例によって買い物に行ったスーパーの本屋で買った本であるが、標題に大いに惹かれた。
「謀殺・下山事件」。
この事件に関しては前々から関心を持っていたが、おぼろげながらの記憶では、確か松本清張もこの事件に関して本を書いていると思った。
この本の著者は矢田喜美雄という人だが、奥付きによると朝日新聞の記者だったということだ。
朝日新聞の記者の書いたものというと、読む側としてはどうしても構えてかからねばならない。
世間の人は当然皆知っているであろうが、朝日新聞は明らかに偏向しているので、その偏った部分を自分の裁量で修正しながら読まねばならないので、大いに気を使う。
で、下山事件というのはあまりにも有名な事件で、未だにその真相が解明されていないという実に不可解な事件である。
昭和24年、まだ占領中の日本国有鉄道で大量の人員整理、今の言葉でいえばリストラであるが、それを迫られた国鉄総裁の下山定則氏が常磐線の五反野駅近くで轢死体で発見されたというものだ。
それを誰が実行したかが未だに解らないわけで、この著者も含め松本清張らの見解も、アメリカ軍の陰謀ではないかという論調である。
当時の状況から考えると、朝日新聞や松本清張ならずともそういう結論に達するのが一番妥当のようでもある。
昭和24年という年は一体どういう年であったのだろう。
年表をひも解いてみると、この年の7月1日に国鉄が9万5千名の人員整理を発表し、それから7月6日に下山事件、7月15日に三鷹事件、8月17日に松川事件と、立て続けに国鉄に関する大事件が起きている。
この流れを見てみると、当然、普通の日本人の認識からすれば、これらの事件は共産党の革命の一環ではないかと考えるのが必然的な流れだと思う。
こういう先入観で物事を見てはならないということは重々分かっているが、昔からよく言われているように「火の無いところに煙は立たない」わけで、普通の人が「これは臭いぞ!」と感じたとするならば、そこには何か火種があると勘ぐりたくなるのも人情というものだと思う。
日本国有鉄道はこの年の6月1日に発足したばかりで、下山定則氏はその初代総裁としてわずか1カ月しかその職についていなかったということになる。
この年に起きた3つの大きな国鉄関連の事故は、どうしてもこの人員整理に伴う共産主義者たちの反政府運動、反体制運動、抵抗運動という流れで見ないことには整合性が成り立たないように思う。
そもそも日本が敗戦を迎えたことにより、国鉄以前の国家直属の鉄道、鉄道省と言っていたころの事業主体は、引揚者や復員兵を一手に引き受ける受け皿でもあったわけで、そのことによって多くの余剰人員を抱え込むことになっていた。
それがこの日、いわゆる1949年、昭和24年6月1日を以て、日本国有鉄道として半官半民の公共事業体として衣替えしたということなのであろう。
この時に余剰人員を整理しようとしたわけで、それに対して労働組合側が猛反発をしたということであろうが、問題はこの労働組合の中になぜ共産主義者がかくも多く入り込んだかという点である。
終戦に伴って外地からの引揚者や戦場から復員してきた若者に当座の職を与えるという点では当時の国有鉄道の存在価値というのは大きなものがあったに違いない。
戦後の復興を目指すにあたり、国の鉄道経営もスリム化しなければならないことは誰の目から見ても必要不可欠の事柄ではなかったかと思う。
この時代の国鉄マンは自分の職業に非常な誇りを持っていたように思う。
例えば、広島に原爆が投下されても鉄道は真っ先に普及したであろうし、終戦の詔勅がラジオで放送された時でも東京の省線、いわゆる山手線はいつもと変わらず動いていたと言われている。
このことは当時の国鉄マンが自分の職業になみなみならぬ誇りを持って職務を遂行していたわけで、昔小学校の先生が聖職と言われたように、鉄道マンも自分たちの仕事を恐らく聖職と捉えて、そう認識していたのではなかろうか。
ことほど左様に、聖職としての理念をただの労働として、働く意欲のもとにある精神を卑下し、格下げをしてしまったのが戦後の民主主義であったわけで、戦後の民主主義という言い方は、私に言わしめれば非常に甘い言い方で、私が言うとすれば共産主義の廉価盤というものに当たると思う。
