ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「車掌の本音」

2008-09-08 08:39:54 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「車掌の本音」という本を読んだ。
サブタイトルに「JRに本日も乗車中」となっている。
本の表題を見たとき、JRの車掌として日常業務の中で見聞きした面白おかしい、あるいは心温まる、あるいは腹にすえかねた話の集大成ではないかと、思いながら読み進めていくと、途中で組合闘争の話が出てきた。
以前、「マングローブ」という本を読んだが、この時も木のマングローブの話かと思って手にとって見たが、表紙に電車のイラストがあってどうも妙だなと思いつつ読み終えた記憶がある。
この本はそれほど組合のことを掘り下げたものではなかったが、この部分は取り下げて別の本にした方が、この本の面白さという点では勝っていると思う。
随筆風の面白おかしい軽妙な文章の中に、いきなり重いテーマのものが紛れ込んでくると、その違和感はどうしても拭い去れない。
私の系類には鉄道業務に関わっている人が一人もいないので、この業界のことは全く知らない。
旧国鉄時代にも膨大な人員を抱えた企業ということは理解しているが、企業というものが人の輪で成り立っていることは、この地球上のあらゆる組織に共通したものだと思う。
旧国鉄がJRになったのは1987年のことで、その理由の最大のものが赤字の解消であったと記憶している。
採算性の向上、経営の合理化という理由で、日本全国を網羅していた旧国鉄というものが民営化、分割された。
しかし、この理由は表向きの理由であって、国鉄解体の真の理由は、国鉄の労働組合から共産主義者の排除だったと、私個人としては考えている。
戦後の日本の社会情勢の中では、個人の思想信条を理由に解雇することができない状況であったので、採算性とか合理化という理由付けで、それが行われたと私自身は思っている。
こういう状況下で、普通の常識、戦後の民主教育の中で育った戦後の日本人には、こういう理由で組合員を排除するということは整合性が全くないわけで、許されることではない、という思考が普遍的である。
旧国鉄が採算性が悪く、合理化をしなければならない状況にあったことは紛れもない事実であったが、その根元のところには、共産主義者たちによる組織破壊の思考があったことも確かな事実だと思う。
組織を内側から破壊するということも、組合員の立場から表向きは言えないわけで、生活防衛などと言葉を誤魔化している。
ところが、そういう綺麗事の集積が国鉄解体、民営化という形にならざるを得なかったものと私は考える。
基本的に、日本国有鉄道の理念というのは、如何なる不採算性路線も、如何にもうけの少ない路線も、いわゆる如何なる山間僻地においても人と物の移動を保障するというところにあったのではないかと思う。
儲ける、儲からないという論理は二次的なもので、その基本的な理念は、国民の隅々にまで人と物の移動手段を確保、維持するという点にあったものを考える。
採算性が悪いから 切り捨てるなどということはあってはならない理念だったと思う。
日本全国津々浦々に至るまで老若男女が利用できる存在でなければならないと思う。
この理念を踏みにじったのが他ならぬ国鉄内部の労働組合であった。
企業、あるいは会社と、そこで働く人々、言い方を変えれば管理する側とされる側というのは、利害が真正面から衝突するのは当然のことで、健全な社会ならば、その双方がお互いに歩み寄って妥協点を探り、その均衡の上に社会に対してなにがしかの貢献するというのが理想的な企業あるいは会社の存在意義だと思う。
企業、あるいは組織の中で、管理する側とされる側が最初から敵であるわけがないではないか。
旧国鉄、今のJRの中に、労働組合がいくつあってどういう活動をしているか定かには知らないが、使われるものと使うものでは立場が違うわけで、その立場を無視して皆が一律に平等、管理するものとされるものの立場の相違を無にするということは成り立たない。
旧国鉄の労働組合の中に紛れ込んだ共産主義者たちは、既存の組織を破壊することが、彼らの存在意義であったわけで、こういう者を自らの内なる力で排除できなかった旧国鉄のあらゆる労働組合というのは、自分で天に唾を吐いたようなものである。
