例によって図書館から借りてきた本で「NHK、鉄の沈黙はだれのために」という本を読んだ。
非常に興味深い内容であったが、如何せん、あまりにも凝りすぎて、写真だか図案だか分からない意味不明のページがあったりして、本の体裁としてはあまり良い感じのものではない。
表紙の図柄を見ても何が何だか分からない印象を受ける。
中味の内容は、サブタイトルにあるように、「番組改変事件10年目の告白」となっている通りである。
事の起こりは2001年の1月30日に放映されたNHKのETV2001という番組で「戦争をどう裁くか」という内容の放送がなされた。
その番組には、その前年の2000年12月に東京千代田区九段会館で女性戦犯国際法廷が開かれて、その内容が「戦争をどう裁くか」というシリーズの中で使われたので、時の政治家、中川昭一と安部晋三がNHKの幹部に圧力を掛けた掛けなかったという騒動についての弁解である。
そもそもNHKともあろうものが、女性戦犯国際法廷なるものをまともに扱うことからして偏向というか、こういうゴタゴタに巻き込まれる大きな理由の一つであり、それは自明のことであった。
そもそも、この女性戦犯国際法廷なるものが、戦時中に慰安婦として軍と行動を共にした売春婦が、彼女らの受けた屈辱と悲惨な状況に鑑みて、その償いとして金を出せということを狙った運動である。
元売春婦が自らこういう運動を起こすことはあり得ないわけで、誰かが知恵を付けて元売春婦であったことを理由に、それを人権問題に転化して金ツルに替えることを考えついたに違いない。
表向きのポーズは、売春婦の人権を慮る運動として、さも人権擁護の気高い志で、時の為政者を諌める思いで立ち上がったのかもしれないが、所詮は、政府から金を引き出させようという魂胆が見え見えの茶番劇である。
単純に金を引き出す、金の問題に焦点が定まっておれば、事は単純化して考えられるが、これらの運動の影武者の狡猾なところは、金のことは一言も言わずに、人権の問題にすり替えて声高に叫んでいるの、単純な思考のものはそこで騙されてしまう。
普通に常識のあるものならば、売春婦の振舞いとわかれば、まともに取り合わないのが正常だと思う。
これは明らかに偏見であり、差別であるが、しかし普通に健全な社会ならば、そういう偏見や差別のある社会こそ健全な社会だと思う。
良い事ではないが、悪い事だからと言って無理やり根絶する事も出来ないわけで、普通の社会ならば両方を清濁併せ飲むという形で推移して行くのが健康な社会だと思う。
売春という商売は、人類最古の商売とも言われており、地球上の全ての地域、民族、国家の中で存在し続けたものである。
普通に常識のある国では、その商売は表向きは非合法になっているし、倫理的にも勧められる行為ではないので、非合法のまま社会に侵潤しているのが普通の実態だと想像する。
この女性戦犯国際法廷なるものを推し進めたのがバゥネット・ジャパンという組織で、これが戦時中に日本が進出した先の売春婦をかき集めてきて、訴訟に持ち込ませる機関であったわけで、売春婦という立場のものが気の毒だという認識は皆が共通に持つ感情であろうが、だからと言って売春婦をかき集めてきて先の戦争の謝罪を求めるなどということは、明らかに整合性が合っていない。
戦争に負けたからと言って、何故に政府が売春婦に謝罪せねばならないのだ。
こういう論理の組み立て方は明らかに常軌を逸しているが、その常軌を逸したアブノーマルな言辞が、何故に大声で叫ばれ、NHKが放送するのだということに繋がる。
この本の中では売春婦という言葉は一切出ていないが、そもそもそこからしておかしいではないか。
売春婦を慰安婦と言い換えることで、あたかまもパンパンが看護婦さんにでもなったような印象を聞く者に与えるではないか。
従軍慰安婦というものは旧日本軍には実在していなかったにもかかわらず、NHKも朝日新聞もこのありもしない、実態のない従軍慰安婦という言葉を未だに使っているではないか。
軍隊の進出した地域、兵隊が駐屯した所に、売春婦がついてきたことは確かにあったに違いない。
兵隊が女郎屋に行って性病を移されては、戦争の時に使いものにならないので、それを予防するために女郎の管理も必要最小限のことはしたに違いない。
