例によって図書館から借りてきた本で、「車掌の本音」という本を読んだ。
サブタイトルに「JRに本日も乗車中」となっている。
本の表題を見たとき、JRの車掌として日常業務の中で見聞きした面白おかしい、あるいは心温まる、あるいは腹にすえかねた話の集大成ではないかと、思いながら読み進めていくと、途中で組合闘争の話が出てきた。
以前、「マングローブ」という本を読んだが、この時も木のマングローブの話かと思って手にとって見たが、表紙に電車のイラストがあってどうも妙だなと思いつつ読み終えた記憶がある。
この本はそれほど組合のことを掘り下げたものではなかったが、この部分は取り下げて別の本にした方が、この本の面白さという点では勝っていると思う。
随筆風の面白おかしい軽妙な文章の中に、いきなり重いテーマのものが紛れ込んでくると、その違和感はどうしても拭い去れない。
私の系類には鉄道業務に関わっている人が一人もいないので、この業界のことは全く知らない。
旧国鉄時代にも膨大な人員を抱えた企業ということは理解しているが、企業というものが人の輪で成り立っていることは、この地球上のあらゆる組織に共通したものだと思う。
旧国鉄がJRになったのは1987年のことで、その理由の最大のものが赤字の解消であったと記憶している。
採算性の向上、経営の合理化という理由で、日本全国を網羅していた旧国鉄というものが民営化、分割された。
しかし、この理由は表向きの理由であって、国鉄解体の真の理由は、国鉄の労働組合から共産主義者の排除だったと、私個人としては考えている。
戦後の日本の社会情勢の中では、個人の思想信条を理由に解雇することができない状況であったので、採算性とか合理化という理由付けで、それが行われたと私自身は思っている。
こういう状況下で、普通の常識、戦後の民主教育の中で育った戦後の日本人には、こういう理由で組合員を排除するということは整合性が全くないわけで、許されることではない、という思考が普遍的である。
旧国鉄が採算性が悪く、合理化をしなければならない状況にあったことは紛れもない事実であったが、その根元のところには、共産主義者たちによる組織破壊の思考があったことも確かな事実だと思う。
組織を内側から破壊するということも、組合員の立場から表向きは言えないわけで、生活防衛などと言葉を誤魔化している。
ところが、そういう綺麗事の集積が国鉄解体、民営化という形にならざるを得なかったものと私は考える。
基本的に、日本国有鉄道の理念というのは、如何なる不採算性路線も、如何にもうけの少ない路線も、いわゆる如何なる山間僻地においても人と物の移動を保障するというところにあったのではないかと思う。
儲ける、儲からないという論理は二次的なもので、その基本的な理念は、国民の隅々にまで人と物の移動手段を確保、維持するという点にあったものを考える。
採算性が悪いから 切り捨てるなどということはあってはならない理念だったと思う。
日本全国津々浦々に至るまで老若男女が利用できる存在でなければならないと思う。
この理念を踏みにじったのが他ならぬ国鉄内部の労働組合であった。
企業、あるいは会社と、そこで働く人々、言い方を変えれば管理する側とされる側というのは、利害が真正面から衝突するのは当然のことで、健全な社会ならば、その双方がお互いに歩み寄って妥協点を探り、その均衡の上に社会に対してなにがしかの貢献するというのが理想的な企業あるいは会社の存在意義だと思う。
企業、あるいは組織の中で、管理する側とされる側が最初から敵であるわけがないではないか。
旧国鉄、今のJRの中に、労働組合がいくつあってどういう活動をしているか定かには知らないが、使われるものと使うものでは立場が違うわけで、その立場を無視して皆が一律に平等、管理するものとされるものの立場の相違を無にするということは成り立たない。
旧国鉄の労働組合の中に紛れ込んだ共産主義者たちは、既存の組織を破壊することが、彼らの存在意義であったわけで、こういう者を自らの内なる力で排除できなかった旧国鉄のあらゆる労働組合というのは、自分で天に唾を吐いたようなものである。
そもそも相手を敵と認識するところから間違っているわけで、彼らにしてみれば、それは戦争をしているのと同じ意識でいるということに他ならない。
まさしくゲリラ戦で、テロ行為そのものではなかったかと問いたい。