基本的に学校の先生の労働組合、日教組をはじめとする国鉄内の様々な組合が共産主義者に占領されてしまったから、本来聖職であるべきものがただの労働者に成り下がってしまったのである。
敗戦によって旧国鉄が一時的に引揚者や復員兵を吸収したが、戦後の復興ではそういう人を再び野に放ち、経営主体をスリムにしなければならなかったわけで、そこで労働組合の大きな抵抗にあうわけであるが、問題はこの組合員の中の過激分子としての共産主義者の立ち居ふるまいである。
戦争中に治安時事法で牢屋に拘束されていた共産主義者の数はそう多くはないと思うが、それが戦後になって、占領軍により政治犯の解放がなると一気に巷にあふれ、今にも革命が起きるかのような状況を呈するということは、一体どういうことなのであろう。
戦時中にもこれだけの人が隠れ共産党員として巷に隠れ、国防婦人会とか、挺身隊とか、それぞれの部隊の中で自分の信念を隠して潜んでいたのだろうか。
私個人の見方としてはそうではなく、状況に合わせて自分の身の振り方を当意即妙に使い分けているのではないかと思う。
それは共産党員のみではなく、我々日本民族として、民族ぐるみで時代の時流に便乗することを狙っているわけで、共産主義者の動きも、この時流という大きな川の流れの中の数ある渦巻の中の一つの渦に過ぎないと思う。
我が日本民族というのは、どうも民族全体として付和雷同する民族的な潜在意識を内包しているようで、それは海や川に住む小魚の群れが、何かのきっかけで一斉に方向転換する図と同じで、同じ仲間として群れで行動したがる習性があるようだ。
自分一人では何も決断できず、何も定めることができず、何処に行ったら良いかもわからないわけで、常に「人の振り見て我が振り直す」という性質が我が民族の特質でもあるようだ。
だから戦前の我が同胞、我が民衆、我が大衆の動きを観察すると、軍国主義が時流になると我も我もとそれに群がり、ある意味で「バスに乗り遅れるな」という現象になり、戦後になってベクトルが逆向きになって共産主義がはやり出して、これが一世を風靡し、時流の上昇気流になりそうだと思うと、猫も杓子もそちらになびくという現象を呈したものと私は考える。
そうでなければ、治安維持法が廃止されてほんのわずかな時間でこれほど共産主義者の天下が来るとは思えないではないか。
共産主義者のいう世直し、いわゆる革命というのは、まず前提条件として既存の秩序を木っ端微塵に砕くことから始まるわけで、日教組や国鉄の組合を占拠した共産主義者たちは、ここにエネルギーを注ぎ込んでいたわけだが、これはやっている方としては実に楽しいゲームであろう。
既存の秩序を木っ端微塵に壊されては、既存の体制としては叶わないわけで、当然のこと、その防衛に当たる。
こうした状況では当然二つの対立軸が屹立するわけで、この時問題となってくるのが知識人という部類の人種の存在である。
日本の知識人というのは果たして本当に知識人なのであろうか。
これは戦後の左翼運動に関してばかりではなく、戦前・戦中の軍国主義の潮流に対しても、知識人が本来兼ね備えているべき理性、知性、知恵、学識経験というものが一向に機能しておらず、軍人のサーベルの音に委縮して縮み上がってしまっている図でしかないではないか。
戦後は戦後で、共産主義者のやることなすことに非常に寛大で、「彼らが怒り狂うのはいた仕方ないので体制側が反省すべきだ」などと無責任極まりない言辞を弄している。
戦後においても、彼ら知識人としての本領、本質はいささかも発揮されることなく、ただただ数の多さに引っ張られて時流に迎合するのみでしかない。
知識人として一般大衆から崇められ奉られている存在ならば、その持っている理性、知性、知恵、学識経験でもって、浮ついた思考や軍人の狭量な思考に対して堂々と立ち向かって、その非を説いて回らなければならなかったと思う。
