例によって図書館から借りてきた本で、「日本人と中国人」という本を読んだ。
著者は中国からの留学生で、文化大革命の頃小学生であったという若い世代の中国人である。
彼が日本に留学して、日本での学生生活をとおして、その日常生活の中で体験したカルチャー・ギャップを面白おかしく綴った内容であった。
イデオロギー的なものが表面に出ていないので読みやすかったが、それぞれの民族の風習の違いというのは、話題としては結構面白いものである。
人間のものの考え方というのは、当然のこと、その育った環境に大きく左右されることは言うまでもない。
この著者は20歳ぐらいまで中国で生きてきたわけで、その後20年以上日本で生活しているので、おそらくもう既に日本での生活の方が長いものと思う。
しかし、意識の中では中国人が抜け切らないので、日々の日常生活での違和感が付きまとっているのであろう。
彼がその違和感を日本語で書きとめるということは、逆に日本人が彼らの目にどういう風に映っているのかいう鏡でもある。
我々は実に人の目を気にする民族である。
だから日本人による日本人論から、外国人による日本人論まで、日本に関する考察にはただならぬ興味を示す。
私もその中の一人であるが、「人がどう思っているのだろう」ということが気になって仕方がない民族のようだ。
その潜在意識の中では、ルース・ベネジェクト女史の「恥の文化」が基底にあることは言うまでもない。
自分が恥ずかしいことをしてるのではないかどうかが気になって仕方がないということである。
ところが同胞同士だと、その「恥ずかしい」という意識は、お互いさまという認識で何処かに置き忘れてしまうので、何ら意識せずにやり過ごしてしまう。
ところが、ここに外国人が混じると、とたんにその潜在意識が頭をもたげて、己の振る舞いが気になって仕方がないということになる。
そして、それは高学歴な人ほど外国人に対する自意識が過剰に反応するわけで、そういう人たちが、日本人論というものを好むということになっているのであろう。
我々日本人から中国というものを眺めると、実に不思議な気がしてならない。
この本の著者も、中国を後進国として認識しているが、これは中国の政府高官も自分達の国を後進国、発展途上国と認識しているようで、これは一体どういうことなのであろう。
私から見れば、明治維新以前の日本、あるいは明治維新の時の日本とおなじ意識の上にあるように思えてならない。
そういう意味で、彼らは先進国に追いつき追い越せという気概に満ちているとも言えるが、だとすれば、世界の現状認識が100年遅れていると言わなければならない。
世界をあまりにも知らなすぎると思う。
中国は今や後進国などではないが、国内にばらつきがあることは否めない。
このばらつきの是正こそ中国の最大の政治課題であろうが、これが容易でないことは事実が示している。
こういう認識のずれというものが世界の不調和音のもとである、ということを改めて考えてみるべきだと思う。
今、世界では、国際連盟、国連というものを調停機関と認識して、国連にあらゆる紛争の調停を頼っているが、国連も万能ではないわけで、調停しきれない場面も多々ある。
しかし、世界平和の理念としては一応国際連盟というものを頂いて、その名の元に、平和活動が推進されている。
この平和的な機構であるべき国際連盟に中国が当初から地位を占めていること自体、現状にあっていないわけで、それが機能不全の根本問題であるが、少なくとも20世紀というのは中国問題に世界中が振り回された世紀だと思う。
20世紀という世紀は、ヨーロッパはヨーロッパ固有の問題で激動したと思われているが、そのヨーロッパの先進国はいずれも中国との関わりをもっていたわけで、中国とのかかわりのない国々というのは、ヨーロッパでも後進国の部類である。
20世紀の先進国といえば、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカと、すべての国が中国との関わりをもっていたではないか。
まさに中国は20世紀のフロンティアであったわけで、そこに後からのこのこと西洋列強に互してはいり込もうとしたのが日本であったわけで、そのことによって世界的列強支配の秩序あるいは序列の大編制替えが行われたことになる。
それが第2次世界大戦であり、中でも日中戦争から対米戦がその天王山であったわけである。
中国は、本来、20世紀の世界秩序の要にならなければならなかったはずである。
それこそ中華というものではないか。
中国の不幸は国土の広さである。
同じように広大な国土を擁した国は他にもあるが、そういう国々は国土が広いという条件を生かしてそれなりに発展している。
