ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『蠢く!中国対日特務工作丸秘ファイル』

2012-12-25 20:42:14 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『蠢く!中国対日特務工作丸秘ファイル』という本を読んだ。
著者は中国人のようでもあるが、よくわからない。
内容的には日本における中国のスパイ活動は実に凄惨なもので、日本人は安易に中国のスパイの餌になっている、ということが赤裸々に記述されている。
日本は中国ばかりではなく、あらゆる国の諜報機関にとって天国だということはツトに有名なので、今さら驚くこともない。
しかし、今や世界で日本を抜いてアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国にまでなった主権国家が、モノ作りの現場で余所の国や、他の企業にスパイを送り込んで、技術を盗まねばならないということは、どういう事なのであろう。
この本には、日本企業が中国からの留学生を雇用したがため、技術が盗まれたということが縷々述べられているが、そもそも自分の企業内に中国人を雇い入れること自体が、「泥棒を飼っている」という認識に至っていない。
日本と中国の関係は、遣唐使の時代からあるわけで、日本人が中国大陸から優れた文化を輸入する分には、我々は真面目に付き合いをしてきた。
ところが近世以降になって、より緊密に接触するようになると、価値観の衝突を招くようになった。
我々の価値観と向こうの価値観は同じものではなく、物事を考える上での土俵が違っているわけで、これは風土に起因する民族の潜在意識の相違であって、どこまで行っても相互に理解しあえるということはありえない。
我々は、こういう冷徹な現実を直視なければいけないのであるが、日本人には謙譲の美徳という価値観があって、相手を性善説で見る気風があり、相手を突き放した視線で見る勇気が無い。
こうしておけば相手は喜んでくれるに違いない。こう言えば相手は我々を寛大に扱ってくれるに違いない。素直に謝れば相手は許してくれるに違いない。という自分勝手な思い込みに嵌ってしまうのである。
日本企業で、中国人に技術情報を盗まれるのは、盗まれる方が阿呆であって、盗まれて困るような情報のあるセクションに、中国人を配置する方がバカである。
そんな警戒心もない会社ならば、そのうちにケツの毛まで抜かれるのがオチであろう。
そもそも中国からの留学生を受け入れる大学こそが諸悪の根源なわけで、なぜ日本国民の血税で、我々の祖国を貶めようとする国の学生を養わねばならないのか。
日本人学生の10倍ぐらいの授業料をとっているのならば、まだ留学生を受け入れる整合性があるが、何故、自分達の金で敵国の学生に学問を教えねばならないのかということである。
中国人が日本国内でスパイ活動するということは、相手は日本を敵国とみなしているわけで、この実態は日中戦争から今日まで連綿と生きており、それを忘れて相手が我々と同じ価値難を共有する仲間だと思う方がバカである。
先方は、日中戦争の最中に、日本軍が中国の一般市民を大量に虐殺したという論旨を声高に叫んでいるが、あれも彼らの独特の文化なのであって、民族としてのある種の特質なのである。
つまり、攻撃の矢面が日本だからありもしない虚偽の事柄をことさら大声で叫んで、嘘も百編言えば真実になる、という論理で以て行動しているのである。
彼らの言う事が1から10まですべて虚偽とは言いきれないとしても、白髪3千丈式の誇大な表現を文字通り真に受ける愚は、我々の側の責任と言わざるを得ない。
相手の言い分の真価、真意、本質を正確に測りきれないという部分は、我々日本民族の人の好さに起因しているわけで、もっと実直な表現をすれば、我々はバカだったということに尽きる。
我々の同胞の中には、相手の言い分を全面的に容認して、相手に媚を売って自己の利益に繋げようとする売国奴の存在も由々しき事例ではある。