旧国鉄を民営化しなければならない状況に追い込んだのは、こういう過激な労働組合であったが、経営側にもそれに匹敵する不手際のあったことも当然である。
それはいわゆる政治路線というもので、先の見通しも考えずに新路線を敷き、経営を度外視した将来計画を追認した官僚主義の蔓延を招いたという意味で、経営側の見通しの甘さを指摘されてもいた仕方ない。
ここには見事な官僚主義がのさばっていたことも確かであろう。
労使双方が親方日の丸体制に安住していたということでもある。
この著者は、この民営化移行の時に切り捨てられた人々に対する復職の裁判闘争に義憤を感じているところがあるが、切り捨てられた人たちが本当に善良な労働者であったかどうかは述べられていない。
旧国鉄時代に好き放題、組織破壊、秩序破壊をしておきながら、新しい体制への移行時の際に切り捨てられたからと言って、同情に値するかどうかはなはだむつかしい問題だと思う。
ただ彼らは生活に困窮しているから救済しなければと言っているtごしたら、あまりにも能天気だと思う。
資本主義体制の中で、企業活動をする民間企業では、時代状況とか社会構造の変化で、いままで必要であった人間でも、ある日ある時から不要になるということは往々にしてある。
いわゆる企業として好むと好まざるとリストラをしなければ企業の存立そのものが危ないという状況になるわけで、ここで企業経営者も知恵を絞って、如何にうまくリストラを実施するか対策を考えるわけである。
こういう状況になった時、普通の人間ならば、今まで会社に貢献してくれた人はできるだけ手元に残し、トラブルばかり起こしていた人から先に手を切りたいと思うのは当然である。
切り捨てられた人に生活権が有ろうが無かろうが、そこで同情を寄せていたら、企業そのものが倒れてしまうとなれば、そんな同情論は瞬時に消し飛んでしまう。
こういう人間の心の内の思いというのは、万人に共通のことで、共産党員の中の人事でも、旧ソビエットや、中国という社会主義諸国の人事でも、尻尾を振って寄り添ってくる人間が可愛いのは、自然界の摂理である。
こういう場面で、経営側としては退職金に割り増しをつけて依願退職させるか、左遷や出向で自らケツを割って辞めざるをえないように仕向けるか、それとも閑職で飼殺しをするか、それぞれに知恵を絞るわけで、使われる側としては自分の置かれた状況と相談して対応しなければならない。
けれどもリストラがけしからんと言って裁判闘争にするようなことは我が身が損をする。
裁判だとて、ただでできるわけではなく、個人では支援を仰げないが、この組合員の場合は、それこそ共産党の支援があり、革マル派がどこからか金を集めてくるから、そういう裁判闘争が成り立つが、普通の人は個人個人の判断で企業のリストラ対策に対応する。
経営側が退職金に割り増しをつけたり、自らケツを割るのを期待してそういうポジションに配置転換すると云うのは先方の手であるので、どんなつらい事があっても居残るという手も使われる側の作戦ではある。
しかし、経営側の差し出す甘言に乗るものらないのも本人の意思なのであって、それを他者の所為にしてはならない。
また、逆に経営側の押しつけてくる試練に敢然と立ち向かうこともあるわけで、それを他者に責任に転嫁するようなことはしないのが普通である。
労使の対立であったとしても、所詮は人間と人間の葛藤なのであって、その間に敵という認識は存在しないのが当然である。
同じ職場で働く仲間として、常日頃、組織や体制に批判的な態度をとりつづけ、いまわの時だけ「救済してくれ」、ではあまりにも虫が良い話ではないか。
どうも旧国鉄、いまのJRの労働組合員の中では、同じ職場の人間を組合活動という名目でイジメ抜く行為が頻繁にあるようだが、これは一体どういうことなのであろう。
切り捨てられた同僚を救済する気があれば、その前に、同じ職場の仲間は仲良くして、お互いに励まし合って、職務にまい進する健全な思考を取り戻すことが先ではないのか。
何万人といる職場で、労働組合が複数できることはいた仕方ないが、その組合員同士が互いにいがみ合うということは一体どういうことなのであろう。
旧国鉄の時代ならば、従来のいきさつを一片に清算することも不可能であろうが、せっかく誕生したJRの中で、また同じことが繰り返されるということは一体どういうことなのであろう。