日本の敗戦ということで、進駐軍が上陸してくると、今まで鬼畜米英と教えられていたことが全く嘘で、占領軍、昨日まで敵であったアメリカの兵隊たちは、チューインガムやチョコレートをふんだんに振りまく陽気なヤンキーであったわけで、そこではじめて自分たちは、自分たちの為政者に騙されていたということを悟るわけである。
その意味で終戦直後の我が同胞が自らの政府を信用ならないと思い込むのも必然的な成り行きではある。
そして昭和24年6月1日に、今まで政府直属の鉄道から公共事業体としての日本国有鉄道として衣替えして再出発するその最初の総裁に下山定則氏が成り、就任一カ月で何者かに殺されてしまったが、その後にも次から次へと不可解な鉄道事故が起きるともなれば、共産党と共産主義者が真っ先に疑われるのも当然のことだと思う。
テレビの刑事ドラマではないが、下山定則氏を抹殺したとして一番利益を得るのは一体誰であろう。
誰が下山氏を抹殺するほど恨んでいるのであろう。
この本の著者も松本清張氏も、はっきりとは断定していないが、この事件の後にはアメリカの謀略があるのではないかという見方をしている。
だとすると、アメリカ占領軍の誰が、どういうセクションが、どういうポストが、彼を抹殺することに価値を見出しているのであろう。
彼は殺される前日に、9万5千人のリストラは申し渡して、その役目はすでに果たしてしまったわけで、その後で彼を抹殺しても意味がないと思う。
あの事件の評価として、彼が抹殺されたことであとの人員整理がスムーズに捗ったといわれているが、ならば彼はその人柱であったということなのであろうか。
しかし、これに類する不可解な事件は、その後立て続けに起きているわけで、下山事件だけがその後のリストラにまつわる2つの事件の露払いであったとは思えない。
三鷹事件も松川事件も、共産党員が関与しているのではないかという疑惑は最初からつきまとっていたが、結論的には証拠不十分ということで犯人と思しきものは無罪となっている。
証拠が見つからなかったので、容疑者は無罪というのは、今日の裁判のシステムでは致し方ないが、被害者、殺された側はこれではあまりにも可哀そうだと思う。
戦後の民主的な日本の裁判では、被害者の無念さよりも、「疑わしきは罰せず」として、生きている悪人の方により寛大な判決を出して由としているが、この現実を見聞きする真犯人の心境はいかばかりなのであろう。
容疑者ということは真犯人かもしれないわけで、ただ証拠の整合性が確立されないというだけで、自分で手を下したものとして、どういう心境でその後を生きるのであろうか。
この下山事件に関しては、容疑者も真犯人もわからないまま時が過ぎてしまったわけで、その上捜査が途中で中断されるということは、如何にも不自然さが目立つ。
この捜査が中断されたという点からして、この著者も松本清張も、上からの圧力でそうなった、ならば当時の状況からしてアメリカ占領軍いわゆるGHQからの圧力であろうと推測しているわけである。
当時、警察の捜査に圧力を掛けれる存在というのは確かにアメリカ軍しかいない筈で、だとするとアメリカ軍GHQは下山氏を抹殺することにどういう意義があったのだろう。
9万5千人のリストラは下山総裁の問題ではあるが、アメリカ占領軍の問題ではないし、GHQの問題でもないわけで、その意味で一番現実味のある見方が、国鉄の組合員の怨恨という線が一番妥当性に富み、説得力がある。
ところで、我々の民族の死生観というのは実に残酷な面を秘めているように思えてならない。
自分の思う通りにならないときは相手を殺す、という極めて直截的で残酷な発想は、我が民族の若者の間に執拗に潜んでいるように思えてならない。
戦前の旧陸軍の若手将校の反乱から、特攻隊で散華していった若者、はたまた戦後の全共闘世代の若者が引き起こした凄惨な事件まで、日本の若者の死生感には一本の共通した筋があるように思う。
それは「公に殉じる」というもので、「公に殉じる」ためには自分の命などいささかも惜しくはないという感情であるが、この感情が他者に向かうと極めて残酷な行為まで容認するようになってしまう。
命など惜しくはないという感情が内に向くと、神風特別攻撃隊として敵艦に体当たりする行為になるが、外に向くと「問答無用」として一刀のもとに切り捨てる行為になるわけで、その奥底にある精神の糧はともに「公に殉じる」という思考である。
