ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「今も私は熱中時代」

2008-09-20 07:27:44 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「今も私は熱中時代」という本を読んだ。
何だか妙な本だった。
昔、「熱中時代・刑事編」というテレビドラマがあったらしい。
私は見たことがなかったがこの中で水谷豊とこの本の著者ミッキー・マッケンジーというアメリカの女優とが共演したらしいが、その成り行き上この二人がくっついてしまって、その惚れたはれたという芸能界特有の下ネタの話だと思って寝ころんで読んでいた。
ところがこの結婚が破局を迎えたことによって、ミッキー・マッケンジーの方に大いなる魂の覚醒が起きて、話が宗教の話に展開していったので、最後の頃は姿勢を正して読まなければならなくなった。
水谷豊の方は平成20年の時点で「相棒」というテレビ番組にレギュラーで出演しており、私は好んで見ている。
あのトボケた演技に何ともいえぬ、面白さが漂っている。
その彼の前妻がアメリカ人であったわけで、キリスト教文化圏の人々はセックスに関して自分を律することに寛容で、われわれの感覚からすると如何にもだらしないという感が否めない。
好きという感情が昂じてくると、安易にセックスに結び付けがちであるが、このあたりの感覚は古いモラルの私には理解し難いところだ。
人間の欲情というは時も場所もわきまえずに沸き立つことはわかるが、だからと言って、すぐさまそれがセックスに結びつくというものでもなかろうが、このあたりの感覚というのは私としてはきわめて不可解な部分である。
その延長線上の問題として、すぐに結婚という事になって、一時的な気分の高まりが冷めれば、またすぐ離婚という過程も、私のような古い人間には理解し難いところである。
双方ともに、我慢する、妥協する、辛抱する、熟慮するというところが全く無いわけで、まるで盛りのついた犬のようなありさまというのはどうにも解せない。
自然といえばあまりにも自然すぎる。
動物的といえばあまりにも動物的でありすぎる。
人類・霊長類としての威厳も尊厳も全く見当たらないわけで、ただただ動物的な生でしかないではないか。
こういう、如何にも動物的に生きて、セックスをほしいまま楽しんでおきながら、それが行き詰まると宗教に逃げて、魂の救済を乞うなどということは、あまりにも人として傲慢すぎると思う。
魂の救済など求めずに、ただただ動物的に肉欲の遍歴を続けるというのならば、動物的な人生であったといえるが、都合のいいところだけ人間の理性に立ち返って、都合のいいところだけ動物的な本能の赴くまま行動するでは、真面目で、敬虔な人々を愚弄するに等しいではないか。
人生の成長の過程で、若い時にはそういうことに気がつかなかったというのは、後知恵の詭弁にすぎず、それまでの人生がいくら短かろうとも、その人に知性と理性が備わっておれば、文化としてそういうことは身につくはずである。
特に、敬虔なクリスチャンならば、そういう宗教の戒律は教わらなくとも身に備わってしかるべきだと思うし、現実の人間はそういう風にして生きていると思う。
ただここで問題なことは、有名人の物語となると、勤厳実直な人のストーリーというのはストーリー足り得ないという事だ。
真面目な人が真面目に生業に精を出して、真面目に生きているとしても、それは物語として可笑しくも面白くもない。
一見、真面目そうな人がその裏側でふしだらな生活を送っているから、その意外性が物語として面白くもあり、おかしくもあるわけで、真面目な人が真面目に生きていてはストーリーが成り立たない。
だからテレビのドラマでも映画でも、非日常なことが主題になるわけで、その気になって昼間テレビを見ていると、各局でそれぞれに犯罪のドラマ化を競って取り扱い、人々はいとも安易にセックスに耽り、不倫が常態化し、真面目にこつこつと働くことがバカに見えるのも無理ない話である。
そういうドラマを大勢の大人が知恵を絞って、面白おかしく作り上げているわけで、真面目な人が真面目に生きる姿はドラマ化されるチャンスが最初から無いのである。
この本の著者も、10代の時はただ有名になることだけを願い、そういう方向に努力を重ね、その過程で熱い恋をして、数年にしてその恋も破綻をきたし、その後、魂の救済に走って、再び心の平安を探しえたので、それがストーリーとして成り立っているのである。
彼女の恋が、専業主婦として家庭の中で昇華してしまったとしたら、物語そのものがあり得ない。
人間が、大きな魂の障壁にぶち当たって、そこで宗教に逃げるということは、ある意味で人間の弱さを露呈していると思う。
本当に心が強靭な人ならば、宗教に逃げるなどという選択はしないと思う。
この本の著者、ミッキー・マッケンジーは、最初の結婚の破たんは、水谷豊が彼女を専業主婦にしておきたかったという点にあるように思えるが、これを表現するのに彼女は「日本人の邪悪なサタンのしわざ」という表現で、日本の既存の価値観を批判している。
これこそある種のカルチャーショックであろう。
結婚した若い男女は、そこで「一家を成す」という認識がアメリカ人の彼女には理解し難いことであったに違いない。
彼女の育った社会的な感覚では、「一家を成す」という概念そのものが存在していないわけで、結婚しようがしまいが、個としての人間の意思が最優先であって、人は自らの意思に従うべきだ、という認識であったに違いない。
ところが我々の感覚では、主婦は家を収めて、稼ぐのはもっぱら亭主の役目という認識が普遍化しているわけで、ここで両者の心の溝が埋め合わすことができなかったものと推察する。
現代の若い日本人でも、基本的には家庭内の分業、妻は家を守り、外で稼ぐのは亭主の役割、という役割分担は認識しているが、基本的に日本の若い男は給料が安いので、それを埋め合わせるために主婦も働かざるを得ないというのが現実だと思う。
若い男と女が結婚する。
世間知らずの若い二人が、どういういきさつであろうとも結婚という契りを結んで、それが終生変わらないというのも、考えてみれば稀有なことだと思う。
結婚の時点では分からなかった相手の欠点が、日時が経つうちに鼻もちならなくなるということも当然ありうるであろうが、それを言い出したら結婚など最初からあり得ないはずだ。
当然、双方の意にそわない結婚というのも掃いて捨てるほどあったに違いなかろうが、それでも添い遂げるのが我々の過去の価値観の中では普通のことであった。
ところが今では、そういう古い価値観は否定されて、厭なものを我慢してまで辛抱して一緒にいることは無い、という考え方が普遍化してきた。
それはそれで結構なことではあるが、ならば犬や猫のように誰とでも寝ていいかという問題とは別の話だと思う。
愛情の破たんがトラウマとなって、心が宗教に傾注するというのも、綺麗事の言い逃れのような気がしてならない。
この場合の宗教は聖書、いわゆるキリスト教であって、宗教で心が癒されるならば「鰯の頭も信心から」ということであって、キリスト教でなければならないということではないはずである。
しかし、キリスト教であったということは、既存の価値観に引っ張られたということだと思う。


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