そもそも相手を敵と認識するところから間違っているわけで、彼らにしてみれば、それは戦争をしているのと同じ意識でいるということに他ならない。
まさしくゲリラ戦で、テロ行為そのものではなかったかと問いたい。
旧国鉄を民営化しなければならない状況に追い込んだのは、こういう過激な労働組合であったが、経営側にもそれに匹敵する不手際のあったことも当然である。
それはいわゆる政治路線というもので、先の見通しも考えずに新路線を敷き、経営を度外視した将来計画を追認した官僚主義の蔓延を招いたという意味で、経営側の見通しの甘さを指摘されてもいた仕方ない。
ここには見事な官僚主義がのさばっていたことも確かであろう。
労使双方が親方日の丸体制に安住していたということでもある。
この著者は、この民営化移行の時に切り捨てられた人々に対する復職の裁判闘争に義憤を感じているところがあるが、切り捨てられた人たちが本当に善良な労働者であったかどうかは述べられていない。
旧国鉄時代に好き放題、組織破壊、秩序破壊をしておきながら、新しい体制への移行時の際に切り捨てられたからと言って、同情に値するかどうかはなはだむつかしい問題だと思う。
ただ彼らは生活に困窮しているから救済しなければと言っているtごしたら、あまりにも能天気だと思う。
資本主義体制の中で、企業活動をする民間企業では、時代状況とか社会構造の変化で、いままで必要であった人間でも、ある日ある時から不要になるということは往々にしてある。
いわゆる企業として好むと好まざるとリストラをしなければ企業の存立そのものが危ないという状況になるわけで、ここで企業経営者も知恵を絞って、如何にうまくリストラを実施するか対策を考えるわけである。
こういう状況になった時、普通の人間ならば、今まで会社に貢献してくれた人はできるだけ手元に残し、トラブルばかり起こしていた人から先に手を切りたいと思うのは当然である。
切り捨てられた人に生活権が有ろうが無かろうが、そこで同情を寄せていたら、企業そのものが倒れてしまうとなれば、そんな同情論は瞬時に消し飛んでしまう。
こういう人間の心の内の思いというのは、万人に共通のことで、共産党員の中の人事でも、旧ソビエットや、中国という社会主義諸国の人事でも、尻尾を振って寄り添ってくる人間が可愛いのは、自然界の摂理である。
こういう場面で、経営側としては退職金に割り増しをつけて依願退職させるか、左遷や出向で自らケツを割って辞めざるをえないように仕向けるか、それとも閑職で飼殺しをするか、それぞれに知恵を絞るわけで、使われる側としては自分の置かれた状況と相談して対応しなければならない。
けれどもリストラがけしからんと言って裁判闘争にするようなことは我が身が損をする。
裁判だとて、ただでできるわけではなく、個人では支援を仰げないが、この組合員の場合は、それこそ共産党の支援があり、革マル派がどこからか金を集めてくるから、そういう裁判闘争が成り立つが、普通の人は個人個人の判断で企業のリストラ対策に対応する。
経営側が退職金に割り増しをつけたり、自らケツを割るのを期待してそういうポジションに配置転換すると云うのは先方の手であるので、どんなつらい事があっても居残るという手も使われる側の作戦ではある。
しかし、経営側の差し出す甘言に乗るものらないのも本人の意思なのであって、それを他者の所為にしてはならない。
また、逆に経営側の押しつけてくる試練に敢然と立ち向かうこともあるわけで、それを他者に責任に転嫁するようなことはしないのが普通である。
労使の対立であったとしても、所詮は人間と人間の葛藤なのであって、その間に敵という認識は存在しないのが当然である。
同じ職場で働く仲間として、常日頃、組織や体制に批判的な態度をとりつづけ、いまわの時だけ「救済してくれ」、ではあまりにも虫が良い話ではないか。
どうも旧国鉄、いまのJRの労働組合員の中では、同じ職場の人間を組合活動という名目でイジメ抜く行為が頻繁にあるようだが、これは一体どういうことなのであろう。
切り捨てられた同僚を救済する気があれば、その前に、同じ職場の仲間は仲良くして、お互いに励まし合って、職務にまい進する健全な思考を取り戻すことが先ではないのか。
