によると、赤紙一枚で集められた兵士が天皇の赤子であるとするならば、その天皇の子供を無暗矢鱈と殺してしまったまずい作戦ならば、指揮官は当然その責任を自ら負うべきではないのか。
天皇制のもとの軍隊ならば、当然こういう論理にならなければおかしいわけで、自分の作戦の失敗で多くの軍艦と兵士を死に至らしめて、なおその地位にいるということは許されるべきことではないはずである。
このごく当たり前の論理がわからない海軍兵学校をはじめとする軍人養成機関は一体どうなっていたのであろう。
ただここでも国民の気持ちということも考えなければならない。
日露戦争に勝ったとき、政府の裏側ではもう既に交戦能力が底を突き、のっぴきならない状態であったので、そこで講和に乗ったわけだが、それを不服として国民が騒いだ。
情報が開示されてなくて、日本の交戦能力が底を突いていたということを日本国民は知らなかったとはいえ、そこで政府側の国民への説得が足りなかったことは言うまでもないが、そういうことはやはり国益の面から考えると公にはし得なかった。
交戦中に、「戦費が底をついたから、もうこの辺で戦争をやめます」などということは政府としては公にはできないことは言うまでもない。
太平洋戦争中でも大本営の発表が嘘であった、ということがこの本の中でも言及されているが、やはり当事者としては、真実は言えなかったろうと思う。
歴史にifということはありえないが、もし仮に大本営が正直な報告をしていたら、我々国民の側としてはどういう反応をしたであろう。
反戦運動が高まるなどということはおそらくありえず、普通の人々はより一層激昂したのではなかろうか。
日露戦争で賠償も取れないことに激高して焼き打ち事件まで引き起こした大衆は、基本的に無知だと思う。
この無知の大衆と、社会のトップを形成している人々の間に、その中間層の人々がいたわけで、これがいわゆる諸悪の根源だと思う。
軍隊組織ならば下士官から、民間ならば学校の先生や、町内会の役員や、会社ならば課長、部長クラス、いづれにしても組織の中間層が上役の気に入るようにゴマをするために、下のものをコントロールする態度が社会そのものを軍国主義に導いたものと私は推察する。
この時期に学園生活を送った人の話を聞くと、いずれも配属将校の威張り散らす態度に腹を立てているが、配属将校というのは兵隊の中、いわゆる軍隊の組織の中では落ちこぼれた連中であったわけで、本人が優秀であれば配属将校等になるはずもないことは一目瞭然である。
軍隊組織の中の落ちこぼれなるがゆえに、娑婆、いわゆる一般社会では威張り散らして自分の存在感を誇示していたのである。
人間の織り成す社会である以上、上も下も綺麗事などで通じるはずもなく、極めて薄汚れた社会であるのは当然であるが、この座談会でも対談している両名は普通の社会人からすれば知識階層の部類に入るわけで、そういう人なればこそ、社会の上の方の醜さを暴きたてているが、汚いのは下層の庶民クラスでも同じである。
こういう人たちの議論は、上の方の人たちがああ言ったこう言ったという話になりがちであるが、その言葉も突き詰めると、下層の人々の心情を代弁していることも大いにあるわけで、大衆の意を汲んだトップの言葉そのものが間違っていたことも多分にある。
知識人が下層の人々の間違いを弁護する言葉に「情報がない」とか、「嘘を言った」とか、「真実を隠した」という言い分になる。
私に言わしめれば、社会のトップも人であり、下層の大衆も人である以上、双方で間違いを犯すこともあるわけで、その間違いが相互に干渉しあって、相乗効果をもたらすこともあると思う。
戦前・戦中の我が国の軍国主義というのは、まさしくそれではなかったかと考える。
関東軍がシナで騒擾を起こす、政府は不拡大方針でそれを抑えようとするが、当時のメデイアは軍部の動きをけん制するわけでもなく、国民を煽って、軍部の肩をもつ有様で、軍部は国民の声を代弁するような形で行動しているではないか。
軍部のシナでの行動を、「勝った勝った」と吹聴しまくったのは言わずもがな我が同胞のメデイアであったわけで、それを心から歓迎していたのは、ほかならぬ無知な大衆であったわけだ。