基本的には、組織、組合員の中の隠れ共産主義者のような人間が、その教条主義的な思考で以って仲間内の組織破壊、秩序破壊を企てているとしか思えない。
先に読んだ「マングローブ」という本は、JRの労働組合の中に過激派の革マル派のメンバーが紛れ込んでいるという内容であったが、それは十分ありうる話だと思う。
旧国鉄、いまのJRの組合員に親しい人がいるわけではないので、詳しい事は知らないが、基本的に旧国鉄の人は働かないというのは世評として定着している。
鉄道員としてその職務、及び勤務体系が複雑で、朝出勤して定時に帰宅するという職業でないことは十分わかっているが、労働者が働かないでは何ともいた仕方ないと思う。
蟹工船や女工哀史でもあるまいに、労働者が働かないで話が始まらないではないか。
かっての共産主義国の人々が全く働かないと言われていたのと同じことが、旧国鉄の労働組合の中で再現されていたということであろう。
我々は民族として勤勉な民族という定評を受けているが、その中で旧国鉄いまのJRの労働組合員は働かないという世評があるわけで、これは一体どういうことなのであろう。
それは戦後60有余年という日本再生の過程で、旧国鉄の労働組合員の中の共産主義者たちが、労働の尊さという概念を破壊しつくした結果ではないのか。
自らの企業の中の、つまり組合の中の共産党員を綺麗に排除できた企業は、その後の経済成長の波に上手に乗り切れたが、それが不十分で共産党員の排除に失敗した組織は、組織そのものが消滅してしまったということである。
しかし、こういう既存の組織の消滅こそ共産党の究極の目的であったわけだが、共産党そのものも一つの組織であるので、管理するものとされるものという構図は免れようがない。
この本の著者が救済しようとしている人たちは、こういう組織の末端の人たちであって、組織のトップの司令を真面目に履行して、自分の職場の規律を無視し、秩序を乱し、同僚をイジメていたわけで、こういう人間を新たに採用したいなどと思う人間が居るわけないではないか。
自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのは当然のことである。
サブタイトルに「JRに本日も乗車中」となっている。
本の表題を見たとき、JRの車掌として日常業務の中で見聞きした面白おかしい、あるいは心温まる、あるいは腹にすえかねた話の集大成ではないかと、思いながら読み進めていくと、途中で組合闘争の話が出てきた。
以前、「マングローブ」という本を読んだが、この時も木のマングローブの話かと思って手にとって見たが、表紙に電車のイラストがあってどうも妙だなと思いつつ読み終えた記憶がある。
この本はそれほど組合のことを掘り下げたものではなかったが、この部分は取り下げて別の本にした方が、この本の面白さという点では勝っていると思う。
随筆風の面白おかしい軽妙な文章の中に、いきなり重いテーマのものが紛れ込んでくると、その違和感はどうしても拭い去れない。
私の系類には鉄道業務に関わっている人が一人もいないので、この業界のことは全く知らない。
旧国鉄時代にも膨大な人員を抱えた企業ということは理解しているが、企業というものが人の輪で成り立っていることは、この地球上のあらゆる組織に共通したものだと思う。
旧国鉄がJRになったのは1987年のことで、その理由の最大のものが赤字の解消であったと記憶している。
採算性の向上、経営の合理化という理由で、日本全国を網羅していた旧国鉄というものが民営化、分割された。
しかし、この理由は表向きの理由であって、国鉄解体の真の理由は、国鉄の労働組合から共産主義者の排除だったと、私個人としては考えている。
戦後の日本の社会情勢の中では、個人の思想信条を理由に解雇することができない状況であったので、採算性とか合理化という理由付けで、それが行われたと私自身は思っている。
こういう状況下で、普通の常識、戦後の民主教育の中で育った戦後の日本人には、こういう理由で組合員を排除するということは整合性が全くないわけで、許されることではない、という思考が普遍的である。
旧国鉄が採算性が悪く、合理化をしなければならない状況にあったことは紛れもない事実であったが、その根元のところには、共産主義者たちによる組織破壊の思考があったことも確かな事実だと思う。