だからといって旧日本軍が軍の仕事として、軍務として女郎の管理や女郎屋の采配を振るったというのは明らかに事実の歪曲以外の何ものでもない。
しかし、不思議なことに私の使っているシャープの電子辞書には、この「従軍慰安婦」という言葉がきちんと載っており、しかもご丁寧に「強制連行された朝鮮の女性」と記されているが、同じ広辞苑でも書物の方の第4版の机上版にはこの言葉は無い。
むしろ「従軍看護婦」や「従軍記者」という語彙はあるが、「従軍慰安婦」という言葉は見当たらない。
従軍看護婦や従軍記者というのは確かに軍隊とともに行動していたので、従軍という枕詞も不思議ではないが、そういうイメージで従軍慰安婦というモノの存在も捉えられているのかもしれない。
軍隊とともに行動したというよりも、軍隊の行くところについて行って商売をした売春婦・女郎の存在ということは確かであったであろう。
だからそこで働いていた女郎、売春婦が日本の軍隊から抑圧されて、不条理で屈辱的な扱いを受けたから「日本政府は彼女らに謝罪して金を出せ」という論理は飛躍しすぎだと思う。
そもそもNHKたるものが売春婦をネタにして、公共の電波に乗せてメデイアとして立派な仕事をしています、という顔をしようと考えること自体が不純で邪な発想である。
しかも、教育テレビで放映しようというのだから、それを企画立案する人間の知的教養の底が知れるというものである。
その前の段階に「戦争をどう裁くか」という大前提の立て方からして不遜で傲慢な発想である。
如何なる主権国家でも、伊達や酔狂で戦争を始める為政者はいない筈で、戦争という政治手法を講じるには、それ相応の理由と状況があるわけで、それをあたかも自分が裁判官にでもなったよう気で罪を掘り起こしても意味を成さない。
戦争ということは、主権国家の生存権を賭けた究極の選択なわけで、お互いに生き残らんがために生死を賭した戦いである。
ただただ軍国主義者が、人殺しが趣味で、無意味な殺生をしているのとはわけが違う。
今の若者が意味もなく人殺し、殺人をするのとはわけが違う。
主権国家が国家の存亡を賭けて、自らの国民の生存権を賭けて、窮余の策として踏み切るわけで、何も好き好んでするわけではない。
それを安易に「裁く」ということはあまりにも軽々しい発想ではなかろうか。
人類は第1次世界大戦を経験して「もうああいう凄惨で無意味な戦争はやめましょう」という気にはなったが、やはり人間の欲というものは何人もコントロールしきれないわけで、再び同じ轍を踏むに至ってしまった。
このバゥネット・ジャパンの面々も、女性国際戦犯法廷の人々も、この人間の欲望の存在ということを無視して、その欲望の具現化の結果としての戦争を、戦争の部分のみを抽出して俎上に乗せて議論している。
ところが、戦争という生存権の一部分のみを抜き出して議論して見ても、それはためにする議論というだけで意味をなさない。
人が生きる、主権国家の国民や市民や大衆が生きる全過程から、戦争の部分のみを抜き出し、その抜き出したところからまたまた将兵の性欲のはけ口の部分にのみ焦点を当てて、「そこで犠牲になった売春婦が可哀想だから金を払え」という論理は、結局のところ今の民主党政権のしている良い所どり、良い子ぶり、性善説の具現、可哀想な人に理由の如何を問わず金をバラまく、という極めて無責任は態度だと言える。
戦後日本では売春防止法ができたが、売春という行為を国家が法律で以て止めさせるというのも、あまりにも清廉潔白な理想主義に嵌り込んだ生き様ではなかろうか。
この売春防止法の真の狙いは、売春婦たちを管理する女衒を取り締まるのが本旨ではなかったかと思う。
つまり、売春をさせている側の管理者、つまり置屋の搾取や抑圧を取り締まるのが真の目的であったのではないかと思う。
この法案の政策立案者のあまりにも清らかな心根、純情可憐な思考、絵にかいたような理想主義、自分は良い事をしているという思い込み、あまりにも深窓の令嬢のような可憐な、子供っぽい正義感から、哀れな売春婦を救済しなければという思考に至ったものと考える。