しかし、中国は21世紀に至っても、彼ら自身が後進国と自ら認めているのは一体どういうことなのであろう。
思うに、中国人の優秀な人間は皆祖国を捨てて外国で暮らしている。
それは何故かと問えば、祖国で暮らすよりも外国の方が暮らしやすい、という単純な理由でしかないはずで、これでは祖国が栄えるわけがないではないか。
祖国にいささかも愛着を持っていないわけで、中国の知識人、新たに知識人の仲間入りをした人、優秀な人材のことごとくが、自分さえ良ければ故郷の人などどうなっても構わない、ただただ自分の家族や親せき縁者だけが苦労を舐めなければ、他人のことなど知ったことではない、という個人主義の極みでしかないので、祖国を愛する人がいないということであろう。
中国人で外国に合法的に出れる人というのは、ある限られた人だろうと思う。
例えば、この本の著者のように、留学生として堂々と国を出ることが可能な人は非常に恵まれた立場だと思う。
そういう人が一旦外国の地を踏むと、もう祖国には帰らなくなってしまうわけで、明らかに頭脳流出そのものである。
残るのは粕ばかりということになってしまうではないか。
13億の人間から比べれば、外国に出た人というのは物の数ではないかもしれないが、基本的に外国で優れた知識や技能を身につけた人が、祖国の建設に尽力する気がない、というところが彼らの最大の欠点だと思う。
中国だとて、学生を留学生として外国に派遣するということは、留学を終えた暁には、その知識経験を祖国の建設に役立たせることが狙いであることは当然だと思う。
優秀なる人材を、わざわざ外国に追いやるための留学制度ではないと思うが、それを受ける側の人間が、ことごとくその制度を逆手にとって、出たら最後国に帰らないでは制度そのものを廃止するしかないようになってしまう。
ということは、基本的に彼ら中国人には祖国という概念が最初からないのではなかろうか。
自分の生まれ育った故郷はあっても、祖国という概念がないので、祖国のためにとか、同胞のためにとか、国家のために、という発想そのものがないのではなかろうか。
その点アメリカは人種のるつぼといわれながらも、アメリカ人は祖国という概念をきちんと持ち、国家のために尽くすことは気高い行為だ、という認識をきちんと持っている。
この本の中でも書かれているが、著者が幼少の時、両親が田舎に追放されたので、町に住む権利、いわゆる都会の戸籍が得られず、学校に入学を許されなかったと述べられている。
そして入学するためには、中国の伝統である袖の下というよりコネクションを効かせて学校にいけるようになったと述べられているが、この状況そのものがまさしく後進国の実態そのものではないか。
共産主義革命で、彼らは人民の間の差別を解消したのではなかったのか。
人民の中で、食糧を生産する部門と、都市でサービス業を生業としている人を別々の戸籍にして、その間の移動を禁止、監視するなどいうこと自体共産主義と矛盾しているではないか。
この発想そのものが、中国の悠久の歴史をそのまま継承しているではないか。
共産主義の理念はいささかも反映されていないではないか。
アジアの民は、基本的に食糧を生産する部門を軽視、ないしは蔑視する傾向がある。
それは言うまでもなく、食糧を生産する部門、いわゆる農業というのは過酷な労働を伴うので、そういう労働をする人々を蔑視して、それを管理する部門を有難がる風潮が普遍的であるが、これは有史以来の人類の変わらぬ普遍的な思考である。
共産主義というのは、理念の上ではそういう肉体労働をする人々を崇めたてまつっているが、内心では歴史の普遍性から抜けきれず、彼らの上に君臨しているのである。
何といっても数が多いので、その数を味方に引き入れなければならないわけで、農民と労働者を口先では擁護しておきながら、実質は彼らを支配し、抑圧しているわけである。
この本の著者の両親も、いわゆる党の幹部として、文革の時代は抑圧されていたが、その後はやはり公務員としてこういう農民や労働者の上に君臨していたわけである。
そして、彼自身も家族主義から抜けきれず、家族を大事にすることを憚らないわけで、それこそ有史以来の中国の伝統そのものを踏襲しているということである。
彼らの潜在意識の中には無意識のうちに自己愛が埋没しているので、自分がこの世で一番可愛いというのは無理もない話で、この心情は彼らだけのものではない。
この世の人間は皆同じだと思うが、それを彼らは儒教思想と称している。
民主化された社会は、この自己愛と他愛のバランスの問題だと思う。
「自己愛よりも他愛を優先させよ」と、人に求めることは所詮無理な設問であって、そういうことがこの世の人間に求められているわけではない。