組織を内側から破壊するということも、組合員の立場から表向きは言えないわけで、生活防衛などと言葉を誤魔化している。
ところが、そういう綺麗事の集積が国鉄解体、民営化という形にならざるを得なかったものと私は考える。
基本的に、日本国有鉄道の理念というのは、如何なる不採算性路線も、如何にもうけの少ない路線も、いわゆる如何なる山間僻地においても人と物の移動を保障するというところにあったのではないかと思う。
儲ける、儲からないという論理は二次的なもので、その基本的な理念は、国民の隅々にまで人と物の移動手段を確保、維持するという点にあったものを考える。
採算性が悪いから 切り捨てるなどということはあってはならない理念だったと思う。
日本全国津々浦々に至るまで老若男女が利用できる存在でなければならないと思う。
この理念を踏みにじったのが他ならぬ国鉄内部の労働組合であった。
企業、あるいは会社と、そこで働く人々、言い方を変えれば管理する側とされる側というのは、利害が真正面から衝突するのは当然のことで、健全な社会ならば、その双方がお互いに歩み寄って妥協点を探り、その均衡の上に社会に対してなにがしかの貢献するというのが理想的な企業あるいは会社の存在意義だと思う。
企業、あるいは組織の中で、管理する側とされる側が最初から敵であるわけがないではないか。
旧国鉄、今のJRの中に、労働組合がいくつあってどういう活動をしているか定かには知らないが、使われるものと使うものでは立場が違うわけで、その立場を無視して皆が一律に平等、管理するものとされるものの立場の相違を無にするということは成り立たない。
旧国鉄の労働組合の中に紛れ込んだ共産主義者たちは、既存の組織を破壊することが、彼らの存在意義であったわけで、こういう者を自らの内なる力で排除できなかった旧国鉄のあらゆる労働組合というのは、自分で天に唾を吐いたようなものである。
そもそも相手を敵と認識するところから間違っているわけで、彼らにしてみれば、それは戦争をしているのと同じ意識でいるということに他ならない。
まさしくゲリラ戦で、テロ行為そのものではなかったかと問いたい。
旧国鉄を民営化しなければならない状況に追い込んだのは、こういう過激な労働組合であったが、経営側にもそれに匹敵する不手際のあったことも当然である。
それはいわゆる政治路線というもので、先の見通しも考えずに新路線を敷き、経営を度外視した将来計画を追認した官僚主義の蔓延を招いたという意味で、経営側の見通しの甘さを指摘されてもいた仕方ない。
ここには見事な官僚主義がのさばっていたことも確かであろう。
労使双方が親方日の丸体制に安住していたということでもある。
この著者は、この民営化移行の時に切り捨てられた人々に対する復職の裁判闘争に義憤を感じているところがあるが、切り捨てられた人たちが本当に善良な労働者であったかどうかは述べられていない。
旧国鉄時代に好き放題、組織破壊、秩序破壊をしておきながら、新しい体制への移行時の際に切り捨てられたからと言って、同情に値するかどうかはなはだむつかしい問題だと思う。
ただ彼らは生活に困窮しているから救済しなければと言っているtごしたら、あまりにも能天気だと思う。
資本主義体制の中で、企業活動をする民間企業では、時代状況とか社会構造の変化で、いままで必要であった人間でも、ある日ある時から不要になるということは往々にしてある。
いわゆる企業として好むと好まざるとリストラをしなければ企業の存立そのものが危ないという状況になるわけで、ここで企業経営者も知恵を絞って、如何にうまくリストラを実施するか対策を考えるわけである。
こういう状況になった時、普通の人間ならば、今まで会社に貢献してくれた人はできるだけ手元に残し、トラブルばかり起こしていた人から先に手を切りたいと思うのは当然である。
切り捨てられた人に生活権が有ろうが無かろうが、そこで同情を寄せていたら、企業そのものが倒れてしまうとなれば、そんな同情論は瞬時に消し飛んでしまう。
こういう人間の心の内の思いというのは、万人に共通のことで、共産党員の中の人事でも、旧ソビエットや、中国という社会主義諸国の人事でも、尻尾を振って寄り添ってくる人間が可愛いのは、自然界の摂理である。
