ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「北斎 七つのナゾ」

2011-03-14 07:54:21 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「北斎 七つのナゾ」というのをラフな格好で読んでいた。
3月11日、昼下がり、半分寝ころんだような格好で読んでいたら、体が雲の上にでも乗ったように、ふわふわとした感じがして、「あれ!これは地震ではなかろうか?」と思った。
それで早速テレビをつけて見ると、東北地方の大地震であった。
最初は情報が集まっていないので、NHKの仙台放送局内の地震時の揺れの画面が出ていた。
その後、津波の映像が放映されてきたが、津波というものがあれほどリアルにカメラで写されるというのも珍しいことだと思う。
で、あまりにも地震が大きかったので、災害には何の関係もない私でも、翌日はテレビにくぎつけて、何も手にすることができなかった。
地震とは別に福島の原子力発電所の事故は直ちに報道されたが、最初の報道では、原子炉が地震で止まったので、燃料を冷やすために水を送るためのポンプを動かす補助エンジン、つまりデイーゼル発電機が起動しなくなったと報じられた。
つまり、こういう時の為の非常災害用の機器が、肝心の非常時に全く機能しなかったということだ。
これはひとえに日頃のメンテナンスの怠惰以外の何ものでもない。
非常用の機器が非常時に機能しないでは話にならないではないか。
地震が想定外の規模だった等ということは言い訳にはならない。
東京電力の怠慢以外の何ものでもない。
それはさて起き、地震の翌日と、次の日の新聞は、一面の大見出しから地震のことであるが、これはこれでいた仕方ないが、日曜日の特別版にはこれ又どういう偶然か知らないが、「浮世絵版画ができるまで」という特集を組んでいた。
この本の内容は、表題通り、浮世絵師の葛飾北斎の人物像をエッセイ風に書き連ねたものであるが、著者は浮世絵の相当な権威らしい。
しかし、私にはこの浮世絵を始めとする日本の文化があんがい西洋人の知的好奇心を刺激している点がなんとも不思議に見える。
この浮世絵が西洋の絵かきの好奇心を刺激して、ヨーロッパでジャポ二ズムという意識改革が起きた等ということは非常に面白い現象だと思う。
このヨーロッパでのジャポ二ズムを、当の我々が全く意識し切れていないというのも、実に奇っ怪なことだと思う。
私が聞き及んでいる事と言えば、江戸時代の後期になって、日本からヨーロッパに陶磁器を輸出する際、品物が破損しないように、浮世絵を描いた和紙が瀬戸物を詰める際の緩衝材あるいは梱包資材としてヨーロッパに渡ったと認識している。
そこにあった我々の側の浮世絵の認識は、文芸作品、文明としての価値はいささかも無いと思っていたわけで、まさしく紙屑そのものだと思い込んでいたのである。
この認識のずれは一体何であったのであろう。
ヨーロッパ人から見るとまさしく異文化であったが、我々の側ではそれを文化などという認識が全くなかったわけで、そんな絵は紙くずと同じで、何にも価値がないと思っていたということである。
これは我々日本人の、西洋コンプレクスであったのだろうか。
若き日の池田満寿夫は、日本ではその実績が認められず、アメリカでデビューして日本に帰ってきている。
アメリカで名を挙げると、日本の業界は下にも置かないオベンチャラを言いまくるわけで、そのことは日本の画壇では真の芸術がさっぱり分かっていないということを端的に示している。
それは絵画のみならず、音楽の世界でも全く同じことが起きているわけで、我々、日本民族というのは、真の芸術を真に理解するということはあり得ない民族だと思う。
常に、自分の価値観を西洋人の価値観と対比させて、少しでも西洋人の価値観に近いモノに価値を置くわけ、それはあくまでも究極のモノマネに尽きるということだ。
限りなく本物に近づくように精進するわけで、本物に近ければ近いほど優れた作品という評価を下すのである。
ところが西洋人の方は、日本の固有の文化に限りない好奇心を寄せるわけで、ここでは確かに文明の衝突が起きている。