何万人といる職場で、労働組合が複数できることはいた仕方ないが、その組合員同士が互いにいがみ合うということは一体どういうことなのであろう。
旧国鉄の時代ならば、従来のいきさつを一片に清算することも不可能であろうが、せっかく誕生したJRの中で、また同じことが繰り返されるということは一体どういうことなのであろう。
基本的には、組織、組合員の中の隠れ共産主義者のような人間が、その教条主義的な思考で以って仲間内の組織破壊、秩序破壊を企てているとしか思えない。
先に読んだ「マングローブ」という本は、JRの労働組合の中に過激派の革マル派のメンバーが紛れ込んでいるという内容であったが、それは十分ありうる話だと思う。
旧国鉄、いまのJRの組合員に親しい人がいるわけではないので、詳しい事は知らないが、基本的に旧国鉄の人は働かないというのは世評として定着している。
鉄道員としてその職務、及び勤務体系が複雑で、朝出勤して定時に帰宅するという職業でないことは十分わかっているが、労働者が働かないでは何ともいた仕方ないと思う。
蟹工船や女工哀史でもあるまいに、労働者が働かないで話が始まらないではないか。
かっての共産主義国の人々が全く働かないと言われていたのと同じことが、旧国鉄の労働組合の中で再現されていたということであろう。
我々は民族として勤勉な民族という定評を受けているが、その中で旧国鉄いまのJRの労働組合員は働かないという世評があるわけで、これは一体どういうことなのであろう。
それは戦後60有余年という日本再生の過程で、旧国鉄の労働組合員の中の共産主義者たちが、労働の尊さという概念を破壊しつくした結果ではないのか。
自らの企業の中の、つまり組合の中の共産党員を綺麗に排除できた企業は、その後の経済成長の波に上手に乗り切れたが、それが不十分で共産党員の排除に失敗した組織は、組織そのものが消滅してしまったということである。
しかし、こういう既存の組織の消滅こそ共産党の究極の目的であったわけだが、共産党そのものも一つの組織であるので、管理するものとされるものという構図は免れようがない。
この本の著者が救済しようとしている人たちは、こういう組織の末端の人たちであって、組織のトップの司令を真面目に履行して、自分の職場の規律を無視し、秩序を乱し、同僚をイジメていたわけで、こういう人間を新たに採用したいなどと思う人間が居るわけないではないか。
自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならないのは当然のことである。

「祖父母たちの大東亜戦争」

2008-09-02 07:24:18 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「祖父母たちの大東亜戦争」という本を読んだ。
不思議な本だ。
表紙にセピア色の旧日本陸軍の兵士の写真が堂々と載せてあるので、てっきりその類の懐古的な書物かと思った。
この著者は科野文洋という人物で昭和57年生まれ、若干30歳の若者である。
それでいて大学も出ていないようだ。
物書きとしてはいわばアマチュアというか素人というか、そういう類に分類されても不思議ではないが、こういう人が熱烈な日本主義であるところが実に不思議な気がする。
狂信的な右翼でもない。
思考としては極めてニュートラルで、私としては大いに共感する部分がある。
ただ不思議なことに、自分の祖父母の姿を見て、日本の過去に思いを致すということが何とも不思議でならない。
自分の祖父母が黙々と畑で仕事をする姿を見て、その光景から彼の祖父が若かりしころ、どういう生活をしていたのかという風にイメージを膨らませて日本を見るという点は実に見上げたものだと思う。
彼の祖父というのは6年間も軍籍にいたわけで、そういう人たちの労苦の上に今日の我々の生活があるのだ、という視点は立派なものだと思う。
問題は彼の年齢だと思う。
これが60代、70代の人の言うことならば不思議でもなんでもないが、若干30歳の若者がいうのであるから、何とも不可解である。
また大学教授や有名な評論家がいうのならば不思議でもなんでもないが、無名の若者が言うのであるから、その点からしても不思議でならない。
彼の論旨を一言でいえば、大東亜戦争肯定論である。
あの戦争は我々日本人にとって自存自衛の止むにやまれる生存権の掛かった戦争であって、決して侵略などというものではないということである。