「自己愛と同程度に他者も愛せよ」ということが民主主義だと思う。
家族が大事なのは、この世の人間皆同じであるが、それと同じ比重で、他者を愛するということは、心がけ次第で不可能ではないはずである。
そういう視点で周りの人間を眺めれば、自然と「自分さえ良ければ」という思考は後退するはずで、その度合いの差が今日の民主化の度合いの差となっているものと考える。
この本の著者が日本での生活の中で、セックスに関する場面で非常に奥ゆかしい心構えを持っている点は大いに共感を覚える。
公衆の面前で、媚態を晒すことに極めて敏感で、そういうことを受け入れ難い、と感じるのは極めて東洋的な思考回路だと思う。
我が同胞の、あまりにもふしだらな性描写というのは、まさに同胞として赤面の至りであるが、我々の同胞は、その意味でも中国をはじめとするアジア諸国よりも一歩先に奈落の底に向かっているのではなかろうか。
中国でも、あの悠久の歴史を考えれば、我々以上にセックスの奥儀を会得しているに違いない筈であるが、それが公の場に出てこないというのは、明らかに儒教の影響であろう。
ところが、それを公の場に晒して、金儲けに現をぬかしている我が同胞は、実に嘆かわしい存在である。
その意味で、我々は大いなる先進国ではあるが、それが先進国の象徴であるとするならば、日本という国は、ぼつぼつ消滅の方向に向かっているということであろう。
日本という国が消滅するには良い時期かもしれない。
というのは、我々は自分達の尺度によれば、今年で皇紀2600年+69年なわけで、合わせて約2670年も文化を享受してきたのであるから、もうそろそろ消滅しても過不足はないはずだ。
日本がいくらこの地上から消滅しようとも、この地に住む人間がゼロになるということはあり得ないであろう。
世の中は、まさにグローバル化して、それぞれの主権国家の垣根は限りなく低くなっているので、お互いの民族が入り混じってこの地でも生きていくに違いない。
そういう時に割りを食うのが大和民族であろう。
今の日本の知識人という人たちを見ていると、彼らは同胞に気使うよりも異民族に気を使っているわけで、自分達の仲間を異民族に売り渡して、それで世界平和だと喜んでいる。
近い将来、近隣諸国に合併吸収されかねない。
合併吸収というのは昔の日本が犯した朝鮮併合というイメージになるが、そうではなくメルトダウンというように、溶鉱炉の中で鉄が解けるように実態が形を残さず溶けてしまうということである。
異民族に気を使うということの最大の理由は、先の大戦の贖罪意識がそうさせているわけで、それはブーメランのように自分達の方に新たな災禍を投げかけていることに気が付いていない。
要するに、そういう発言をする我が同胞の学者諸氏の深層心理は「良い格好しい」の発想であって、自分の同胞に向かって、自分はこんなに物わかりの良い人間だいうことをアピールして、良い格好をしているわけで、ある種のパフォーマンスに違いないが、それに相手が飛びつかないわけがないではないか。
相手からすれば、「それ見よ、自分の方にも非を認めている人間がいるではないか。ならば金寄こせ」という論理になるのも当然の成り行きだ。
ここで中国が後進国という彼らの論理が、有効に機能するわけで、彼らの論理によれば、「俺達は低開発国だからお前たち先進国は我々に金を出せ」という乞食根性が極めて露骨に顔を出すのである。
この本の著者は、押しも押されもせぬ中国人として「面子」ということを話題にしているが、中国に面子というものがあるとするならば、今更日本に贖罪を振りかざして金をせびるなどという行為はありえない話でなければならない。
中国政府の高位高官がテレビの前で臆面もなく「中国は遅れた国だ」と言っているのは、世界制覇する段階にはまだ至っていないので、その意味でまだスケジュールが遅れているという意味なのであろうか。
中国が面子を重んずる国であるとするならば、世界に向けて自分の国が「遅れている」などということは矛盾ではなかろうか。
中国人が世界に散らばって住んでいるということは一体どう考えたらいいのであろう。
世界に住む中国人が、自らの生活の基盤である地域でどういうふうに見られているかは定かには知らないが、私の推測ではその地の人々と同化しているようには思えない。
あるのはチャイナタウンで、彼らだけでゲットーを作って、その中で暮らしているのではないかと思うが、その割には排斥運動というのはあまりなさそうだ。
彼らがその国の中で中国人のゲットーを作って、その中の小中華を作っているとするならば、相手の国からすれば「庇を貸して母屋を取られる」ようなもので我慢ならないと思うが、そういう声が出てこないということは、彼らの影響力が極めてか細いということなのであろう。