今、21世紀という時代になると、情報は完全にグローバル化し、それに引きずられて社会的なインフラも限りなくグローバル化しつつある。
であるからして、今時の若者は、西洋人、アメリカ人、アジア人に対しで、旧世代の日本人のようなコンプレックスをいささかも持っていない。
外国人に対してコンピレクスもない代わりに、偏見も差別も意識していないので、その意味では極めて人類愛に満ちている。
その分、我々のような旧世代の日本人は、今の若者の文化について行けれない。
ゴーギャンやルノアールが、日本の浮世絵を見たら、さぞかし腰を抜かさんばかりに驚いたに違いない。
彼らが、陶磁器を入れた荷物の中から、こんな絵が次から次に出てきたのを見た日には、それこそ驚愕したに違いない。
私の勝手な推測であるが、それは印刷物としての浮世絵であったろうと思う。
多色刷りの印刷物としての浮世絵を見た日には、同じ絵かきとして、その斬新性には大いに感嘆して、研究したに違いない。
西洋の画法とは、その発想の段階から異なっており、それでいて見るものを引き付ける魅力に満ちているわけで、この文化の相異には大きな感嘆が寄せられたに違いない。
問題は、我々の側にその認識が全くなかったという点である。
それで13日の新聞の報じる、「浮世絵版画の出来るまで」の記事を読むと、浮世絵というのは完全なる分業で成り立っているわけで、そういう意味では日本の産業は全て分業で成り立っている。
その最たるものが西陣織ではないかと思う。
しかし、ここで言う浮世絵というのも、今でいえば出版業界と同じなわけで、この業界が複雑怪奇なシステムになっていることがよくわかる。
特にプロデューサーの存在というのが一番の問題点であって、この扇子の要に居るものが、良心的な思考の持ち主ならば、文化の興隆に極めて大きな影響力を出せれるが、この人が邪な心でいれば、文化そのものがあるぬ方向に行ってしまう。
この記事によると、江戸時代にも幕府の検閲というのはあったみたいで、為政者からすれば、下々のものが如何なることを考えているかは常に監視しなければならない事柄であったに違ない。
こういう場合でもプロデューサーの存在が大きくものをいうわけで、彼の存在は、業界全体に大きな力を発揮せしめるに違いない。
その事は、業界そのものがシステムとして機能しているということで、このシステムとしての業界のあり方が、戦後の日本の経済復興の原動力になったのではなかろうか。
作業の流れを細かく分析して、その分析した部分を特化して、その作業のみを専門的にこなすセクションを作り、それを寄せ集めて一体化するという流れは、完全に分業システムなわけで、それが江戸時代に既に日本にあったから、戦後の復興の時それが生かされたのではなかろうか。
しかし、物の考え方というのも、本来ならば時代とともに進化しなければならないが、戦後復興をなした日本はそこで驕り高ぶって、世界を見くびってしまったわけで、それが今日の経済の没落に繋がっていると思う。
我々は、少しばかり成功すると、その成功事例に酔いしれてしまって自分自身を見失い、舞い上がってしまって、周囲が見えなくなってしまうわけで、驕り高ぶって周囲を見下すという極めて軽佻浮薄な民族性がある。
これは我々の民族が、太平洋に浮かぶ4つの孤立した島の住人であるが故に、異民族との接触に極めて不慣れな所為であったが故の民俗性だと思う。
しかし、これは既に過去の事で、21世紀ともなればいわゆるグルーバル化の波を受けて、国境という垣根は限りなく低くなったので、今の若い日本人には、西洋人やその他の外国人に対するコンプレクスは微塵も存在していない。
だから、ヨーロッパにおけるジャポ二ズムのような日本文化に対する奇異な感情も最初から存在しない代わりに、国籍不明、無国籍な文化が日本でも繁栄するということになる。
最近、徒然なるがままにテレビを見ていたらTGCとういうファッション・ショウをしていた。
元々、ファッション・ショウなどに興味があるわけではないので、うつろな気持ちで見ていたが、これがいま世界を席巻しているというではないか。