そういう見方も確かに成り立つし、事実そういう点も大いにあったことも否めない。
彼の論旨を突き詰めると、あの戦争は我々にとっては正義の戦いであった、ということに行きつくが、私に言わしめれば人間の生存に正義も不正義もないと思う。
昨日(平成20年8月31日)のBS放送では「インサイド9・11」という番組で、アルカイダの聖戦という言葉が飛び交っていたが、これもアルカイダが自分たちの整合性をアピールするための言葉であって、手前勝手な言い分でしかない。
戦争に、聖戦も、正しい戦争も、正しくない戦争もありえないし、テロというのはされた側からすれば戦争であろうが、第3者的な視点に立てば、ただの暴力行為、人殺し、虐殺でしかない。
アルカイダの言う聖戦などという言辞は、あまりにも傲慢で人を馬鹿にした話だ。
あるのは人間の生存のみであって、自分達の生存にとって有利な選択は何かというだけのことである。
究極の生存競争のみで、その生存競争に解ったような奇麗事を並べたてているだけのことで、生存競争こそが自然の生き方で最も自然に近い生態であって、これこそ人間の真の姿だと思う。
自分たちが生き残るには如何なる選択をすべきか、という問題に尽きる。
この本の著者も、年表の順を追って出来事を並べて、事の成り行きに整合性を説こうとしているが、歴史というのはそれで成り立っているかもしれないが、人間の生存というのは、正義とか不正義で整合性が問われるものではない。
ただ相手を叩いて自分が生き延びるだけのことで、まさしく生存競争そのものであり、弱肉強食の具現化そのものである。
日本のした行為が侵略であろうがなかろうが、それが正しかろうが裏切り行為であろうが、生き延びたものが勝ちということである。
生き延びるという意味は、豊な生活を得るという意味でもあって、それがまたいつ破壊されるかも不透明なわけで、それをできるだけ長く維持させることが平和な生き方ということになる。
それは川の流れに身を委ねて、心穏やかな時間をより多く得たものが、一時的に得をしたという程度のもので、それは何時いかなる理由で再び破滅の道に転がり込むか定かではないのである。
われわれは極めて真面目な民族で、歴史というものを正義と不正義で色分けしようとしがちであるが、それは生きた人間というものを知らないということでもある。
自然のままの人間を知らないということにもつながるし、人間の原始の思考を知らないということにもつながる。
人間にとって一番大事なものといえば、普通は自分の家族で、それ以外の物にはそれぞれに優先順位が付くであろうが、普通の人間の普通の意識からすれば、家族の次に大事なのは自分の属する共同体、いわゆるコミニティーであり、その次ぐらいに自分の祖国と言うものが来ると思う。
自分の祖国を統治している為政者から見て、彼にとって一番大事なものといえば、それは自分の国の国益であるはずだ。
この国益の進展を図ろうとして、歴史上の為政者の中には、失敗したり判断ミスすることも往々にしてあるわけで、我々が普通に歴史という場合、この過程を屡る並べ立てて、歴史と称している。
こういう視点で我々の近現代史というものを見えると、当然、我々は自存自衛のために、中国の安定に希望を託したが、それをアメリカが阻害したという論調になるのも当然である。
こういう見方に私も大筋においては納得せざるを得ないが、私はもう一回り大きい視点に立ちたいと思う。
それはヨーロッパ系の白人、正確にはどういうのか知らないが、アングロサクソン系のヨーロッパ人の黄色人種に対する差別意識が、アジアにおけるあの戦争には付きまとっていたと考える。
あの戦争、アメリカ流では太平洋戦争、日本流に言えば大東亜戦争は、アメリカ人の日本パッシング以上でもなければ以下でもなかったと考えている。
アメリカの日本パッシングそのものであったわけだ。
ここには正義も、不正義も、信義も、同情も、信頼も存在していない。
ただあったのはアメリカ人の日本人憎悪の感情だけであった。
ここを見誤ってはならない。
あの時代のアメリカ人にとっての日本人は、ただのイエロー・モンキーだからこそ、各都市の焼夷弾の空襲があり、広島・長崎の原爆投下があったのである。
われわれは人間の内にも見なされていなかったのである。