著者は中国からの留学生で、文化大革命の頃小学生であったという若い世代の中国人である。
彼が日本に留学して、日本での学生生活をとおして、その日常生活の中で体験したカルチャー・ギャップを面白おかしく綴った内容であった。
イデオロギー的なものが表面に出ていないので読みやすかったが、それぞれの民族の風習の違いというのは、話題としては結構面白いものである。
人間のものの考え方というのは、当然のこと、その育った環境に大きく左右されることは言うまでもない。
この著者は20歳ぐらいまで中国で生きてきたわけで、その後20年以上日本で生活しているので、おそらくもう既に日本での生活の方が長いものと思う。
しかし、意識の中では中国人が抜け切らないので、日々の日常生活での違和感が付きまとっているのであろう。
彼がその違和感を日本語で書きとめるということは、逆に日本人が彼らの目にどういう風に映っているのかいう鏡でもある。
我々は実に人の目を気にする民族である。
だから日本人による日本人論から、外国人による日本人論まで、日本に関する考察にはただならぬ興味を示す。
私もその中の一人であるが、「人がどう思っているのだろう」ということが気になって仕方がない民族のようだ。
その潜在意識の中では、ルース・ベネジェクト女史の「恥の文化」が基底にあることは言うまでもない。
自分が恥ずかしいことをしてるのではないかどうかが気になって仕方がないということである。
ところが同胞同士だと、その「恥ずかしい」という意識は、お互いさまという認識で何処かに置き忘れてしまうので、何ら意識せずにやり過ごしてしまう。
ところが、ここに外国人が混じると、とたんにその潜在意識が頭をもたげて、己の振る舞いが気になって仕方がないということになる。
そして、それは高学歴な人ほど外国人に対する自意識が過剰に反応するわけで、そういう人たちが、日本人論というものを好むということになっているのであろう。
我々日本人から中国というものを眺めると、実に不思議な気がしてならない。
この本の著者も、中国を後進国として認識しているが、これは中国の政府高官も自分達の国を後進国、発展途上国と認識しているようで、これは一体どういうことなのであろう。
私から見れば、明治維新以前の日本、あるいは明治維新の時の日本とおなじ意識の上にあるように思えてならない。
そういう意味で、彼らは先進国に追いつき追い越せという気概に満ちているとも言えるが、だとすれば、世界の現状認識が100年遅れていると言わなければならない。
世界をあまりにも知らなすぎると思う。
中国は今や後進国などではないが、国内にばらつきがあることは否めない。
このばらつきの是正こそ中国の最大の政治課題であろうが、これが容易でないことは事実が示している。
こういう認識のずれというものが世界の不調和音のもとである、ということを改めて考えてみるべきだと思う。
今、世界では、国際連盟、国連というものを調停機関と認識して、国連にあらゆる紛争の調停を頼っているが、国連も万能ではないわけで、調停しきれない場面も多々ある。
しかし、世界平和の理念としては一応国際連盟というものを頂いて、その名の元に、平和活動が推進されている。
この平和的な機構であるべき国際連盟に中国が当初から地位を占めていること自体、現状にあっていないわけで、それが機能不全の根本問題であるが、少なくとも20世紀というのは中国問題に世界中が振り回された世紀だと思う。
20世紀という世紀は、ヨーロッパはヨーロッパ固有の問題で激動したと思われているが、そのヨーロッパの先進国はいずれも中国との関わりをもっていたわけで、中国とのかかわりのない国々というのは、ヨーロッパでも後進国の部類である。
20世紀の先進国といえば、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカと、すべての国が中国との関わりをもっていたではないか。
まさに中国は20世紀のフロンティアであったわけで、そこに後からのこのこと西洋列強に互してはいり込もうとしたのが日本であったわけで、そのことによって世界的列強支配の秩序あるいは序列の大編制替えが行われたことになる。
それが第2次世界大戦であり、中でも日中戦争から対米戦がその天王山であったわけである。
中国は、本来、20世紀の世界秩序の要にならなければならなかったはずである。
それこそ中華というものではないか。
中国の不幸は国土の広さである。
同じように広大な国土を擁した国は他にもあるが、そういう国々は国土が広いという条件を生かしてそれなりに発展している。