「戦争を裁く」などということがそう軽軽に出来るものではないではないか。
あの東京裁判を検証するというのならば、まだ整合性が見出されるが、「戦争をどう裁くか」などという問題は、あまりも荷が重すぎる。
そこにこれまた茶番劇のような、女性国際戦犯法廷なるいい加減な裁判劇のようなものを混ぜこぜにして番組を作るというのであれば、政治家の関与を自ずと招く性質のものだと思う。
政治家から一言いわれたから、番組を組みかえるというのも、メディアの態度としては情けない話だと思う。
確かにNHKの経営には政治が関与することにはなっているが、私に言わしめれば、NHKが政治的に不偏不党、厳正中立の立場でいるという方がおかしなことだと思う。
NHKには国税は投入されておらず、NHKは受信料で運営がまかなわれている限り、政治的に中立などと言う必要はないと思う。
むしろ国益を阻害するような政党に対しては、もっともっと本音で意見を言ってしかるべきだと思う。
NHKが政治的に不偏不党を今後も堅持するならば、むしろ受信料を廃止して国税を投入して経営すべきだと思う。
メディアとして情報を発信し続けているNHKにすれば、視聴者からの苦情やクレームは当然山のように来るであろうが、そういう苦情の一つとして政治家からの苦言があったとしても、それは日常業務の中の一つのケースであって、だからと言ってNHKの組織の上から下までが大騒ぎする事もないと思う。
この本の著者が言いたかったのは、あの事件でNHKの内部で大騒ぎをすることなく、握り潰したことへの告発である。
NHKの幹部が、朝日新聞の記者からの取材を受けて、その幹部の言うことが、口を開くたびに違っているということが大問題になったのである。
こういうことは往々にしてあることだと思う。
自分自身の経験に照らし合わせて考えても、勘違い、思い違い、物忘れということはしばしばあるわけで、そうそう人を責められるものではない。
私自身は自分史を書いているのでよくわかるが、自分では確かにこうであったと思って記しても、それを他人が読むと「此処が違う、こうではなかった」と、間違ったまま記憶しているということはよくあるので、そうそう安易に「あの人が嘘を言った」ということは言い切れない。
この著者にとっては、自分の職場で、自分が係わった番組で、NHKの幹部が政治家から一言いわれて、番組の内容を変えさせられた、ということは大きな問題であろうが、その番組はメディアが取り上げるには余りにも荷が重すぎた所に問題がある。
その内容の重さに思慮がついて行けなかったところが最大の問題で、戦争を裁くというのも、従軍慰安婦の愚痴をまともに取り上げるという点にもテーマに対する甘さがあると思う。
バゥネット・ジャパンの面々も、女性国際戦犯法廷の関係者も、従軍慰安婦、売春婦、女郎という類の人達に対してあまりにも肩入れしすぎて、そういう人たちは哀れな人達だから何としても救済しなければならないと、少女じみた可憐な正義感に酔いしれてしまっているのである。
そういう可哀そうな人を救済するということは、誰もが反対できない立派な整合性があるので、決して人から後ろ指を差されるようなものではない。
だからますます大声を張り上げるということになるわけで、その勢いは留まるところを知らない。
しかし、これは夢を食うと言われている獏が、理想という夢を追いかけている図であって、我々は日々の生活の中では「将来に夢を持ち、希望を掲げて理想に立ち向かえ」と次世代を担う若者に説いているが、それは若者向けのリップサービスであって、人が人生を生き抜くということは、そんなに甘く綺麗ごとでは収まりきれない。
この本の主題である、番組改変のそもそもの発生源は、売春婦の愚痴を教育番組で取り上げた点にあるわけで、売春婦の言い分を真に受けて、それを報道する事によって、可哀想な売春婦に金をバラ撒こうとする魂胆にあった。
それに青臭い正義感で立ちはだかっては見たものの、泰山鳴動してネズミ一匹ということで終わったということだ。
結論として、NHKの職員であった著者が、自分の番組制作に関して組織の軋轢に翻弄されたということに過ぎない。