戦後の全共闘世代にもそれと同じものがあるというのは納得できないと思う方も多いと思うが、彼らが角棒を振ったのは、それが基底にあったからだと元赤軍派の幹部がテレビカメラの前で述懐していた。
「公に殉ずる」気があるならば、何故あのような無意味な破壊を繰り返したのだ、という論理になるが、彼らは純粋に革命を夢見ていたわけで、その意味で彼ら自身は公に殉じるつもりでいたが、彼らを取り巻く取り巻き連中は、彼らの本音を理解することなく、統制を無視して行動したと言っていた。
何のことはない、昔、日本軍の関東軍というのが政府の言うことを無視して独断専行して日中戦争を引き起こした構図同じだということだ。
これに見るように、テロに走る人間にも、彼らなりの論理はあるわけで、「公に殉ずる」という言葉は、実に使い勝手の良いフレーズではある。
この伝でいけば、国鉄総裁を血祭りにあげるというのも、ある種のテロだとすると、それを実効あらしめたのは国鉄の組合員、中でも強力な共産党細部ではなかろうか、という結論は必然的に出てくる。
この事件のあとの二つの事件では、それぞれに容疑者も逮捕されているが、この事件に関しては一人の容疑者も割り出せないというのは実に不可解であるが、それにもまして捜査が途中で打ち切られたという点がなおのこと不可解千万である。
今考えると、この頃の警察の捜査にも相当に大きな瑕疵があったのではないかと思う。
というのは警察機構がアメリカによる占領期間中ということで国家警察と自治警察に分離していた時期で、お互いの意思の疎通もままならぬ時期であったに違いない。
この事件の結論としては、アメリカのCIA辺りが日本人の労務者を使って引き起こした事件ではないかということになっているが、案外このあたりが真相かもしれない。
しかし、そうだとするとアメリカは何故下山定則氏を抹殺しなければならなったのであろう。
彼らから見て、下山氏を殺して得になるようなことは何もないように思うが、その意味からも不可解な出来事といわなければならない。
「謀殺・下山事件」。
この事件に関しては前々から関心を持っていたが、おぼろげながらの記憶では、確か松本清張もこの事件に関して本を書いていると思った。
この本の著者は矢田喜美雄という人だが、奥付きによると朝日新聞の記者だったということだ。
朝日新聞の記者の書いたものというと、読む側としてはどうしても構えてかからねばならない。
世間の人は当然皆知っているであろうが、朝日新聞は明らかに偏向しているので、その偏った部分を自分の裁量で修正しながら読まねばならないので、大いに気を使う。
で、下山事件というのはあまりにも有名な事件で、未だにその真相が解明されていないという実に不可解な事件である。
昭和24年、まだ占領中の日本国有鉄道で大量の人員整理、今の言葉でいえばリストラであるが、それを迫られた国鉄総裁の下山定則氏が常磐線の五反野駅近くで轢死体で発見されたというものだ。
それを誰が実行したかが未だに解らないわけで、この著者も含め松本清張らの見解も、アメリカ軍の陰謀ではないかという論調である。
当時の状況から考えると、朝日新聞や松本清張ならずともそういう結論に達するのが一番妥当のようでもある。
昭和24年という年は一体どういう年であったのだろう。
年表をひも解いてみると、この年の7月1日に国鉄が9万5千名の人員整理を発表し、それから7月6日に下山事件、7月15日に三鷹事件、8月17日に松川事件と、立て続けに国鉄に関する大事件が起きている。
この流れを見てみると、当然、普通の日本人の認識からすれば、これらの事件は共産党の革命の一環ではないかと考えるのが必然的な流れだと思う。
こういう先入観で物事を見てはならないということは重々分かっているが、昔からよく言われているように「火の無いところに煙は立たない」わけで、普通の人が「これは臭いぞ!」と感じたとするならば、そこには何か火種があると勘ぐりたくなるのも人情というものだと思う。