しかし、中国は21世紀に至っても、彼ら自身が後進国と自ら認めているのは一体どういうことなのであろう。
思うに、中国人の優秀な人間は皆祖国を捨てて外国で暮らしている。
それは何故かと問えば、祖国で暮らすよりも外国の方が暮らしやすい、という単純な理由でしかないはずで、これでは祖国が栄えるわけがないではないか。
祖国にいささかも愛着を持っていないわけで、中国の知識人、新たに知識人の仲間入りをした人、優秀な人材のことごとくが、自分さえ良ければ故郷の人などどうなっても構わない、ただただ自分の家族や親せき縁者だけが苦労を舐めなければ、他人のことなど知ったことではない、という個人主義の極みでしかないので、祖国を愛する人がいないということであろう。
中国人で外国に合法的に出れる人というのは、ある限られた人だろうと思う。
例えば、この本の著者のように、留学生として堂々と国を出ることが可能な人は非常に恵まれた立場だと思う。
そういう人が一旦外国の地を踏むと、もう祖国には帰らなくなってしまうわけで、明らかに頭脳流出そのものである。
残るのは粕ばかりということになってしまうではないか。
13億の人間から比べれば、外国に出た人というのは物の数ではないかもしれないが、基本的に外国で優れた知識や技能を身につけた人が、祖国の建設に尽力する気がない、というところが彼らの最大の欠点だと思う。
中国だとて、学生を留学生として外国に派遣するということは、留学を終えた暁には、その知識経験を祖国の建設に役立たせることが狙いであることは当然だと思う。
優秀なる人材を、わざわざ外国に追いやるための留学制度ではないと思うが、それを受ける側の人間が、ことごとくその制度を逆手にとって、出たら最後国に帰らないでは制度そのものを廃止するしかないようになってしまう。
ということは、基本的に彼ら中国人には祖国という概念が最初からないのではなかろうか。
自分の生まれ育った故郷はあっても、祖国という概念がないので、祖国のためにとか、同胞のためにとか、国家のために、という発想そのものがないのではなかろうか。
その点アメリカは人種のるつぼといわれながらも、アメリカ人は祖国という概念をきちんと持ち、国家のために尽くすことは気高い行為だ、という認識をきちんと持っている。
この本の中でも書かれているが、著者が幼少の時、両親が田舎に追放されたので、町に住む権利、いわゆる都会の戸籍が得られず、学校に入学を許されなかったと述べられている。
そして入学するためには、中国の伝統である袖の下というよりコネクションを効かせて学校にいけるようになったと述べられているが、この状況そのものがまさしく後進国の実態そのものではないか。
共産主義革命で、彼らは人民の間の差別を解消したのではなかったのか。
人民の中で、食糧を生産する部門と、都市でサービス業を生業としている人を別々の戸籍にして、その間の移動を禁止、監視するなどいうこと自体共産主義と矛盾しているではないか。
この発想そのものが、中国の悠久の歴史をそのまま継承しているではないか。
共産主義の理念はいささかも反映されていないではないか。
アジアの民は、基本的に食糧を生産する部門を軽視、ないしは蔑視する傾向がある。
それは言うまでもなく、食糧を生産する部門、いわゆる農業というのは過酷な労働を伴うので、そういう労働をする人々を蔑視して、それを管理する部門を有難がる風潮が普遍的であるが、これは有史以来の人類の変わらぬ普遍的な思考である。
共産主義というのは、理念の上ではそういう肉体労働をする人々を崇めたてまつっているが、内心では歴史の普遍性から抜けきれず、彼らの上に君臨しているのである。
何といっても数が多いので、その数を味方に引き入れなければならないわけで、農民と労働者を口先では擁護しておきながら、実質は彼らを支配し、抑圧しているわけである。
この本の著者の両親も、いわゆる党の幹部として、文革の時代は抑圧されていたが、その後はやはり公務員としてこういう農民や労働者の上に君臨していたわけである。
そして、彼自身も家族主義から抜けきれず、家族を大事にすることを憚らないわけで、それこそ有史以来の中国の伝統そのものを踏襲しているということである。
彼らの潜在意識の中には無意識のうちに自己愛が埋没しているので、自分がこの世で一番可愛いというのは無理もない話で、この心情は彼らだけのものではない。
この世の人間は皆同じだと思うが、それを彼らは儒教思想と称している。
民主化された社会は、この自己愛と他愛のバランスの問題だと思う。
「自己愛よりも他愛を優先させよ」と、人に求めることは所詮無理な設問であって、そういうことがこの世の人間に求められているわけではない。
「自己愛と同程度に他者も愛せよ」ということが民主主義だと思う。