煎じ詰めれば組織論に行きつくわけで、組織としてあるプロジェクトに取り掛かっては見たものの、そのプロジェクトが自分の意思とは何ら係わりのないところで、少しばかり修正を余儀なくさせられた、ということに対する愚痴でしかない。
この本を読んでいると、放送局の中で番組がどのように作り上げられるかということが自ずとわかるが、それによると一つの番組に大勢の人が係わり合っているわけで、にもかかわらず今日のテレビ番組で大人が安心して見れる健全な番組が全くないというのは一体どういうことなのであろう。
テレビの番組制作に係わっている人達は、我々と同じ日本人ではないのだろうか。
中国や韓国から入り込んだスパイが、日本民族を愚民化するために一番影響力のあるテレビでくだらない番組のオン・パレードを展開しているのであろうか。
この本の中にも出てくるように、「放送の全責任は会長にある」ということになっているが、それはそうだと思う。
ならば日本の全民間テレビ局の垂れ流す見るに堪えない粗悪な番組の制作責任も、全てテレビ局のトップにあるということになる。
その事実から推し量ると、テレビの堕落はすべてテレビ局のトップの責任ということになるが、こういう人が真に中共や韓国の廻し者で、日本民族、日本国民を真から愚民化する意思で凝り固まっているのであろうか。
私は、そこまで極端な売国奴的な思考は無いと思うが、ただ極めて守銭奴的な金儲け主義、金銭欲の強い欲張りな人間だということは間違いないと思う。
金がすべてという意味では、この本で話題になっている従軍慰安婦、売春婦、女郎と同じレベルの思考だと思う。
バゥネット・ジャパンを立ち上げた人達の思考からすれば、職業に貴賎は無いわけで、売春婦とテレビ局の経営トップが同じ思考であったとしてもとやかく言う筋合いはない。
ただいつの世になっても下ネタというのは愛嬌があって、真から憎めない存在ではある。
こういう精神構造は極めて高度なユーモアを内包する思考回路で、心に相当なゆとりがないことにはありえないわけで、世の中にはこういう機微を察する感性に欠けた人間があまりに多く、春をひさぐ行為を頭から罪悪視する野暮天がいるものである。
非常に興味深い内容であったが、如何せん、あまりにも凝りすぎて、写真だか図案だか分からない意味不明のページがあったりして、本の体裁としてはあまり良い感じのものではない。
表紙の図柄を見ても何が何だか分からない印象を受ける。
中味の内容は、サブタイトルにあるように、「番組改変事件10年目の告白」となっている通りである。
事の起こりは2001年の1月30日に放映されたNHKのETV2001という番組で「戦争をどう裁くか」という内容の放送がなされた。
その番組には、その前年の2000年12月に東京千代田区九段会館で女性戦犯国際法廷が開かれて、その内容が「戦争をどう裁くか」というシリーズの中で使われたので、時の政治家、中川昭一と安部晋三がNHKの幹部に圧力を掛けた掛けなかったという騒動についての弁解である。
そもそもNHKともあろうものが、女性戦犯国際法廷なるものをまともに扱うことからして偏向というか、こういうゴタゴタに巻き込まれる大きな理由の一つであり、それは自明のことであった。
そもそも、この女性戦犯国際法廷なるものが、戦時中に慰安婦として軍と行動を共にした売春婦が、彼女らの受けた屈辱と悲惨な状況に鑑みて、その償いとして金を出せということを狙った運動である。
元売春婦が自らこういう運動を起こすことはあり得ないわけで、誰かが知恵を付けて元売春婦であったことを理由に、それを人権問題に転化して金ツルに替えることを考えついたに違いない。
表向きのポーズは、売春婦の人権を慮る運動として、さも人権擁護の気高い志で、時の為政者を諌める思いで立ち上がったのかもしれないが、所詮は、政府から金を引き出させようという魂胆が見え見えの茶番劇である。
単純に金を引き出す、金の問題に焦点が定まっておれば、事は単純化して考えられるが、これらの運動の影武者の狡猾なところは、金のことは一言も言わずに、人権の問題にすり替えて声高に叫んでいるの、単純な思考のものはそこで騙されてしまう。