相手、中国の側から日本を眺めれば、有史以来連綿と彼らの認識では我々は辺境の野蛮人であったわけで、明治維新以降、日清戦争で勝ったと言っても、相手は何の痛痒も感じていなかったにちがいない。
ただ我々の側が、巨大帝国清王朝に「勝った勝った」と有頂天になっていただけのことである。
相手にしてみれば、今の状況と合わせて比較すれば、尖閣諸島を盗られた程度の認識でしかなかったと思われる。
国民や普通の一般人にすれば、日本と戦ったことすら知らずに済んでいたかもしれない。
ところが我々の側は、国土が狭く、そこに大勢の人が住んでいたので、その実態は瞬く間に全員に知れ渡り、「勝った勝った」で有頂天になったのである。
言うまでもない事であるが、中国には50余りの民族がいるわけで、彼らの視点から日本を見れば、我々もその中の一つの部族ぐらいの認識でしかないと思う。
我々と彼らの間には海があって、その中間の所に朝鮮民族がいたが、朝鮮民族は中国に朝貢していたので、中国側の認識からすれば朝鮮は完全に属国であって、「憂い奴だ」という感覚であったに違いない。
ところが日本・倭の国は、中国に対して朝貢する気などさらさらなかったわけで、先方にしてみれば可愛げのない小憎らしい存在であったに違いない。
日本はそういう風土の中に、力づくで押し入ったわけで、先方からすれば「侵略された」という想いであろうが、我々からすれば新天地の再開発、フロンティア精神の発露、死ぬか生きるかの生存競争であって、その基底の部分には力、武力、軍事力があったということだ。
この力の使い方を誤ったのが、昭和の初期の日本政府と大日本帝国の軍であって、いかなる主権国家でも基本的にはシビリアンコントロールであったが、あの時期に軍部が政治家を差し置いて政治の前面に出たということは、軍部の独断専横であったことは紛れもない事実でぁる。
ところが、それを許した政治家の怠慢も同時に責められねばならない。
それで話を21世紀に戻せば、外交交渉ということは、いわば言葉による戦争なわけで、戦争であるからには、相手を知るということが鉄則である。
だからこそ中国は日本に対してスパイを送り込んでくるわけで、それに対して我々の側は、「あまりにも無防備ですよ」ということをこの本は指し示している。
そもそも日本の大学が中国の留学生を受け入れるという点からして発想が甘いわけで、そういう文化交流も国際関係を円満に回すためには必要という考え方も一理はあるが、ならば国益にいささかも影響に出ない文学とか、古代史とか、芸術というような人文科学系にとどめておくべきである。
技術流出を伴うような最先端の部門からは排除するように措置を講じるべきである。
我々の同胞でも、高学歴で教養知性に富んだ学識経験者というような知識人は、何事も理想主義を仰ぎ見て、綺麗ごとを目指そうとする。
「友達の友達は友達だ」とか「人類皆兄弟だ」とか、この世の中は善人ばかりであるかのような錯覚に浸った物言いをしているが、こういう人にかかると日本の最先端技術は、世界の人々の至福に貢献するのから、留学生にそういう技術を伝授して、世界平和に貢献するなどとのんきなことを言っている。
知識人がこういうのんきな思考でいるものだから、中国のスパイが日本で暗躍するのである。
今の日本でスパイ防止法案などという措置をしようとすれば、日本の知識階層に巣食っている売国奴たちが徒党を組んで反対運動を起こすであろうから、それをする必要はないが、我々は国民レベル、市民レベルで中国人を警戒すべきだと思う。
特に留学生、その中でも相手国の国費留学生は、まるまるスパイと認識してかからねば、彼らに尻の毛まで抜かれかねないことを忘れてはならない。
中国から、祖国の国費で日本に留学するということは一体どういう事なのであろう。
彼らの深層心理の中では、日本を見下げているにもかかわらず、自己の立身出世のツールとして日本留学という免罪符を手に入れていると思われてならない。
彼らには、日本留学で得た知識を祖国に還元するという発想は全くないと思われる。