こういう場面で、経営側としては退職金に割り増しをつけて依願退職させるか、左遷や出向で自らケツを割って辞めざるをえないように仕向けるか、それとも閑職で飼殺しをするか、それぞれに知恵を絞るわけで、使われる側としては自分の置かれた状況と相談して対応しなければならない。
けれどもリストラがけしからんと言って裁判闘争にするようなことは我が身が損をする。
裁判だとて、ただでできるわけではなく、個人では支援を仰げないが、この組合員の場合は、それこそ共産党の支援があり、革マル派がどこからか金を集めてくるから、そういう裁判闘争が成り立つが、普通の人は個人個人の判断で企業のリストラ対策に対応する。
経営側が退職金に割り増しをつけたり、自らケツを割るのを期待してそういうポジションに配置転換すると云うのは先方の手であるので、どんなつらい事があっても居残るという手も使われる側の作戦ではある。
しかし、経営側の差し出す甘言に乗るものらないのも本人の意思なのであって、それを他者の所為にしてはならない。
また、逆に経営側の押しつけてくる試練に敢然と立ち向かうこともあるわけで、それを他者に責任に転嫁するようなことはしないのが普通である。
労使の対立であったとしても、所詮は人間と人間の葛藤なのであって、その間に敵という認識は存在しないのが当然である。
同じ職場で働く仲間として、常日頃、組織や体制に批判的な態度をとりつづけ、いまわの時だけ「救済してくれ」、ではあまりにも虫が良い話ではないか。
どうも旧国鉄、いまのJRの労働組合員の中では、同じ職場の人間を組合活動という名目でイジメ抜く行為が頻繁にあるようだが、これは一体どういうことなのであろう。
切り捨てられた同僚を救済する気があれば、その前に、同じ職場の仲間は仲良くして、お互いに励まし合って、職務にまい進する健全な思考を取り戻すことが先ではないのか。
何万人といる職場で、労働組合が複数できることはいた仕方ないが、その組合員同士が互いにいがみ合うということは一体どういうことなのであろう。
旧国鉄の時代ならば、従来のいきさつを一片に清算することも不可能であろうが、せっかく誕生したJRの中で、また同じことが繰り返されるということは一体どういうことなのであろう。
基本的には、組織、組合員の中の隠れ共産主義者のような人間が、その教条主義的な思考で以って仲間内の組織破壊、秩序破壊を企てているとしか思えない。
先に読んだ「マングローブ」という本は、JRの労働組合の中に過激派の革マル派のメンバーが紛れ込んでいるという内容であったが、それは十分ありうる話だと思う。
旧国鉄、いまのJRの組合員に親しい人がいるわけではないので、詳しい事は知らないが、基本的に旧国鉄の人は働かないというのは世評として定着している。
鉄道員としてその職務、及び勤務体系が複雑で、朝出勤して定時に帰宅するという職業でないことは十分わかっているが、労働者が働かないでは何ともいた仕方ないと思う。
蟹工船や女工哀史でもあるまいに、労働者が働かないで話が始まらないではないか。
かっての共産主義国の人々が全く働かないと言われていたのと同じことが、旧国鉄の労働組合の中で再現されていたということであろう。
我々は民族として勤勉な民族という定評を受けているが、その中で旧国鉄いまのJRの労働組合員は働かないという世評があるわけで、これは一体どういうことなのであろう。
それは戦後60有余年という日本再生の過程で、旧国鉄の労働組合員の中の共産主義者たちが、労働の尊さという概念を破壊しつくした結果ではないのか。
自らの企業の中の、つまり組合の中の共産党員を綺麗に排除できた企業は、その後の経済成長の波に上手に乗り切れたが、それが不十分で共産党員の排除に失敗した組織は、組織そのものが消滅してしまったということである。
しかし、こういう既存の組織の消滅こそ共産党の究極の目的であったわけだが、共産党そのものも一つの組織であるので、管理するものとされるものという構図は免れようがない。
この本の著者が救済しようとしている人たちは、こういう組織の末端の人たちであって、組織のトップの司令を真面目に履行して、自分の職場の規律を無視し、秩序を乱し、同僚をイジメていたわけで、こういう人間を新たに採用したいなどと思う人間が居るわけないではないか。
自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのは当然のことである。