普通に常識のあるものならば、売春婦の振舞いとわかれば、まともに取り合わないのが正常だと思う。
これは明らかに偏見であり、差別であるが、しかし普通に健全な社会ならば、そういう偏見や差別のある社会こそ健全な社会だと思う。
良い事ではないが、悪い事だからと言って無理やり根絶する事も出来ないわけで、普通の社会ならば両方を清濁併せ飲むという形で推移して行くのが健康な社会だと思う。
売春という商売は、人類最古の商売とも言われており、地球上の全ての地域、民族、国家の中で存在し続けたものである。
普通に常識のある国では、その商売は表向きは非合法になっているし、倫理的にも勧められる行為ではないので、非合法のまま社会に侵潤しているのが普通の実態だと想像する。
この女性戦犯国際法廷なるものを推し進めたのがバゥネット・ジャパンという組織で、これが戦時中に日本が進出した先の売春婦をかき集めてきて、訴訟に持ち込ませる機関であったわけで、売春婦という立場のものが気の毒だという認識は皆が共通に持つ感情であろうが、だからと言って売春婦をかき集めてきて先の戦争の謝罪を求めるなどということは、明らかに整合性が合っていない。
戦争に負けたからと言って、何故に政府が売春婦に謝罪せねばならないのだ。
こういう論理の組み立て方は明らかに常軌を逸しているが、その常軌を逸したアブノーマルな言辞が、何故に大声で叫ばれ、NHKが放送するのだということに繋がる。
この本の中では売春婦という言葉は一切出ていないが、そもそもそこからしておかしいではないか。
売春婦を慰安婦と言い換えることで、あたかまもパンパンが看護婦さんにでもなったような印象を聞く者に与えるではないか。
従軍慰安婦というものは旧日本軍には実在していなかったにもかかわらず、NHKも朝日新聞もこのありもしない、実態のない従軍慰安婦という言葉を未だに使っているではないか。
軍隊の進出した地域、兵隊が駐屯した所に、売春婦がついてきたことは確かにあったに違いない。
兵隊が女郎屋に行って性病を移されては、戦争の時に使いものにならないので、それを予防するために女郎の管理も必要最小限のことはしたに違いない。
だからといって旧日本軍が軍の仕事として、軍務として女郎の管理や女郎屋の采配を振るったというのは明らかに事実の歪曲以外の何ものでもない。
しかし、不思議なことに私の使っているシャープの電子辞書には、この「従軍慰安婦」という言葉がきちんと載っており、しかもご丁寧に「強制連行された朝鮮の女性」と記されているが、同じ広辞苑でも書物の方の第4版の机上版にはこの言葉は無い。
むしろ「従軍看護婦」や「従軍記者」という語彙はあるが、「従軍慰安婦」という言葉は見当たらない。
従軍看護婦や従軍記者というのは確かに軍隊とともに行動していたので、従軍という枕詞も不思議ではないが、そういうイメージで従軍慰安婦というモノの存在も捉えられているのかもしれない。
軍隊とともに行動したというよりも、軍隊の行くところについて行って商売をした売春婦・女郎の存在ということは確かであったであろう。
だからそこで働いていた女郎、売春婦が日本の軍隊から抑圧されて、不条理で屈辱的な扱いを受けたから「日本政府は彼女らに謝罪して金を出せ」という論理は飛躍しすぎだと思う。
そもそもNHKたるものが売春婦をネタにして、公共の電波に乗せてメデイアとして立派な仕事をしています、という顔をしようと考えること自体が不純で邪な発想である。
しかも、教育テレビで放映しようというのだから、それを企画立案する人間の知的教養の底が知れるというものである。
その前の段階に「戦争をどう裁くか」という大前提の立て方からして不遜で傲慢な発想である。
如何なる主権国家でも、伊達や酔狂で戦争を始める為政者はいない筈で、戦争という政治手法を講じるには、それ相応の理由と状況があるわけで、それをあたかも自分が裁判官にでもなったよう気で罪を掘り起こしても意味を成さない。
戦争ということは、主権国家の生存権を賭けた究極の選択なわけで、お互いに生き残らんがために生死を賭した戦いである。
ただただ軍国主義者が、人殺しが趣味で、無意味な殺生をしているのとはわけが違う。
今の若者が意味もなく人殺し、殺人をするのとはわけが違う。