アメリカ人の日本人憎悪の感情も、あの時期だけのことで、戦争が終わって中国全土が共産主義化し、ソビエットが原爆、水爆を持つ時代になれば、アメリカも自らの国益のために「日本人憎し」などといっておれず、日本にすり寄らざるを得なかった。
国と国の外交という場面で、正義とか、信義とか、信頼などという言葉をまともに信じる方が阿呆である。
この本の中でも記されているが、日露戦争でセオドア・ルーズベルトがいみじくも指摘しているように、日本人は世界のどこに出かけても律儀に働き、規則正しく、几帳面に働くので、多民族と混在するとどうしても突出してしまう。
つまり目立ってしまうのである。
目立てば「出る杭は打たれる」という状況を呈するわけで、セオドア・ルーズベルトは、このことを金子賢太郎に諭したけれど、我々の価値観からすれば、その特質は良い事なわけで、我々としてはそれを抑えるなどということは想定外のことであった。
どこの国でも自国の国益を進展させようとする場合、武力で以って他国に押し入るなどということは、最低・最悪の手段だということは理解している。
口先の綺麗事で相手から国益を引き出せれば、それに越したことはないわけで、話し合いでことを解決するという場合、そういうことまで深く考えなければならない。
昭和の初期の時代に、日本が中国で行っていたことのすべてが、アメリカにとってはシャクの種であったわけで、この思考については理性も、知性も、何ら役に立たず、ただただ感情論での日本叩きでしかなかったわけである。
日本民族が勤勉ではなく、中国人のように怠惰で、モラルもなく、日和見で、賄賂で動き、ただただ謙った存在ならば、「日本憎し」という感情はアメリカ人に生まれなかった。
ところが我々の民族はそうではなかったわけで、いかなる困難にも敢然と挑戦する気概を持った国民であったので、アメリカとしては強い日本は叩き、ひ弱な中国を後押ししたのである。
その理由は、アメリカ人のようなヨーロッパ系の白人の目から見て、黄色人種の中で日本人のように突出した民族は鼻もちならなかったわけで、「出る杭は打たれる」式に、ジャパン・パシングが彼らの中で整合性を得たのである。
こういうアメリカ人の対日感情というのは、正義とか、不正義とか、善し悪しとか、善悪という倫理の問題を超越しており、完全なる感情論であったのである。
われわれは戦争を語るとき、その基軸に国、国家というものを念頭に置いて考えているが、この国家という概念も、綺麗事ではありえないわけで、ただただ人としての生存競争を如何に生き抜くかという発想の集合として成り立っているのである。
話し合いでとか、武力を使わないとか、侵略をするしないなどという奇麗事などで動いているわけではなく、ただただ如何に効率よく、労少なくして、最大の効果を引き出すかという思考で成り立っているのである。
一言でいえば、この地球上の人間の生存、つまり国家の存立というのは、力関係の均衡で成り立っているわけで、正義とか、善悪とか、善し悪しなどという甘い感傷的な倫理観などで動いているわけではない。
常に力のあるものが正義であり、力のあるものが善であり、力のあるものだけが生き残るわけである。
地球を制するものは力である。具体的には軍事力である。
19世紀から20世紀の世界の歴史を見てみれば、日本は1853年にたった四杯の黒船の出現で度肝を抜かれて、それから40年後には大清帝国を下し、50年後には大ロシア帝国を下し、アメリカに移民した日本人は勤勉さという点で現地の労働者を駆逐し掛けたわけで、こういう現実を目の当たりにした西洋列強、ヨーロッパの白人、アメリカのヤンキーの視点で日本人を見ると、彼らは「日本人は何をやらかすか解ったものではない、今のうちに頭を叩いておかねばならない」と思うのも当然の成り行きだと思う。
これは完全に感情問題であり、正邪とか、善し悪しとか、善悪の問題を超越しているわけで、そこにあるのは彼らの差別意識でしかない。
彼らの認識からすれば、イエロー・モンキーを今のうちに叩いておかなければ、何をされるかわかったものではない、という思考に至るのも当然の成り行きだと思う。
第1次世界大戦が終わった後の、国際連盟の設立の際に、日本は人種差別の撤廃を提案しているわけで、この時点の西洋列強の認識では、人種差別は普遍的な事柄であったので、そんなことを新興国の日本が提案し、その提案が通るようなことになれば、西洋先進国の面目は丸つぶれになるわけで、当然ここではイエロー・モンキーの寝言ぐらいの評価しか得られなかった。