日本国有鉄道はこの年の6月1日に発足したばかりで、下山定則氏はその初代総裁としてわずか1カ月しかその職についていなかったということになる。
この年に起きた3つの大きな国鉄関連の事故は、どうしてもこの人員整理に伴う共産主義者たちの反政府運動、反体制運動、抵抗運動という流れで見ないことには整合性が成り立たないように思う。
そもそも日本が敗戦を迎えたことにより、国鉄以前の国家直属の鉄道、鉄道省と言っていたころの事業主体は、引揚者や復員兵を一手に引き受ける受け皿でもあったわけで、そのことによって多くの余剰人員を抱え込むことになっていた。
それがこの日、いわゆる1949年、昭和24年6月1日を以て、日本国有鉄道として半官半民の公共事業体として衣替えしたということなのであろう。
この時に余剰人員を整理しようとしたわけで、それに対して労働組合側が猛反発をしたということであろうが、問題はこの労働組合の中になぜ共産主義者がかくも多く入り込んだかという点である。
終戦に伴って外地からの引揚者や戦場から復員してきた若者に当座の職を与えるという点では当時の国有鉄道の存在価値というのは大きなものがあったに違いない。
戦後の復興を目指すにあたり、国の鉄道経営もスリム化しなければならないことは誰の目から見ても必要不可欠の事柄ではなかったかと思う。
この時代の国鉄マンは自分の職業に非常な誇りを持っていたように思う。
例えば、広島に原爆が投下されても鉄道は真っ先に普及したであろうし、終戦の詔勅がラジオで放送された時でも東京の省線、いわゆる山手線はいつもと変わらず動いていたと言われている。
このことは当時の国鉄マンが自分の職業になみなみならぬ誇りを持って職務を遂行していたわけで、昔小学校の先生が聖職と言われたように、鉄道マンも自分たちの仕事を恐らく聖職と捉えて、そう認識していたのではなかろうか。
ことほど左様に、聖職としての理念をただの労働として、働く意欲のもとにある精神を卑下し、格下げをしてしまったのが戦後の民主主義であったわけで、戦後の民主主義という言い方は、私に言わしめれば非常に甘い言い方で、私が言うとすれば共産主義の廉価盤というものに当たると思う。
基本的に学校の先生の労働組合、日教組をはじめとする国鉄内の様々な組合が共産主義者に占領されてしまったから、本来聖職であるべきものがただの労働者に成り下がってしまったのである。
敗戦によって旧国鉄が一時的に引揚者や復員兵を吸収したが、戦後の復興ではそういう人を再び野に放ち、経営主体をスリムにしなければならなかったわけで、そこで労働組合の大きな抵抗にあうわけであるが、問題はこの組合員の中の過激分子としての共産主義者の立ち居ふるまいである。
戦争中に治安時事法で牢屋に拘束されていた共産主義者の数はそう多くはないと思うが、それが戦後になって、占領軍により政治犯の解放がなると一気に巷にあふれ、今にも革命が起きるかのような状況を呈するということは、一体どういうことなのであろう。
戦時中にもこれだけの人が隠れ共産党員として巷に隠れ、国防婦人会とか、挺身隊とか、それぞれの部隊の中で自分の信念を隠して潜んでいたのだろうか。
私個人の見方としてはそうではなく、状況に合わせて自分の身の振り方を当意即妙に使い分けているのではないかと思う。
それは共産党員のみではなく、我々日本民族として、民族ぐるみで時代の時流に便乗することを狙っているわけで、共産主義者の動きも、この時流という大きな川の流れの中の数ある渦巻の中の一つの渦に過ぎないと思う。
我が日本民族というのは、どうも民族全体として付和雷同する民族的な潜在意識を内包しているようで、それは海や川に住む小魚の群れが、何かのきっかけで一斉に方向転換する図と同じで、同じ仲間として群れで行動したがる習性があるようだ。
自分一人では何も決断できず、何も定めることができず、何処に行ったら良いかもわからないわけで、常に「人の振り見て我が振り直す」という性質が我が民族の特質でもあるようだ。
だから戦前の我が同胞、我が民衆、我が大衆の動きを観察すると、軍国主義が時流になると我も我もとそれに群がり、ある意味で「バスに乗り遅れるな」という現象になり、戦後になってベクトルが逆向きになって共産主義がはやり出して、これが一世を風靡し、時流の上昇気流になりそうだと思うと、猫も杓子もそちらになびくという現象を呈したものと私は考える。
