ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「天国の流れ星」

2008-09-22 07:15:10 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「天国の流れ星」という本を読んだ。
表紙に麗々しく若い男性の写真が載っていたので不思議な思いで手にとって見た。
ページを開いてみると、2001年1月、JR新大久保の駅で、酒に酔ってホームから線路に転落した人を助けようとして、列車に轢かれてなくなった韓国人青年の話であった。
その事故のこととともに、彼の純愛物語でもあったわけで、素直に感動を覚えた。
その純な行動に対して、彼の周囲の人々が、彼の善意の行動を無にすることのないように、こういう本にして後世に残すということも大いに意義深いことだと思う。
ただここで私としては少々疑問に感じられることは、彼が韓国の若者であったから、日本において大きな感動の渦を巻き起したのではないかという、邪悪で意地悪な感想である。
韓国の純な若者が、日本人の酔っぱらいを、危険をも顧みず救助しようとして、自らの命を犠牲にしたという面が暗黙のうちに強調されているのではないか、という底意地の悪い発想である。
この本の発行の主眼が、韓国人の美談を強調するように仕向けられているように見えてならない。
この時は、日本人の関根という人物も彼と同じように行動して、同じように命を落としているが、この本の中では冒頭にその事実が述べられているだけで、この本の主題は明らかに韓国人の美談に焦点が当てられている。
これはこれでいた仕方ない部分もある。
本を発行する目的が、それをPRするためのものである以上、枝葉のことは省略されてもいた仕方ない。
この本が李秀賢という韓国の若者の美談を褒め称えることは、彼の行為から推し量って当然なことではある。
彼の行為そのものが、人間の良き行いとして、国家という枠組みを超えて賞賛されるに値することであったことは論を待たない。
韓国人が日本人を、命を張って助けようとした、というところに人々は感激するわけであるが、ここで韓国人、日本人という言葉が介在すること自体が、本当は考えるべきことではなかろうか。
この本の中でも語られているが、この彼の行為は、韓国人、日本人という垣根を限りなく低くする方向に向かうべく強調されている。
ところが、そもそも垣根の存在そのものを21世紀に生きる我々は根本から考え直すべき時ではなかろうか。
彼のこの行為が、日韓関係の改善によい効果をもたらすであろう、という発想そのものが、この両国の間の垣根を意識した発言であるわけで、そういう垣根の存在そのものを問い直すべきが新しいアジアの思考でなければならないと思う。
しかし、それはあくまでも理想論であって、現実には国境の壁をなしにするなどということは、近未来においてもあり得ないことだと思う。
この本の中でも、日本人と韓国人の話となると、歴史認識が陽になり陰になって見え隠れするわけで、双方の国民レベルでも、それは伏流水のように厳然と流れている。
こういう話になると、双方の主張は水掛け論となり、収拾がつかなくなってしまい、結論的には、相互理解が暗礁に乗り上げるということになる。
それは人間の在り方、有史以来の人間の生存にとって自然のことであり、民族が異なれば相互理解などあり得ないというのが自然界の法則だと思う。
ただあるのは、双方の歴史認識の相違を容認しつつ、どこで妥協し、どこまで受忍出来るか、という点にいきつくと思う。
この韓国の若者の自己犠牲を伴う人助けの話は、日本と韓国の双方で美談として大きく報道されているが、日本人同士の美談というのも毎日の生活の中でいくらである話だと思う。
コンビニ強盗を追いかけて反対に殺されてしまったとか、喧嘩の仲裁に入って逆に被害をこうむったとか、こういう話も常日頃、巷にはいくらでも転がっているが、そういう話はたいして大きく報道されることは無い。
犯人を追いかけて逆に殺されてしまった場合など、殺人事件としてはそれなりの報道をされるが、美談として奉られるようなことはない。
ところが、その当事者が韓国人だと、国を挙げての称賛になるわけで、意地悪な見方をすれば、政治的に利用されているという風にも取られかねない。
確かに、日本の若者は、電車の中のマナーが悪いのは事実であるが、悪いのもいるが、良い人も大勢いるわけで、それはどこの国の社会でも同じではないかと思う。
悪いことはニュース性を備えているが、良いことはニュース性に乏しいわけで、人々の口に上りにくい。
マナーの良い行いというのは、そうであって当たり前であり、話題にもならないが、「今時の若者のマナーが悪い」という話ならば、いくらでも尽きることなく語りつがれるのである。
ただ国家の境界線としての国境というのは、人間が人間のために考えついた概念にすぎないが、民族性というのは人為を超越した思考だと思う。
地球上のある地域で、営々と生き続けた人々は、長年の生活の知恵と経験とともに生き続けたわけで、そこで刷り込まれた概念は、生きる場所を多少変えたところで、そう安易に是正できるものではない。
だからこそ、それが民族性となって何世代も尾を引くわけで、それゆえに我々と朝鮮民族の間には歴史認識を共有できないのも無理からぬ話である。
先方から見れば「謝罪が足らない」という言い分になり、われわれ側からすれば「何も悪いことをした覚えがない」という言い分になるのである。
ところが20世紀から21世紀という時代の科学技術の進化というのは、この民族性などお構いなしに進化するわけで、つい60年前の認識ならば、近代化に成功した日本と、それに取り残されたアジアという認識が一般的であったが、こういう認識そのものが今では意味をなさないこととなった。
インターネットとか携帯電話の普及で、実質、昔風の国境というものは消滅しているが、その一方で昔ながらの民族性は未だに頑迷に人々の心の中に居座っている。