20世紀の地球規模の不幸は、中国の混乱であった。
1853年にたった四杯の黒船に度肝を抜かれた我々は、その後鋭意努力して台湾を近代化し、朝鮮を近代化し、中国の化外の地、中国東北部、満州を近代化したが、この時点でアジアの民が、日本と手を組んで、西洋列強と戦えば今日とはまた異なった世界が誕生していたに違いない。
アジアの混沌はそのまま中国の混沌である。
それは昔も今も全く変わらない。
惜しむらくは、中国にそういう認識がないことだ。
中国のアジアに対する視線は、全て覇権主義に陥っており、領土拡大のみが中国の栄華だと勘違いして、そこに住む人々の幸せ・福祉を考えないという点にある。
いかなる政治体制でも、人間が人間を統治する限り、そのシステムはピラミッド型の組織にならざるを得ないが、こういうシステムを中国人が管理すると、汚職、猟官、収賄等々の組織の腐敗が必然的に生じるわけで、システムが内側から瓦解してしまう。
それは中国の人々が自分のためにだけ努力して、人の為には努力しない、他人に対して奉仕することがなく、社会に対する愛情を持っていないからであって、「自分さえ良ければ後は知らない」という思考から抜けきれないからである。
戦前のアメリカにとって日本は大いなる脅威であったのである。
この本の著者は、戦前のアメリカは中国での利権をめぐって日本に対抗していると述べているが、それは表面的な事象にすぎず、アメリカの真意は日本がアメリカに追いつき追い越す勢いで進展してきたので、その日本のバイタリティ―に恐怖を感じていたのである。
自分の身が危なくなれば、先制攻撃をしかけるのが戦争の常とう手段なわけで、ここに日本の敵であるところの蒋介石を援助するという敵対行為をするようになったのである。
表向きは日本の外務省と日米交渉をしつつ、時間稼ぎをしていたわけで、裏ではさっさと戦時体制を整えていたということだ。
こういう交渉事には我々日本民族というのは実に稚拙である。
それも無理ない話で、我々は交渉相手を倫理をわきまえた紳士としてみなして、そういう世界の常識に遺漏なく沿った線で話し合おうとしているが、相手は我々をはなからイエローモ・ンキーと見下しているわけで、お互いの信頼関係など屁の突っ張りほどにも思っていない。
今の北朝鮮の拉致被害者の返還交渉でも、まるで「暖簾に腕押し」という感じで、我々の側は玩具にされているではないか。
日米戦争の前のアメリカは、日本が憎くてならなかったが、戦争が終わってみると、アジアでは共産主義がアジア大陸を席巻してしまったわけで、こうなるとアメリカの日本を見る目というのも変わらざるを得ない。
それでアメリカの日本を見る目も完全に逆向きになって、日本を真の味方として自分たちの陣営に引き入れて置きたくなったのである。
日米戦争の前のアメリカは、完全に日本の真価と真意を勘違いしており、日本のあまりにも目ざまし発展能力に恐怖の念を持っていたが、日本を自分の陣営に引き込んでみると、日本は思ったよりも従順なアメリカの僕として有意義であったということだ。
ここにあるアメリカの真意は、友情でもなければ信頼関係でもなく、あるのはアメリカにとっての国益のみである。
アメリカの論理は、力こそが世界を牛耳る源であるという原理をはっきりと認識している。
まさしく地球規模で自国の国益を伸ばそうとすれば力、軍事力しかそれを担保するものはない。
戦後の我々は、あの悲惨な体験から、そういう思考を一切封殺しているが、それがため日本の不利益は一向に解決されていない。
口先で日本の不利益と言ってみても、その不利益が今の日本人の生活の中に何にも影響を与えていないので、われわれは自分たちの被っている不利益をいささかも感知していないが、それはいかにも能天気な民族ということを曝け出しているに過ぎない。
だから先方から舐められているが、徹底的に平和ボケの我々は、舐められていることすら自覚していない。
この若い著者が、義憤を感じている部分もそこにあるわけで、自分の祖国の国益をきちんと認識することと、周辺の諸外国ときちんと向き合うことは同じことで、そういう態度を貫かないと国そのものの存続があり得ないことになる。
この本の若い著者は、そのことを年老いた祖父母の姿から思い至ったようだ。