そうでなければ、治安維持法が廃止されてほんのわずかな時間でこれほど共産主義者の天下が来るとは思えないではないか。
共産主義者のいう世直し、いわゆる革命というのは、まず前提条件として既存の秩序を木っ端微塵に砕くことから始まるわけで、日教組や国鉄の組合を占拠した共産主義者たちは、ここにエネルギーを注ぎ込んでいたわけだが、これはやっている方としては実に楽しいゲームであろう。
既存の秩序を木っ端微塵に壊されては、既存の体制としては叶わないわけで、当然のこと、その防衛に当たる。
こうした状況では当然二つの対立軸が屹立するわけで、この時問題となってくるのが知識人という部類の人種の存在である。
日本の知識人というのは果たして本当に知識人なのであろうか。
これは戦後の左翼運動に関してばかりではなく、戦前・戦中の軍国主義の潮流に対しても、知識人が本来兼ね備えているべき理性、知性、知恵、学識経験というものが一向に機能しておらず、軍人のサーベルの音に委縮して縮み上がってしまっている図でしかないではないか。
戦後は戦後で、共産主義者のやることなすことに非常に寛大で、「彼らが怒り狂うのはいた仕方ないので体制側が反省すべきだ」などと無責任極まりない言辞を弄している。
戦後においても、彼ら知識人としての本領、本質はいささかも発揮されることなく、ただただ数の多さに引っ張られて時流に迎合するのみでしかない。
知識人として一般大衆から崇められ奉られている存在ならば、その持っている理性、知性、知恵、学識経験でもって、浮ついた思考や軍人の狭量な思考に対して堂々と立ち向かって、その非を説いて回らなければならなかったと思う。
日本の敗戦ということで、進駐軍が上陸してくると、今まで鬼畜米英と教えられていたことが全く嘘で、占領軍、昨日まで敵であったアメリカの兵隊たちは、チューインガムやチョコレートをふんだんに振りまく陽気なヤンキーであったわけで、そこではじめて自分たちは、自分たちの為政者に騙されていたということを悟るわけである。
その意味で終戦直後の我が同胞が自らの政府を信用ならないと思い込むのも必然的な成り行きではある。
そして昭和24年6月1日に、今まで政府直属の鉄道から公共事業体としての日本国有鉄道として衣替えして再出発するその最初の総裁に下山定則氏が成り、就任一カ月で何者かに殺されてしまったが、その後にも次から次へと不可解な鉄道事故が起きるともなれば、共産党と共産主義者が真っ先に疑われるのも当然のことだと思う。
テレビの刑事ドラマではないが、下山定則氏を抹殺したとして一番利益を得るのは一体誰であろう。
誰が下山氏を抹殺するほど恨んでいるのであろう。
この本の著者も松本清張氏も、はっきりとは断定していないが、この事件の後にはアメリカの謀略があるのではないかという見方をしている。
だとすると、アメリカ占領軍の誰が、どういうセクションが、どういうポストが、彼を抹殺することに価値を見出しているのであろう。
彼は殺される前日に、9万5千人のリストラは申し渡して、その役目はすでに果たしてしまったわけで、その後で彼を抹殺しても意味がないと思う。
あの事件の評価として、彼が抹殺されたことであとの人員整理がスムーズに捗ったといわれているが、ならば彼はその人柱であったということなのであろうか。
しかし、これに類する不可解な事件は、その後立て続けに起きているわけで、下山事件だけがその後のリストラにまつわる2つの事件の露払いであったとは思えない。
三鷹事件も松川事件も、共産党員が関与しているのではないかという疑惑は最初からつきまとっていたが、結論的には証拠不十分ということで犯人と思しきものは無罪となっている。
証拠が見つからなかったので、容疑者は無罪というのは、今日の裁判のシステムでは致し方ないが、被害者、殺された側はこれではあまりにも可哀そうだと思う。