この本の中には、日本企業が中国人技術者を雇用したがために、情報を盗られたという記述があるが、その企業の経営者は、中国人を雇用すればそういう事が当然起こり得る、ということが判らなかったのであろうか。
だとすればバカの上塗り以外の何ものでもないではないか。
我々の側に、中国人を大量に受け入れて、その彼らに日本語を教えて、求人難の職場に送り込む目的で、訳のわからない大学が乱立したが、国としてこういう行為を容認すべきではなく、断固として取り締まるべきである。
ところが、相手が中国で、それに輪をかけて教育という言葉が付くと完全に腰が引けてしまう。
外交ということは武力を使わない戦いなわけで、日中友好を真に受けるということは余りにもノー天気な思考である。
しかし、日本の知識人は、過去の歴史の中で異民族に支配された現実に直面したことがないので、自分の持っている経験則で物事を計ろうとするため、相手の術中に嵌るのである。
太平洋戦争の、我々の側の言い方によれば大東亜戦争であるが、この戦争の我々の側の大義は「アジアの解放」であったが、それを主導したのが単細胞的思考の軍人、軍部であったので、我々の側の大義は誤解され、誤解されるような行動を軍部がしたことは、歴史的事実として認識しなければならない。
この時、中国は日本人によるアジアの解放を拒否したわけで、西洋列強に散々国土を蚕食されながらも、その西洋列挙にすり寄って、彼らの側についてしまったのである。
それで1945年8月、ふと気が付いてみると、我々が散々侮蔑していたシナは、連合軍側に身を置いていたわけで、彼らは勝者の栄誉に浴していたことになる。
日清戦争に勝ち、日露戦争に勝った我々は、その時点で有頂天になり、天に舞い上がった気持ちになって奢り高ぶってしまったが、こういう立ち居振る舞いは、我々の価値観ではしたない行為、忌むべき行為、侮蔑すべき行為として我々の風土の中に定着していた筈である。
それがどうして我々はこの時、こういう我々の根源的な潜在意識を捨て去ってしまったのであろう。
この事実は、相手側にすれば極めて有効な交渉のカードになるわけで、事実相手はそれを周到に使いわけて敵国としての我々に対する武器としているのである。
相手は、国内に50余りの異民族を抱え込んでいるので、その意味では日本など50分の1の存在でしかないわけで、その微々たる存在の吹けば飛ぶような小さな国が、アジアを仕切ろうとし、中国をも仕切ろうとすれば、彼らの自尊心は黙っておれないのも無理からぬことである。
その屈辱を晴らすために、成り振り構わず日本に対抗してくる彼らの心理は充分に考察する必要がある。
彼らには1+1が2、2+2が4という論理は通らないわけで、彼らは1+1が3,2+2は5という論理で以てこちらに対抗してくるので、これは正攻法ではどこまで行っても平行線のままで解決には至らない。
ならばどうするかといえば、彼らの不合理、不整合な行為、立ち居振る舞いを世界に向けて告発して、中国という国家の欺瞞性を国際社会にアピールする事しか解決の糸口は無い。
産業スパイということで言えば、日本もアメリカの企業から技術情報を盗んだ盗まないという論争があって、裁判所に告発されたケースもあったが、基本的に日本のハイテクは、日本人の手で開発されたとみなしていいと思う。
しかし、旧ソ連でも、中国でも、他の国の技術を盗むということはどう考えたらいいのであろう。
私の言いたい事は、中国の人口が13億人であるにもかかわらず、その中から新しい発明や新しい技術や新しいアイデアがどうしてこの13億の中から出てこないかということである。
古代においては、文字や火薬や紙という文化のベースになる基幹技術を発明発見していながら、近世以降は全くそういうものを輩出できないということは一体どういう事なのであろう。
思うに、アジアの普遍的なものの考え方は儒教だと思うが、儒教では親を思い、年長者を思い、そういう先輩を乗り越えることは親孝行とか忠節の度合いを無視する行為で、人足るものはそういう事をしてはならないという不文律があったので、忠良な臣民は新しい事に挑戦する事が憚られたからではないかと勝手に想像している。