主権国家が国家の存亡を賭けて、自らの国民の生存権を賭けて、窮余の策として踏み切るわけで、何も好き好んでするわけではない。
それを安易に「裁く」ということはあまりにも軽々しい発想ではなかろうか。
人類は第1次世界大戦を経験して「もうああいう凄惨で無意味な戦争はやめましょう」という気にはなったが、やはり人間の欲というものは何人もコントロールしきれないわけで、再び同じ轍を踏むに至ってしまった。
このバゥネット・ジャパンの面々も、女性国際戦犯法廷の人々も、この人間の欲望の存在ということを無視して、その欲望の具現化の結果としての戦争を、戦争の部分のみを抽出して俎上に乗せて議論している。
ところが、戦争という生存権の一部分のみを抜き出して議論して見ても、それはためにする議論というだけで意味をなさない。
人が生きる、主権国家の国民や市民や大衆が生きる全過程から、戦争の部分のみを抜き出し、その抜き出したところからまたまた将兵の性欲のはけ口の部分にのみ焦点を当てて、「そこで犠牲になった売春婦が可哀想だから金を払え」という論理は、結局のところ今の民主党政権のしている良い所どり、良い子ぶり、性善説の具現、可哀想な人に理由の如何を問わず金をバラまく、という極めて無責任は態度だと言える。
戦後日本では売春防止法ができたが、売春という行為を国家が法律で以て止めさせるというのも、あまりにも清廉潔白な理想主義に嵌り込んだ生き様ではなかろうか。
この売春防止法の真の狙いは、売春婦たちを管理する女衒を取り締まるのが本旨ではなかったかと思う。
つまり、売春をさせている側の管理者、つまり置屋の搾取や抑圧を取り締まるのが真の目的であったのではないかと思う。
この法案の政策立案者のあまりにも清らかな心根、純情可憐な思考、絵にかいたような理想主義、自分は良い事をしているという思い込み、あまりにも深窓の令嬢のような可憐な、子供っぽい正義感から、哀れな売春婦を救済しなければという思考に至ったものと考える。
「戦争を裁く」などということがそう軽軽に出来るものではないではないか。
あの東京裁判を検証するというのならば、まだ整合性が見出されるが、「戦争をどう裁くか」などという問題は、あまりも荷が重すぎる。
そこにこれまた茶番劇のような、女性国際戦犯法廷なるいい加減な裁判劇のようなものを混ぜこぜにして番組を作るというのであれば、政治家の関与を自ずと招く性質のものだと思う。
政治家から一言いわれたから、番組を組みかえるというのも、メディアの態度としては情けない話だと思う。
確かにNHKの経営には政治が関与することにはなっているが、私に言わしめれば、NHKが政治的に不偏不党、厳正中立の立場でいるという方がおかしなことだと思う。
NHKには国税は投入されておらず、NHKは受信料で運営がまかなわれている限り、政治的に中立などと言う必要はないと思う。
むしろ国益を阻害するような政党に対しては、もっともっと本音で意見を言ってしかるべきだと思う。
NHKが政治的に不偏不党を今後も堅持するならば、むしろ受信料を廃止して国税を投入して経営すべきだと思う。
メディアとして情報を発信し続けているNHKにすれば、視聴者からの苦情やクレームは当然山のように来るであろうが、そういう苦情の一つとして政治家からの苦言があったとしても、それは日常業務の中の一つのケースであって、だからと言ってNHKの組織の上から下までが大騒ぎする事もないと思う。
この本の著者が言いたかったのは、あの事件でNHKの内部で大騒ぎをすることなく、握り潰したことへの告発である。
NHKの幹部が、朝日新聞の記者からの取材を受けて、その幹部の言うことが、口を開くたびに違っているということが大問題になったのである。
こういうことは往々にしてあることだと思う。
自分自身の経験に照らし合わせて考えても、勘違い、思い違い、物忘れということはしばしばあるわけで、そうそう人を責められるものではない。
私自身は自分史を書いているのでよくわかるが、自分では確かにこうであったと思って記しても、それを他人が読むと「此処が違う、こうではなかった」と、間違ったまま記憶しているということはよくあるので、そうそう安易に「あの人が嘘を言った」ということは言い切れない。