戦後の民主的な日本の裁判では、被害者の無念さよりも、「疑わしきは罰せず」として、生きている悪人の方により寛大な判決を出して由としているが、この現実を見聞きする真犯人の心境はいかばかりなのであろう。
容疑者ということは真犯人かもしれないわけで、ただ証拠の整合性が確立されないというだけで、自分で手を下したものとして、どういう心境でその後を生きるのであろうか。
この下山事件に関しては、容疑者も真犯人もわからないまま時が過ぎてしまったわけで、その上捜査が途中で中断されるということは、如何にも不自然さが目立つ。
この捜査が中断されたという点からして、この著者も松本清張も、上からの圧力でそうなった、ならば当時の状況からしてアメリカ占領軍いわゆるGHQからの圧力であろうと推測しているわけである。
当時、警察の捜査に圧力を掛けれる存在というのは確かにアメリカ軍しかいない筈で、だとするとアメリカ軍GHQは下山氏を抹殺することにどういう意義があったのだろう。
9万5千人のリストラは下山総裁の問題ではあるが、アメリカ占領軍の問題ではないし、GHQの問題でもないわけで、その意味で一番現実味のある見方が、国鉄の組合員の怨恨という線が一番妥当性に富み、説得力がある。
ところで、我々の民族の死生観というのは実に残酷な面を秘めているように思えてならない。
自分の思う通りにならないときは相手を殺す、という極めて直截的で残酷な発想は、我が民族の若者の間に執拗に潜んでいるように思えてならない。
戦前の旧陸軍の若手将校の反乱から、特攻隊で散華していった若者、はたまた戦後の全共闘世代の若者が引き起こした凄惨な事件まで、日本の若者の死生感には一本の共通した筋があるように思う。
それは「公に殉じる」というもので、「公に殉じる」ためには自分の命などいささかも惜しくはないという感情であるが、この感情が他者に向かうと極めて残酷な行為まで容認するようになってしまう。
命など惜しくはないという感情が内に向くと、神風特別攻撃隊として敵艦に体当たりする行為になるが、外に向くと「問答無用」として一刀のもとに切り捨てる行為になるわけで、その奥底にある精神の糧はともに「公に殉じる」という思考である。
戦後の全共闘世代にもそれと同じものがあるというのは納得できないと思う方も多いと思うが、彼らが角棒を振ったのは、それが基底にあったからだと元赤軍派の幹部がテレビカメラの前で述懐していた。
「公に殉ずる」気があるならば、何故あのような無意味な破壊を繰り返したのだ、という論理になるが、彼らは純粋に革命を夢見ていたわけで、その意味で彼ら自身は公に殉じるつもりでいたが、彼らを取り巻く取り巻き連中は、彼らの本音を理解することなく、統制を無視して行動したと言っていた。
何のことはない、昔、日本軍の関東軍というのが政府の言うことを無視して独断専行して日中戦争を引き起こした構図同じだということだ。
これに見るように、テロに走る人間にも、彼らなりの論理はあるわけで、「公に殉ずる」という言葉は、実に使い勝手の良いフレーズではある。
この伝でいけば、国鉄総裁を血祭りにあげるというのも、ある種のテロだとすると、それを実効あらしめたのは国鉄の組合員、中でも強力な共産党細部ではなかろうか、という結論は必然的に出てくる。
この事件のあとの二つの事件では、それぞれに容疑者も逮捕されているが、この事件に関しては一人の容疑者も割り出せないというのは実に不可解であるが、それにもまして捜査が途中で打ち切られたという点がなおのこと不可解千万である。
今考えると、この頃の警察の捜査にも相当に大きな瑕疵があったのではないかと思う。
というのは警察機構がアメリカによる占領期間中ということで国家警察と自治警察に分離していた時期で、お互いの意思の疎通もままならぬ時期であったに違いない。
この事件の結論としては、アメリカのCIA辺りが日本人の労務者を使って引き起こした事件ではないかということになっているが、案外このあたりが真相かもしれない。
しかし、そうだとするとアメリカは何故下山定則氏を抹殺しなければならなったのであろう。
彼らから見て、下山氏を殺して得になるようなことは何もないように思うが、その意味からも不可解な出来事といわなければならない。