結果的に異論を力づくで抑え込んでしまったようなもので、日本全国が軍国主義一色で塗られてしまったのは国民の側のエネルギーであったような気がする。
しかし、戦争の結果が敗北となれば、軍部が悪い、政府が悪いということになってしまって、自分達があの時代軍国主義者であったことを綺麗さっぱり忘れてしまっている。
そして今あの戦争を語るものは、当時の軍人の誰それがこう言ったああ言ったという話に終始してしまっているが、本当ならば日本の大衆がなぜあの戦争を支持したかを掘り下げて考えなければならないと思う。
海軍であの戦争をリードした人たちは、昔の薩長閥だという話があったが、あの明治から大正の時代に若人が軍人養成機関に群がったのは、彼らの生まれた地域が貧乏だったからである。
薩摩や長州から有名な政治家や軍人が沢山輩出したが、こういう地域は押し並べて貧乏であったわけで、貧乏からの脱出の手段として政治家の道や軍人の道があったわけである。
裕福な地域からはそういう選択はすくない。
昔も今も、軍隊のイメージは人の嫌がる軍隊というのは変わらないわけで、貧しい地域から軍人養成機関に入りたがるというのは、そこさえ出れば人の嫌がることはしなくても済むからである。
その反面、豊かな地域の若者は、のんびりとしているので、青春を謳歌すべく学問や教養に価値を置くので、土壇場になると人の嫌がる軍隊に徴兵というシステムで追いやられるのである。
結果的に軍部のトップは薩長土肥で占められるということになったわけだ。
昭和初期の時代に、優秀な若者が海軍兵学校や陸軍士官学校にあこがれるというのは、そういう選択が立身出世の一番の近道だと認識していたわけで、前途有為な若者が将来を見こして、何が一番有利かと思考を巡らす部分に、人間の我欲というものが垣間見れる。
優秀であるが故の日和見、洞察力、処世術、せこさ、世渡りのうまさ、というものがにじみ出ている。
戦後の高度経済成長のとき、工学部の学生が銀行や証券会社になだれ込んだ現象と同じで、優秀であればこそ、将来この職業が有利だというそろばん勘定が先に立ったわけである。
そういう若者が、ある小宇宙の中で純粋培養されると、公の仕事と己の立身出世の見境がなくなってしまって、結局のところ仕事そのものが私物化されてしまうのである。
前に何度も書いたことであるが、戦艦「大和」の沖縄特攻出撃も、海軍トップ、いわゆる艦長の死に場所を求めての死出での旅であったわけで、こんなバカなことが許されてたまるかと言わなければならない。
こんなことは個人の独りよがりの自己満足に過ぎないではないか。
我々は、死んだ人を悪くいうことは、人としての倫理に欠けるという認識で、誰も本音を言わないが、これこそ戦争の私物化ではないのか。
インパール作戦でも、最初から冷静な思考で考えれば無理だということをわかっていながら、意地で押し通したわけで、戦争を意地で進める参謀、あるいは司令官というのは、それこそ戦いを私物化していたのではなかろうか。
この本の結論として、あの戦争は日本の奢りがさせたものだということは私も同感であるが、その奢りがどういうところから出てきたのかという考察はまだ不十分だと思う。
この人たちの言い方としては、日露戦争の成功事例から脱却できないでいたということになっているが、それはその通りであろう。
ならばその反省として、失敗の研究をしなければならないのではなかろうか。
我々は失敗から学ぶということに対して非常に臆病だと思う。
しかし、成功事例を研究するにも、失敗事例を研究しても、出る答えは一つで、それは戦争をしないということであるが、これを国民の側が許さないということを肝に銘じておくべきだと思う。
今の我が同胞は、「戦争反対」を軽々しく唱えているが、これも視点がずれているわけで、戦争の本質を知らないまま、先の大戦のイメージから戦争反対を唱えているが、ここが大きな落とし穴である。
今の日本人の戦争反対のシュプレヒコールは戦前のイケイケドンドンの軍国主義と同じ性質のもので、ただ単なる付和雷同の掛け声にすぎない。
国民の総意というのは屋根の上の風見鶏と同じで、左から風が吹けばそちらを向き、右から風が吹けばそちらになびくわけで、そこが大衆の日和見というものである。