家族が大事なのは、この世の人間皆同じであるが、それと同じ比重で、他者を愛するということは、心がけ次第で不可能ではないはずである。
そういう視点で周りの人間を眺めれば、自然と「自分さえ良ければ」という思考は後退するはずで、その度合いの差が今日の民主化の度合いの差となっているものと考える。
この本の著者が日本での生活の中で、セックスに関する場面で非常に奥ゆかしい心構えを持っている点は大いに共感を覚える。
公衆の面前で、媚態を晒すことに極めて敏感で、そういうことを受け入れ難い、と感じるのは極めて東洋的な思考回路だと思う。
我が同胞の、あまりにもふしだらな性描写というのは、まさに同胞として赤面の至りであるが、我々の同胞は、その意味でも中国をはじめとするアジア諸国よりも一歩先に奈落の底に向かっているのではなかろうか。
中国でも、あの悠久の歴史を考えれば、我々以上にセックスの奥儀を会得しているに違いない筈であるが、それが公の場に出てこないというのは、明らかに儒教の影響であろう。
ところが、それを公の場に晒して、金儲けに現をぬかしている我が同胞は、実に嘆かわしい存在である。
その意味で、我々は大いなる先進国ではあるが、それが先進国の象徴であるとするならば、日本という国は、ぼつぼつ消滅の方向に向かっているということであろう。
日本という国が消滅するには良い時期かもしれない。
というのは、我々は自分達の尺度によれば、今年で皇紀2600年+69年なわけで、合わせて約2670年も文化を享受してきたのであるから、もうそろそろ消滅しても過不足はないはずだ。
日本がいくらこの地上から消滅しようとも、この地に住む人間がゼロになるということはあり得ないであろう。
世の中は、まさにグローバル化して、それぞれの主権国家の垣根は限りなく低くなっているので、お互いの民族が入り混じってこの地でも生きていくに違いない。
そういう時に割りを食うのが大和民族であろう。
今の日本の知識人という人たちを見ていると、彼らは同胞に気使うよりも異民族に気を使っているわけで、自分達の仲間を異民族に売り渡して、それで世界平和だと喜んでいる。
近い将来、近隣諸国に合併吸収されかねない。
合併吸収というのは昔の日本が犯した朝鮮併合というイメージになるが、そうではなくメルトダウンというように、溶鉱炉の中で鉄が解けるように実態が形を残さず溶けてしまうということである。
異民族に気を使うということの最大の理由は、先の大戦の贖罪意識がそうさせているわけで、それはブーメランのように自分達の方に新たな災禍を投げかけていることに気が付いていない。
要するに、そういう発言をする我が同胞の学者諸氏の深層心理は「良い格好しい」の発想であって、自分の同胞に向かって、自分はこんなに物わかりの良い人間だいうことをアピールして、良い格好をしているわけで、ある種のパフォーマンスに違いないが、それに相手が飛びつかないわけがないではないか。
相手からすれば、「それ見よ、自分の方にも非を認めている人間がいるではないか。ならば金寄こせ」という論理になるのも当然の成り行きだ。
ここで中国が後進国という彼らの論理が、有効に機能するわけで、彼らの論理によれば、「俺達は低開発国だからお前たち先進国は我々に金を出せ」という乞食根性が極めて露骨に顔を出すのである。
この本の著者は、押しも押されもせぬ中国人として「面子」ということを話題にしているが、中国に面子というものがあるとするならば、今更日本に贖罪を振りかざして金をせびるなどという行為はありえない話でなければならない。
中国政府の高位高官がテレビの前で臆面もなく「中国は遅れた国だ」と言っているのは、世界制覇する段階にはまだ至っていないので、その意味でまだスケジュールが遅れているという意味なのであろうか。
中国が面子を重んずる国であるとするならば、世界に向けて自分の国が「遅れている」などということは矛盾ではなかろうか。
中国人が世界に散らばって住んでいるということは一体どう考えたらいいのであろう。
世界に住む中国人が、自らの生活の基盤である地域でどういうふうに見られているかは定かには知らないが、私の推測ではその地の人々と同化しているようには思えない。
あるのはチャイナタウンで、彼らだけでゲットーを作って、その中で暮らしているのではないかと思うが、その割には排斥運動というのはあまりなさそうだ。
彼らがその国の中で中国人のゲットーを作って、その中の小中華を作っているとするならば、相手の国からすれば「庇を貸して母屋を取られる」ようなもので我慢ならないと思うが、そういう声が出てこないということは、彼らの影響力が極めてか細いということなのであろう。