この著者にとっては、自分の職場で、自分が係わった番組で、NHKの幹部が政治家から一言いわれて、番組の内容を変えさせられた、ということは大きな問題であろうが、その番組はメディアが取り上げるには余りにも荷が重すぎた所に問題がある。
その内容の重さに思慮がついて行けなかったところが最大の問題で、戦争を裁くというのも、従軍慰安婦の愚痴をまともに取り上げるという点にもテーマに対する甘さがあると思う。
バゥネット・ジャパンの面々も、女性国際戦犯法廷の関係者も、従軍慰安婦、売春婦、女郎という類の人達に対してあまりにも肩入れしすぎて、そういう人たちは哀れな人達だから何としても救済しなければならないと、少女じみた可憐な正義感に酔いしれてしまっているのである。
そういう可哀そうな人を救済するということは、誰もが反対できない立派な整合性があるので、決して人から後ろ指を差されるようなものではない。
だからますます大声を張り上げるということになるわけで、その勢いは留まるところを知らない。
しかし、これは夢を食うと言われている獏が、理想という夢を追いかけている図であって、我々は日々の生活の中では「将来に夢を持ち、希望を掲げて理想に立ち向かえ」と次世代を担う若者に説いているが、それは若者向けのリップサービスであって、人が人生を生き抜くということは、そんなに甘く綺麗ごとでは収まりきれない。
この本の主題である、番組改変のそもそもの発生源は、売春婦の愚痴を教育番組で取り上げた点にあるわけで、売春婦の言い分を真に受けて、それを報道する事によって、可哀想な売春婦に金をバラ撒こうとする魂胆にあった。
それに青臭い正義感で立ちはだかっては見たものの、泰山鳴動してネズミ一匹ということで終わったということだ。
結論として、NHKの職員であった著者が、自分の番組制作に関して組織の軋轢に翻弄されたということに過ぎない。
煎じ詰めれば組織論に行きつくわけで、組織としてあるプロジェクトに取り掛かっては見たものの、そのプロジェクトが自分の意思とは何ら係わりのないところで、少しばかり修正を余儀なくさせられた、ということに対する愚痴でしかない。
この本を読んでいると、放送局の中で番組がどのように作り上げられるかということが自ずとわかるが、それによると一つの番組に大勢の人が係わり合っているわけで、にもかかわらず今日のテレビ番組で大人が安心して見れる健全な番組が全くないというのは一体どういうことなのであろう。
テレビの番組制作に係わっている人達は、我々と同じ日本人ではないのだろうか。
中国や韓国から入り込んだスパイが、日本民族を愚民化するために一番影響力のあるテレビでくだらない番組のオン・パレードを展開しているのであろうか。
この本の中にも出てくるように、「放送の全責任は会長にある」ということになっているが、それはそうだと思う。
ならば日本の全民間テレビ局の垂れ流す見るに堪えない粗悪な番組の制作責任も、全てテレビ局のトップにあるということになる。
その事実から推し量ると、テレビの堕落はすべてテレビ局のトップの責任ということになるが、こういう人が真に中共や韓国の廻し者で、日本民族、日本国民を真から愚民化する意思で凝り固まっているのであろうか。
私は、そこまで極端な売国奴的な思考は無いと思うが、ただ極めて守銭奴的な金儲け主義、金銭欲の強い欲張りな人間だということは間違いないと思う。
金がすべてという意味では、この本で話題になっている従軍慰安婦、売春婦、女郎と同じレベルの思考だと思う。
バゥネット・ジャパンを立ち上げた人達の思考からすれば、職業に貴賎は無いわけで、売春婦とテレビ局の経営トップが同じ思考であったとしてもとやかく言う筋合いはない。
ただいつの世になっても下ネタというのは愛嬌があって、真から憎めない存在ではある。
こういう精神構造は極めて高度なユーモアを内包する思考回路で、心に相当なゆとりがないことにはありえないわけで、世の中にはこういう機微を察する感性に欠けた人間があまりに多く、春をひさぐ行為を頭から罪悪視する野暮天がいるものである。