だから国として、民族として、アジアとして、この時代には何一つ新しいものが登場せず、何から何まで真似、模倣するか、技術を盗むかするしかなかったと思われる。
そういう環境から来た中国人を、盗まれてはならない重要な技術を扱うセクションに配置する事自体、「盗んでください」と言わんばかりの愚劣極まる行為である。
企業として、それが判らない経営者ならば、経営者としての資質が問われて当然である。
日本と中国との関係は今に始まったわけではなく、人類の誕生以来連綿と生きているわけで、その間に我々の側が相手よりも有利な環境におかれたことは一度もないと考えなければならない。
アジア大陸の漢民族も、匈奴も、女真族も、倭の国の元寇も、共にそれぞれの生存競争に明け暮れてきたわけで、そこでは適者生存の自然の摂理の元に人々が生き抜いてきたわけで、これを今の日本の文化人は正義とか、善悪とか、良し悪しという極めて狭量な価値観で計って、自分たちの同胞を貶めて喜んでいる図である。
この本には中国国内で日本人の外務省の職員や商社の人間が、ハニートラップに引っ掛かって脅されて情報を提供させられた事例が縷々述べられているが、ハニートラップという言葉は綺麗だが、日本流に言えば美人局なわけで、それを官憲が使うということ自体、法体制と人権意識の欠如を如実に表しているということである。
罠に嵌る人間は最初から下心があったわけで、その責は本人が負わなければならないのは当然であるが、問題は、中国の官憲がそういう汚い手を安易に使うセンスである。
以前、アフリカの奥地を車で移動していると、突然警官が出てきて、交通違反を告げられて法外な罰金をその場で取られたという話を聞いたことがあるが、中国のやっていることはこのレベルの事で、まさしく満州の荒野に出没した馬賊、匪賊、山賊、赤卑と同じレベルの行為でしかない。
それを21世紀の今日、官憲ぐるみで行っているわけで、政府機関、警察機構すべてがこの様に法秩序もなければ、人権意識もないわけで、あるのは個人の利得関係のみで繋がっているということに他ならない。
ハニートラップで罠に嵌めて、その脅しの実行力が効かないとなると、組織ぐるみでコネクションが作動して、罠に嵌ったカモはそれなりの制裁を受けることになるが、その間にきちんとした法秩序が全くないので、各セクションのさじ加減でどういう風にでもなるのである。
まさしく山の中の道路で偽警官が罰金を取るようなものである。
これって山賊と同じというわけで、これが中国の全土で起きているとなれば、もう主権国家というよりも近代国家の体をなしていないということである。
国家の体を成していなくても、その領域の中に生息している人間は何とか生きているわけで、国家の保護があろうがなかろうが人は生き続けねばならない。
統治者あるいは為政者の立場として、隷下の人民、臣民、国民、庶民を腹いっぱい食わせねばならないという使命感はどこかにおいてきているので、あるのは組織のトップの覇権争い、派閥抗争でしかないということである。
相手がこうであるにもかかわらず、我々の側は、相手を自分と同じ価値観の人たちだと思って日中友好を信じて疑わないが、それは綺麗ごとの自己満足以外の何ものでもない。
社会的な地位があって、公的な職務に就いている人が、安易で無責任な言辞を弄するわけにもいかないことは重々承知しているが、だからと言って相手を利するような措置を取ることもなく、あくまでも自分たちの国益を考えて、日本の国益にそうような措置を講ずるべきだと思う。
両国の留学生の交流というのも、普通の常識としてゼロというわけにもいかないであろうが、技術流出が懸念されるようなセクションンには、よくよく注意が肝要である。
それと規則とか契約の厳格な施行を相手に迫って、彼らが勝手に拡大解釈して、なし崩し的に無政府状態にならないように監視が必要だと思う。
留学生で入って来て、不法就労とか不法滞在とかをさせないように、厳重に注意して、日本では金稼ぎがとても採算に合わない、ということを知らしめるべきだと思う。


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