この本で語られている主題も、「韓国人が身を呈して日本人を救った」という意味で、民族性をことさら強調しているわけで、これが同じ国同士の人々の事件ならば、これほど話題にはならなかったに違いない。
ここで我々が韓国に学ばなければならならないことは、この本の中では一言も触れていないが、韓国の徴兵制である。
我々の国もかっては徴兵制があり、その徴兵制のもと天皇の名において戦争が遂行され、結果として大敗北を帰したので、今の我々は徴兵制など口にしようものなら、それこそ異端者とされかねないが、徴兵制という言葉はともかくとして、若者を一堂に集めて試練に立ち向かわせる制度というものは必要だと思う。
若者に国を愛する気持ちを強制的に教えるというのも、何かと差しさわりがあろうが、今の若者の自堕落さというのは、なんとかして解決の糸口を探さなければならないと思う。
今の日本の若者というのは、上からの強制という事を一度も経験しないまま大人になっているわけで、これでは自己中心主義になるのは当然である。
戦後の民主教育では、上からの強制ということが罪悪視されていたので、何でもかんでも自主性を最優先できたものだから、自分が何をすべきか解らないまま右往左往している図だと思う。
彼、李秀賢の正義感が、軍隊生活によって培われたというのは確かに短絡した思考であろうが、若者が一定期間、ある試練の場に身を置くというのも、長い人生にとっては悪いことではないと思う。
平均寿命が70代80代にもなったのだから、その中で2、3年、徹底的に管理された生活を送るということも、その後の人格形成に大きく貢献するものがあると思う。
軍隊という戦争を目的とする組織ならずとも、若者が規律と秩序のタガを強制的に嵌められて、その中で自己を見つめる機会を与えるという制度も、民族の将来にとっては有意義なことだと思う。
20世紀までは、地球上のあらゆる先進国で徴兵制がしかれていたが、それは同時に民族意識の強化とも連動しており、国威掲楊の象徴でもあったが、人々の人権意識が普遍化するにしたがい、徴兵制が志願制に大きく推移した。
戦争の近代化、あるいは戦争の合理化に伴い、昔のように鉄砲担いでおっちにおっちにの時代ではなくなったわけで、数さえ揃えればことが済む徴兵制の時代ではなくなったことは事実だ。
自分の意志で任務にあたるという積極性がなければ、任務は遂行できないわけで、嫌々集まってきたものに、崇高な任務を強制的に押し付けても、ものの役に立たないことは自明のことだ。
そういう意味では、嫌がる若者を徴兵制で集めて、いくら鍛えても効果がないだろうが、若者が嫌がる試練に対して、ある程度強制的に自己犠牲を強いる機会を与え、精神的な苦難に耐え、それを乗り越える試練の場を与えるということは、考えてみる値打ちはあると思う。
通過儀礼として、若者がなにがしかの試練の輪を潜ることによって、社会人として一人前に認めるというシステムがあってもいいと思う。
私は刑務所に入るようなことをしたことがないのでよくは知らないが、テレビの報道で見る限り、刑務所というのはかなり厳しく生活が管理されており、その分秩序と規律が維持されているにようにみえる。
今の日本の若者はあまりにも放任されているわけで、それに少しでも枠をはめようとすると、まず最初に文化的知識人という人たちが反対のノロシを上げるが、この戦後の日本の放任主義というのがモラルハザードを引き落としているのではなかろうか。
今の日本で、社会的に重要な地位を占めている世代といえども、戦後の民主教育の中で育った世代であって、その意味では今の若者と同じ放任主義の中で社会生活をしてきた世代である。
自分で自分を律する術を他人から教わらないまま、自分の意にそわないことを強制されて、それに屈した苦い経験がないまま地位を得た人たちなので、他人の痛みや下々の痛みを自ら体験したことがない人が高い地位を占めていると思う。
そこにモラルハザードの大きな原因があると思う。
企業の経営者や、組織のトップが世間に対して謝罪するということは、その企業なり組織のトップのモラルの問題なわけで、そういう立場の人が、人としての倫理を蔑ろにしていたということに他ならない。
あまりにも自由ということは、そのまま無秩序に通じてしまうわけで、この過剰なる自由というものを如何にコントロールするかということがより良き社会の建設につながると思う。
他から守るべき規範というものを強制的に植え付けられた経験がなく、あくまでも自主判断で事を推し進めなければならなかったので、どうしても自分に甘く、そこにモラルハザードの原因が潜んでいると思う。
何が何でもここはこうすべきだ、理由の如何を問わずここはこうすべきだ、という規範がないわけで、ならばいくらかでも有利な方向にと心が動くのが当然に成り行きであり、それがそのままモラルハザードにつながっていくわけである。
戦後の民主教育では、人の嫌がることを強いることは全面的に否定されたわけで、そういう世代が社会のトップを占めるようになったのが昨今の日本の現状だと思う。
こういう精神状況の日本と、韓国の人々を比べると、韓国の人々は、我々の感覚からすると如何にも古臭い思考から脱却できていないように見える。
若者が年寄りを大事にすることが如何にもダサいことのように我々には見える。
人前で正義を実践することが、如何にも受けを狙った行いのように我々には見えるのである。
戦後の民主教育が日本の若者にこういう感覚を植え付けたわけで、それは我々が天に向かって唾を吐いたわけである。
それをしたのが戦後の日本の進歩的文化人と称する非日本人であり、反日日本人であった。
特に、日本の教育現場の犯した罪は大きい。
それとメデイアの責任を合わせて考えなければならない。


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