ファッション・ショウと言えば、パリコレで象徴されるように花の都のパリか、流行の最先端のニューヨークのものばかりだと思っていたら、これが日本発であったわけだ。
東京ガ―ルス・コレクションというのが正式の名前らしいが、今の日本の女の子というのは、まさしく雑誌から抜け出てきたようなスタイルである。
しかし、今の若い世代が、ああいうスタイル、ああいう体形を理想と考えているとするならば、やはり西洋コンプレックスの残滓をひきずっているとも言える。
そもそも、浮世絵に描かれている女性とは、如何にも異質であって、そこに民族の共通基盤は何ら見いだせない。
しかし、文化というのは、大人が意識改革しないことには進化が無いのではなかろうか。
浮世絵を西洋の画家が称賛して、それを見聞きしたのは日本側の大人であったわけで、子供が鎖国時代の西洋人と接触することは考えられないので、そこに居た大人が改めて浮世絵の真価を悟り、それが日本の伝統のものであることに誇りを見出したという音ことあろう。
池田満寿夫の真価についても、旧世代の日本の画壇、つまり老獪な大人の絵かきは、その作品の良さを理解出来ていなかったわけで、それがアメリカで評判を得ると、自分の不明を棚に上げて彼をちやほやするという構図であったと推測する。
よって、人間の進化というのは、何時の時代においても、若者が老人の価値観を踏み倒して、前進するところから生まれるわけで、その意味からすれば老人も、自分の思考に柔軟性を富ませ、若者の活躍を後ろから応援するぐらいの器量があってしかるべきである。
ここで周囲の人々が、老獪な老人に胡麻を摺って煽てあげ、権威付けをし、権威に胡坐をかかせるように仕向けて、それを自己の利益につなげようと計るから、世の中が混沌とするのである。
芸術家の世界も実に汚らしいようで、我々のような無粋な人間には、そういう世界の水が合わない。
あの徒弟制度そのものが実に汚らしい世界である。
日本の華道、茶道における師弟関係の汚らしさと言ったら筆舌に尽くしが難い。
それと同じことが絵画の世界にも、音楽の世界にもあるわけで、日本人が若い人にものを教えるとういうことが、ある種の金儲けに繋がるということは実に由々しき問題だと思う。
茶道、華道の金儲け主義は目に余るものがあるが、日本古来の文化がそういう手法で金儲けをしているのを横目で見た、西洋画家や西洋音楽家も、それと同じ徒弟制度で以て金儲けに専念するわけで、如何にも芸術家という人たちの金への執着は見苦しいものがある。
文化を金儲けの手法に使っているわけで、人前では文化を語り合っているので、その心が守銭奴的金儲け主義に塗れているということを人は知らない。
それを良い事にして文化人の面をしているのである。
我々は、21世紀の今日においても、日本独特の発想をしている限り、日本の未来に明かりは見えない。
今回の大地震は確かに天災である。
しかし、原子力発電所の原子炉の溶融、メルトダウンは明らかに人災である。
原子力発電に携わっている人達の驕り以外の何ものでもない。
問題があまりにも大きいので、焦点がぼやけて地震と津波の方に関心が向いてしまっているが、「想定外の大地震だったので対応が出来ませんでした」では話にならない。
問題がこれだけ大きくなってしまうと、この時点で責任のなすり合いをしている暇は無く、一刻も早く鎮静化に努めなければならない事は言うまでもないが、ここにも日本人固有のものの考え方が露呈している。
もごとに対処するには5W1Hの法則というものがある。
誰が、何時、何処で、何を、どうして、どうなったというものであるが、内閣官房長官の報告の中には、何が、どうして、どうなったという部分が抜け落ちた報告で、「建屋が爆発したのに、詳細が分からない」などという報告は報告になっていないと思う。
事故が現に起きているのに、その事故の理由も原因も経過も分からない等ということがあるわけないではないか。
事故の原因究明に時間が掛かる事は往々にしてあるが、それは緊急事態を適切に処理した後でゆっくりと究明すべきであって、緊急事態を周知徹底させる際に、曖昧な状況説明では適切な処置が取れないことは論をまたない。